中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

関取 鏡岩濱の助(旧中山道を歩く 251)

2011年07月01日 09時40分45秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(切通 4)の交差点)


(恵比寿神社)


(真宗寺)


(156号線と交差する)

(加納宿)
古い街を歩き、(切通4)の信号を横断し、
「恵比寿神社」、「親鸞聖人御旧蹟 真宗寺」を右に見て、
国道156号線を横断する。

約300mで細畑の一里塚が道路の両側にある。
民家が立て込んでいる中によく残ったものだ。
頂上には榎が植えられている。


(細畑の一里塚の北塚)


(一里塚の南塚)

少し歩くと延命地蔵堂があり、その前に道標の石標がある。
よく見ると、
「伊勢 名古屋 ちかみち 笠松 凡一里」とあり、
普通は「左」の文字が入る所を、
石標に「左」を指差す「手」が彫られている。
「西京道 加納宿 凡八丁」
「明治九年一月建之 遠藤平左衛門」とある。
石標は意外に新しい。
「左方向へ」を「左」の文字でなく、
「手で指差す」新しい手法を取り入れたに違いない。
推測するに、作者の遠藤平左衛門さんは、
きっと新しい物が好きな方であったのでろう。


(追分の延命地蔵)


(延命地蔵菩薩の脇にある道標)


(指先で方向を示す道標)


(明治九年の文字)

ここで「伊勢 名古屋 ちかみち 笠松 凡一里」、
「西京道 加納宿 凡八丁」と
「凡(およそ)」と書いたが、
どうも「凡」は「兀(こつ)」が正しいのではないか、
これは「まで」を意味する字で、
(笠松まで一里)(加納宿まで八丁)が正しいと言う意見がある。

どうもこれのほうが意味が通じやすいし、
文字そのものも「凡」よりは「兀」の方が解りやすいので、
これをとることにする。


(「凡」よりは「兀」が正しいと思われる。

ここから加納宿に入っていく。
名鉄「茶所駅」の踏切を渡るとすぐ左手に、
関取「鏡岩濱乃助」の碑があり、道標が立っている。

「ぶたれ坊と茶所」と題して、岐阜市教育委員会の案内板によると、
(この、ぶたれ坊と茶所は、
江戸時代の相撲力士「鏡岩濱乃助」にちなむものです。
伝えによると、二代目鏡岩は父の職業を継いで、
力士になりましたが、
土俵の外での行いが悪かったことを改心して寺院を建て、
ぶたれるために等身大の自分の木像を置いて、
罪滅ぼしをしました。
また、茶店を設けて旅人に茶をふるまったそうです。
ここの少し北側にある東西の通りは、
昔の中山道であり、加納宿として栄えていました。
江戸時代には多くの人が訪れたことでしょう。
現在では、歴史的な街並みと地名に当時の様子を伝えていますが、
ここにあった妙壽寺は廃寺になり、
「ぶたれ坊」の像は岐阜駅南口に近い、
加納伏見町の妙泉寺に移されています。)とある。


(加納宿の碑)


(鏡岩の碑。右側に鏡岩山、左側に妙壽寺と彫ってある。)


ここにある道標には、(東海道いせ路)、(江戸木曽路)、
(京都 大阪 西国道)とあり、
横面には(天保十一年辛丑十一月 鏡岩濱乃助内建之)とある。
これを見ると、この道標は鏡岩が建てたものではなく、
鏡岩のカミサンが建てたものだ。
茶店を出して旅人に茶を振舞ったというから、
旅人が道をたびたび訊いたのだろう、
あんまり訊かれるものだから、
方向を書き込んだものを建てたに違いない。
カミサンも随分大変だったと見える。


(道標、鏡岩濱の助内と彫刻されている)


この鏡岩の碑の前で椅子に寄りかかって、
暖かい陽射しの中で、柔らかい寝息を立てながら、
お休みしているお年寄りがいた。
目の前で鏡岩の碑の写真を撮るのに、
頭の上でカメラを構えても目を覚まさなかった。
あまりにも気持ち良さそうな居眠りで、
写真にしたら絵に成るかと、
構えて撮ったが、腕が悪く良い写真にならなかった。
どんなアングルで撮ったら、
よい写真になったのだろうかと、
後になって悩んでいる。
どなたかご教授願えないものでしょうか?


話がそれてしまったが、話を戻すと、
鏡岩の碑から、中山道を少し進むと、
右手に(だんごや)があるので手前を右折する。
これが加納宿の第一の枡形。


(だんごや)

(日溜りに気持ちよく昼寝のおじさん)















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