中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

加納宿の枡形と歴史的建造物(旧中山道を歩く 252)

2011年07月06日 09時49分41秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(広重画浮世絵 木曾海道69次之内「加納」)


(だんごや)

(加納宿2)
右手に(だんごや)があるので手前を右折する。
これが加納宿の第一の枡形である。

(だんごや)の店角に(中山道 加納宿)の標柱が建っている。
進んだ左生垣の中に(中山道 加納宿 八幡町)の地図入り案内もある。
その先に「加納大橋」があり、浅いけれど水が綺麗に流れている。
橋の欄干に彫られた胴板は、浮世絵の参勤交代行列図で、
童謡(まりと殿様)の唄を思い出させる。

少し進むと、左手の駐車場角に道標があり(左西京 右岐阜・谷汲)とあり、
この手前を左折します。
ここが第二の枡形になる。
左折して少し歩くと、右手の広い通りへ出る手前の右側に、
(中山道加納宿の東番所跡)の碑があり、
これを左折する。
これが第三の枡形になる。
左折すると正面に(法性山 善徳寺)があり、これを右折する。
ここが第4の枡形になる。


(だんごや脇の標柱)


(中山道の案内地図)


(加納大橋)


(浮世絵のモチーフ1。上の浮世絵と比較ください)


(浮世絵のモチーフ2。上の浮世絵と比較ください)


(第二の枡形)


(第三の枡形)


(第四の枡形、善徳寺)

広い通りを横切って、茶色のアスファルトを進むのが中山道。
通りの隅のU字溝の蓋に(中山道 御鮨街道)とある。
左手に(東福寺)を見て進むと、
同じ左手、道路を挟んで向こう側に太田薬局がある。
その店前に(左中山道)の石碑があり、ここを左折する。
ここが第五の枡形。


(茶色のコンクリート道路)


(中山道、加納宿のU字溝の蓋)


(東福寺)


(太田薬局、店頭の中山道の石碑が見える、第五の枡形)

少し先の橋を渡り終えた左側に(高札場跡)の看板がある。
ここからが昔の宿場があったところであろう。
関東では名主、その他では庄屋が宿場や村の治安維持に努めた。
各宿場や村へ入ってくるよそ者に、
宿場や村の決まり(法律)を知らせるために、
宿場や村の出入り口に置かれた高札場を管理していた。
時には文字の読めない人には読んでやることもした。
旅人などよそ者は高札場の前では、
笠を取って読んだといわれる。

話がそれたが、高札場の前を通り抜けると、信号にでる。
信号手前に(加納城大手門跡)の石碑がある。
中山道はここを右折する。
ここが第六の枡形になる。


(高札場跡)


(加納城大手門跡、第六の枡形)

案内ではこの近くにお手洗いがあることになっている。
お手洗いがあることを期待していたが、どうも見当たらない。
我慢をして先へ歩くことにする。

右折すると道路は茶色のアスファルトが続いている。
中山道である。
すぐ左手に旧加納町役場が、岐阜市の歴史的建造物として残されている。
この建物は文化庁に登録された有形文化財である。

見るからに古くてピラミッドのように重々しいが、
見方によっては、今にも崩れそうな気配がする。
この気配については説明のし方がないので、
写真を見てもらう以外に手はない。

岐阜市の説明では。
(国内屈指の和傘の町、
文京の町として繁栄した稲葉郡加納町を象徴する建物で、
大正十五年(1926)に竣工。
京都帝国大学武田五一教授の設計。
構造・様式は「イスパニヤ式」手法を加味した鉄骨鉄筋コンクリートで、
耐震耐火構造、基礎工事は、「フーチング式」鉄筋コンクリート、
当時の最先端技術を駆使し、
旧岐阜県庁と共にデザイン感覚に優れた建造物として、
多くの専門家から高い評価を受けている。
同教授の手になる名和昆虫記念館、同博物館、
大垣市の旧浅沼銀行本店などは当地に縁も深く、
広く知られている。――後略――)(文化庁、他)

古かろうと役場であるからトイレくらいはあるだろうと思ったが、
残念ながら入り口はしまっていて中には入れそうにもない。
どんな立派な建造物もボクにとっては使えるトイレがないのでは、
何の役にもたたない。

しかたなく次へ向う。

(旧加納町役場)





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