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由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

F氏との対話 大人になることについて その3

2019年04月26日 | 倫理


【由紀→F氏】第4信
 中二病的言論につきあっていただけて、まことにありがとうございます。そのうえ、わざわざ「異邦人」を読み返されたそうで、どうも恐縮です。
 しょ~と・ぴ~すの会には中二病患者の傾向がある人を惹きつけるものがあるのだろう、というご指摘は、そうかも知れないな、と私も思います。というような失礼なことを申し上げた結果、会の参加者が減ってしまうのは、よくないんですが。まあ、自意識が強くて、結果生きづらさを感じている人、ということでしたら……、いや、これも失礼かな。しょせん、蟹が甲羅に似せて堀った穴からの観測ですので、どうぞお許しを。
 こういう困ったちゃんが、Fさんの寛大さに甘えて、またまた中二病全開で申します。
 「異邦人」の解釈なんですが。「カミュが投げ捨てようとしているのは、責任ではなく(ムルソーは死刑を受け入れています)、大人社会の常識的な観点だと思います」。
 これはないんじゃないかなあ。もっとも、「責任」の意味が違うと言うなら、別ですけど。普通だったら、「殺人は悪いことだった。だから、自分が死刑になるのは当然だ」と納得することをもって「責任」を自覚する、引き受ける、などと言うのじゃないでしょうか。そうだとすれば。
 この作品の解釈はさまざまにあり得ます。けっこう難解な部類に属する小説なんで当然なのですが、それより、カミュ一流の飛躍した、独善的とも見える思想の影が濃いせいで。それでも、上のような読み方は到底できないんじゃないかなあ。
 この小説の第二部は、殺人事件後に主人公が裁判にかけられ、死刑の判決を受けて、改めて一切の「救い」を拒絶するところまで描いています。自分が殺したアラビア人の事なんて、終始全く考えません。問題なのは、自分と、自分が受け入れられない、また、自分を受け入れない世界との関係だけ。受け入れられないものは受け入れない、受け入れているふりもしない。それが彼の「自信」の根拠なのですが、それにしても、恐ろしく自分勝手な奴だなあ、などと思うのはなるほど、「大人社会の常識的な観点」でしょう。
 しかし、「殺人は悪いことだ」と納得するのは、「常識」とは別の何かでしょうか? Fさんも、Fさんが引用なさった本の著者も、例えば「殺人は罪悪だ」なる正論をいきなりぶつけるのは愚策だ、と言っておられ、これには全く同感です、罪を犯した子ども(だけではなく大人も)を扱う態度としては。でも、「正論」は、「いきなり」ではなくても、「ゆっくり」とは出てくるわけですよね? 「本音と正論をつなぐ道」を求め、「本音から真摯な反省が生まれる」ことを期するというのは。
 要するに、一番肝心なことは向こうに言わせようとする高等テクニックではないのですか? うまく駆使できるなら、交渉事の名人と呼ばれるであろう説得術、それだけに、いやらしいとも呼ばれうるような手練手管では?
 「異邦人」にもどりますと、Fさんが引用なさった後の部分で、主人公は次のような言葉を司祭に投げつけています。

私はこのように生きたが、また別の風にも生きられただろう。私はこれをして、あれをしなかった。こんなことはしなかつたが、別なことはした。そして、その後は? 私はまるで、あの瞬間、自分の正当さを証明されるあの夜明けを、ずうつと待ち続けていたようだつた。何ものも、何ものも重要ではなかつた。

 自分の身に起こったすべてのこと、お母さんが亡くなったことも、アラビア人を殺したことも、大したことではないんだ、みんな偶然みたいなもんだ、と彼は言うのです。「他人の死、母の愛――そんなものが何だろう」。
 「肉親の死は悲しいものだ」「殺人なんて決してやってはいけない」、これらは人間の「自然の情」なのかも知れないが、「人間ならそれが当然だ」と言われた瞬間に制度になりおわる。なるほど、「大人社会の常識的な観点」とも言い換えることもできるでしょう。そんなものは、彼にとっては(実は誰にとっても、と言われています)全く本質的ではないから、強調されればされるほど、孤立感が増すばかり。そういう意味で、ムルソーはこの世界で「異邦人」なのです。
 上述のように憤怒をぶちまけた後で、彼は心が洗い流されたように感じる。「私ははじめて、世界の優しい無関心に、心をひらいた」。もはや誰も、「お前は~でなければならなかったし、今後も~でなければならない」などと、いかなる形(説教とか、「理解を示す」とか)でも迫って来ず、放っておいてくれる世界。ただし、世界にとってこんな人間は邪魔ではあるのだから、排除はする。そのための、シンプルでごまかしがない手段である絞首刑を、彼は受け入れ、安定するのです。

