由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

究極の推理小説

2019年06月26日 | 文学
メインテキスト:アガサ・クリスティー/中村妙子訳『春にして君を離れ』(原著の出版念は1944年。ハヤカワ文庫平成16年)



【今回の記事には推理小説(的な小説を含む)の、いわゆるネタバレ的なものが含まれます。お気をつけてお読みください。】

 特に推理もののファンではない。なのに、大学生時分、推理小説好きな友人と話をしていて、「俺、『Yの悲劇』の犯人が途中でわかったんだよね」と言ってしまい、顰蹙をかったことがある。そんなの、嘘に決まっている、というわけで。
 まあ、嘘ではないが、正確には、見当がついた、だけ。論理的に考えて、なんぞでは全くない。そんなことができる人もいるのかも知れないが、私には無理。同じ作者エラリー・クイーンの、「読者への挑戦状」が解決編の前に置かれている諸作品など、わかったためしはない、というより、考えてみることもなかった。
 ではどうして見当がついたのかと言うと、犯人の行動がけっこう詳しく描写されていたからだ。同じようにして見当がついたのは、あとは坂口安吾「不連続殺人事件」ぐらい。これは普通「伏線」と呼ばれる技法だと思うが、私はこれがちゃんとしているのが推理小説の傑作たる条件の一つだと思っている。少なくとも、「意外な犯人」が興味の焦点である場合には。
 ドロリーレーン・シリーズの前作「Xの悲劇」など、犯人当ては不可能。なぜなら、最後にしか登場しないのだから。ノックスの「探偵小説十戒」、ヴァン・ダインの「二十戒」などは脇に置くとしても、こりゃあないだろう、と多くの人が思うだろう。実際、「Xの悲劇」は、最も盛り上がるのは途中に挟まる裁判の場面であり、また話の焦点は被害者にある。正統的な推理小説とは言われない。

 ミステリーの女王ことアガサ・クリスティーはこの点でも並々ならぬ才能を発揮した。処女作「スタイルズ荘の怪事件」では、最初から疑われていた一番怪しい人物が犯人、という奇手を使っている。
 同じく「一事不再理」を狙いにしたもので、一番感心したのは、「検察側の証人」。もっとも、大本の小説は読んでいない。ビリー・ワイルダー監督の映画をまず見て、それから戯曲を読んで、後者の場合もちろんネタはわかっていたのに、同じくらい圧倒される思いがした。真実を隠すために嘘をつくのではなく、本当のことを言ってそれを嘘だと思わせる策を貫く、これ以上鮮やかなトリックにはまだお目にかかっていないように思う。

 犯人探し、を成立させるための犯人隠しの一手法として、いわゆる叙述トリックを全面に出した作品でも、クリスティーの「アクロイド殺し」や「そして誰もいなくなった」は筆頭に挙げられるだろう。前者は一人称、後者は三人称の作品だが、いずれも、嘘はつかない、ただし、肝心なことは書かない、ことで読者を騙す。厳密に意地悪く見ると、瑕瑾なしとはしないけれど、だいたいにおいてまことに巧妙にやってのけている。

 ただ、もちろん私見に過ぎないのだが、敢えてこれが究極ではないか、と思えるプロットが別にある。それは、犯人=探偵で、自分で自分を騙しており、後にそれが明らかになる、というものだ。
 原型はギリシャ悲劇だろう。アリストテレス「詩学」が簡便にまとめたように、そのプロットの根底はアナグノリシス(認知)によるペリペティア(急展開)にある。その典型例として「詩学」にもとりあげられているのは、ソフォクレス「オイディプス王」。ある男が、ある殺人事件の真相を探るうちに、その犯人は他ならぬ自分であったことを発見する。そして、その後に犯した恐るべき罪も同時に明らかとなり、彼は急転直下、破滅する。確かに、これ以上スリリングなプロットはない。
 なぜなら、いつでもどこでも、「自分とは何か」という問い以上に人間にとってこわいものはない。そうではないですか?

 これを近代文芸に当て嵌めようとすると、もう直感的に、無理だ、と思えるだろう。
 念のために言うが、記憶喪失だの二重人格だのはダメ。それでは結局、犯人と探偵が分裂している。このタイプは、ゼバスチャン・ジャプリンゾ「シンデレラの罠」とか、映画では、ええと、題名が出てこなくなってしまったが、いくつかある。
 他に、ハインリヒ・フォン・クライスト「こわれがめ」は、「オィディプス王」の喜劇版を目指した戯曲で、私にとってこれ以上笑える愉しい劇はないのだが、主人公は自分のしたことを完全に知っており、真相を追究するような顔をして隠そうとする。だから、本当の意味で探偵役は果たしていない。
 殺人は殺人でも、自分が誰を殺したかは知らなかった、だと、やはり戯曲で、アルベール・カミュ「誤解」がある。こちらは真相の発見は偶然に依っており、それより先に観客には知らされているのだから、そこでのスリリングさはない。
 自分で自分の行為の本当の意味を発見する、まで条件を緩めれば、いくつかあるだろう。ドストエフスキー「罪と罰」はそう言えるかな。しかし、ここでの犯罪の「意味」は宗教的・哲学的に追求されるので、普通に言う「発見」とはかけ離れている。
 犯罪とは言えない行為にまでハードルを下げたら、今思いつくのだと、アンドレ・ジッド「田園交響楽」がそうだろう。これはむしろ批評家として偉大な才能を発揮したジッドの、たぶん唯一のまともな小説(失礼!)で、傑作であると思う。この主人公は周囲を騙すためにこそ自分を騙すところがあり、つまり、かなりの程度、隠された動機に気づいていることも読み取れる。かなりの程度とは具体的にはどの程度か、それはわからない。当然だし、優れた点でもある。しかしそのため、発見→急展開のショックはない。だから、これを一番露骨に使う推理小説ではない。

