舛添要一都知事が窮地に立たされている。
13に日開催された都議会総務委員会は、舛添知事の出席を要求し、
集中審議を行った。(参照:時事ドットコムニュース)
ここ数か月、メディアを賑わかせてきた、「舛添疑惑」は、
ついに都議会の追求という局面を迎え、不信任決議提出も秒読み段階に入った。
ここで今一度、舛添氏に降りかかる「嫌疑」なるものを振り返ってみよう。
改めて振り返ってみると、確かに、
舛添氏の「セコさ」が浮き彫りになる。情けないほどにセコい。
自身の趣味である書道に関する用品ぐらい、
自分のポケットマネーで支弁すればよい。
仕事と家族旅行を兼ねて領収書を落とすなど、
出張ついでに会社の経費で不倫旅行するせこいサラリーマンのようですらある。
こうしてみると、確かに舛添氏には、
倫理的な責めを受けるべき余地がたぶんに、ある。
だが一方で、ヤメ検弁護士2名による報告書の通り、
「不適切ではあるが、違法性はない」のも事実だ。
◆今一度問いたい。「何が問題なのか?」
一番の問題となっている、「政治資金の私的流用」なるものにしても、
違法性は極めて低い。
そもそも原資が政党交付金であれ、支持者からの寄付金であれ、
政治資金として集めたカネを何にどう使おうが、集めた側の勝手だ。
無論、政治資金として集めたカネを、有権者個人や支持団体等に撒き投票を依頼する
「買収行為」などは、公職選挙法で厳しく規制されている。
しかし舛添氏の行為はそうした行為に該当しない。
悪く表現したとしても、「政治資金を自分の遊興費として使った」に過ぎない。
そしてこうした支弁を違法とする法は存在しない。
そもそも何をもって「政治活動」というかなど、法は定めていないのだ。
また、「何が政治活動か?」など法で定めるべきではないのだ。
舛添氏には「公私混同」という批判が寄せられているが、
そもそも政治活動とは、基本的人権に属する極めて私的な行為なのだ。
その私的な活動を法で規定するのは、極めて危険ですらある。
事実、総務省に問い合わせたところ、
「政治資金規制法は、政治資金の使途までを規定するものではない」
との回答であった。当然のことだ。
それでこそ、基本的人権に立脚した近代的民主主義というものだろう。
舛添氏のように政治資金を家族や自分の趣味のために支弁するのは確かに見苦しい。
おそらくそうした行為は、選挙における得票数の拡大につながらぬであろ(う)。
だがそうした「不効率な政治資金の使用」の結果は、
「当落」という形で、舛添氏個人が受け止めるべき代物に過ぎない。
純然たる自己責任論の範疇でしかなく、他人がとやかく言う問題ではないのだ。
にもかかわらず、朝野をあげて「舛添やめろ」の嵐である。
おそらくこのままいけば、都議会自民党も、不信任決議を提出することになるだろう。
都議会自民党の中にも、舛添に「非効率な政治資金の使用」を行っている議員は
何人もいるだろうにもかかわらずに。
叩くとなったら、根拠不明でも叩く。
法令違反を犯しているわけでもないのに、政治家を叩く。
たかだか百数十万の、そして百数十万レベルだからこそ
「庶民感覚」なるものに近い「他人のカネ遣い」で、政治家を屠る。
こうした集団リンチ(法によらずに社会的な制裁を加えているのだから、
狭義のリンチにさえ相当する)に熱狂するのも気持ち良いのだろう。
しかし落ちた犬を叩いて溜飲を下げ快楽を貪っている傍で、
景気対策や改憲など、
極めて重要なイシューが争点となる参院選が刻一刻と近づいている。
セコいオヤジを叩いている側こそが、
極めてせこいレベルに堕ちいっているように思えて、ならない。
-HARBOR BUSINESS Online 6月14日(火)16時20分配信-
今の舛添叩きは、民主主義がまだ正常に(?)働いている証だ。
これが中国なら、党幹部への批判はできないだろう。
比べる国を間違っているのかもしれないが、
舛添批判そのものが悪いとも言い切れないと思っている。
しかし、ここぞとばかり集中砲火を浴びせるマスコミの姿勢と、
それに踊らされる一般視聴者の怒りの一極集中の現象を見ていると、
違和感とある種の疎外感を持ってしまう。
確かに舛添知事はせこい。
都民の期待を裏切った。
倫理上、極めて問題がある。
知事としてふさわしい能力者・人格者と云えない。
納税するものとして、期待を込めて一票を投じた者として、
怒りを持つのは至極当然である。
しかし今の集団ヒステリのような怒りの持ち方はいただけない。
某隣の国の火病のようにも映ってしまう。
街頭インタビューでも、
一様に知事に対する怒りばかりが取り上げられているが、
もっと冷静な意見もあったハズだ。
この日記で今日取り上げた記事の中でも云っているが、
舛添知事の行為は違法ではないのである。
そのことを忘れて感情的に意見する人が目立った。
民主主義の持つ危険な一面は、
衆愚政治に陥ることである。
古代ギリシャが衰退した一因が衆愚政治に陥ったこと。
古代ローマもそれに悩まされ、
共和政から帝政へと変質を余儀なくされた。
今のアメリカも民主主義のリーダーと云いながら、
衆愚政治の陥り、第2次世界大戦後、失敗の連続だ。
その極みがトランプの台頭。
傍から見ていて、本当に見苦しい。
翻って日本の現状は、他人を揶揄できるほど立派ではない。
舛添知事のような公私混同は、議員なら程度の差こそあれ、
皆やっていることなのだ。
そのことに怒りを持つのは悪くないが、
それとは別に、本来やるべき仕事の本質がある。
その議員たちの行動や実績などを監視し、
評価する点、批判すべき点をしっかりとらえるべきでではないのか?
