秋祭りの宵宮(10月17日)の日だった。
1970年代には、曳行されるだんじりも少なくなっていた。町内のだんじりも売却されてしまっていて、さみしい秋祭りだった。農業がすたれ、みな市外へ働きに出て行って、だんじりの曳き手が集まらなくなっていた。
私は二学期中間試験の真っ最中だった。このあたりの中学・高校は、決まって祭りの日が中間試験だ。酒がつきものの祭りに学生を参加させないようにという作戦に違いなかった。
その日の試験が終わり、駅から家に帰る途中、春やんの家の前を通ると、春やんんが庭で、トロ箱(木で出来た箱)に砂を入れ、おたふく豆(ソラマメ)を蒔いていた。
「が、学校の帰りか。ひ、久しぶり。す、座って、い、いっぷくしていき」
ろれつがあやしい。帰ろうかと思ったが、春やんが先に縁側にどすんと腰をおろしてしまったので、そうはいかずに、やむなく縁側に座った。縁側は日陰でひんやりとしていた。だが、春やんの家からは二上山がよく見えた。
春やんは、ふらふらと立って、ふらふらと奥に行き、しばらくして、バヤリースオレンジを持って、ふらふらとやってきて、ふらふらと座り、「これ飲み」と言って私にバヤリースをくれた。春やんは、そばに置いてあった一升瓶から湯呑に酒をつぎ、ごくりと一口飲んだ。
「おっちゃん、もう飲んでんかいな。まだ昼前やで」
「ま、祭りやないかい」
そう言って、また、一口ごくりと飲んで、二上山の方を見ながら話し出した。
「おまえ、太陽の道というのを知ってるか?」
「それ、一学期の中間試験の時に、おっちゃんから聞いたがな!」
「そ、そあったか?」
「三輪山(大神神社)、二上山、喜志の宮さん(美具久留御魂神社)は、ほぼ一直線上にある、という話やろ! 二上山をはさんで東西が対称になってるねん!」
「タイショウ? 大将、よう知ってるなあ? そうや、東西タイショウ、東西、東西や。とざいとーざいと鳴り物をばしずめおき、不肖私若輩ながら、不弁舌なる口上をもって申し上げます・・・というやっちゃ」
にわかの口上をとなえると、春やんは、また、湯呑に酒をつぎ、ゴクリゴクリと飲んで、プーウッと息を吐き、小皿の上のコウコ(たくあん)をパリとかじって話し出した。
――あの二上山の頂上には墓がある。大津皇子(おおつのみこ)という人の墓や。夫の天武天皇が亡くなると、嫁はん、後の持統天皇(天武天皇の皇后)が、自分の実の息子を次の天皇にしたいがために、腹違いの子の大津皇子を策略をして自害させ、二上山の頂上に葬った。その二上山に向かって、姉の大来皇女(おおくのひめみこ)が歌を歌うたんや。
現身(うつそみ)の人なる我や明日よりは二上山を妹背(いもせ)と我が見ん
というやっちゃ。
お姉ちゃんは、若いときから伊勢神宮で斎宮(いつきのみや)という巫女さんとして仕えている。なかなかのべっぴんさや。色白のうりざね顔で、鼻元がすーと通ってる。きゅうっと腰のしまった、今で言うたら浅丘ルリ子か吉永小百合というところや。わしがもうちょっと若かったら、あんじょうしたんねんけどなあ――。
完全に自分の世界に入ってきた春やんは、酒をぐいと飲み干し、湯飲みに酒をなみなみとついで飲んだ。
「大来皇女は、弟の死の知らせを聞いて、巫女さんを退職して、あわてて伊勢から飛んで帰ってきた。とはいうものの昔のことや。10月に弟の大津皇子が死んで、半年は経ってるわいな。大津皇子は二上山の麓に葬られるのやが、たたりがあってはというんで、姉ちゃんが飛鳥に帰って来たときには二上山のてっぺんに墓が移されてたんや。そのときにお姉ちゃんが詠んだのがさっきの歌や。
『私はこの世の人間でございます。あの世の人間の弟に会おうと思うても無理なこと、しょうがないさかいに明日からは墓の在る二上山を弟と思ってくらしましょう』
というやつや。ぱちっとした切れ長の目(?)にうるうると涙をためて二上山を眺めてるねん。いじらしい話やないかいな――。
うるうるとしているのは春やんで、ぐいと酒を飲み干して、はるかに見える二上山を眺めた。
「さあ、ここまでは誰でも知ってることや。こっからが、話の我が研究によるところのこっからの話や」
酔いが回ってきたのか文法がめちゃくちゃだ。
「このかわいいお姉ちゃんは、四十いくつまで生きて死ぬんやけど、おまえあったら、墓をどこに造ってやる?」
「そら、飛鳥のどっかやろ!」
「さあさあ、さあ、さあ。それが高校生のアカサタナや。ええか! 「明日からは二上山を弟と思って暮らしましょう」と大来の姉ちゃんが言うんやさかいに、二上山のよく見える所に墓を造ったりーな! ほんでもって、大来の姉ちゃんがもう一つ見続けておきたい所があるやろ? 伊勢や。お世話になった伊勢神宮の方角も向いていたかったんや・・・。それが人情というもんじゃい。そしたらどこや。ここしかないやろ」と言って、目をしくしく、うるうるさせながら二上山を眺めた。
「わとの、この家や!」
あほらしくなって、私は「もう、帰るわ」と言った。
春やんは「そやな、早よ帰って勉強し。長い口上 時間のさまたげーじゃわい」
そう言って、ごろりと縁側に転がり、そのまま寝てしまった。
【補説】
今回に限っては、ぐてんぐてんに酔った春やんの想像、いや、夢想です。
25年前に、この文章を書いたときは、大来皇女は喜志の美具久留御魂神社の山の上にある宮裏山古墳に葬られたにちがいないと、春やんは言っていました。しかし、まったく時代が合わない説でした。あまりにも奇想天外なので、春やんには悪いのですが、今回は書き直しました。
春やんは次のようなことも言っていました。
大津皇子が死んだ時に、大来皇女が歌った和歌に
――磯の上に生ふる馬酔木をたおらめど見すべき君がありとはいはなくに――
岸辺に生えている馬酔木(あしび)の花を折って見せてあげるはずの弟はもうこの世にはいない
「磯」には「川辺や水辺のそば」、あるいは「石」という意味があるそうです。春やんはこの歌の「磯の上」は「石川の岸辺」と解釈せねばならない言っていました。つまり、この歌は喜志で詠まれたものだというのです。
二上山が真正面に見える川面の石川の岸辺で、絹の裳裾をひるがえして、かわいい大来皇女のお姉ちゃんが二上山を眺めて涙にくれている。
春やんはそんな夢を見ながら、縁側で寝ていたのかもしれません。
※大津皇子の墓は、二上山雄岳山頂にある宮内庁管轄の二上山墓とされていますが、二上山山麓の鳥谷口古墳(葛城市)が本当の墓とする説もあります。
※大来皇女の墓は、奈良県高取町の大田皇女墓(母)の近くにあります。
※かつての秋祭りは10月16・17・18日の三日間でした。渡御がある17日が本宮。前日の16日が宵宮。後の18日は後宴祭と呼ばれていました。現在は第三土曜・日曜になっています。
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