一切が成就され、私がより孤独ではないことを感じるために、この私に残された望みといつては、私の処刑の日に大勢の見物人が集り、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだつた。

 アルベール・カミュが後に書いた戯曲「カリギュラ」は、私見では、上のような人物が権力者になってしまったらどうなるか、を描いたものです。「この世の何も(もちろん人命も)重要ではない」ことを示すために、自分が処刑される代わりに、やたらに人を処刑する暴君になるのです。彼に向かって、やがて暗殺者となる男は、大略次のように言います。
「あなたは正しいのかも知れない。私はあなたを軽蔑もしなければ憎みもしない。ただ、人々が安心して暮らしていくためには、あなたは邪魔者だ。消えてもらわねばならない」。
 私もFさんも、この世で無事に生活している以上、排除する側にいることは言い訳のきかない事実だと思います。そのための必要事は、「正しい」と認めている。そうでなければ、教師でも、家裁の調査官でも、「仕事」として社会から認められるわけはないのです。
 もちろん、文字通り殺すのではなく、「反省」させ、「正道」に戻すように努力しておられるのでしょう。それによって再犯率が下がるものなら、社会防衛(人々が安心して暮らせる状態を守る)上からも有益なわけですから、少年法云々より、成人の犯罪者にもこのテクニックを使うよう、処遇を改めるべきでしょう。これもお考えのうちに入っていますか?
 ただ、それもこれも結局は遠回しに「常識」を押しつけているのであり、しかもそのことを巧みに隠蔽する「欺瞞」、と呼ばれ得るようなものを働かせているのではないでしょうか。人の世を支えるためには必要な欺瞞ではありますが。心の片隅にこういう認識を置いておくことは、我々の仕事にとって、また人の世にとって、邪魔になるばかりでしょうか?
 最後に、秋葉原連続殺傷事件の犯人も、「異邦人」みたいなことを言っているのを、ご発表時の引用で知り、興味深かったので、それについて一言します。

私は、事故で母親を亡くしたクラスの女子に「母親が死んだくらいでめそめそしやがって」と言いました。クラスは静まりかえり、その女子は泣き出し、私は別室で「反省」させられたのですが、意味がわかりませんでした。……「相手の立場になって考えなさい。お母さんが死んじゃったら悲しいでしょう」などと担任は説教をしてくるわけですが、母親が死んでも悲しくなどない私の立場になって考えようとはしませんでした。
おかげ様で、私はそういうキレイゴトが大嫌いです。(
永夜抄 P17-18)

 彼は殺傷事件については「反省」しているらしき口吻を漏らしているそうですね。やっぱり、生身の人間は小説の登場人物みたいな徹底性はなかなか保てないもので、それがこちらの「つけめ」にもなります。ただ、肉親の死について、「めそめそしやがって」なんて言うのは非礼だ、という次元は? 母が死んでも悲しいとは思えないのが「本音」である人に、どうやって「正論≒キレイゴト」を納得させるのか。
 私は、だいたいにおいて、理ではなく利で諭すようにしています。
「お前が心の中でどう思うかは自由だが、それを表に出したら世間から嫌われて爪はじきにされることだってある。(この世で普通の意味で幸せに暮らしたいなら)うまく隠すことを覚えるんだな」
 つまり、またカミュの言葉を借りれば、「生活を混乱させないために、われわれは毎日、嘘をつく」んだと教えるわけです。この説得だってほとんどうまくいきません。何も相手が、「存在すること、感じることの真理」に生きようとするからではなく、「まだ子どもなんだから、本音を出しても大丈夫なはずだ」という甘えがしからしめている場合がほとんどのようです。「高校生になったら、それは錯覚なんだよ」ということも、言葉だけではどうにも通じないのは、残念ではありますけど。ただ、こちらがこの段階の「常識」に止まろうと心がけるのは、公教育の教師という、制度・権力のエージェントである者のけじめじゃないか、とは感じています。
 ここを踏み越えたら、たとえ相手を(普通の意味で)幸福にするためだとしても、「詐欺」か「洗脳」と呼ばれるものに近づく。そうではありませんか?

