(石田三成の旗印「大一大万大吉」)
(歴史民族資料館)
(関が原宿4)
歴史民族資料館を出ると向い側が、
徳川家康陣地であり、首実験場でもあった。
案内地図によって笹尾山の石田三成陣地に向かう。
小学校の高学年の一団とすれ違う。
郷土の歴史を学ぶ授業の一環であろう。
暑い中を礼儀正しく、元気良く「こんにちは!」と、
口々にボクに挨拶してすれ違っていく。
(関が原町へようこそ!)の意味が込められているように感じた。
(陣場野 徳川家康陣地)
(徳川家康陣地、ここで首改めをした)
(首実検の絵)
関が原町の案内に沿って進むと、
田圃・畑の真ん中に決戦地のぼり旗がひらめく場所がある。
近づくと(史跡 関が原古戦場 決戦地)の石碑が建っている。
のぼり旗は四本立っており、
二本は石田三成の大一大万大吉の紋所、残り二本は徳川の葵の紋所である。
この決戦地の先を左折して、石田三成陣地の笹尾山に向う。
笹尾山は少し高い所にあり、山の下は、今は駐車場になっている。
脇に茶店があり、駐車料金を貰っている。
(決戦地跡、向こう側の山の左手に笹尾山はある)
笹尾山を登る。
途中、山の斜面に頑丈な木柵が二重に造られており、
三成の用心深さが伺える。
三成はサムライでなく寺小姓だったようで、
そのお寺に秀吉が立ち寄った時、熱いと飲めないのを気遣って、
呑みやすい、ぬるいお茶を出したのが、
秀吉に認められ家来になったというエピソードがあるという。
秀吉が藤吉郎のころ、信長の草履を温めるため、
草履を懐に入れる気遣いをした話は有名である。
それと同じ気遣いをした三成を、
自分に重ね合わせたのであろうか、
自分と同じように仕事ができると判断したのであろうか?
自らの家来に取り立てている。
(笹尾山麓の駐車場)
(襲撃に備えた木の柵)
(防御柵)
余計なことを考えながら、笹尾山を登る。
やがて開けた場所に出て、石田三成ののぼり旗が翻っている場所に出る。
旗には石田三成陣地とある。
脇に展望台もあり、(関が原古戦場 石田三成陣地)の石碑もある。
ここは関が原が一望に出来る高台で、
小早川秀秋が東軍に寝返ったのを、
目の当たりに見ることが出来たであろうと思われる。
(三成陣所と展望台)
(石田三成陣所の石碑)
(三成陣所から一望できる関が原古戦場)
笹尾山を降りて、道路を南にとり、宇喜多秀家陣地に向う。
途中、島津義弘の陣地、小西行長の陣地を通り過ぎ、
右手奥まった所に入ると、
天満神社入り口の石碑があり、その奥へ入ると、
杉木立に囲まれて、天満神社境内に宇喜多秀家の陣地跡がある。
秀吉の五大老の一人、岡山の藩主 宇喜多秀家のお墓が、
ボクの住んでいる板橋区のお寺にある。
岡山の藩主のお墓が、何故東京都板橋区のお寺にあるのか、
気になるところである。
宇喜多秀家は関が原の罪で八丈島に流された。
秀家の妻は加賀藩 前田家の娘 豪姫で、
加賀藩江戸上屋敷は、今の東京大学、
下屋敷は中山道の第一の宿場町 板橋宿に隣接した22万坪を有していた。
前田家の娘 豪姫(秀家の妻)は八丈島に流された秀家を案じて、
定期的に仕送りをしていた。
秀家は八十三歳で亡くなったが、
明治になって恩赦により、子孫の家族が本土に戻ってきたとき、
東京板橋にあった加賀藩前田家の下屋敷跡地に約二万坪を与えられ、
農家として暮らし、その子孫が建てた秀家のお墓が板橋に残った。
そんな経緯である。
(天満神社の石碑、この奥に宇喜多秀家の陣所がある)
(静かな天満神社境内)
(秀家公陣所跡の碑)
(人気のない静かな神社境内の宇喜多秀家の陣所)
(静かな杉林を抜けてくる陣所)
宇喜多秀家陣跡を出ると、途中に不破の関土塁跡の遺跡がある。
関が原はこの先不破の関を通るが、
その北限に土塁を築き関所の役割を果たした。
その土塁の跡である。
中山道へ出て、JR関が原駅へ戻り、
大垣経由で名古屋駅に行き、新幹線で東京に戻る。
帰京したのは20:30であった。
歩いた距離歩数 4万歩=約24km。
(不破の関の土塁跡)
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