(英泉の浮世絵「本庄宿」は神流川に架かる橋が途中までしかない)
日本橋から歩いて12日目(2005.Jan.4.)
昨年3月27日思い立って旧中山道を歩き始めて、
まだ12日目であるのに、もう年が改まってしまった。
旧中山道の歩きが、遅々として進まないことに、すこし焦りを感ずる。
(本庄宿2)
2004年12月31日に降った雪が多かったのか、
田舎に来て気温が低くいため溶けなかったのか、
本庄駅に近づくにつれて、残雪が多くなっていく。
神流川を境に群馬県に入っていく。
埼玉県を縦断するのに8日間かかった。
本庄駅を出て、旧中山道との交差点本庄駅入り口を
突っ切り直進すると、右手に本庄市役所の
立派な建物が見えてくる。
その手前の信号を右折して進むと、
左手に本庄城址の石碑と赤い鳥居が見えてくる。
その奥に本庄城址がある。赤い鳥居は城山稲荷神社の鳥居である。
(本庄城址の石塔と赤い鳥居)
本庄城は、弘治二年(1556)本庄宮内少輔実忠
(ほんじょうくないしょうゆさねただ)により築城されたと云われている。
本庄氏は、山内上杉氏に属したが、永禄十年(1567)に
後北条氏に攻められて落城し、後北条氏に服したが、
実忠の子隼人正(はやとのしょう)の代に至って
天正八年(1590)豊臣秀吉の関東攻めにあって落城した。
徳川家康の関東入国に伴い、信濃の国松尾の城主
小笠原掃部太夫信嶺(かもんだゆうのぶみね)が
一万石を賜って新城主となったが、
慶長十七年(1612)その嗣子信之の代になって
古河城へ移封され本庄城は廃された。
元禄13年(1700)の城跡検地帳によれば、
三町四反五畝二十九歩(約三・四ヘクタール)と記されている。
その区域は北側は元小山川が流れ、
南東には久城堀で切断された自然の要害であった。
なお、小笠原信嶺夫妻の墓は、開善寺にあり、
本庄城は昭和33年(1958)本庄市指定文化財になっている。
(本庄市教育委員会)
城址内にある城山稲荷神社は本庄新八景の一つで、
神社前のケヤキは樹齢400年と推定される。
第二次大戦時大きな樹木は、殆んどが強制的に供出され、
埼玉県下でも数少ない貴重な木である。
本庄城築城の時、献木されたと伝えられるこのケヤキは、
埼玉県指定天然記念物に指定されている。
(本庄市教育委員会)
(城山稲荷と本庄新八景の案内標柱)
(稲荷神社前のの大ケヤキ。青空が美しい)
日本橋から歩いて12日目(2005.Jan.4.)
昨年3月27日思い立って旧中山道を歩き始めて、
まだ12日目であるのに、もう年が改まってしまった。
旧中山道の歩きが、遅々として進まないことに、すこし焦りを感ずる。
(本庄宿2)
2004年12月31日に降った雪が多かったのか、
田舎に来て気温が低くいため溶けなかったのか、
本庄駅に近づくにつれて、残雪が多くなっていく。
神流川を境に群馬県に入っていく。
埼玉県を縦断するのに8日間かかった。
本庄駅を出て、旧中山道との交差点本庄駅入り口を
突っ切り直進すると、右手に本庄市役所の
立派な建物が見えてくる。
その手前の信号を右折して進むと、
左手に本庄城址の石碑と赤い鳥居が見えてくる。
その奥に本庄城址がある。赤い鳥居は城山稲荷神社の鳥居である。
(本庄城址の石塔と赤い鳥居)
本庄城は、弘治二年(1556)本庄宮内少輔実忠
(ほんじょうくないしょうゆさねただ)により築城されたと云われている。
本庄氏は、山内上杉氏に属したが、永禄十年(1567)に
後北条氏に攻められて落城し、後北条氏に服したが、
実忠の子隼人正(はやとのしょう)の代に至って
天正八年(1590)豊臣秀吉の関東攻めにあって落城した。
徳川家康の関東入国に伴い、信濃の国松尾の城主
小笠原掃部太夫信嶺(かもんだゆうのぶみね)が
一万石を賜って新城主となったが、
慶長十七年(1612)その嗣子信之の代になって
古河城へ移封され本庄城は廃された。
元禄13年(1700)の城跡検地帳によれば、
三町四反五畝二十九歩(約三・四ヘクタール)と記されている。
その区域は北側は元小山川が流れ、
南東には久城堀で切断された自然の要害であった。
なお、小笠原信嶺夫妻の墓は、開善寺にあり、
本庄城は昭和33年(1958)本庄市指定文化財になっている。
(本庄市教育委員会)
城址内にある城山稲荷神社は本庄新八景の一つで、
神社前のケヤキは樹齢400年と推定される。
第二次大戦時大きな樹木は、殆んどが強制的に供出され、
埼玉県下でも数少ない貴重な木である。
本庄城築城の時、献木されたと伝えられるこのケヤキは、
埼玉県指定天然記念物に指定されている。
(本庄市教育委員会)
(城山稲荷と本庄新八景の案内標柱)
(稲荷神社前のの大ケヤキ。青空が美しい)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます