中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

金窪城址(旧中山道を歩く 63)

2005年09月26日 21時45分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(京都方向から見た17号「旧中山道→」の案内看板)


(本庄宿7)
泪橋跡を過ぎて、中山道を進む。
約3kmほどのところに神保原一丁目の信号があり、
ここを右折し、国道17号を横断したところで振り返ると、
「旧中山道→」の案内看板がある。
京都方面からは、旧中山道の案内が行き届いている。

17号を渡ってすぐ左側に、古い庚申塔が18基並んでおり、
一番奥に薬師堂がある。
深谷宿にあった「史跡百庚申」(旧中山道を歩く 56参照)に似ている。
年号が刻まれたもの、刻まれていないものがあるが、
中央にある屋根付の薬師さまが享保10年(1725)で
最も古く、次が庚申塔で享保16年(1731)一番新しいもので
文化九年(1812)製のものがある。

(奥に安置された薬師堂)

(史跡百庚申に似た庚申塚の一群)

さらに1kmほど進んだ右側に金窪神社がある。
毎年10月に奉納される獅子舞は「雨乞い獅子」として
よく知られている。境内には獅子の頭のような鬼瓦が
展示されている。

(金窪神社)

(獅子頭の鬼瓦)

この金窪神社から、中山道をすこし歩いた道路の右側に
「史跡金窪館跡入り口」の石碑があるので、寄り道して
右折する。畑の中をかなり歩くと、道路の左方奥に
木製の櫓を組んだような建物―公園が見えたら左折しよう。

(金窪城址の案内石柱)

(櫓の遊具のある金窪城址公園)

公園に近づくと、道路の左側が「金窪城址」、
右側が「金窪城址公園」になっている。
公園にはお城の櫓のような遊具が置いてあり、
自然な遊び場所になっている。

左手には「金窪城址」の石碑と案内看板がある。

(金窪城址)

(金窪城址は、神流川(かんながわ)に臨む
崖上に残る平城の跡で、別名汰耶城(たやじょう)と
呼ばれた。
平安末期の治承年間(1177~81)に
武蔵七党の一党である丹党からでた加治家治の
構築と伝えられ、元弘年間(1331~34)に
新田義貞が修築して、家臣の畑時能(はたときよし)に
守らせたと言う。
室町中期(1460~66)には、斉藤実盛の子孫といわれる
斉藤盛光が居城とした。
天正十年(1582)六月、滝川一益と北条氏邦の
神流川(かんながわ)の合戦において、
一族ことごとく討ち死にし、城も兵火にかかって
焼失し斉藤家は没落した。その後
家康の関東入国に伴い、川窪氏の所領となり、
陣屋が置かれたという。
川窪氏は元禄1年(1698)丹波の国に転封になり、
陣屋も廃された。)(上里町教育委員会)





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