(古戦橋)
(首塚の大ケヤキ)
(関が原宿3)
駅前の観光案内所のオジサンに地図を貰い、
首塚と徳川家康陣地と歴史館、笹尾山の石田三成陣地、
宇喜田秀家陣地の場所を概略聞いて出発する。
太陽の陽をさえぎるものも無い暑い暑い道を歩き始める。
まず、JRの跨線橋を渡る。
この跨線橋には「関が原古戦橋」と書いてある。
上手く洒落たなと感心しながら渡ると、
すぐ左手の森の中に、首洗いの井戸、東の首塚、
松平忠吉ならびに井伊直政陣跡がある。
関が原の合戦の先鋒と決められていた福島正則を出し抜いて、
井伊直政は、家康四男松平忠吉を伴い、
自慢の「赤備え(全身赤づくめの)」と称された精鋭を率いて抜け駆け発砲をした。
この発砲を機に合戦の火蓋は切られた。
時は午前八時。
こうして関が原は戦場のるつぼと化した。
(詳しくは。関が原歴史民族資料館で映像とともにご覧ください。)
(東首塚の入り口)
(首洗い井戸)
(東の首塚)
(茨原・松平忠吉・井伊直政陣所古跡とある)
(関が原古戦場・東首塚の石碑)
(首級墳碑)
首塚には大ケヤキが植えられ、石の垣根で囲まれている。
その左前に首洗いの井戸があり、右側に首級墳碑が建っている。
東首塚、首洗いの井戸に付いては、
それぞれ関が原町の説明板があるが、
首級墳碑についての説明がすべてを物語っているので、
その概要を次の通り記す。
(英傑なる徳川家康が東国において勢力を拡大したため、
石田三成は豊臣政権不利と見て旗を揚げた。
慶長五年(1600)九月両勢力はここ関が原において激突したが、
内応などの戦況の急変により、三成側は大敗を喫した。
家康は床几場において首実検をしたのち、
土地の人に、すべての首や遺骸を、東西二箇所に首塚を造り葬らせた。
東軍に敵対した、西軍将士に罪はないとは言えないが、
主君秀頼のために命を捧げたことに他ならず、
憎めるものではない。
故に、豊臣の危機に直面し犠牲になった者を葬ることは、
仁義に暑い心得のなし得ることであり、
まさに家康の教えが、今の世に太平をもたらしたと言えよう。
将来この首塚が、
丘や谷に変わり果てることの無いよう乞い願う者である。)(関が原町)
しかしよくよく見ると、入り口と思って入った所から見れば反対側に、
朱塗りの正規の入り口らしい門がある。
これは昭和になって造られたものらしい。
(朱塗りの門東首塚とある)
首塚を出て、豊臣や三成、島津家、宇喜多家の,
旗印があるのぼりの立ち並ぶ道路へ出る。
その旗の先に関が原町役場があり、歴史民族資料館がある。
歴史資料館はくどいようですが、是非見学して頂きたい。
(暦代武将の旗じるし)
(石田三成の旗印「大一大万大吉」)
(関が原町役場)
(歴史民族資料館)
(反対側から見た歴史民俗資料館)
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