中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

蓮華寺と「北条仲時他430余名の墓」(旧中山道を歩く 293)

2012年01月12日 10時20分37秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(史跡 蓮華寺の石塔)

(番場宿 2)
「史跡 蓮華寺」の石塔の奥には、高架の高速道路が見え、
その奥に山門らしきものが見える。
山門に近づくと、観光客らしき数人が門の前を通り過ぎて行く。
門の右側が駐車場になっており、タクシーが今のお客様を乗せて出て行った。

山門は「勅使門」と言い一段高い所にある。
勅使門は、勅使が参内されたとき通られる門で、普段は閉じている。
この勅使門の左横に小さな溝があり「血の川」と称される。
これは六波羅探題北条仲時公以下四百三十余名が自刃したとき、
血が川となって流れたものという。


(蓮華寺の勅使門)


(「血の川」の案内)


(血の川)

浄土宗本山 八葉山 蓮華寺によれば、
(元弘三年五月九日(およそ680年前)
足利尊氏と京都の合戦で破れ、
鎌倉に落ち延びる六波羅探題北条仲時公は、
北朝の天子光厳天皇、後伏見・花園の二上皇を奉じて中山道を下り、
番場の宿場に着いたとき、
南朝軍の佐々木京極道譽らの重囲に陥り、
やむなく蓮華寺に玉輩(ぎょくれん=天皇を載せた手車)を移し、
大いに戦いたるも、
再び戦いに敗れついに本堂前庭において、
仲時以下四百三十余名ことごとく自刃した。
時の第三代住職同阿上人は深く同情して、
その姓名と年齢および仮の法名を一巻の過去帳に認め、
さらに供養の墓碑を建立してその冥福を弔う。
その墓は境内にあり、
過去帳は重要文化財として蓮華寺に所蔵されている。)とある。

門の中に入ると、机が通路においてあり、
「見学料300円を箱に入れて印刷物をお取りください」とある。
幸い小銭で300円あったから良いものの、
小銭のない方は如何すれば良いのだろう。
紙幣を出してもお釣りを下さる人は見廻した所誰もいない。
お布施と思って紙幣を箱に入れてしまえばそれまで。
無神論者のボクにはお布施とは思えないが・・・

目の前の立派な本堂に会釈をすると、
本堂にかかっている「蓮華寺」の扁額は、
後水之尾天皇の御宸筆(元録11年)であると、説明にある。


(蓮華寺の本堂、屋根の菊のご紋が見えるだろうか?)


(後水之尾天皇筆の蓮花寺の扁額)

自刃した六波羅探題の北条仲時以下430名余の五輪塔は、
本堂を右に廻った山の中腹に在る。
山道は整備されていて、3人並んでも登れる道路である。
ご婦人2名と男性1名の先客があり、
御参りをして山を降りていった。
左手に並んだ五輪塔の数は圧倒的な量で、
どれが仲時公のものか分からない。
お城の石垣のように石垣が組まれ、
その上に三段に渡ってずらりと並んでいる。
感想を述べれば(壮観)の一語に尽きる群墓である。


(430余名の墓)

(蓮華寺は約1300年の昔 聖徳太子が創建せられ、
法隆寺と称していたが、建治2年(1276)落雷により焼失。
その後弘安7年(1284)の夏、一向上人が諸国行脚の錫を止めて、
念仏を宣布して広く民衆を化導せらる。
時の領主 鎌刃城主の土肥三郎元頼は深く一行上人に帰依して、
堂宇を再興し、「八葉山 蓮華寺」と改称した。
歴代天皇の帰依厚く、花園天皇より勅願寺院として勅許を賜り、
寺紋として菊の紋を下賜される。)と蓮華寺の説明にある。

現在は浄土宗に帰属して浄土宗本山になっている。

境内に斉藤茂吉の歌碑があり、

・松風の 音きくときは 古の(いにしへの)

 聖の如く 我は寂しむ 


 とある。


(斉藤茂吉の歌碑)