由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

近代という隘路 その3

2011年03月29日 | 近現代史
メインテキスト: 加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社 平成20年 平成21年第16刷)

サブテキスト :加藤陽子『徴兵制と近代日本』(吉川弘文館平成8年、平成20年第4刷)

 戦争に関するよくあるレトリック(言い回し)のうち、二つを取りあげてみよう。
(1)「戦争とは国家が勝手にやるものであり、それに駆り出されたり、戦災にあったりする庶民は一方的な被害者である」
 戦後の日本ではこの見方が支配的だった。昭和三十五年生まれの加藤にとっても、これを気にしないわけにはいかなかったらしく、栄光学園の生徒にこう問いかけている(P.118-119)。「民権派や福沢(諭吉)が、日清戦争に双手をあげて賛成しているのを見ると、少し変な気分がしませんか」。これに対するある生徒の答えと、さらにそれに対する加藤の応答を下に戯曲風に記すと、

 生徒 ― 別に変とは思わない。当時の人々に、戦争に「反対する」、「反対できる」なんていう気持ちはなかったのでは…。
 加藤 ― あっ。そういう答えは予想していなかった。こ、困りました(笑)。そうか、みなさんの柔軟な頭では、民党=反政府=戦争反対、というような図式は、あまり頭に浮かばなかったということですね。うーむ。


 いやあ、別に唸ることではないんじゃないかな。
 戦後サヨクが広めた「図式」は、今の若い世代の中では薄れている。それは確かだ。しかし、加藤が説くような、民衆、というか、民衆の側に立つと自認する知識人でも、明治の中頃までは、戦争を待望するのがむしろ普通だった、という見解は、なおさら頭にはない。お上のご意向には唯々諾々と従うしかない、無知で無力な民衆像があるのだ。サヨク人士の根っこの部分にあった「意識の低い」民衆を軽んずる感情は、脈々と受け継がれている。
 民衆はそんなに愚かではない、というより、支配・被支配とはそんなに単純な、一方的なものではない。ヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」(「精神現象学」)を持ち出すまでもなく、強権の発動には、発動される側(民衆)のある程度の同意が必要なのだ。その「ある程度」とはどの程度かは、常に難しい問題ではあるにしても。
(2)「武装した民衆が、まず圧制者たる王侯貴族を倒し、次に外国からの不当な圧力を跳ね返すために、国民全員が兵となって戦った」
 フランス革命時に現れ、その後全世界に国民皆兵制度を広めた理念である。が、半ば以上フィクションであろう。
 ところで、日本の場合、このフィクションを支えるための、半分以下の事実もなかった。
 明治維新は、薩長土肥の連合軍が、徳川幕府とそれに味方する諸藩を打倒することで始まった。戦ったのは、長州の奇兵隊など、少数の例外を除けば、すべて武士だった。その後、庶民からリクルートした近代的な軍隊は、庶民自身の要望ではなく、あくまで、大村益次郎や山縣有朋など、明治新政府で兵制改革に当たった要人たちの政策から出来上がっていく。こういうところで明治維新は、正に「上からの革命」だった。
 そこから来る一種の焦りは、明治五年の徴兵令先立って出た「徴兵告諭」からも感じとれる。ほとんど不自然に見えるくらい強く、かつての特権階級である武士を貶めているのだ。以下に、初めのあたりの現代語訳を試みる。

 我が国の太古の制度では、国内の人民で兵士でない者はなかった。有事の際には、天皇自らが元帥となり、壮年者の中で兵役に耐えられる者を募集して、この軍で反逆者を討伐した。戦が終わって家に帰れば、農民であるか、工人であるかまたは商人であって、後世の、大小二刀を帯にはさんで武士と称する、あつかましくタダ飯を食らい、ひどい場合には人を殺しても、公に罪を問われないような者は、もちろんいなかった。(中略)維新で、各藩は領地を天皇に返還し、明治五年に及んで、藩は廃されて郡と県を置く昔にもどった。生まれつきの身分でタダ飯を食らっていた武士からは、俸禄を取り上げ、刀を捨てることを許可して、すべての身分の者にようやく自由な権利を得させようとした。こうなったからには武士は以前の武士ではなく、民衆は昔の民衆ではない。みんな同じ皇国の民であって、国に尽くす道も、もちろん身分による区別などあるはずがない。