【F氏→由紀】第5信
 「中二病」については、否定的なとらえ方が多いようですが、私は次のように肯定的にとらえています。
 人は、年頃になると、親に代表される価値観に疑いを持つようになり、自分に目覚める。その結果、すべての常識を一旦否定し、白紙の状態から、自分なりの価値観を築きあげたいと思う。このような態度を、いい年になっても持ち続けているのが、「中二病」である。
 文庫の解説によると、カミュは、『異邦人』について、「ムルソーは人間の屑ではない。彼は絶対と真理に対する情熱に燃え、影を残さぬ太陽を愛する人間である。彼が問題とする真理は、存在すること、感じることの真理である。それはまだ否定的ではあるが、これなくしては、自己も世界も、征服することはできないだろう」と述べているそうですか、私は、カミュの『異邦人』を、すべての常識を一旦否定し、生の現実を捉え直そうとする試みとして読んでしまいました。
 その結果、先のメールに「カミュが投げ捨てようとしているのは、責任ではなく(ムルソーは死刑を受け入れています)、大人社会の常識的な観点だと思います」と書いたわけですが、ご指摘のように、確かに、ムルソーは責任を受け入れているととらえられるような表現は言い過ぎで、ムルソーは「常識的な責任の問い方を問題にしている」という方が正確だったかも知れません。
 そして、私は由紀さんが、「常識的な、というかこの社会に責任を持つ『大人』としては当然の観点」からムルソーを批判する一方で、ムルソーの観点からも常識的な責任を押しつけてくる社会の存在を指摘されていることから、由紀さんは、基本的に、個人と社会の関係は断絶した関係であり、よりマシな関係など虚構だと思われているのではないかと感じました。
 同じことは、由紀さんがフーコーを引いて「世の一般的な体制からは別様に人間を考えようとする試み」もそれ自体が体制化し権力の一部になるということに触れていることや、私が発表したような働きかけについても、「遠回しに『常識』をおしつけ、しかも、そのことを巧みに隠蔽する『欺瞞』で、『一番肝心なことは向こうに言わせようとする高等テクニック』、『詐欺』、『洗脳』」と評価されているところにも感じました。
 しかし、私は個人と社会を、双方実体としてとらえ、基本的に断絶しているという考え方はとりません。分かりにくい発表だったかも知れませんが、私は個人と社会を〈主体-状況〉の関係としてとらえ、〈主体-状況〉の関係は、「常識」として一般化し制度化されているが、「常識」は〈主体-状況〉の一つのあり方と相対的に考えています。
由紀さんは、「母が死んでも悲しいとは思えないのが『本音』である人に、どうやって『正論≒キレイゴト』を納得させるのか」と疑問を呈しておられますが、私は、加藤がなぜそんなことを言うようになったのか理解しようとしているだけで、納得させようとはしていません。発表でも加藤の納得は難しいことを説明しています。
 私が試みたのは、常識的には加藤は理解できないが、加藤の〈主体―状況〉の在り方を探れば、加藤がなぜそんなことを言うようになったのかわかる可能性があるということです。
 以上、由紀さんの第4信を読んで、感じたことをまとめてみました。
 ただし、前のメールでも書きましたが、個人、社会、常識、責任というそれぞれの言葉に込めた思いや考えが由紀さんと私とでは似ているようで異なり、そのため、由紀さんから見れば、やはりFは分かっていないと感じられるのではないでしょうか。
 議論がいつまでも平行線で続くようであれば、別の具体的な問題について、機会があれば、意見を交換する方が生産的であるように思います。

【由紀→F氏】第5信
 たぶん一番肝心だと思えるところをできるだけ手短にお伝えします。
 由紀は「基本的に、個人と社会の関係は断絶した関係であり、よりマシな関係など虚構だと思われているのではないか」とのことですが、半分は当たっています。しかし、ここへいくまでの前提が肝心です。
 人は必ず家庭を含めた社会の中で「人」となるのであって、それ以前に「個人」などあり得ない、これは単純な事実です。ですから、ここでは、「断絶」もまた、あり得ない。
 しかし人は、具体的な人間関係の中で、何かの役割を「引き受ける」ことを期待される。すると、それはどうにも不当だ、などと感じてしまうこともある。その意味で「断絶」を感じることもある者です。こうして生じてくる、孤立した個人意識に寄り添うのが文学だ、と私は昔から信じておりました。実例は、今までさんざん述べてきたので、略してもよろしいですね。
 「寄り添う」のは「理解」ではない、というのは微妙すぎるので、さすがの私も、あまりこだわってはいけない、と思います。とりあえず、「理解しようとしているだけで、納得させようとはしていません」というFさんの態度はすばらしいと思います。社会との断絶を抱えてしまったある人間に対して、
「私は彼と関わるが、それによって彼が変わるかどうかも、変わった結果『よくなる』かどうかもわからないが、ともかく、関わる」
と公言して関わることが、仕事として許されますか? それくらいのおおらかさはある社会であってほしいですねえ。人と人との関わりこそ、どんな場合でも、明らかに「断絶」している場合でさえ、根本的なのですから。
 ただそこで、何かしら「よりマシ」な関係というのがあると考えたのでは、すべてぶちこわしになると思います。このへんは平行線ですね。
 平行線がある、というより、私の方がだいぶアラレもない言い方になってしまって、雰囲気を悪くしましたね。また別の機会の議論、ということでこちらもよろしいです。
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F氏との対話 大人になることについて その2