そのことに関心を持たず、
足元のせこさのみにとらわれてはいけないと思う。
私は彼について、先日も日記を書いている。
その中で言っていることは、
彼の最大の政治的失敗は、都市外交なる無駄どころか、
余計な分野に首を突っ込み、失政を招いたことにある。
必要以上に経費をかけ、頼まれもせず外務省の向こうを張り
2重外交に手を染めた。
その挙句、朴槿恵に独断による意味不明な約束をしてきた。
それが反発を招く原点になったことを忘れてはいけない。
ネット上で「マスコミ」のことをよく「マスゴミ」と呼ぶのを目にするが、
他人を平気で批判するマスコミそのものが「ゴミ」と化していないか?
他人の倫理を攻撃するなら、まず自分の身を正してからにすべきだ。
昨今の報道を観ていると、極めて低次元な論調と視点に終始している。
そんな小学校の壁新聞にも劣る稚拙な仕事をしていることを恥じてほしい。
ワイドショー的な報道番組を見る度に、
どのチャンネルも同様の話題ばかりなのに辟易するオヤジが一句。
観なければ 腹も立たない テレビかな
お粗末。
13に日開催された都議会総務委員会は、舛添知事の出席を要求し、
集中審議を行った。(参照:時事ドットコムニュース)
ここ数か月、メディアを賑わかせてきた、「舛添疑惑」は、
ついに都議会の追求という局面を迎え、不信任決議提出も秒読み段階に入った。
ここで今一度、舛添氏に降りかかる「嫌疑」なるものを振り返ってみよう。
改めて振り返ってみると、確かに、
舛添氏の「セコさ」が浮き彫りになる。情けないほどにセコい。
自身の趣味である書道に関する用品ぐらい、
自分のポケットマネーで支弁すればよい。
仕事と家族旅行を兼ねて領収書を落とすなど、
出張ついでに会社の経費で不倫旅行するせこいサラリーマンのようですらある。
こうしてみると、確かに舛添氏には、
倫理的な責めを受けるべき余地がたぶんに、ある。
だが一方で、ヤメ検弁護士2名による報告書の通り、
「不適切ではあるが、違法性はない」のも事実だ。
◆今一度問いたい。「何が問題なのか?」
一番の問題となっている、「政治資金の私的流用」なるものにしても、
違法性は極めて低い。
そもそも原資が政党交付金であれ、支持者からの寄付金であれ、
政治資金として集めたカネを何にどう使おうが、集めた側の勝手だ。
無論、政治資金として集めたカネを、有権者個人や支持団体等に撒き投票を依頼する
「買収行為」などは、公職選挙法で厳しく規制されている。
しかし舛添氏の行為はそうした行為に該当しない。
悪く表現したとしても、「政治資金を自分の遊興費として使った」に過ぎない。
そしてこうした支弁を違法とする法は存在しない。
そもそも何をもって「政治活動」というかなど、法は定めていないのだ。
また、「何が政治活動か?」など法で定めるべきではないのだ。
舛添氏には「公私混同」という批判が寄せられているが、
そもそも政治活動とは、基本的人権に属する極めて私的な行為なのだ。
その私的な活動を法で規定するのは、極めて危険ですらある。
事実、総務省に問い合わせたところ、
「政治資金規制法は、政治資金の使途までを規定するものではない」
との回答であった。当然のことだ。
それでこそ、基本的人権に立脚した近代的民主主義というものだろう。
舛添氏のように政治資金を家族や自分の趣味のために支弁するのは確かに見苦しい。
おそらくそうした行為は、選挙における得票数の拡大につながらぬであろ(う)。
だがそうした「不効率な政治資金の使用」の結果は、
「当落」という形で、舛添氏個人が受け止めるべき代物に過ぎない。
純然たる自己責任論の範疇でしかなく、他人がとやかく言う問題ではないのだ。
にもかかわらず、朝野をあげて「舛添やめろ」の嵐である。
おそらくこのままいけば、都議会自民党も、不信任決議を提出することになるだろう。
