(恵徳禅寺)
(高崎宿5)
高崎神社のすぐ隣に曹洞宗 恵徳禅寺がある。
由緒によれば、
[この寺は井伊直政の伯母である恵徳院宗貞尼菩提のため、
箕輪日向峰に一宇を創立松隆山恵徳院と号した。
慶長三年(1598)井伊直政公が高崎城入城の折、
この寺を城北榎森に移し、松隆山東向院恵徳寺と改めた当時、
寺領20石五斗の御朱印地であった。
――中略――この寺の禅師は井伊直政公の信任厚く
「和田の名称を松崎に変えたいが」の問いに、
禅師は「松は枯れることがあるが高さには限りがないその意をとって高崎はいかが」と進言したところ、
直政公大いに喜び「高崎」と命名した]という。
高崎の地名の由来が碑文となっている。
(長松寺)
(長松寺の本堂)
さらに中山道を先に進むと、右側に「長松寺」があるので寄ってみよう。
長松寺には高崎市指定重要文化財になる狩野派の天井絵と涅槃画像があるので、見学させてもらおう。
天井絵の「天女」は寛政元年(1789)の作で、岩絵具、古粉、金泥で彩色された天女絵で、
そのふくよかな肢体、しなやかな衣裳、畢生は力強い。狩野探雲作とされる。
また、大間天井絵の「龍」は寛政三年(1791)天井に墨画された龍で力強い筆勢で躍動感がある。
狩野探雲は現富岡市の出身で文化九年(1812)八十八歳没。
狩野派主流の画家で後に七日市藩の御用絵師になり、
絵師としては最高位の法眼を与えられ「上野探雲」とも呼ばれた画家である。
さて、旧中山道は長松寺の門前を通り直進する。
道はやや下り坂になっているが、坂の終わり頃左手に古い煙突が見えてくるがここは醤油屋さんで、
この醤油屋さんの先の「常磐町」信号を右折する。
信号の右角に「旧中山道」の看板があり分かりやい。
先に進むと道路上に「旧中山道」の案内看板があり、安心して進む。
すぐ道路巾が広くなって突き当たる。
突き当たった場所に君が代橋の親柱の記念碑が残っている。
現在の橋に架け替えられる前の橋脚である。
(しょうゆ屋さんの煙突)
(常盤町の信号と旧中山道の案内標柱)
(案内看板で道を間違えていない事が解って安心)
(先代の君が代橋の親柱)
(高崎宿5)
高崎神社のすぐ隣に曹洞宗 恵徳禅寺がある。
由緒によれば、
[この寺は井伊直政の伯母である恵徳院宗貞尼菩提のため、
箕輪日向峰に一宇を創立松隆山恵徳院と号した。
慶長三年(1598)井伊直政公が高崎城入城の折、
この寺を城北榎森に移し、松隆山東向院恵徳寺と改めた当時、
寺領20石五斗の御朱印地であった。
――中略――この寺の禅師は井伊直政公の信任厚く
「和田の名称を松崎に変えたいが」の問いに、
禅師は「松は枯れることがあるが高さには限りがないその意をとって高崎はいかが」と進言したところ、
直政公大いに喜び「高崎」と命名した]という。
高崎の地名の由来が碑文となっている。
(長松寺)
(長松寺の本堂)
さらに中山道を先に進むと、右側に「長松寺」があるので寄ってみよう。
長松寺には高崎市指定重要文化財になる狩野派の天井絵と涅槃画像があるので、見学させてもらおう。
天井絵の「天女」は寛政元年(1789)の作で、岩絵具、古粉、金泥で彩色された天女絵で、
そのふくよかな肢体、しなやかな衣裳、畢生は力強い。狩野探雲作とされる。
また、大間天井絵の「龍」は寛政三年(1791)天井に墨画された龍で力強い筆勢で躍動感がある。
狩野探雲は現富岡市の出身で文化九年(1812)八十八歳没。
狩野派主流の画家で後に七日市藩の御用絵師になり、
絵師としては最高位の法眼を与えられ「上野探雲」とも呼ばれた画家である。
さて、旧中山道は長松寺の門前を通り直進する。
道はやや下り坂になっているが、坂の終わり頃左手に古い煙突が見えてくるがここは醤油屋さんで、
この醤油屋さんの先の「常磐町」信号を右折する。
信号の右角に「旧中山道」の看板があり分かりやい。
先に進むと道路上に「旧中山道」の案内看板があり、安心して進む。
すぐ道路巾が広くなって突き当たる。
突き当たった場所に君が代橋の親柱の記念碑が残っている。
現在の橋に架け替えられる前の橋脚である。
(しょうゆ屋さんの煙突)
(常盤町の信号と旧中山道の案内標柱)
(案内看板で道を間違えていない事が解って安心)
(先代の君が代橋の親柱)