 不自然なのは歴史の語り方だ、とすぐにわかるだろう。武士などという戦争の専門家、従って戦争がなければタダ飯食らいになるしかない者が、階級として生じたことこそまちがいだった、そのまちがいを正して昔にもどるのだ、とされている。昂揚した調子でなかなか読ませるが、それだけに非常に強引な論理運びである。
 ただ、こういう場合に「昔」が引っ張り出されること自体は、そんなに特別なことではない。エリアーデ(「永遠回帰の神話」)が説くように、大規模な社会変革は、まっさらな新しい時代になる、というよりは、むしろ理想化された過去の時代を「復古」するのだ、と言われるほうが普通なのである。
 理想化は、必ず、「これから」のための都合と願望によって行われる。それなら、そのやり方を見れば、この告諭を出した側が、これからの時代がどうあってほしい・どうあるべきだと考えていたか、がわかるはずだ。
 告諭の文中、廃藩置県は復古だ、というのはあからさまなデタラメである。日本では地名としても行政区分としても、奈良朝の律令による「国」(武蔵国とか下総国とか)が、正式には(形式的には)明治まで存続していた。古代には国より小さな県(あがた)という地域名もあったようだが、現在まで続く「県(けん)」は、中国の郡県制に倣って、明治期に創出されたものだ。しかも、秦の時代の郡県からすると、県と郡の大小が逆になっているのは、以前は「国」の中に「郡(こおり)」があった名残である。
 そんな細かいことはどうでもよろしい、とこの告諭の筆者は思っていたようだ。肝心なのは、天皇を頭として壮年で頑健な者は皆兵士となる、かつてあった、あるべき国の姿に戻ることだ。いったいどれくらい昔の日本がそういう状態であったかのかはよくわからないのだが、ともかく、日本の国柄とも矛盾しないし、これから権利を持った自由な民衆を創出するためにも必須の条件となるものなら、いいに決まっている、と。
 すべてが明治国家の都合によってこしらえられた詭弁だ、というのも一面の真実ではある。
 だいたい、告げ諭された民衆のほうが、こんな物語に乗っかって、皇国のための兵士に喜んでなろうとするのは少なかった。何しろ、一家の働き手が取り上げられるのはたいへんな痛手になる。血税一揆(徴兵告諭で、兵役を血税と表現していたため、この名がある)が各地で勃発した。そこまで過激にならなくても、明治六年の徴兵令では、二百七十円の「代人料」を払えば逃れられた他、官吏・医科学生・官公立学校生徒・「一家ノ主人タル者」・嗣子(家のあととり息子)・養子・独子独孫、などなどがすべて免除の対象となったのだから、兵役逃れのために、戸籍の上だけ他家の養子になるような者も出てくる。
 それは深くは追求されなかったようだ。それというのも、告諭の高い調子とは裏腹に、この時期、政府としてもそれほど多くの徴兵を集める気はなかったからだろう、と加藤はより専門的な著書『徴兵制と近代日本』で推測している。理由の第一は、もちろん予算不足だが、それと同時に、山縣たちは、少数精鋭主義でいきたかったのだろう、と(P.51~69)。徴兵令の付録部分には、全国のこの年の徴員は一万五百六十人にする、と明記されていたそうだ。
 実際に、当初、徴兵免役者は壮丁(二十歳)の八割以上に及んだが、残り二割弱の徴兵検査を受けた者のうちからさらに抽籤で選ばれた者が、実際に兵役についた。その数は明治十二年まで毎年ほぼ一万人前後、これは壮丁のうち約三〇分の一だと言う。
 その後明治十六年の徴兵令改正によって、代人料を初めとするほとんどの免役は廃止され、疾病・障害によって兵役に耐えない者以外はすべて「猶予」(後に「延期」)とされたが、明治前期を通じて壮丁(二十歳)のうちリクルートされる者は一年で一~二万人、日清戦争後の明治二十九年でやっと四万を越えた(壮丁の約一割)。
 武家排斥の立て役者とみなされ、明治二年に不平士族に襲われて、その傷が基で死んだ大村益次郎に、「兵を縦に養つて横に使はなければいかぬ」という言葉があるそうだ。意味は、兵となるべき人材は少数選抜して一定の服役期間に訓練を課し、終了後は生業に就かせつつ在郷軍人会に在籍する予備役の兵として、次第に兵員を増やしていく、というものだ。こうすれば政府は兵を養うのに余計な金を使わなくても済むし、一般社会の中に軍人という存在を根付かせることもできる。
 加藤が徴兵令の変遷をまとめた表(『徴兵制と近代日本』P.46~50)で明らかにわかることだが、現役兵としての訓練機関は、陸軍では明治六年の三年間が昭和初年までずっと変わらない(海軍は明治二十二年から四年になった)のに、予備役の期間は、明治十二年の三年間から昭和二年の五年四ヶ月(海軍はこのとき四年で、昭和十四年に五年になった)と着実に伸びている。これが日本の、兵力増強の方法だった。

