(若泉の霊域、安養院)
(本庄宿4)
中山道に戻りすこし進むと、右手に入ったところに
本庄新八景の一つ、「若泉の霊域」と言われる
安養院がある。
言い伝えに拠れば
(安養院は曹洞宗のお寺で、山号を若泉山、寺号を無量寺という。
寺伝に拠れば、創立文明七年(1475)武蔵七党の一党である、
児玉党の一族本庄信明の弟藤太郎雪茂が仏門に帰依して、
当時の富田村に安入庵を営んだが、水不足に悩まされたので、
現在地を発見し、安養院を開基したと伝えられる。
以後付近には水不足に悩まされることもなく、
周辺の人々から{若泉の荘}と呼ばれるようになったと言う。)
(本庄市教育委員会)
寺伝などというものは、どんな根拠に基づいて
創られるのであろうか?
にわかには信じられない不思議なことなどが多い。
それにしても今では田舎になってしまった本庄宿の
この安養院の仁王門の「阿吽(あうん)の仁王像」は見事であった。
(安養院の仁王門)
(阿形の仁王)
(吽形の仁王)
寺院前の仁王様もそうであるが、神社の神殿前の一対の狛犬も、
稲荷神社の一対のお狐様も、参道の左右にあって、
口元は「阿吽の形」をしている。
仁王様は
「阿形(あぎょう)」、「吽形(うんぎょう)」というが、
なるほど、「阿形」の仁王様は口を「かっ!」と開き、
「あ」を発音しているし、
「吽形」の方は、「うむっ!」と
「うん」の発音をして、堅く口元を閉じている。
第一、ボクは「阿吽」とは何かさえ知らない。
それなのに、「阿吽の呼吸」は知っている。
へんな話だ。
そこで、例によって辞書を引いた。
「阿吽」(広辞苑第4版)
・「阿」は開口音、「吽」は合口音。
・悉曇{しつたん}の字母の初韻と終韻とある。
(最初の項は、「開いた口」「閉じた口」。
二番目の項は、さらにもう一度辞書を引かないと
意味が解からない。)
要約すると、
悉曇とは、梵字の字母。インドの音声に関する学問を言う。
日本語の五十音図にはこの悉曇の影響が多きい、とある。
つまり、早い話が、「阿」はアイウエオの「ア」で、
「吽」はアイウエオの最後の「ン」のことだ。
もっと解りやすくしよう。
例解国後辞典では、
「阿吽」とは、仏教語で
「阿」は一切の字と声の母体で、最初に口を開く音。
「吽」は最後に口を閉じる音。
初めと終わりをいう。
とある。
「阿」と「吽」の間(一切の森羅万象の間というか、
生と死の間といおうか、一生を現しているのだろう)
を通り抜けて、神仏にお祈りをする。
そして天国、極楽へいこう。
こんなところであろうか。
広辞苑に戻ると、
(最初と最後。密教では「阿」は万物の根源、
「吽」を一切が帰着する知徳とする)とあり、
これで良く理解できた。
こんなことを考え、中山道を進むと、右手に
金鑚(かなさな)神社が見えてきた。
(金鑚神社)
(本庄宿4)
中山道に戻りすこし進むと、右手に入ったところに
本庄新八景の一つ、「若泉の霊域」と言われる
安養院がある。
言い伝えに拠れば
(安養院は曹洞宗のお寺で、山号を若泉山、寺号を無量寺という。
寺伝に拠れば、創立文明七年(1475)武蔵七党の一党である、
児玉党の一族本庄信明の弟藤太郎雪茂が仏門に帰依して、
当時の富田村に安入庵を営んだが、水不足に悩まされたので、
現在地を発見し、安養院を開基したと伝えられる。
以後付近には水不足に悩まされることもなく、
周辺の人々から{若泉の荘}と呼ばれるようになったと言う。)
(本庄市教育委員会)
寺伝などというものは、どんな根拠に基づいて
創られるのであろうか?
にわかには信じられない不思議なことなどが多い。
それにしても今では田舎になってしまった本庄宿の
この安養院の仁王門の「阿吽(あうん)の仁王像」は見事であった。
(安養院の仁王門)
(阿形の仁王)
(吽形の仁王)
寺院前の仁王様もそうであるが、神社の神殿前の一対の狛犬も、
稲荷神社の一対のお狐様も、参道の左右にあって、
口元は「阿吽の形」をしている。
仁王様は
「阿形(あぎょう)」、「吽形(うんぎょう)」というが、
なるほど、「阿形」の仁王様は口を「かっ!」と開き、
「あ」を発音しているし、
「吽形」の方は、「うむっ!」と
「うん」の発音をして、堅く口元を閉じている。
第一、ボクは「阿吽」とは何かさえ知らない。
それなのに、「阿吽の呼吸」は知っている。
へんな話だ。
そこで、例によって辞書を引いた。
「阿吽」(広辞苑第4版)
・「阿」は開口音、「吽」は合口音。
・悉曇{しつたん}の字母の初韻と終韻とある。
(最初の項は、「開いた口」「閉じた口」。
二番目の項は、さらにもう一度辞書を引かないと
意味が解からない。)
要約すると、
悉曇とは、梵字の字母。インドの音声に関する学問を言う。
日本語の五十音図にはこの悉曇の影響が多きい、とある。
つまり、早い話が、「阿」はアイウエオの「ア」で、
「吽」はアイウエオの最後の「ン」のことだ。
もっと解りやすくしよう。
例解国後辞典では、
「阿吽」とは、仏教語で
「阿」は一切の字と声の母体で、最初に口を開く音。
「吽」は最後に口を閉じる音。
初めと終わりをいう。
とある。
「阿」と「吽」の間(一切の森羅万象の間というか、
生と死の間といおうか、一生を現しているのだろう)
を通り抜けて、神仏にお祈りをする。
そして天国、極楽へいこう。
こんなところであろうか。
広辞苑に戻ると、
(最初と最後。密教では「阿」は万物の根源、
「吽」を一切が帰着する知徳とする)とあり、
これで良く理解できた。
こんなことを考え、中山道を進むと、右手に
金鑚(かなさな)神社が見えてきた。
(金鑚神社)
キリスト教もそうだとは思うのですが 佛教の教えには 宇宙が盛り込まれている感じがして難しいけれど 面白い。
阿吽も その代表の様な気がしています。