(高崎宿4)
日本橋を出発してから16日目になるが、暦の上では出発したのが
2004年3月であるから、もう三年も経過している。
この先に軽井沢があり、軽井沢に至るまでに碓氷峠があり、
峠道で迷って遭難したなどということになると、
良い歳のおっさんが準備もなく山に入るからだと非難されるのがいやで、
準備にかなりの時間を費やし、高崎から一歩も進むことがかなわなかった。
しかし、友人などのアドバイスを得て、国土交通省国土地理院の地図も手に入れ、
地図上の何処に自分が居るのかが判るように、GPSナビが付いた携帯電話に交換した。
これなら山の中を迷わずに歩けそうだと、山道を歩きとおす自信が出来たので、
高崎から歩を進めることにした。
今日は2006年10月17日AM10:00. 曇りのち晴れ。
高崎駅西口に出ると、正面にランドマークよろしく、立派な高崎市役所が見える。
市役所を目当てに通りを進むと、「あら町」の信号に出る。
信号を右折すると、これが旧中山道である。まっすぐ行けば
前回(旧中山道をあるく 82)記述した頼政神社の裏手に出る。
(大信寺参道)
高崎市の中心街を歩いて、連雀町の信号を右折して、JR高崎駅のほうへ向かうと
左手の奥まったところに大信寺がある。
幼稚園を併設しているが、この寺の参道入り口に、駿河大納言の墓があることを説明した、
次のように看板が出ている。(民家のつながる民家の間にあって、始めて訪ねる人には分りにくい。)
[駿河大納言の墓 徳川忠長(幼名国松)二代将軍秀忠の
第三子として生まれ、父母に愛され世子に擬せられたが、
春日局の運動が功を奏し、兄家光が三代将軍となった。
忠長は甲・信・駿・遠 55万石に封ぜられ駿府城に入封した。
後 寛永9年高崎城に幽閉され、翌寛永10年(1133)12月6日28歳に自刃した。
戒名は
「峰巌院殿前亜相清徹暁雲大居士」](高崎教育委員会)
(大信寺)
墓地には、忠長のお墓があるというが、門が閉まっており中に入ることが叶わなかった。
高崎教育委員会の説明では、なぜ忠長が自刃したか記入されていないが、
史実によれば、忠長は辻斬りや家臣の手打ち、神社で狩りをするなど素行が悪く、
将軍家光や大御所の父秀忠より注意を受けるも、
行状が改善されず、上述の高崎城に幽閉されることになったという。
これだけのことが高崎教育委員会の説明不足である。
でも、素行、行状が悪く記載するのに、高崎市民の心象を悪くするから、
あえて記載しなかったのかもしれない。
忠長は今のイラクのフセイン元大統領のような立場だったのであろうか?
(本町三丁目の信号)
(旧家の趣の商店1)
(旧家の趣の商店2)
旧中山道に戻って、西へ進むと「本町三丁目」の信号に出る。
旧中山道はこの信号を左折する。信号手前や左折後に古い商店が点在し、旧中山道の面影を忍ばせる。
さらに進むと「本町一丁目」の信号に出る。案内看板によれば右折すれば安中とあるが、
旧中山道は直進する。
(本町一丁目の信号)
「本町一丁目」の信号を渡ったすぐ左側に駐車場があり、その奥に高崎神社がある。
ここは高崎総鎮守で元は熊野神社であった。
また、ここには高崎市指定の文化財として「高崎神社の鰐口」がある。
(高崎神社入り口)
(高崎神社)
「高崎神社の鰐口」
[鰐口とは、寺社の軒先につるし、参拝者が綱を振り打ち鳴らす、金属製の道具。
下辺の大きく口を開けた形からこの名が出た。
(最近の神社には大きな鈴のようなものがぶら下がっており、綱を振ると
「じゃらじゃら」と鳴る、その鈴のようなものを指す)
この高崎神社の鰐口は鋳金した後黒漆を塗り、銘文を刻している。
直径17,5センチ、厚さ1,8センチの円盤状。周縁に48文字の銘文がある。
「更埴高崎旧事記」によるとこの鰐口は旧高崎城内榎廓の二ノ宮大明神社殿にかけられていた。
銘文によると武州秩父郡の住人荒船和泉守善慶が同郡小坂下村菊水寺に
天文三年(1534)奉納したものである。
しかし、菊水寺から二ノ宮大明神社殿に移された経緯は不明である。
鰐口は仏像などと異なり信仰の対象としてあまり珍重されず名品も少ないが
中世の銘文が刻まれていることはきわめて貴重である。] とある。
(高崎市教育委員会)
珍しいものなので、拝見させて欲しいと宮司さんにお願いしたが、
丁重に断られた。大切に保管されているらしい。