由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

立憲君主の座について その3(昭和天皇の戦後責任・上)

2012年11月27日 | 近現代史
メインテキスト:古川隆久『昭和天皇 「理性の君主」の孤独』(中公新書平成23年4月、24年6月6版)

サブテキスト:豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波現代新書平成20年)

 昭和天皇の個々の事績については、年代とは逆の順に考えていきたい。
 そこでまず、二回に分けて、戦後の、国防に関する部分を取り上げる。それは即ち、日米関係の根幹であったし、今もそうである。
 この点で昭和天皇は、敗戦によって帝国陸海軍の大元帥ではなくなり、疑問の余地なく立憲君主となった後も、「何もせず、言わず」に徹したわけではなかった。特に日本の独立(昭和二十七年の「日本との平和条約」いわゆるサンフランシスコ講和条約発効をもって正式に大東亜戦争は終わり、日本は主権を回復した)前には、「天皇外交」と豊下楢彦などが呼ぶ活発な動きをしている。これは比較的近年資料が発掘されて、かなり明らかになった。
 独立=主権回復前には実質的な日本の支配者であった連合軍最高司令官(SCAP=the Supreme Commander for the Allied Power)と天皇とが何度も会見を重ねたことは周知の、公のことだった。ダグラス・マッカーサーとは十一回、後任のマシュー・リッジウェイとは七回にわたって会見が行われた。ただ、そこで何が話し合われたか、全容は必ずしも明らかではない。
 その中では昭和二十二年五月六日に行われたマッカーサーとの第四回会談は、通訳を務めた奥村勝蔵が遺した記録文書を、児島襄が入手し(前半のみ)、昭和五十年に公表していたので、かなりよく知られている。それによると、会談内容は、三日前に施行されたばかりの現憲法の、九条問題に終始した。
 昭和天皇が「日本が完全に軍備を撤廃する以上、その安全保障は国連に期待せねば」ならないが、「国連が極東委員会の如きものであることは困ると思います」としたのに対して、マッカーサーは、「日本が完全に軍備を持たないこと自身が日本の為には最大の安全保障」であり、「将来の見込みとしては国連は益々強固なって行く」と答えた。このような回答は昭和天皇を満足させるものではなかった。天皇はより踏み込んで、こう問うている。

日本の安全保障を図る為にはアングロサクソンの代表者である米国がそのイニシアティブをとることを要するのでありまして、その為元帥の御支援を期待しております。

 ここでマッカーサーは、「米国の根本観念は日本の安全保障を確保することである。この点については十分御安心ありたい」と答えはしたが、実際問題としては、ソ連や中国と地続きの朝鮮には、両国はいつでも侵攻できるが、水陸両用作戦に拠らなければ侵略し得ない日本にはその危険性はない、とした。
 最近マッカーサーとの第八回目の会見からリッジュウェイとの最後の会見まで通訳を務めた松下明が遺した文書が発見され、そこに奥村の記録も写されていたため、マッカーサーの発言の後半もわかるようになった。豊下が引用しているものから孫引きする。

日本としては如何なる軍備を持ってもそれでは安全保障を図ることは出来ないのである。日本を守る最も良い武器は心理的なものであって、それは即ち平和に対する世界の輿論である。自分はこの為に日本がなるべく速やかに国際連合の一員となることを望んでいる。日本が国際連合において平和の声をあげ世界の平和に対する心を導いて行くべきである。

 興味深いのは、日本の「戦後平和主義」と言うべきもののおおもとがここに明瞭に出ていることである。別に不思議ではない。マッカーサーこそ憲法九条の生みの親だったのだから。そしてこの時期の日本には、最高司令官の意向に沿う形で動こうとする日本側の指導者もいた。もっとも、この二十二年五月には、自由党総裁吉田茂は、四月の総選挙で社会党に第一党の地位を奪われ、内閣総辞職の準備をしていたが、前年には現憲法を成立させるために奮闘していたのである。
 以下の、六月二十八日の、第九十回帝国議会衆議院本会議での、共産党の野坂参三への答弁はよく知られている。拙著『軟弱者の戦争論』にも引用したし、長くなるが、歴史的な意義の大きい言葉だと思えるので、速記録から当該個所をすべて挙げておく(漢字は新字体に、カタカナ書きを平仮名に改め、また明らかな誤りは訂正した)。

又戦争拠棄に関する憲法草案の条項におきまして、国家正当防衛権に依る戦争は正当なりとせらるるやうであるが、私は斯の如きことを認むることが有害であると思ふのであります(拍手)、近年の戦争は多くは国家防衛権の名に於て行はれたることは顧著なる事実であります、故に正当防衛権を認むることが偶々戦争を誘発する所以であると思ふのであります、又交戦権拠棄に関する草案の条項の期する所は、国際平和団体の樹立にあるのであります、国際平和団体の樹立に依つて、凡ゆる侵略を目的とする戦争を防止しようとするのであります、併しながら正当防衛による戦争が若しありとするならば、其の前提に於いて侵略を目的とする戦争を目的とした国があることを前提としなければならぬのであります、故に正当防衛、国家の防衛権に依る戦争を認むると云ふことは、偶々戦争を誘発する有害な考へであるのみならず、若し、平和団体が、国際団体が樹立された場合に於きましては、正当防衛権を認むると云ふことそれ自身が有害であると思ふのであります、御意見の如きは有害無益の論議と私は考へます(拍手)

 改めて読むと論理に飛躍があって明晰とは言いかねる演説だが、期するところはあらゆる戦争の廃絶であり、そのためには①国家から正当防衛権を含む交戦権を取り上げること、②「国際平和団体」の設立が必要であること、が言われているのはわかる。①の前提として②がある、とするのが普通だと思うが、ここでは逆に、②のために日本は世界に先駆けて交戦権を放棄するのだとされる。「国際平和団体」が設立されて正常に機能するなら、いずれ正当防衛のための軍備も必要ないのだから、そのへんの順序はどうでもいいだろう、またむしろ、軍備は必要であると考えること自体、団体の設立、ひいては世界平和の樹立のための障害となる、と言う。
 こんな子どもっぽい理想論、いや夢想にはつきあっていられない、と昭和天皇には感じられたようだ。だいたい、三年後に朝鮮戦争が起きてみれば、マッカーサーも吉田も、こんな理念にこだわってはいられなくなってしまったのだ。
 この当時に限っても、「国際平和団体」であるはずの国際連合は1945年10月には樹立されていたが、その具体的な平和維持活動の担い手たる安全保障理事会は英米露仏中の五大国が常任理事国として拒否権を持ち、この点英米露中の四か国に拒否権が与えられていた極東委員会(GHQはその下部と位置付けられていた)にいかにも類似している。
 だいたい国連は、日独伊中心の枢軸国側と戦っていた連合国のメンバーで最初に署名されてできたのであり、いわゆる敵国条項(国連憲章第53、77、107条で、連合国の敵側であった国には、安保理の許可がなくても軍事的制裁ができる、としたもの)によって、第二次世界大戦後の世界秩序を守ることが当初からの目的であったことははっきりしている。その中で、「敵国」であった日本は、守られる側として位置付けられてはいないのである。
 それより何より、上でもわかるように、国連は武力制裁それ自体を禁止していない。第50条では各国の個別的自衛権も集団的自衛権も否定されないことも明記されている。このような組織に依って、その組織から「敵国」とされている日本が、いざというときに行使できる武力もなく、どうして安全が保障されると考えられるのか。武力を奪ったのはアメリカである以上、アメリカが日本の防衛のハードな面、即ち武力を引き受けるべきではないか。
 当時は多少とも現実を知っている多くの日本人がそう考えた。ただし、日本の防衛を完全に米国に委ねるとなると、それはそれで一筋縄ではいかないさまざまな問題が生じて来るから、具体的にはどのような形にするか、細部を慎重に考えなければならない。

