中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

縁切り榎の迂回路(旧中山道を歩く 24)

2005年03月25日 09時29分00秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26

(縁切り榎の迂回路)

皇女「和宮」が降嫁されるとき、「縁切り榎」は不吉として、
榎に布を巻いて見えないようにして、通過したという。
「和宮」以前に降嫁された皇女「五十宮(いそのみや)」、
「樂宮(ささのみや)」の折には「縁切り榎」を避けて
迂回路が整備された。そんな記録があるという。

その迂回路を通って見る。

「縁切り榎」の手前50mほど右側に原木歯科医院があり、
その前がT字路になっている。
これが迂回路である。

左に折れて、国道17号を渡ると「愛染通り」で、
すぐ右側に智清寺がある。
(ここは浄土宗のお寺で、室町時代初期に創建されたと伝えられる。
境内には、板橋上宿の名主、板橋市左衛門の家歴代の墓碑がある。)
(板橋区教育委員会)

(智清寺と山門)


(上宿の名主 板橋家の墓、本堂左手より、
   墓地に通じる道を奥に突き当たる手前の左側に並ぶ)

山門前にある石橋は、史跡として認定され
以下のように記されている。
(山門前にある石橋は、江戸時代に使用された中用水に架けられたもの。
中用水は、農業用水として石神井川の水を分水したもの。
明治五年板橋町と下流の上十条村以下 七ヶ村との間で
配水を巡って争い、板橋の農民が当寺に立てこもった。
同石橋は、昭和60年板橋区登録文化財に認定された。)
           (板橋区教育委員会)


(文化財となった石橋)

1512471
(歴史を感じさせる阿弥陀堂の扁額)

この智清寺前を通り過ぎると、すぐ斜め右に入る道があるので、
その道に沿って入ると、日曜寺という面白い名前のお寺がある。

正式には真言宗霊雲寺派、光明山愛染院日曜寺といい、
御本尊は寺の名前とおり、愛染明王。
山門にかかる「日曜寺」と揮毫された扁額が太平洋戦争で
唯一残された1815年より伝わる宝。(板橋教育委員会)

境内には梅ノ木が植えてあり、春先には見事に花を咲かす。
近くには「愛染通り」の名前の通りがあるが、
川口松太郎原作の小説「愛染かつら」とは縁もゆかりもない。

(日曜寺山門)


(文化12年松平定信が奉納した日曜寺の扁額)


(平尾町内の幟旗の支え石)

山門を出る手前に、幟旗を立てる際に必要な支え石があるが、
脇に「平尾町内」の文字が刻まれている。
板橋宿は、先に述べたが、上宿、仲宿、平尾宿に分かれているが、
平尾宿だけは地名にも無く、平尾宿の名残としては、
旧中山道と国道17号線が交差する角にある交番「平尾派出所」と
この石に刻まれた「平尾町内」の文字くらいしか見当たらない。

愛染が藍染に通じ染色組合や、板橋芸妓組合の
寄進による玉垣が奉納されている。藍染組合はともかく、
芸妓組合が奉納しているところを見ると、板橋宿が遊興の里として
繁盛していたことが伺える。
(愛染明王は遊女の守り神である「芭蕉の恋句(岩波新書91参照)」ことが後で解った。
これで芸妓組合が玉垣を奉納する意味が納得できる。)


(芸妓組合と藍染組合寄贈の玉垣)

日曜寺を左に見て進むと、すこし広い道路「愛染通り」に出て右折。
しばらくすると、環状七号線の交差点にでる。
富士街道入り口交差点。
信号を渡るとマンションがあり、左が富士街道で、
マンションに沿って右に入る一方通行の狭い路地があるが、
ここを進むと国道17号にでる。
「清水町」の信号である。
17号を横断して、自動車道ではなく右側に、
今までと同じ如何にも人道らしい路地があるので、
そこを入ると旧中山道に出る。
出た所には園芸用品を扱う店がある。
ここまでが「縁きり榎」の迂回路である。

左折して旧中山道である。

ここまでの迂回路を根村道(ねむらみち)と言う。
根村(ねむら)は板橋区上宿の元になった村である。
昭和22年に板橋区から分かれて練馬区が出来たが、

練馬と根村、(ねりまとねむら)

発音が練馬に似通っており、この村が分岐点となる練馬への
富士街道があるのは面白い。

「縁切り榎」を避ける根村道は約一キロある。


(富士街道入り口信号)


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