 このようなハード面、すなわち制度の整備とはまた別のところで、ソフト面としての思想に関するところで、多くの言論が、近代国家には必須の、国民意識の涵養を呼びかけている。それはむしろ、在野の言論人のほうに多く見られる。加藤が栄光学園の生徒たちに問いかける形で特に注意を促したのはこのポイントである。
 例えば、徴兵令と同じ明治六年に出た福沢諭吉の「学問ノスヽメ」第三篇。これは「一身独立して一国独立する」という言葉で有名だが、その意味するところはこうだ。民は依らしむべくして知らしむべからず、ということで、一パーセント以下の智者(福沢は千人に一人、つまり〇・一パーセントだと言っている)が残り大多数の愚民を統治する国は、平和なようだけれど、いったん他国との戦争ともなれば、愚民はそんな大事を引き受けようもなく、逃げてしまうだろう。もとより国政は政府の仕事であり人民はその支配を受ける者だが、これはただ便宜上持ち場を決めただけであって、国の面目にかかわる場合には、それを我が身の上に引き受け、命をなげうっても尽くす気概が人民になければ、とうてい今後諸外国に伍してやっていけるものではない。
 これが福沢の求める独立心なのであり、徴兵告諭と軌を一にしていることは一見して明らかだろう。福沢は何も政府に協力しようとしたのではない。明治一五年の「兵論」では、徳川時代の低い経済力で、しかも租税も重く苦役も多かった時代に二百万の武士を養っていたのに、現在は七万四千の陸軍を養っているだけだ、これでは兵制改革の意味はない、とかえって政府の手ぬるさを叱咤しているぐらいだ(前掲書P.20)。軍備に関しては、民間人のほうが性急な場合もあったのである。
 同じような文脈で、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』にはいくつかの民権派の言説が紹介されている。千葉の名望家幹義郎は、明治十二年の日記に書いている。日本が本当に独立国たりえるためには、国会開設や民権拡張は大切だけれど、それより不平等条約改正のほうが先だ、と(P.109)。同じ年、山梨県のある民権派の新聞は、次のような社説を載せた。一国の兵力は、兵士の力だけではなく、その背後の国民一致の力に他ならない。では何によって国民を一致協力させるのかといえば、国会によってである、と(P.113)。
 極めつけは田中正造が日清戦争終結間際の明治二十八年に出した年賀状であろう。曰く、巨額の戦費を賄えたのは、国会開設以来民党が苦節に耐えて経費を節減したからである。辛酸を共にしたからこそ今日の快楽を同じうすることができる。まことに目出度いことだ、と(P.124)。田中が足尾銅山鉱毒問題を天皇に直訴しようと試みるのは、この六年後のことである。これほど筋金入りの民衆派でも、国会が戦争のために役だったことをこの時点では喜んでいた(ただし日露戦争では反戦の立場になる)のは、記憶に値するだろう。

 かくして、「民衆は、国内の王侯貴族は倒さなかったが、外国からの不当な圧力を跳ね返すためなら、国民全員が兵となって戦える」国をめざすことが、日本の近代化への道となった。
 他の選択肢はなかったのだろうか? これを考えるには、他国との比較と、日本のその後たどった運命を見る必要があるだろう。
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近代という隘路 その2(大震災にひきつけて考えました)

2011年03月20日 | 近現代史
 このブログではもともと身辺雑記は書かないつもりだったし、今度の大震災で、私個人が被害を受けたわけでもないので、記録に値するような事柄もない。実際、勤務先や家の片づけが未だに終わらない、とか、ガソリンが手に入りづらい、などということをこまごま書いたのでは、それ自体宮城や福島の被災者の方々を馬鹿にしているように見えかねない。
 といって、観測史上最大という今回の地震とは全く関係なく、かつての戦争についての愚考を披歴するのも、不謹慎とまでは思わないが、なんだか場違いな感じがしていた。「紅旗征戎(こうきせいじゅう)吾が事に非ず」などとすましていられるほど偉いわけではないし。それが私の勝手な思い込みではないとしたら、公開日誌でもあるブログというものの性格がしからしめるところなのだろう。
 とはいえ、あれから一週間以上たった。TVの軽佻浮薄番組・CMが復活しつつある。春の甲子園大会も開催されるようだ。で、別になんの関係もないのだけれど、あくまで気分的には、現在進行中の問題を、自分一個の関心事に引きつけて考えたことを公開してもいいように思えてきた。これを読んでくださっている人に、多少の参考を供することを期待しつつ。