都議会自民党の中にも、舛添に「非効率な政治資金の使用」を行っている議員は
何人もいるだろうにもかかわらずに。
叩くとなったら、根拠不明でも叩く。
法令違反を犯しているわけでもないのに、政治家を叩く。
たかだか百数十万の、そして百数十万レベルだからこそ
「庶民感覚」なるものに近い「他人のカネ遣い」で、政治家を屠る。
こうした集団リンチ(法によらずに社会的な制裁を加えているのだから、
狭義のリンチにさえ相当する)に熱狂するのも気持ち良いのだろう。
しかし落ちた犬を叩いて溜飲を下げ快楽を貪っている傍で、
景気対策や改憲など、
極めて重要なイシューが争点となる参院選が刻一刻と近づいている。
セコいオヤジを叩いている側こそが、
極めてせこいレベルに堕ちいっているように思えて、ならない。
-HARBOR BUSINESS Online 6月14日(火)16時20分配信-
今の舛添叩きは、民主主義がまだ正常に(?)働いている証だ。
これが中国なら、党幹部への批判はできないだろう。
比べる国を間違っているのかもしれないが、
舛添批判そのものが悪いとも言い切れないと思っている。
しかし、ここぞとばかり集中砲火を浴びせるマスコミの姿勢と、
それに踊らされる一般視聴者の怒りの一極集中の現象を見ていると、
違和感とある種の疎外感を持ってしまう。
確かに舛添知事はせこい。
都民の期待を裏切った。
倫理上、極めて問題がある。
知事としてふさわしい能力者・人格者と云えない。
納税するものとして、期待を込めて一票を投じた者として、
怒りを持つのは至極当然である。
しかし今の集団ヒステリのような怒りの持ち方はいただけない。
某隣の国の火病のようにも映ってしまう。
街頭インタビューでも、
一様に知事に対する怒りばかりが取り上げられているが、
もっと冷静な意見もあったハズだ。
この日記で今日取り上げた記事の中でも云っているが、
舛添知事の行為は違法ではないのである。
そのことを忘れて感情的に意見する人が目立った。
民主主義の持つ危険な一面は、
衆愚政治に陥ることである。
古代ギリシャが衰退した一因が衆愚政治に陥ったこと。
古代ローマもそれに悩まされ、
共和政から帝政へと変質を余儀なくされた。
今のアメリカも民主主義のリーダーと云いながら、
衆愚政治の陥り、第2次世界大戦後、失敗の連続だ。
その極みがトランプの台頭。
傍から見ていて、本当に見苦しい。
翻って日本の現状は、他人を揶揄できるほど立派ではない。
舛添知事のような公私混同は、議員なら程度の差こそあれ、
皆やっていることなのだ。
そのことに怒りを持つのは悪くないが、
それとは別に、本来やるべき仕事の本質がある。
その議員たちの行動や実績などを監視し、
評価する点、批判すべき点をしっかりとらえるべきでではないのか?
そのことに関心を持たず、
足元のせこさのみにとらわれてはいけないと思う。
私は彼について、先日も日記を書いている。
その中で言っていることは、
彼の最大の政治的失敗は、都市外交なる無駄どころか、
余計な分野に首を突っ込み、失政を招いたことにある。
必要以上に経費をかけ、頼まれもせず外務省の向こうを張り
2重外交に手を染めた。
その挙句、朴槿恵に独断による意味不明な約束をしてきた。
それが反発を招く原点になったことを忘れてはいけない。
ネット上で「マスコミ」のことをよく「マスゴミ」と呼ぶのを目にするが、
他人を平気で批判するマスコミそのものが「ゴミ」と化していないか?
他人の倫理を攻撃するなら、まず自分の身を正してからにすべきだ。
昨今の報道を観ていると、極めて低次元な論調と視点に終始している。
そんな小学校の壁新聞にも劣る稚拙な仕事をしていることを恥じてほしい。
ワイドショー的な報道番組を見る度に、
どのチャンネルも同様の話題ばかりなのに辟易するオヤジが一句。
観なければ 腹も立たない テレビかな
お粗末。