(戸田橋から蕨宿まで)’04.04.07.
戸田橋を渡った荒川の対岸の戸田市には、
舟渡し場所を示す案内板がある。
橋を渡り終わったところに、埼玉県の交番があり、
その右脇に土手を下りる階段がある。
道なりに歩くと左側に「水神社」がある。
境内にある「水神宮」の碑には、寛政8年(1796)の
銘があり、荒川の岸辺に住む人たちの氏神様であった。
(水神社)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/13/8bb82ef568a3cd292ae3c4cfb341fdaf.jpg)
その先の車道を登って、今来た方角へ戻ると、
「中山道戸田渡船場所」の石碑と
「戸田の渡し」の案内看板がある。
案内によれば、
(中山道は慶長7年(1602年)
街道として設置されましたが、江戸防衛の意味で
橋は架けられなかった。人々はここを越えるのに
渡しに頼らざるを得なかった。
これが「戸田の渡し」です。)
渡船場の管理は下戸田村が行っており、
天保13年には、十三艘の船があり、
組頭(渡船場の支配人)一人、船頭8人、
小揚人足31人が居ました。
―途中省略―
明治八年 木橋が出来上がり、「戸田の渡し」は
廃止になりました。
(戸田市教育委員会)
(戸田の渡船場跡の碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/06/8d1b43e3618f84e630d59756ecffd6a3.jpg)
来た道を戻り「水神社」の前を通り越して、
最初の道を右折すると、右側を入ったところに
いかにも古めかしい赤い色のお堂が見えます。
「地蔵堂」です。
戸田市内では最古の木造建造物という。
建築技術はお堂の大きさからは、
不似合いなほどの木組みを使用しての建築技法は、
注目すべき点が多い建造物とされている。
お堂の軒下の半鐘は1713年の銘が、
また境内の庚申塔には享保13年(1731)の
銘が刻まれている。
(戸田市教育委員会)
(地蔵堂)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/ae/eece0b523eb2316c47824fe5036dcb3e.jpg)
古い板碑もあると記されているが、
境内を見回したところ見当たらない。
「地蔵堂」の脇の砂利道を行くと広い通りに出る。
左折して菖蒲川の川岸橋を渡る。
(菖蒲川)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/db/6426bc047a4299df008387f4ec6b7eac.jpg)
戸田市内の旧中山道は見当たらない。
なお進み交差点に出たら左折する。
国道17号に出る手前を右折し、
これを旧中山道に見立て進む。
すこし先に行くと、右側がケヤキ並木となり、
よく整備された通りとなる。
「下前公団通り」とある。
ケヤキ並木の終わりに信号があり、
正面が川口信用金庫、その左手にポケット公園があり、
公園の左奥に旧中山道について案内がある。
(ケヤキ並木)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/b0/58476fd81857752cc90f5063c30aad51.jpg)
(道標)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/8f/ceb69298f5a4998e547eb75d30c4cd1f.jpg)
案内によれば、戸田市内の旧中山道の大部分は失われており、
僅かこの公園から17号線までの80mが残るのみで、
蕨までは17号と一緒になっているとのこと。
(公園にある案内看板、戸田の渡しから蕨宿までの旧中山道の地図を示す)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/9e/42bfbd4568fa38e80ff419e4c8cca53c.jpg)
ひたすら17号を歩き、17号が左手に折れる地点の正面、
道路の真ん中に、「中山道蕨宿」の石碑がある。
ここから蕨宿である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/e4/c179e76e2c57d9b2fa4c10eaa6cec7f6.jpg)
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