 昭和二十二年九月、社会党片山哲内閣の外務大臣だった芦田均は、米陸軍第八軍総司令官ロバート・アイケルバーガー中将に書簡を送っている。アイケルバーガーは根っからの反共主義者で、ソ連の侵攻に備えるために日本の再軍備を検討すべきではないかとマッカーサーに提案して、一喝されたこともある人物だった。
 彼への書簡中で芦田は、日本独立後には日米は特別協定を結び、日本の防衛はアメリカに委ねる、その代わり日本は警察力を増強して、国内の治安維持には努めるという案を示している。その後の日米安保条約締結までの道筋とかなり重なっており、この「芦田書簡」は日米安保体制への第一歩を踏み出したものだとされる。ただし、芦田の構想の中には米軍の日本への常時駐留はなく、実際に危機が迫った時に日本が米軍に基地を提供する、いわゆる「有事駐留」が提案されていたようだ。
 これと全く同じ時期(日付は9月20日)、昭和天皇は、御用掛寺崎英成を通じ、マッカーサーの政治顧問にして総司令部外交局長W.J.シーボルトに「沖縄の将来に関する天皇の考えを伝えるため」のメッセージを提出している。昭和54年に進藤栄一によって発見されたこの文書は現在「天皇メッセージ」とか「沖縄メッセージ」などと呼ばれている。原文は「沖縄公文書館」のホームページに写真版で公開されている。以下に、主要部分の拙訳を掲げておく。

 寺崎氏は、天皇は合衆国が沖縄及び他の琉球諸島の占領を継続することを希望する、と述べた。天皇の意見では、そのような占領はアメリカの利益となるだけではなく、日本に保護をもたらすものとなるだろう。そのような動きは、ソヴィエトの脅威のみならず、占領終結後、ロシアによる日本への内部介入の口実として使えるような「事変」を惹き起こす可能性がある極右及び極左グループの勢力拡大を恐れる日本人の間に、広範囲の賛同を得られるであろう、と天皇は感じている。
 天皇はさらに次のようにも感じている。合衆国の沖縄(及び要求される他の島々)への軍事的占領は、日本に主権を置いたままで、長期間の―25年から50年、あるいはそれ以上―貸借という擬制(フィクション)の上に基礎を置くべきであろう。天皇によれば、このような占領のやり方によって、日本人は合衆国が琉球諸島に対して恒久的な意図はないと納得するし、そのため、他の国々、特にソヴィエト・ロシアと中国が、似たような権利を主張することを妨げるであろう。


 これを読んだ人は、戦後日本で、米軍が常時駐留している事態、その基地の75%以上が沖縄に置かれ、容易に動かせない事態、ついこの間も鳩山由紀夫が総理になってから、普天間基地の「最低でも県外移設」を唱えたが、あっさり挫折した事実などを思い起こされて、それはここから、即ち天皇から始まったのか、と思うかも知れない。
 アイディアとしてはそうだったのだろう。占領期には沖縄は米軍の信託統治下に置かれ、多数の米軍が展開していた。日本が独立してからも米軍がこの地域への駐留を望むならば、この体制を続けることが一番簡単だが、しかし、それは即ち、沖縄を日本から奪う、ということであり、ポツダム宣言にも書かれていない領土割譲が、アメリカのゴリ押しで行われた、ということになれば、アメリカにとってあまり面白くはあるまい。さらに、「だったら我々にも」と、ソ連や中国に日本がらみの権益を要求される可能性だって、ないとは言えない。
 主権は日本に残しつつ、アメリカが日本からリースした形で、この地に米軍基地を置くなら、一応の名目は立つ。うまい考えだなあ、とアメリカ側も考えたからこそ、この案は採用された。発案者が天皇か、他の誰かかは直接関係なく。
 いや、アイディアの発明・発信者が天皇なのでは、単に「意見を言った」ではすまない、と考える人がいるのは当然だとは思う。それについては次回改めて考えるとして、次の事実は断っておきたい。古川隆久によると、この文書をアメリカ側に提出する前に、寺崎は芦田外相に面会を求めたが、大臣からは「暇なし」ということで断わられた。つまり天皇側は、日本政府やSCAPを飛び越えてアメリカ政府に直接訴える気持ちはこのときはなかったのである。それをしたのは、帰国直前のアイケルバーガーに米政府への具申書を託した芦田のほうだった(もっとも、この具申書はアイケルバーガーのところで止まり、アメリカ政府高官は読まなかったようだ)。
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