2019年04月14日 | 倫理

Lo Straniero, 1967, directed by Luchino Visconti

【由紀→F氏】第3信
 私はいわゆる中二病です。60代半ばになってもいっこうに成熟できません。今度のやりとりで改めて実感されました。Fさんなら治療法を思いつくかも知れません。しかし、たぶん死ぬまで治らないでしょう。問題は、私自身に治る気がないことで。それがこの病態の、やっかいな特徴の一つなのでしょう。
 以下は、そういう者の言うことです。失礼にわたることもあるかも知れませんが、どうぞご寛恕ください。
 もう何度目かになりますが、今回のご発表にはとても興味深くうかがいました。その理由の一つは、後半の、秋葉原連続殺傷事件の犯人に関するところが、ご論のハイライトだったわけですが、そこに、「非行を犯して罪に問われた少年に対し、いきなり〈常識的な見識-行動〉のセットを対置するのではなく、少年を本当に反省させ責任を感じさせる(少年の人格を大きくする)には、どのような方法があるか」という問題意識が、ほとんど感じられなかったからです。念のために、これは批判でもなければ皮肉でもありません。
 だいたい、この犯人は犯行当時で25歳、少年法でいう「少年」ではありません。「恵まれない環境で一般の少年よりも精神的成長が遅れてしまった少年」ではなかったし、「保護者は生計を立てることなどに精一杯で」(以上、小浜ブログへのF氏のコメントから引用)放任された少年でもなかった。放任と言うよりは過干渉と言うべき、かなり特殊な母子関係から、特殊な精神構造になってしまった「元少年」ですね。実際、そうでなければ、ああいう特殊な犯罪に走ることはなかったろう、と思います。
 ともかく、この稀に見る凄惨な犯罪は起こってしまった。犯人をどう処遇するか。今の日本なら、刑法39条(心身喪失・心神耗弱)が適応されない限り、死刑は免れないでしょう。死刑とは、人間社会からの完全な排除ですが、同じような措置は古今東西途絶えることはなかったようです。これなしで、社会を防衛することはできなのではないか、と多くの人が信じているからでしょう。因みに、死刑が廃止された欧米諸国では、凶悪犯は逮捕の前に、従って裁判以前に、警官が射殺する例がよくみられると言われていますね。
 以上はあるいは人間の野蛮な部分なのかも知れない。犯罪者は、特に凶悪犯罪者は「人」なのであって、人間扱いしなくてよい、などと言われることもある。これに対して、「人間」の概念をもっと広げよう、もっと深い観点から「人間」を捉えよう、という試みも、「文明」の中で細々と続いておりますね。試みの一つが「文学」であり、また「精神医学」もそうだ、と言えるでしょう。ここに由来する言説が世の大勢を占めることはあり得ませんけれど、消失するようなことあってはならない。私はそう信じる者です。
 しかし、困難は別の方面にもあるのです。このような、世の一般的な体制からは別様に人間を考えようとする試みが、いくらか価値があるものだと世に認められると、それ自体が体制化し、権力の一部になってしまうという。ミシェル・フーコーが夙に指摘したように、18世紀になって「精神病」が定型化され、その処置法(治療法)も定型化されると、あるいは「定型」と見えるものになると、それは現に社会を支える制度の一部となるのです。
 悪いことではないでしょう。フーコーと似たような視点から古代・中世世界を語る人々は、「無縁・公界・楽」とか「悪場所」なんぞという、正規の体制に組み込まれない場をロマンチックに描く傾向がありますが、それがそんなによかったはずはない。現在「狂人」と呼ばれている人々は、たいていは、劣悪な環境に放置されていた違いないのです。それに比べたら、近代的な治療のおかげで、清潔に生きられるし、中にはちゃんと「正常」になって、社会復帰を遂げた人も、たぶん、いないこともないのではないか、と。
