(平福寺山門)
(下諏訪宿5)
旧中山道に戻り、西に向かうと「長地(おさち)」の信号に出る。
その手前の右手に平福寺がある。変額に平福密寺とあり、
山門を入ると正面に本堂、左手に地蔵堂がある。
(平福寺本堂)
(日限地蔵堂)
平福寺の由来によれば、
「地蔵堂は日限地蔵尊(ひぎりじぞうそん)が安置され、
日を限って願いごとをすると、不思議にもその願いが叶えられることから
日限地蔵尊と名づけられたお地蔵様です。
昭和初期のころには製糸工場の女工さんたちの心のよりどころとして、
毎月23日のご縁日は大いに賑わいを見せたと伝えられます。」とある。
飛騨の山の中から野麦峠を越えてやってきた女工さんは,
毎日毎日仕事に追われ、外出など思いもよらないが、
もし地蔵尊にお参りが出来たとしたら、彼女たちは何を願い、
地蔵様はどんな願いを聞き届けてくれたのであろうか?
若し外出が許されたなら、縁日はそれはそれは、
にぎやかなことであったろう。
「ああ野麦峠」より、
(♪工場勤めは監獄勤め 金の鎖が無いばかり
鳥の駕籠より監獄よりも 製糸勤めはなおつらい♪
工場の寄宿には厳重に鉄の桟がはめられていた。
逃げた女工があれば監視員はいっせいに馬で四方にとび、
各街道、峠、後には各駅をおさえ、たちまちつかまって引きもどされる、
それは文字通りの監獄であった。
「それでも行かずばならない。
そういうもんじゃと思って歯を食いしばって、
みんなのあとについていったのでございます」)
(「ああ 野麦峠」より)
女工哀史に登場する女工が身を売り、
公娼になると一番長く続いたといわれるほどである。
製糸工場の女工の仕事のつらさから考えれば、
公娼の仕事がつらいなどと、問題にならなかったと言うことか。
こんな思いをしている女工さんたちには、
日を限って願いを叶えてくれるお地蔵様(日限地蔵尊)がいれば、
心のよりどころになったことは、容易に理解できる。
地獄、監獄といわれた製糸工場だったようであるが、
それでも、岡谷のこの近辺では、
縁日に日限地蔵尊を拝みに来て、
願い事をする自由が本当にあったのであろうか?
他ではそんな自由は許されることが無かったと聞く。
このような困難な女工を足場にして、
外国と肩を並べる通商を日本は進めることが出来、
今の日本の土台が出来たのであろうか?
(こうして搾取して生産した生糸の輸出額は、
総輸出額に対して、
明治元年 66%、 明治五年 50%、
明治10年 46%、明治15年 51%
明治20年 42% 明治25年 44%。
就業時間は(6月を例にとる)
起床4:05 就業4:30 朝食6:00 就業6:15
午餐10:30就業10:45 小休憩15:30 就業15:40
終業予報19:10 終業19:30
就業時間合計14時間20分
食事(甲工場)
4/1 (朝) 香々、味噌汁 (弁当) 芋づる (夕) 葱 揚げ豆腐 (病室)葱 揚げ豆腐
4/2 (朝) 香々、味噌汁 (弁当) 目刺 (夕) 千切り、蚕豆 (病室)玉子、千切り
(乙工場)
5/1 (朝) 菜漬、若布味噌汁 (昼) 筍、切昆布 (夕)塩鮭 (夜12時) 筍、切昆布
5/2 (朝) 梅干、沢庵、大根味噌汁 (昼)八つ頭の小芋 (夕)焼豆腐、切干
(夜12時)八つ頭の小芋)
(ああ野麦峠 資料編)より抜粋。
この当時の生糸の輸出額は、総輸出金額の半分弱。
労働時間は14時間、食事は粗末であった。
口減らしのため奉公に出た彼女らには貧しい家にいるよりも、
はるかによき人生を送ったと考えている人のほうが多いという。
避妊用具の無かったこの時代に、人には言えぬ子を身ごもり、
雪の野麦峠を無理して越えることで、子供を流産することも多く、
峠のわき道の熊笹の中にかがんで、産み落とすということがあった。
彼女らは、人に言えず、子をひそかの腰巻にくるんで処理をしたらしい。
そして娘の人生を踏み台にして、
日本の貧しい農家は本当の幸せをつかんだのであろうか?
娘の労働力で得た外貨で軍事力を蓄え、
シナ事変に突入した日本の政治は、
その後太平洋戦争に向かい、
惨めな敗戦に導くことになったのではなかろうか?
(以上「ああ野麦峠」を読んでの感想)
さて、現実に戻り、旧中山道に戻って西に進むと道筋は、
美しい手入れの行き届いた庭木の緑の中を進むようになる。
女工を使い金儲けをした地元の金持ちが住んでいるのかと疑いたくなるほど美しい。
(緑の美しい町並み)
やがて、20号線と交差する信号を渡ると、
道路は三方向に別れるので、真ん中の道をとる。
約20~30mほど右側の空き地の道路沿いに一里塚の碑がある。
「中山道 一里塚 江戸より五十六里」とある。
五十六番目の一里塚である。
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