(美濃加茂市の太田小学校)
(坪内逍遥生誕地)
(太田宿3)
太田小学校は以前「尾張藩 太田代官所」があったところである。
そこの役人の子として坪内逍遥がいた。
代官所とは説明によると、
(尾張藩は天明年間になると、
藩政改革として領内の諸用地を一括支配する所付代官を配置しました。
太田代官所は天明2年(1782)に設置され、
初代の代官は井田忠右衛門でした。
慶応4年(1868)太田代官所は北地総管所
(ほくちそうかんじょ)と改名され、
田宮如雲が総管に任命されました。
このとき一緒に努めていたのが坪内逍遥の父 坪内平右衛門です。)
(美濃加茂市商工観光課)
その代官所の案内が、太田小学校の校舎裏のグラウンドの
カイヅカイブキの生垣の中にある。
(代官所跡の案内看板)
また、坪内逍遥の顕彰碑は太田小学校玄関脇の逍遥公園にあります。
そして逍遥ゆかりの妙見堂は、代官所跡の看板の道路を挟んで反対側にあり、
60歳になって故郷に帰り、家族と撮った写真の背景のムクノキは、
妙見堂の裏、虚空蔵堂うしろに大きな枝を伸ばしております。
さらに逍遥が好んだ椿に因んだ「山つばきの部屋」は、
太田小学校の校舎の中にあり、
逍遥に因んだ資料が展示してあります。
見学は無料です、静かにご見学願いたいと思います。
(逍遥公園)
(坪内逍遥顕彰碑)
(妙見堂)
(虚空蔵堂とムクノキ)
(山つばきの部屋)
坪内逍遥について知らない人はいないと思われますが、
美濃加茂市教育委員会による紹介を載せておきます。
(坪内逍遥は安政6年(1859)、尾張藩太田代官所の役人であった
田宮如雲が総管に任命されました。
このとき一緒に努めていたのが坪内逍遥の父 坪内平右衛門です。)
(美濃加茂市商工観光課)
その代官所の案内が、太田小学校の校舎裏のグラウンドの
カイヅカイブキの生垣の中にある。
(代官所跡の案内看板)
また、坪内逍遥の顕彰碑は太田小学校玄関脇の逍遥公園にあります。
そして逍遥ゆかりの妙見堂は、代官所跡の看板の道路を挟んで反対側にあり、
60歳になって故郷に帰り、家族と撮った写真の背景のムクノキは、
妙見堂の裏、虚空蔵堂うしろに大きな枝を伸ばしております。
さらに逍遥が好んだ椿に因んだ「山つばきの部屋」は、
太田小学校の校舎の中にあり、
逍遥に因んだ資料が展示してあります。
見学は無料です、静かにご見学願いたいと思います。
(逍遥公園)
(坪内逍遥顕彰碑)
(妙見堂)
(虚空蔵堂とムクノキ)
(山つばきの部屋)
坪内逍遥について知らない人はいないと思われますが、
美濃加茂市教育委員会による紹介を載せておきます。
(坪内逍遥は安政6年(1859)、尾張藩太田代官所の役人であった
父 平之進の十人兄弟の末子として生まれる。
その後、明治2年(1869)父の引退にともない、
太田を離れた逍遥は、
名古屋に移り住み風雅な中京文化の感化を受けました。
十八歳にして上京し、明治十六年(1883)東京大学を卒業すると、
文学論「小説真髄」や、
小説「当世書生気質(とうせいしょせいかたぎ)」などを発刊し、
明治新時代の先駆となりました。
また、早稲田大学教授として、
演劇・歌舞伎・児童劇・近代文学の指導と研究に当たり、
近代日本文学の基を築きました。
逍遥の明治四十二年からの二十年間にわたる
「シェークスピア全集」の完訳と刊行は代表的な偉業です。)とある。
(美濃加茂市教育委員会)
今回の題名「弱きものよ、汝の名は女なり」は、
この坪内逍遥が翻訳した
シェークスピアの「ハムレット」の中の一文です。
ハムレットの母は、夫の死後、夫の弟と再婚するが、
当時(1600年代の頃)、
「夫婦は合体するとその血は二人に流れる」と信じられており、
配偶者の兄弟姉妹との再婚は、
近親相姦として固く禁じられる社会でもあった。
そんな中、ハムレットの母は近親相姦という社会的タブーを犯してまでも、
情欲に負け貞操を捨てて男(弟)に走ってしまう。
これを見て「女と言うものは、すぐに情欲に負けるもろいものだ」と言った。
英語では、
(Frailty thy name is woman)
であるが、
このfrailtyは 「もろい、こわれやすい、浮気しやすい(女心)」 を意味する。
しかし坪内逍遥は、これを
「もろき者よ、
その後、明治2年(1869)父の引退にともない、
太田を離れた逍遥は、
名古屋に移り住み風雅な中京文化の感化を受けました。
十八歳にして上京し、明治十六年(1883)東京大学を卒業すると、
文学論「小説真髄」や、
小説「当世書生気質(とうせいしょせいかたぎ)」などを発刊し、
明治新時代の先駆となりました。
また、早稲田大学教授として、
演劇・歌舞伎・児童劇・近代文学の指導と研究に当たり、
近代日本文学の基を築きました。
逍遥の明治四十二年からの二十年間にわたる
「シェークスピア全集」の完訳と刊行は代表的な偉業です。)とある。
(美濃加茂市教育委員会)
今回の題名「弱きものよ、汝の名は女なり」は、
この坪内逍遥が翻訳した
シェークスピアの「ハムレット」の中の一文です。
ハムレットの母は、夫の死後、夫の弟と再婚するが、
当時(1600年代の頃)、
「夫婦は合体するとその血は二人に流れる」と信じられており、
配偶者の兄弟姉妹との再婚は、
近親相姦として固く禁じられる社会でもあった。
そんな中、ハムレットの母は近親相姦という社会的タブーを犯してまでも、
情欲に負け貞操を捨てて男(弟)に走ってしまう。
これを見て「女と言うものは、すぐに情欲に負けるもろいものだ」と言った。
英語では、
(Frailty thy name is woman)
であるが、
このfrailtyは 「もろい、こわれやすい、浮気しやすい(女心)」 を意味する。
しかし坪内逍遥は、これを
「もろき者よ、
あるいは 情に弱き者よ、
またあるいは、言い寄られればすぐに負けてセックスしてしまう女よ」
とせず、
「弱きものよ、汝の名は女なり」と訳したが、
なよやかな女性を考え合わせれば、女性を傷つけない、
これほどの名訳はない。
しかし、「弱きものよ」は確かに女性をさすが、
これも子供を授かるまでのことで、
オスを誘惑し、授かってしまえば、
またあるいは、言い寄られればすぐに負けてセックスしてしまう女よ」
とせず、
「弱きものよ、汝の名は女なり」と訳したが、
なよやかな女性を考え合わせれば、女性を傷つけない、
これほどの名訳はない。
しかし、「弱きものよ」は確かに女性をさすが、
これも子供を授かるまでのことで、
オスを誘惑し、授かってしまえば、
「女は弱し、されど、母は強し」
(ヴィクトル・ユーゴ「レ・ミゼラブル」より)
になってしまう。
(ロメオとジュリエット翻訳、逍遥の自筆原稿)
逍遥は自作論文「小説真髄」の中で、
(小説で大切なことはまず人情を描くことで、
次に世の中の様子や風俗の描写である)
と論じているが、これにぴったりの名訳だと思う。
話がとんでもない所にそれてしまったが、
太田代官所跡の案内看板の前には、
虚空蔵堂があり、その前を通り西へ向うのが旧中山道である。
虚空蔵堂前を西のほうへ向う、木曽川べりである。
(虚空蔵堂とムクノキ。写真手前右下に、中山道左の案内もある)
になってしまう。
(ロメオとジュリエット翻訳、逍遥の自筆原稿)
逍遥は自作論文「小説真髄」の中で、
(小説で大切なことはまず人情を描くことで、
次に世の中の様子や風俗の描写である)
と論じているが、これにぴったりの名訳だと思う。
話がとんでもない所にそれてしまったが、
太田代官所跡の案内看板の前には、
虚空蔵堂があり、その前を通り西へ向うのが旧中山道である。
虚空蔵堂前を西のほうへ向う、木曽川べりである。
(虚空蔵堂とムクノキ。写真手前右下に、中山道左の案内もある)