 ところで今の問題は、いわゆる狂気ではなく、「狂気の犯行」などと呼ばれることもある、不可解な罪を犯す人間についてです。「9歳の壁」とか、劣悪な環境や資質が基になった年少の犯罪者のことはしばらく横に置いときまして。
 たぶんここまででもうFさんにはおわかりになったかと、期待半分に予想しますが、私の違和感は、Fさんが「人間に対し、画一的、観念的に関わるか、それとも個人に対して柔軟に実際的にかかわるか」を問題にしているのに、「人間は変わるか、変わらないか」という問題提起と受け取っているところに由来する、のではありません。人間が変わるか変わらないかなんて、自分についても他人についても結局わからない、ぐらいのことはFさんもわかっていらっしゃるだろうぐらいは、こちらもわかっています。
 私が気にしているのは、そもそもどうしてFさんたちが「人間にかかわ」ろうとするのか、にあります。「本音から真摯な反省が生まれる」ことを期して、なのですね? まあ、当然ではありますね。こういう口実(敢えてこう申します)がなかったら、Fさんのような職業や立場が社会的に認められるはずもなし。
 それでも言わずにはいられないのが、中二病の中二病たるゆえんです。「反省」っていったいなんでしょう? 「自分が悪かったんだ」、と思うこと? その前提である善悪の基準はどこから来るのか? 社会、即ち制度の側からですね? そうではなく、人間には生得的に道徳心があり、他人への思いやりもあるのかどうか、なんて今議論する必要はない。いずれにもせよ、社会的に「正しくない」ことをしてしまった人間は、「正しくなれ」と強要される。だから、正しさは自分にはなく、自分の外部にある。そうとしか思いようがない。
 いや、そう思わせられている。そう思えってんだろ? そのくせ、俺を「理解」するってか? お前たちにとって都合のいい「俺」になるために。しかし、そうなったらそれはもう「俺」じゃないんだけど。
 Fさんはこんな意味のことを言う少年に出会ったことはないですか? そんな時にはどう対応なさるんですか?
 例えばアルベール・カミュは、些細としか思えない理由で人を殺しておいて、裁判で「反省」も「人間的な情」も示すことを拒否して死刑の判決を受け、しまいには神父の差し出す宗教的な救いも拒絶する男を描きました。もちろんここには作者の思想的な傾向が色濃く滲み出てはいますが、しかし一方、人間はここまでなり得るんだ、と説得力をもって描き出している。それは作者が、「いや、そうは言っても、殺される側からしたらたまったもんじゃないんだけどな」という、常識的な、というかこの社会に責任を持つ「大人」としては当然の観点を、作中ではきれいに投げ捨てているからです。
 あらゆる意味で特殊な「人間」を「理解」し、人間の見方を広げたり深めたりするのは、こういうことが必要なのではないか。そうでなければ、「画一的、観念的」に関わろうと、「柔軟に、実際的に」関わろうと、「北風と太陽」の違いはあっても、しょせんその違いだけではないか。Fさんたちの「面接」が、再犯の防止に役立つのであれば、それはこの社会にとって有用です。もちろんそれはそれで、社会的に大したものではありますけれど、それ以上ではない、そのことは認めるべきではないか。
 さて、もう長く書き過ぎましたし、内容的に、けっこう苦しい思いもしています。一番底にあることを曝け出してしまったからです。こんな私にも、何か応えていただけますでしょうか?
 
