(高札場の跡)
(塩尻宿2)
「スズメオドシ」の家に別れを告げ門を出ると向かい側に高札場の名残がある。
高札は法律を守らせるためのもので、それを名主が管理に当たった。
そのように考えると、スズメオドシが屋根の上にあるのも頷ける。
(永福寺入り口)
(永福寺の美しい山門)
旧中山道は火の見櫓のあるところで、二手に分かれる。
右を行く道といずれまた合流するのであるが、旧中山道は左の道をとる。
歩きながら右のほうを見ると、右側の道を行った先に立派なお寺が見える。
これは永福寺と言い、観音堂がある。
(永福寺観音堂)
(自ずと合掌する気になる観音堂の荘厳な正面)
慈眼山永福寺は木曽義仲ゆかりの地で、元禄十五年(1702)
現在地に伽藍と馬頭観世音が本尊とする朝日観音を建立したが焼失、
安政二年(1855)再建された。姿の美しいお堂で、馬頭観世音の赤い旗が石段の脇にゆれていた。
(「是より西 塩尻宿」の碑)
二手に分かれた道路は先で合流し、信号の右角に
「是より西 塩尻宿」の石碑がある。
左角には、大きな道祖神と南無妙法蓮華経の二つの石碑が並んでいる。
さらに進むと左側に三州街道と刻まれた石碑がある。
右側には庚申塔が何基も並んでいる。
(道祖神と南無妙法蓮華経の石碑)
(三州街道の碑)
(沢山並ぶ庚申塔、道祖神などの石造群)
塩尻とは、富山から運ばれてきた塩も三州街道から運ばれてきた
三河・尾張の塩もここで終り(塩尻)になったという、塩の道の終りを意味した。
地名の由来には、いろいろないわれがあるものと解った。
その三州街道の塩尻側の入り口である。
当然近くには塩を扱う問屋、本陣、脇本陣、旅籠等が集まっている。
右側にまず旅籠の小野家住宅が、向かい側に上問屋跡の碑が、
その先に中山道塩尻宿本陣跡、その隣に脇本陣跡と並んでおり、
最後に造り酒屋の立派な杉玉がぶら下がっている武井酒造店がある。
(小野家住宅)
(上問屋跡の石碑)
(本陣跡)
(脇本陣跡)
(酒造店)
道路を進むと右に折れる道があり、角に中山道
「鉤(かぎ)の手跡」の碑がある。
宿場町防衛のため、敵がまっすぐに侵入できないよう、
宿場の入り口と出口を「鉤(かぎ)の手」に曲げた。その跡である。
京都側から宿場への入り口に当たり、ここから東に向けて本来の塩尻宿があった。
(鉤の手の碑)
旧中山道は「鉤(かぎ)の手跡」の碑を右に曲がり進むと、
右手に阿礼神社の森が鬱蒼としている。左隣には塩尻東小学校があり、
道路には「是より東塩尻宿」の石碑がある。
男女が手を取り合った微笑ましい双体道祖神もある。
さらに進むと、同じく右側に堀内家住宅が残っている。
(阿礼神社の森)
(阿礼神社)
(堀内家住宅)
説明によれば、
(堀内家は江戸時代、旧堀ノ内村の名主を勤めた豪農である。
建築の年代については十九世紀初頭、
下西条の川上家(当時は造酒家)からの家を移築したとの言い伝えがある。
また構造手法から十八世紀後半頃(約二百年前)の建築と見られる。
建物は南に面し桁行、梁間共に十間で、切妻造、板葺になり、妻を正面に見せる。
現状における間取りの大略は表、中、裏の三列に区切り、
表の列は上手(東から二室続きの座敷「上座敷」「げんかん」と土間、
中列は三間に四間の「おえ」(=戸口脇の部屋)と土間、
裏列は「裏座敷」ほか数室からなる。
数人にわたる改造の結果、当初の姿が不明なところも多いが、
「おえ」まわりは縦横にかかる梁組を現し軸部をよく残している。
堀内家住宅はいわゆる「本棟造り」の中で、
大形上質の家であり改造の結果であるが、
正面の概観意匠は力強くこの系統民家の一頂点を示すものとして価値が高い。)
(塩尻市教育委員会)
(スズメオドリのある堀内家住宅)
道路はこの先で国道に合流し、さらに先の信号「下大門」で三っつに分かれる。
交差点で旧中山道は左の道をとり「平出の一里塚」を目指す。
今日はここ塩尻宿で終わりにする。
塩尻駅から特急「あずさ」で帰る。
下諏訪宿から一日で歩いた距離約24.2kmであった。(2008年5月26日)
(双体道祖神)
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