 今現在、被災地の人々を含めた日本中の、第一の関心事は原子力発電所の問題であろう。
 人類は、自然の中の力(エネルギー)を制御し、役立てることで文明を築いてきた。古来からの火、即ち燃焼の力と、比較的近年の、電流の力がその代表である。力は、使い方によって、ものを作ることも、壊すこともできる。人間の制御を完全に離れた力は、どの人間の役にも立たない、純粋な破壊をもたらす。
 物質を根本的なところで壊して得た原子力は、たぶん宇宙の根源的な力の一つなのであろう。それはまず、戦争時の、強大な破壊力として登場した。現在は制御することによって、電力を作るのにも使われているわけだ。千年に一度の災害が、その制御システムに損傷を与えた。放っておけば、たいていの人間が想像したことさえない、大災厄が新たに始りそうなのだ。遠く離れた場所にいても、放射性物質なるものが、風に乗って災いを運んでくるのだそうだ。
 ただし、用心しよう。放射線に関しては、誰でも普段から浴びているものではあっても、数値的なことなど素人にはまるでなじみのない世界なので、「数字のマジック」が飛び交いやすい。マイクロシーベルトがどういうものか、一般人には具体的に知る由もない。ただ、福島で通常の五百倍超、東京でも十倍、などと聞くと不安になるし、ただしそれは胃のX線検診で受ける放射線量の30分の1以下で、健康に影響が出るレベルではない、と聞くと、少し安心する。そんなものだ。
 たぶん、どちらかというと、後者のほうが正しいのであろう。ホウレン草やら水に少し放射性物質が付着しているらしいというニュースも流れたが、それも時が流れれば忘れる類のものであろうと思う。もちろん、そのほうがいい。
 およそ浅薄な考えだな、という人もいるだろう。原子力とは、お前などがぼんやり想像しているのより、ずっと恐ろしいものなのだ、と。そうかも知れないが、徒に不安を煽るぐらいだったら、惰眠を貪るほうがまだましだろう。

 そんなことより、根本的に、原子力発電事業そのものがどうなんだ? のポイントで今後論議が活発になるに違いない。東京電力は、安全性を強調してきたのに、危険であることは誰の目にもはっきりしてしまった。それでも、この事業を続けるのか、やめるのか。やめる、とした場合には、その代わりに火力発電所を増設するのか、それとも、我々が、今ほど電力を使わないで済むようなライフスタイルに転換するのか。利害得失から、日本人の意識まで勘定に入れて、最善の方向を定める、と言えば、言葉の上では異論の出ようもないが、具体的にはどうやってやるのか?
 国民主権なのだから、最終的に決めるべきなのは「国民」だということになるのだろう。それはもちろん、イコール私やあなたではない。日本国籍がある個々人の「総意」である。そんなことは全く自明であるようだけれど、その総意はどのような形で汲み取られ、調整されて、例えば、原発なら原発の存廃を決めるのだろうか。
 答えは、議会制民主主義によって、ですね。すると、現在の議員の皆さんは、私たちの意思をまちがいなく、「国民の総意」にまでまとめていくのにふさわしい人物たちなのであろうか。皆が、そう信じているだろうか?
 というようなことを考えていくと、「国民主権」というのは非常に難しいものであることがわかる。一方、国の力は、ふだん意識するしないにかかわらず、確実に、ある。早い話が、原発を作って運営できるのは、国だけであろう。他の集団や個人には、だいたい、それほどの金が集められるわけはないし。
 つまり、我々の中の「何が」原発をもたらしたのか、よくわからない。原発反対派は国の内外に根強く存在するし、大多数は、こうなる前は、特に賛成でも反対でもなく、無関心なのである。それでも原発はできた。できたものは、我々の生活を支える一方、いざとなれば一瞬にして破壊する力を現に持つ。
 冒頭に掲げた藤原定家の日記(「明月記」)中の言葉は、彼が名門貴族の家の子で、平氏追討という平安時代末期の政治的な大事件には関心を持つのが当然だったからこそ、敢て言われたものである。近代だと、日清戦争があったことをしまいまで知らなかった学者がいるという話(誰のことでしたっけ? どなたか、御教示ください)があるが、大東亜戦争となると、日本の負けを信じなかったというブラジルへの移民、通称「勝ち組」を含めて、あったこと自体を知らなかった国民はまず考えられない(今の日本の若者の中にはいるようだが)。
 国家が発展するにつれて、それだけやることも大きくなり、巻き込む人の数も増え、巻き込んで犠牲を要求する度合いも高まる、ということである。個人が国家に対してどれほど関心を持とうが持つまいが、この事実は変わらない。今シリーズは、このことを中心に考察を進める予定であった。

