(不破の関跡)
(関が原宿 6)
左手に見えた白い壁の建物は不破の関跡である。
不破の関については、
(東山道の美濃不破の関は、東海道伊勢の「鈴鹿の関」、
北陸道の越前「愛発の関(あらちのせき)」とともに、
古代律令制下の三関の一つとして、
壬申の乱(673)後に設けられたとされています。
延暦八年(798)に停廃されて後は関守が置かれ、
平安時代以降は、多くの文学作品や紀行文に関跡の情景が
しきりと記されてきました。)(関が原町)とある。
不破の関の建物の奥が小公園になっており、
不破の関守の屋敷跡がある。
その屋敷跡にさまざまな石碑(歌碑・句碑等)が建っている。
説明あるように、平安時代以降は、
文芸作品や紀行文に不破の関が記され、その痕跡として石碑である。
(不破の関守屋敷跡が小公園になっており、歌碑や句碑等が立ち並んでいる。)
いくつか残っている中で
ボクに文字など読み取れる石碑を一つ紹介しておきたい。
・秋風や 藪も畑も 不破の関 芭蕉
と芭蕉が詠んだ句碑である。
あとはボクには読み取れない石碑ばかりであった。
(芭蕉句碑)
(文字も見えなくなっている石碑1)
(文字も見えない石碑2)
(かろうじて読める石碑3)
(*)帰宅後調べた所、
(石碑1)みなうつるちかづきの顔月見かな 支考
(石碑2)大友の王子の王に点うちてつふす玉子のふわふわの関
蜀山人の狂歌
(石碑3)名月や山も谺に起きとをし 廬元坊
であることが分った。
不破の関跡の前にある中山道は二股に分かれており、
その間に道標が建っている。
「左 旧中仙道」 「右 中仙道 大谷吉隆墓 十丁」
と刻まれている。
左は下り坂になっており、右は登り坂で、
その上り坂を30mも行くと、右手に不破の関資料館がある。
資料館を見学して不破の関がどれほどのスケールで
あったかを頭に入れておきたい。
(二股に分かれる道路、右奥に見える東屋の右手が資料館)
(左が旧中山道)
(資料館の案内)
旧中山道に戻り、坂を下る。
下りきった所に藤古川が流れており、
不破の関の西限と言われている。
その手前に関が原町の説明板が建っており、
西城門(にしきもん)が在ったとされる。
この辺り道路の真ん中に融雪用の水路があり、
積ご近所の方に聞くとやはり豪雪地帯であるらしい。
雪の時は地下水をまいて雪を溶かす融雪装置がある。
(積雪の多い新潟県の長岡で見たことがある)
坂を下りきると、藤古川に掛かる橋がある。
(下り坂、下りきったところが藤古川)
(藤古川に掛かる橋)
(石碑3)名月や山も谺に起きとをし 廬元坊
であることが分った。
不破の関跡の前にある中山道は二股に分かれており、
その間に道標が建っている。
「左 旧中仙道」 「右 中仙道 大谷吉隆墓 十丁」
と刻まれている。
左は下り坂になっており、右は登り坂で、
その上り坂を30mも行くと、右手に不破の関資料館がある。
資料館を見学して不破の関がどれほどのスケールで
あったかを頭に入れておきたい。
(二股に分かれる道路、右奥に見える東屋の右手が資料館)
(左が旧中山道)
(資料館の案内)
旧中山道に戻り、坂を下る。
下りきった所に藤古川が流れており、
不破の関の西限と言われている。
その手前に関が原町の説明板が建っており、
西城門(にしきもん)が在ったとされる。
この辺り道路の真ん中に融雪用の水路があり、
積ご近所の方に聞くとやはり豪雪地帯であるらしい。
雪の時は地下水をまいて雪を溶かす融雪装置がある。
(積雪の多い新潟県の長岡で見たことがある)
坂を下りきると、藤古川に掛かる橋がある。
(下り坂、下りきったところが藤古川)
(藤古川に掛かる橋)
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