(倉賀野城址の石碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/75/1bd1b795049dc7aea4b559551de4cf3f.jpg)
(倉賀野宿3)
中山道のその先の上町交差点を左折し進むと、突き当りの断崖に
烏川が迂回しているのが見える見晴らしの良いところに出る。
その右手が公園になっており、中ほどに倉賀野城址の石碑があり、
あたり一帯が倉賀野城址である。
石碑によれば
(治承年間武州児玉党の余流秩父三郎高俊この地に
来り居館を構え以来倉賀野を氏となす。
応永年中に至り室町幕府漸く衰え戦雲諸国を掩う。
ために倉賀野三郎光行防御急なるに迫られ、これを改修し
要害となす。かくして高祖三郎高俊より四百年倉賀野氏の旗風
兵どもの雄叫び関八州に轟く。
然るに戦国動乱の世を向かうるや時の城主 金井淡路守景秀
よく攻守の軍略怠りなしといへども、噫噫、武運は空し、
天承十八年相州小田原に討ち死にし、城もまたともに攻防の
歴史を閉じる・・・)と壮大な文章である。
実際は、戦国時代の城であるから、高崎城や前橋城のような
江戸時代のものとは違い規模は小さいものだったようだ。
「上州八家の一つ倉賀野三河守天文五年(1546)夏、
武州川越の夜戦で戦死した。
宮原の庄に金井小源太秀景、須賀佐渡守らが名を連ねる
倉賀野党16騎があり、倉賀野を守っていた。
西上州は、そのころ武田、上杉の合戦場だったが、
永禄二年(1559)武田信玄が板鼻に陣取っていたとき、
一党の総代として金井小源太が信玄の陣に使いし、倉賀野淡路守と
改号された。
初めて倉賀野氏を称したのは、秩父三郎高俊という。
源平時代のことである。」(高崎市観光協会)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/a7/cc7534f0e7c12cb6eb60620114422074.jpg)
(烏川が右から流れ倉賀野城址のがけにぶつかって下の写真へ)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/87/8d2da7a9f8828dc785ea16ac4185aead.jpg)
(左へ流れていく)
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(倉賀野宿3)
中山道のその先の上町交差点を左折し進むと、突き当りの断崖に
烏川が迂回しているのが見える見晴らしの良いところに出る。
その右手が公園になっており、中ほどに倉賀野城址の石碑があり、
あたり一帯が倉賀野城址である。
石碑によれば
(治承年間武州児玉党の余流秩父三郎高俊この地に
来り居館を構え以来倉賀野を氏となす。
応永年中に至り室町幕府漸く衰え戦雲諸国を掩う。
ために倉賀野三郎光行防御急なるに迫られ、これを改修し
要害となす。かくして高祖三郎高俊より四百年倉賀野氏の旗風
兵どもの雄叫び関八州に轟く。
然るに戦国動乱の世を向かうるや時の城主 金井淡路守景秀
よく攻守の軍略怠りなしといへども、噫噫、武運は空し、
天承十八年相州小田原に討ち死にし、城もまたともに攻防の
歴史を閉じる・・・)と壮大な文章である。
実際は、戦国時代の城であるから、高崎城や前橋城のような
江戸時代のものとは違い規模は小さいものだったようだ。
「上州八家の一つ倉賀野三河守天文五年(1546)夏、
武州川越の夜戦で戦死した。
宮原の庄に金井小源太秀景、須賀佐渡守らが名を連ねる
倉賀野党16騎があり、倉賀野を守っていた。
西上州は、そのころ武田、上杉の合戦場だったが、
永禄二年(1559)武田信玄が板鼻に陣取っていたとき、
一党の総代として金井小源太が信玄の陣に使いし、倉賀野淡路守と
改号された。
初めて倉賀野氏を称したのは、秩父三郎高俊という。
源平時代のことである。」(高崎市観光協会)
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(烏川が右から流れ倉賀野城址のがけにぶつかって下の写真へ)
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