 が、いきがかり上、いきなり現在の話になってしまった。気ままに書いている文章なのだから、そのへんは気にせずにやる。
 前回のシリーズ「正しい道はあるのか」で問題にしたような、「物語(の供給源)としての国家」は、現在ではどうなっているのか。昔とはずいぶん変質したのだろうか。そうも見える。大国同士の戦争の可能性が低くなり、それにつれて、一般国民が「国への忠誠心」を具体的に要求される場面は減る。そのためかどうか、兵役の志願者数の減少は、日本にだけ見られる現象ではない。アメリカでも、特にエリート層・富裕層では、兵役は避けられるようになっていることは、サンデルの本にも書いてある(『これからの「正義」の話をしよう』P.110)。徴兵制のある韓国では、不正な徴兵逃れを請け負う者たちが、一個の産業を形成している、と言われている。
 それでも、現代でも、この日本にも、兵士は、自衛隊員以外にも、いる。殉職なされた警察官や消防隊員の方々は、英霊と呼ばれてもいいだろう。そして今日も、チェルノブイリ級の惨劇(1986年)を避けるために、東京電力の職員・警察官・消防隊員・自衛隊員などが必死の活動を続けている。菅首相が東電へ行って、ハッパをかけたのがどれくらい利いたのかは知らないが、日本という国家への帰属意識がなければ、そんなことはできないに違いない。
 各国大使館が、日本滞在中の同国人に、福島第一原発付近からの避難勧告を出していること、勧告されたほうは、福島付近どころか、日本そのものから逃げ出すこともあるのは周知だし、その一環として、日本の航空会社で、外国人パイロットが帰国したきり戻らないので、一部欠航を余儀なくされているケースも報道された。こうした外国人たちが、日本人より臆病なわけでも、原発の危険性について知悉しているわけでもないだろう。この国のために、ほんの少しの危険でも冒す義理を感じていないだけの話なのだろう。
 今、日本人の全員がそんなふうになったら、それこそ壊滅的なことになるのはわかりきっている。つまり、「国への忠誠心」は、なくなっては困るのだし、幸いにしてなくなってはいないのである。将来はどうなるか、とても興味があるが、とりあえず、現に、国・国民を守るために最前線で戦っている人々には、国は応分の待遇と栄誉を与えねばならぬと思う。それは今日、どんなものになるのだろうか?
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近代という隘路 その1

2011年03月09日 | 近現代史
メインテキスト: 加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社 平成20年 平成21年第16刷)

 本書は、桜蔭学園出身で現在東京大学文学部教授である著者が、栄光学園の中高生のうち、歴史研究部員を中心とした有志二十名ほどにした特別講義を基にしている。多少とも受験業界に近いところにいて、これらの学校名を知らない者はいない。まあ、雲の上の世界だな、オレのような、地元民以外は誰も知らない公立で小学校から高校まで過ごし、今もまたそんな公立高校にいる人間には関係ないな、とすぐに思えてくるが、それは僻みというものだろう。このレベルの授業はとうてい無理だ。だいたい、私の担当教科は地歴ではないし。でも、何か学べるところはあるはずだ。日本の近現代史については、個人的に、知識はないけれど、興味はあるし。
 そう思って読んだら、実際たくさん勉強になった。例えば次のようなところ。
 日露戦争前の明治三十三年、山縣有朋内閣が選挙法を改正し、選挙権の納税資格を直接国税で十五円から十円に下げ、被選挙権には実質的に納税資格はなくなった。一方、翌年組閣した桂太郎は、戦争準備のために、税収の七割増を断行。これは時限立法のはずだったのに、日露戦争後もそのままの税率が維持された。それはつまり、全国民の納税額が増えるということだから、選挙権を得るに足るだけの税金を納める人も増える、ということを意味する。その結果、有権者は、明治二十三年の最初の選挙時には四十五万人、三十三年には七十五万人、日露戦争後の明治四十一年には百五十八万人になった(P.182~186)。
 これは瞠目すべき変化だ、と言われる。そうですね、で、日本の社会はどうなったわけですか? 当然それに関する加藤先生の講釈が続くと予想されるのだが、「これが大切なポイントです」でここの、「第2章 日露戦争」は終わり。山県が納税資格を引き下げたのはどういう理由からかは書いてあるので、それらを基にして、自分で考えなさい、ということらしい。いやあ、この不親切、すばらしい。私も見習わなくては。