【F氏→由紀】第4信
 メールありがとうございます。
 カミュの『異邦人』に言及されておられたので、私も読み直したりしていて、お返事が遅くなりました。
 加藤の事件の分析に、非行少年の人格を大きくするという問題意識が殆ど感じられなかったということですが、尤もだと思います。発表の際にも、付言しましたが、ある研究誌に投稿したところ、加藤の分析の部分は載せられないと言われ、急遽、加藤の分析を編集者の意に沿うように少年院在院者の抱える問題と差し替え、前後の部分を少年院在院者の抱える問題とつながるように修正したという経緯があります。
 加藤の事件を取り上げたのは、加藤が4冊の手記を公刊していて分析材料がそろっているということがありますが、何よりも加藤自身が分析の方法論を問題にし、状況決定論的な方法論を批判し、分析に状況を受け止める主体の観点を導入した点にあります。ただし、その主体が「戦車のハート」で機械論的であり、情緒的な面を欠いた主体であることを問題にしました。
 由紀さんがフーコーや「無縁・公界・楽」に言及された趣旨も分かるような気がします。『異邦人』とともに学生時代に夢中で読んだ本に梅本克己の『唯物史観と現代』があり、梅本は歴史的視点を喪失した見方を次のように批判していますが、由紀さんの視点と重なるところがあるように感じました。
 マルクスは「私有財産」と「分業」をはげしく攻撃している。だがもし人間の本質が、まだ私有財産も分業も発生させていない原始的な共同体の中にだけあって、私有財産と分業の発生以来、人間はその本質を喪失してきたということにしてみよう。私有財産の止揚による疎外からの回復とは何だろう。まだ人間文化の何ほども展開していない貧しい原始人の生活にかえるだけだ。私はそのような歴史観を「本質喪失史観」とよぶことにしているが、マルクスが私有財産の「積極的止揚」というとき、この言葉は、そのような貧弱な、非歴史的見地、その非人間的見地に対する決定的な抗議をひめたものだ、ということである。
 「そもそもどうして人間に関わろうとするのか」ということですが、端的に仕事だからです。同じ関わるにしても、民間で営業などの仕事に関わるより、少しでも自分の興味関心に関係がある方が良いと思って、消去法で就職先を選びました。
 俺を「理解」するってか? お前たちにとって都合のいい「俺」になるために。しかし、そうなったらそれはもう「俺」じゃないんだけど。Fさんはこんな意味のことを言う少年に出会ったことはないですか? そんな時にはどう対応するのかということですが、発表で紹介した通り、そこまで内省できる少年、それを口にできる少年は殆どいません。
 ただし、ある少年から「Fさんは仕事でやってるのだから信頼はしていない」と言われたことがあります。そのときは、「仕事でやっているのは確かだけれど、仕事でやっているから信頼できる面もある。自分としてはそこを利用してもらえれば良いと思っているのだが……」と応えました。
 カミュの『異邦人』については読み返しましたが、私は「人間はここまでなり得るんだ」「常識的な、というかこの社会に責任を持つ『大人』として当然の観点をきれいに投げ捨てている」とは思いませんでした。
 文庫本の解説には、カミュが英語版に寄せた次のような自序が紹介されています。

……母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告されるおそれがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮らす社会では、異邦人としてあつかわれるよりほかはないということである。ムルソーはなぜ演技をしなかったか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。(中略)生活を混乱させないために、われわれは毎日、嘘をつく。ムルソーは外面から見たところとちがって、生活を単純化させようとはしない。ムルソーは人間の屑ではない。(中略)彼が問題とする真理は、存在すること、感じることとの真理である。それはまだ否定的ではあるが、これなくしては、自己も世界も、征服することはできないだろう。

 また、私の大変好きなくだりですが、小説の末尾でムルソーは司祭に対して「君はまさに自信満々の様子だ。そうではないか。しかし、その信念のどれをとっても、女の髪の毛一本の重さにも値しない。君は死人のような生き方をしているから、自分が生きているということにさえ、自信がない。私はといえば、両手はからっぽのようだ。しかし、私は自信を持っている。自分について、すべてについて……」と心の底をぶちまけています。
 従って、私は、カミュが投げ捨てようとしているのは、責任ではなく(ムルソーは死刑を受け入れています)、大人社会の常識的な観点だと思います。
 そして、以上の私の読み方が間違いでなければ、私の「いきなり〈常識的な見識〉を対置させても、分かってもらえないと失望を感じる可能性が大きい」旨の主張も、『異邦人』の主題と二律背反であるとは言えないのではないかと思います。
 由紀さんはご自分のことを「中二病」と述べておられますが、私も重症の「中二病」です。というより、偏見かも知れませんが、「しょ~とぴ~すの会」には「中二病」の傾向のある方を惹きつけるものがあるのではないでしょうか?
 自分では「しょ~と・ぴ~すの会」の主だったメンバーの方とは自分の考え方は基本的な点ではそんなに違わない思って発表したのですが、意外な感想、意見があり驚きました。同じような概念を使い、同じような論理を述べていても、背景が異なると真逆の意味になってしまうのかも知れません。
 由紀さんの率直な感想を心にとどめて勉強や思索を続け、自分抱いているテーマをできるだけ誤解なく伝えられるようになりたいと思っています。
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