中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

柏木義園と西広寺(旧中山道を歩く 91)

2007年04月17日 08時40分58秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10



(西広寺入り口にある柏木義円の墓の案内)

(安中宿4)

熊野神社を背に鳥居の下に立って周りを見渡すと、
西広寺北口の案内看板が目に入る。その方向に進むと
道路右側に「安中城東門跡」の標柱があった。
ちょうど通りかかったご婦人が挨拶をされたので、
「ここに安中城の東門があったのですか?」とお訊ねすると
「そうです」と回答を得た。
安中城は、三万石の小規模の城であり、今は残っていない。
安中城については後ほど触れる。

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(安中城東門の標柱)

柏木義園のお墓がある西広寺に入る。浄土宗のお寺である。
このお寺には、柏木義円の墓と推定300年の「西広寺の椿」がある。
椿はボクも好きな花で、もう二十年経つ赤と白および八重の椿の鉢植えを持っている。
椿はやはり花びらが一重の赤いものが清楚で一番好きであるが、
ここ「西広寺の椿」も赤くて一重の花びらの椿であった。

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(樹齢推定300年の椿、ユキツバキといい、群馬県天然記念物に指定されている)
ボクは柏木義園なる人物をはじめて耳にするが、新島襄没後の
30年に、安中にキリスト教会を建て、伝道に当たった牧師と言えば理解できる。
非戦の主義を貫いた人である。

しかし、キリストの牧師が、なぜ浄土宗のお寺に墓地があるのか、
その点について理解に苦しむ。
尊敬する新島襄と一緒の教会では、荷が重かったのであろうか?
それにしても新島襄はこのキリスト教会に埋葬されていない。
隠れキリシタンなどの時代ではないが、異人の宗教ということで、
残された家族が周囲を気にして、浄土宗のお寺に埋葬したのであろうか?

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墓地の前に次のように紹介されている。
柏木義円の墓

「非戦の先覚
   無戦世界の出現を期する

柏木義円は安政七年(1860)生まれ、東京師範学校を卒業、
明治十二年土塩、新井、上増田三村連合で細野西小学校を創設した時の初代校長に就任。
(淡々と書いたが、この時21歳である。相当優秀な人であったことがわかる。)
この時の官選村長荻原州年は安中教会の執事で、この村長を通じてキリスト教に触れ、
新島襄を敬慕するようになった。
明治十三年同志社に入学するも休学して上州に帰り、明治十五年細野東小学校の校長に就任した。
明治十七年同志社に復学し同二十三年同志社通学課を卒業するや同校予備校の主任に迎えられた。
明治二十五年に平瀬かや子と結婚し、「同志社文学」の編集者として活躍、
明治三十年同志社を去り湯浅治郎の招きに応じ、安中教会の第四代牧師に就任し、
「上毛教界同報」を創刊し、県下のキリスト教界の情報を伝えると共に、
神の福音、キリスト教に基づく自由と平和を説き、昭和十一年まで刊行し続けた。

この間、新島襄昇天30周年を記念して、新島襄記念会堂安中キリスト教会礼拝堂を新築した。
昭和十三年永眠すると、先になくなったかや子夫人が眠るここの墓地に葬られた。」(安中教育委員会)

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(安中市文化センターにある「非戦」の石碑)
この案内を読んでクリスチャンである柏木義円が、仏教寺院に埋葬された理由がやっと分かった。
カミサンと同じ墓地に葬られたのだ。
信じる宗教には関係なく、また時代に関わりなく、
日本の男は、死んでもカミサンの傍が好いという事なのだ。

実に人間くさくて好感が持てる。