(諏訪大社春宮に通じる常夜灯と大鳥居)
(下諏訪宿4)
魁塚の前の旧中山道を西に進むと諏訪神社下社(春宮)への参道と交差する。
右手に常夜灯と大鳥居が見えるので判りやすい。
なお直進すると、道路は砥川に突き当たり、旧街道は途切れているので、
右折すると赤い欄干のようなものが見え、富士見橋という信号が見える。
(砥川に突き当たる)
(突き当たりにある中山道右の案内)
(富士見橋の信号が見える)
(富士見橋を渡る)
(見落としそうな生垣の案内板)
信号で橋をわたり、すぐ先の路地を左折、
旧街道が直進すればこの辺りと思われるところまで歩くも、
旧街道らしい道は見当たらない。
うろうろしていると、
右側の生垣に「中山道右」の手作りの矢印看板が目に付く。
道は人一人やっと通れるような道であるが、
旧中山道であったらしいので、進むと広い道と交差する。
道路の向こう側に火の見やぐらが見え、
右を見ると「西大路口」の信号が見える。
富士見橋を渡って真直ぐ西に向かった最初の信号である。
(西大路口の信号)
(火の見櫓)
(中山道の小さな案内)
道路を横断し火の見やぐらのほうに行くと、
足元に「中山道」小さな案内看板があるので、
火の見櫓を左に見て直進する。
すぐ小さな用水路を渡り進むと、静かな町の中に入る。
(用水路にかかる橋)
(静かな町のたたずまい)
しばらくすると左手に岡谷市文化財
「旧渡辺家住宅入り口」の案内標柱があるので、
案内に沿って左折すると右側にわら葺の家がある。
(渡辺家の案内)
岡谷市教育委員会の案内によれば「長野県の宝」と題し、
「渡辺家は、代々諏訪高島藩(*)に仕えた
散居武士(城下町で無く在郷の村に住んだ藩士)の家でした。
安政年中(1854~)の「家中分限帳(=武士の身分や禄高を記録したもの)」によると
「郡方下役外様徒歩18俵二人扶持」(=騎乗を許されない年収約2百万円)であった。
住宅の規模は間口七間半(13,5m)奥行き5間(約9m)で、
外観はかやぶき寄棟造りで、内部は土間と炉の間がある。
また居間には中床がある。
18世紀に立てられた武士の家として貴重な資料である。
この一家から、三人の大臣が出ており、
渡辺千秋は宮内大臣、国武は大蔵大臣、
千冬(千秋の三男で国武の養嗣子)が法務大臣を務めた。」
(岡谷市教育委員会)
(*)諏訪高島藩は、近江高島藩が飛び地で諏訪に領地を持っていた。近江高島藩は現在の滋賀県の高島市にあった。
一軒の家から三人の大臣を輩出したという話はここではじめて聞く。
有能な家柄の住宅であるのに驚くばかりであった。
なるほど、長野県が誇る宝であることに違いない。
(かやぶきの渡辺家)
(渡辺家の庭先の咲く花)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます