(戸田の渡し)
(旧中山道を歩いて四日目Apr.03.’04. 三田線志村坂上駅より)
志村一里塚から国道17号線を
進行方向に向かって右側を歩く。
志村坂上の交差点に出たら、東京三菱銀行を右折、
ユニバーサルドラッグの先を左折し、突き当りまで歩こう。
突き当たりは小豆沢グラウンド(野球場)になっているが、
そこに、現在の戸田橋に架け替える前の旧戸田橋の親柱が
置いてある。
「東京府」「戸田橋」の文字が見え、昭和53年以前に
架けられていた戸田橋の親柱である。
東京オリンピック(昭和39年)の時は
聖火リレーもその橋を渡った。
その橋が出来上がった時は昭和7年ですから、
32年間もの間お役に立った、三代目の橋です。
なお、戸田橋側の親柱は、戸田市立親水公園に保存されています。
(板橋区教育委員会)
なお、東京都になったのは昭和18年(1943)で、
(旧中山道を歩いて四日目Apr.03.’04. 三田線志村坂上駅より)
志村一里塚から国道17号線を
進行方向に向かって右側を歩く。
志村坂上の交差点に出たら、東京三菱銀行を右折、
ユニバーサルドラッグの先を左折し、突き当りまで歩こう。
突き当たりは小豆沢グラウンド(野球場)になっているが、
そこに、現在の戸田橋に架け替える前の旧戸田橋の親柱が
置いてある。
「東京府」「戸田橋」の文字が見え、昭和53年以前に
架けられていた戸田橋の親柱である。
東京オリンピック(昭和39年)の時は
聖火リレーもその橋を渡った。
その橋が出来上がった時は昭和7年ですから、
32年間もの間お役に立った、三代目の橋です。
なお、戸田橋側の親柱は、戸田市立親水公園に保存されています。
(板橋区教育委員会)
なお、東京都になったのは昭和18年(1943)で、
都政になってから62年しか経っていない。
(戸田橋右側の親柱、東京府の文字が刻んである)
(東京府の文字)
(左側の親柱、戸田橋の文字がある)
(戸田橋右側の親柱、東京府の文字が刻んである)
(東京府の文字)
(左側の親柱、戸田橋の文字がある)
ユニバーサルドラッグまで戻り、
志村坂上の信号で国道17号を渡り、
進行方向を見ると左側に交番が見えます。
その交番の左側が旧中山道で、道は左のほうへなだらかに曲がる。
ここが当時は難所といわれた、清水坂。
(志村坂上の交番、左が旧中山道、右側が国道17号)
(降りきった清水坂、ここを上から来て右折)
(練馬へ一里、柳沢(保谷市)へ四里、府中へ七里とある)
途中に庚申塚、大山道への道標などがあります。
清水坂は下る途中で大きく左に曲ります。
下りきったところに清水坂の石柱を左に見て右折、
地下鉄三田線のガードをくぐり直進し、国道17号にでます。
旧中山道は、国道17号を渡った斜め先にあり、
当時を偲ばせるお地蔵さんが志村坂下交差点の右角に
祀ってある。数メートルの旧中山道がある。
その先信号を渡り、左は国道17号、右が旧中山道になる。
(お地蔵さん)
(旧中山道名残の数メートルの道)
(志村坂下交差点右側が旧中山道/歩道橋から)
旧中山道へ進む前に、国道17号を右折し、
戻る格好で、すぐ先の信号で17号を渡り、
「薬師の泉」という小公園に寄ってみる。
清水坂は、当時はかなりの難所でした。
途中湧き水があり、旅人は癒されたそうですが、
その湧き水が「薬師の泉」にあります。
(薬師の泉)
江戸時代徳川吉宗が鷹狩に来て、休憩しこの湧水で
喉を癒したところ、あまりにも美味しかったので、
これを賞して清水薬師にちなんで
「薬師の泉」と命名したのが始まり。
(板橋区教育委員会)
今は庭園として板橋区民の憩いの場となっているが、
この庭園の奥を見るとかなりの崖になっており、
清水坂が難所であったことを思い出させる。
(急坂の階段がある薬師の泉)
(湧き水)
元に戻り、国道17号に沿って環状8号線を渡り、
工場や住宅の間をしばらく進むが、特筆すべきものは無く、
また17号に合流する。
すぐ新河岸川を渡る浮間橋がある。
橋の手前の左側一角が元「志村が原」と云い、
鷹狩が行われた場所というが今は何も無い。
新河岸川は江戸と川越を結ぶ舟運で知られた河である。
大きな船が五穀を積んで行き来したし、洪水で難破し、
積荷の小豆が流れ川岸に小豆の沢が出来たという。
小豆沢(あづさわ)の地名が出来たゆえんである。
川の名は、以前は「荒川」で、下流が隅田川である。
現在の荒川は洪水が多いため、荒川放水路として
明治43年に着手、人工的に作られ、
20年後の昭和5年完成したものである。
(国土交通省荒川河川事務所)
(国土交通省荒川河川事務所)
(浮世絵荒川「戸田の川渡し場」)
橋を渡るとすぐ戸田橋に出る。
昔は橋がなくこのすこし下流に舟渡しがあった。
その為かどうか確かではないが、東京側の地名を
「舟渡」(ふなど)という。
なお、さらに下流に新荒川大橋(国道122号線)があり、
日光御成り道があった。
おなり道では、一般の旅人は、舟渡しであったが、
将軍が河を渡るときは、船の上に板をかけ、船橋にした。
(北区教育委員会)
この船橋や、舟渡しがあった埼玉県側の地名を
川口市「舟戸」(ふなと)というのも興味深い。
東京が府であったのはどのくらいの間だったのでしょうか?
清水坂 難所だったのですか?
あちこちで難所と言われた場所を通ります。
今道がずいぶん良くなったようで さった峠などは 急な坂だけど難所ではなかった。
脚力は確実に落ちているので やはり道路の整備が整っていることが大きいのでしょうね?