俄の発祥の一つとして、〔京都島原発祥説〕がある。
江戸時代、井原西鶴『好色一代男』(1682年刊)の中にある太鼓持ちたちの思いつきの遊びを記した部分を俄の最初とするものだ。
――道を隔てた数件の揚屋〔あげや=遊女と遊ぶ店〕の二階へ、太鼓持ちたちがそれぞれ上がり、おのおのが窓から姿を現して趣向を競う。
揚屋丸屋の二階から恵比須大黒の人形が差し出されると、柏屋からは二匹の塩焼きの小鯛が差し出され、これを見て庄左衛門が瀬戸物の焙烙(ほうらく)に釣髭を付けて出す。
今度は弥七が烏帽子をかぶって顔を出せば 向かいの家から十二文の包み銭が投げられるという具合だ――。
物で見立てた発想をつなげていく遊びで、答は次のようになろうか。
恵比須様の人形(福の神)……塩焼きの小鯛(供え物)……
焙烙に釣ひげ(大黒様の顔)……烏帽子(神官)……包み銭(お灯明代)
これが俄の始まりだとすると、今まで述べてきた享保の末頃(1730年頃)より50年も前になる。
しかし、江戸時代中期の儒学者、清田儋叟が著した『孔雀楼筆記』に「彼(かの)ニハカナルモノハ、ハジマリテ三十年バカリニナルベシ」とある。
この書の出た1769年から30年を引くと、元文三年(1739)頃が京都島原の俄のはじまりとなる。
これは、『古今俄選』の「京都は元文年中にはじまりけるとかや」と一致する。
大阪俄が発祥して10年ほど後に京都に伝わったことになる。
この太鼓持ちたちの遊びを西鶴は「文作(もんさく)す」と記して、「にわか」という言葉は使っていない。
「文作(もんさく)」とは〔酒席などで即席におかしみのある文句を作ること〕だ。
ところが、他にその例が見あたらない。
上方落語の中に次のような歌が出てくる。
「俵藤太の古里は 里の慕雪の雪よりも よりもしっくり愛らしや らしやが回らにゃ 世が回らん 俵藤太の・・・」
永遠に終わらない尻取り歌である。
「文作」とはこういう尻取り歌、言葉遊びなのだろう。
お手玉や毬つき唄、子守歌としても歌われた幕末の尻取り歌を例にあげておく。
牡丹に唐獅子竹に虎 虎をふんまえ和藤内
内藤様はさがり藤 富士見西行うしろ向き
むき身蛤(はまぐり)ばかはしら 柱は二階と縁の下
下谷上野の山かずら 桂文治は噺家で
でんでん太鼓に笙の笛 閻魔はお盆とお正月
勝頼様は武田菱 菱餅・三月・雛祭
祭・万燈・山車・屋台 鯛に鰹に蛸・鮪
ロンドンは異国の大港 登山駿河のお富士山
三べんまわって煙草にしょ 正直正太夫は伊勢のこと
琴に三味線・笛太鼓 太閤様は関白じゃ
白蛇のでるのは柳島 縞の財布に五十両
五郎十郎、曽我兄弟 鏡台・針箱・煙草盆
坊やはいいこだねんねしな 品川女郎衆は十匁(もんめ)
十匁の鉄砲、二つ玉 玉屋は花火の大元祖
宗匠のでるのは芭蕉庵 あんかけ豆腐に夜たかそば
相場のお金がどんちゃんちゃん ちゃんやおっかあ、四文おくれ
お暮れが過ぎたらお正月 お正月の宝船
宝船には七福神 神功皇后、武内
内田は剣菱・七つ梅 梅松桜は菅原で
わらでたばねた投げ島田 島田金谷は大井川
かわいけりゃこそ神田から通う 通う深草百夜の情
酒と肴は六百出しゃ気まま ままよ三度笠、横ちょにかぶり
かぶりたてに振る相模の女 女やもめに花が咲く
咲いた桜になぜ駒つなぐ つなぐかもじに大象とめる
※『京都名所之内 嶋原出口之柳』安藤 広重 (国立国会図書館デジタルコレクションより)
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