(奈良井宿の立派な看板)
(駅横の水車)
(奈良井宿2)
JR奈良井駅まで戻ると、駅舎横に水車がある。
この前の宿場 贄川駅にも水車があったが、
山間の町は湧き出る水量も豊富で、
この水を飲料だけでなく動力にも使ったのであろう。
水車の横に大きな奈良井宿の看板がある。
(伝統的建築群)
道路は直進と左へ行くわき道がある。
左に行けば奈良井川に架かる木製で太鼓型の木曽大橋があるが、
中央通りの伝統的建築群に魅せられて、通り越してしまった。
(水場の横にある伝統的建造物群の石碑)
(専念寺へ登る坂道、左側に見える専念寺)
(専念寺の鐘楼と銀杏の木)
奈良井の中央通りを進むと、すぐ右側に水場があり、
「奈良井伝統的建造物群保存地区」の石碑が建っている。
その手前を右折し、戻るようにして道を進むと坂の上に専念寺がある。
ここには日本昔話に出てくる「うなり石」が入り口にあると聞いていたが、
見落としてしまった。
しかし、境内は紅葉した銀杏の木が西日をうけて、
鐘楼と本堂が美しい景観を創っていた。
さらに先に大宝寺の入り口があり、
墓地にはマリア地蔵と木曽の奈良井義高のお墓がある。
入場料は¥100なり。
(大宝寺入り口)
(大宝寺の山門)
キリシタン禁制の江戸時代、木曽路にもひそかにキリスト教を信仰する人が居た。
仏教の子育て地蔵尊の抱く幼児が持つ蓮の花が十字をかたどっており、
胸に掛かる十字架のように見える。
これが隠れキリシタンの厚い信仰を表わすマリア様に見えるとのことで、
地蔵の頭も台座も壊されている。
袈裟衣をまとった胸の厚いお姿、幼児を抱える指先がやや丸みを帯び、
しなやかに見えるところから、このお地蔵様は女性のように思われるが、
首から上がないのがとても残念である。
きっと優しいまなざしで信者を見守っていたに違いない。
今はただ、当時の宗教への偏見と信仰者への悲惨な弾圧が思いやられる。
(大宝寺のマリア地蔵尊、抱かれた子が持つ蓮が十字架に見える)
この大宝寺の裏庭には、
江戸中期における信州の代表的庭園と言われ、
禅の境地を表現した心字池を中心に、
亀島、蓬莱石を配置した遠州流の庭園がある。
裏山は高野槇、楓、杉の大樹が借景となり、庭園を引き立てているが、
裏庭には本堂の室内を通り抜ける以外に、観ることがかなわない。
(本堂の美しい裏庭、写真では良く見えないので実際にご覧頂きたい)
順序が逆になってしまったが、説明では、
「この寺は広伝山大宝寺といい、臨済宗妙心寺派の禅寺である。
天正十年(1582)奈良井治部少輔義高公が建てた寺である。
義高は木曽の支族で奈良井の城主であった。
木曽義昌が武田勝頼の軍と鳥居峠で戦ったとき
大いに武勲を立てたが天正十八年(1590)に没し、
お墓が裏山にある。
(鐘楼との間を抜ける。非常に解りにくい)
お墓は鐘楼の脇にある細い道を入り、
山すその正面に数基の墓があるが、
この墓の前を抜けて、すこし登ったところにお堂があり、
その脇に二基の灯篭に守られるようにしてお墓が建っている。
(奈良井義高公のお墓、真ん中の石碑)
(奈良井門次郎義幸、奈良井長蔵義真の文字が見える)
なお、本堂に掛かる扁額「大寶寺」の文字は、
幕末に活躍した山岡鉄舟の揮毫である。」と言う。(大宝禅寺パンフレットより)
(山岡鉄舟による扁額)
大宝寺の鐘楼脇を南に出たところが広場になっているが、
ここが本陣跡で広場脇に寂しく案内標柱が建っている。
(本陣跡の標柱)
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