 名手クリスティーにして、この壁は越えがたかった。それで、犯人=探偵に最も近づいた小説は、推理小説ではなく、ロマンス小説と銘打たれ、別名義(メアリ・ウェストマコット)で発表された。
 「春にして君を離れ」の主人公は、イギリス中流家庭の平凡な中年主婦ジョーン・スカダモア。結婚してバグダッドにいる末娘が病気になったという知らせをもらって、見舞いのために一人で旅立つ。その帰途、大雨のために鉄道が不通となり、トルコとの国境の町で足止めされる。
 会うのは小さな宿泊所の使用人、外へ出ても兵士と人足だけ。編み物道具は持ってきておらず、読む本も尽きたので、まずい料理を食べて眠る以外には、荒涼たる風景を眺めつつ散策するぐらいしかやることはない。
 ジョーンの心は自然に回想へと向かう。ここへ来る前に、逆にロンドンからバクダッドへ向かう途中の、女学校時代の級友に邂逅してしばらく語り合ったのもきっかけになった。些細なことが気になり出す。夫のロジャーは、ロンドンで自分を見送りに来た帰り、妙に浮き浮きした足取りで去ったこと、とか。あれはそう見えただけか、それとも……。
 この後小説の八割方がヒロインの内面でのみ展開する。自分を見つめ直す、というやつ。できれば、やめておいたほうがいいことの一つだろう。しかし、時間がたっぷりあるとなると。地面の穴からぞろぞろ這い出てくるトカゲが、次々に浮かぶ断片的な記憶の比喩となる。やがて断片が繋がっていき、自分が家人にとってどのような存在であったか、本当は気づいていたのに意識の底に沈めていたものを、改めて発見するのである。
 犯罪などまったくないのに、回想と情景描写とが重層的に積み重なる叙述は、この種の小説としては稀な緊迫感を獲得している。

 隠されていた秘密は、ヒロインと夫との次の対話に端的に示されている。

「やれやれ、ジョーン、わからないはずはないだろう。我々世の親たちが子どもに対していったい、どういう仕打ちをしているか、考えてもごらん。おまえたちのことは何でも知っているといわんばかりの態度。親の権威のもとに置かれている力弱い、幼い者にとって、いつも最上のことをしている、知っているというポーズ。むろん、必要上やむを得ぬことといえばそれまでだが」
「まるで奴隷のことでもおっしゃっているみたいないいかたをなさるのね」
「一種の奴隷じゃないか、彼らは。我々の与える食物を食べ、着せるものを着、我々の教えこむことをしゃべる。我々の与える保護の、代償としてね。しかし子どもたちは、日一日と成長し、それだけ自由に近づくのさ」
「自由ですって?」とジョーンは軽蔑的にいった。「そんなもの、いったい、この世の中にありまして?」
 ロジャーはのろのろと重苦しい口調で答えた。
「いや、ないらしいね、きみのいう通りだよ、ジョーン」


 秘密が明らかになった以上、もう昨日のままではいられない、とヒロインは思う。新しい生き方を見つけよう、まずこれまでのことを夫と子どもたちに詫びよう。そのことを、帰りの汽車の中で会ったロシア貴族の女性に打ち明けると、彼女は「神の聖者たちにはそれができたのでしょうけれどね」と素気なく言う。
 貴女は聖者ではない。つけ加えると、ギリシャ悲劇の英雄でもない。そうなれもしない。だから、無理なんだ、新しい生き方なんて。
 それが何より証拠には、ヒロインの心に再び反省が訪れる。ただし、反対方向で。自分は妙な妄想に取り憑かれていた。結局、何一つまちがったことはしてこなかったのだ。それで、ロンドンの夫の傍にもどると、すべてが元のまま。つまり、アナグノリシスはあっても、ペリペティアは起こらない。それ自体が多分、現代の悲劇なのだ。

 作者は小説を、ヒロインの発見が「事実」であったかどうか、曖昧なまま終わらせることもできたろう。トルストイ「クロイツェル・ソナタ」はそのように構成されている。そうしないで、最後になって夫の視点を出して、事実、つまりジョーン以外の人にとってジョーンはどうであったか、「客観的」に明らかにしたのは、エンターテインメントだからだろうか。
 それもあるだろうが、この客観性は、苦い真実をもう一度思い知らせる仕掛けにもなっている。ジョーンの行動原理は、中流社会の「常識」の範囲に強固に留まっている。そのため、周囲は窒息する思いをするのだが、では、常識は間違っているのか。それに逆らって、「自由」になったら、幸せなのか。ロジャーは、彼の希望する職に就いたら、経時的な困窮に陥ったろう。それは誰にも予見できることだから、ジョーンも予見し、「必要上やむを得」ず、彼を思い留まらせた。
 それだけだ。何を後悔することがある? この常識の壁を打ち破るのは、神々の仕掛けた罠やら宿命を越えるのと同様、難しそうである。
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