 教師としてはそういう教訓を得たわけだが、日本史を学ぶ者として、せっかくだから、上の問題への解答を考えてみよう。例えばこういうことかな。
 戦前の直接国税は、地租、営業税、所得税の三種。このうち、地租の割合が最も高かったので、議員には地主が多かった。戦費を賄うためには、一番高額で、また取りやすい地租を上げなければならないが、それは、当たり前だが、地主議員たちには気に入らない。すると、戦争のための法案も予算案も議会を通りづらくなる。そこで山県は、都市部の企業経営者や銀行家などの代表者も議会に入れるべく、納税資格を引き下げた。以上が本書に書かれていることである。
 これはつまり、日本が戦争をしやすい国になった、ということになるのではないだろうか。地主は戦争を喜ばない。地租が上がって、取られるものを取られるだけで、戦争で得るものは何もないからだ。商工業者は、同じく税金はたくさん払っても、戦争による儲けが期待できる場合もある。鉄工業や造船業はそうだ。事実これらは、戦前における花形産業になっていく。それに伴い、経済界のトップは、忙しくて政治なんかやっている暇はないが、彼らの代表者が議会に送り込まれていることはどうしても必要である。ここで、藩閥とは無縁の、純粋な政治家が登場した。
 かくして日本は、ソフト面でもハード面でも、近代戦争を戦えるだけの体制が整えられた。山縣有朋や桂太郎がそこまで考えていたかどうかはわからないものの、日露戦争前の選挙法の改正や税率の引き上げは、その意味で、近代化の流れに棹さし、その里程標を刻むものだった、と見ることができる。

 以上の私の見方がとんでもない的外れでないとしたら、とても大切なことを学ばせていただいたわけで、加藤先生にはお礼申し上げたい。しかし一方、ちょっと違和感が持たれ、私が講義を聴いた生徒だったら、質問したいこともいくつかあった。それは、「序章 日本近現代史を考える」に集中している。
 国家は、大戦争を経験すれば、勝っても負けても、変化が要求される。社会契約説から見ると、それは、国が国民と交わす約束を変更する、ということである。日清戦争から大東亜戦争(加藤はもちろん「太平洋戦争」の呼称を用いている)まで、ほぼ十年ごとに対外戦争を行ってきた日本の場合、それはどういうものだったか。これが加藤の問題意識の根底にある。
 それはたいへんけっこうなのだが、それを、長谷部恭男や、彼が『憲法とは何か』(岩波新書)で紹介したルソーなどを援用して、「広い意味での憲法の改変」と言われると、どうだろうか。日本は大東亜戦争の敗戦まで、憲法を変えなかった、ということより、最後のときの改変に関して、様々な問題があり、それが今も尾を引いていることには、もっと考慮が払われるべきではないだろうか。
 加藤は、憲法前文にある「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」の部分は、リンカーンのゲディスバーグでの演説で最も有名なof the people, by the people, for the peopleが踏まえられている、と指摘する。なるほど、なるほど。そしてこの事実は、歴史的に見れば、次のことを意味する。リンカーンの演説は、南北戦争で多大な犠牲を出したアメリカでの、新たな国家統合のための原理を示す必要から出てきた。それが日本国憲法にも取り入れられたということは、未曾有の敗戦後の国家原理として、この、一言で言えば「国民主権」が採用されたことになる、と。
 お説の通りではあるが、「採用した」主体はいったい誰か。日本人か? そう言えるか? リンカーンは、アメリカ合衆国分裂の危機を招いた人物ではあるが、正当な手続きで選ばれた大統領であることはまちがいない。一方、現憲法の前文と条文を書いたGHQは、占領期間だけ、暫定的に統治権力を認められたに過ぎないのである。
 この事実は、今では広く知られているが、憲法制定当時は、公的には、伏せられていた。占領地の法律を変えるのは、ハーグ陸戦条約第四三条に抵触するからだ。加藤が引用しているルソーの、「戦争は、国家と国家の関係において、主権や社会契約に対する攻撃、つまり、敵対する国家の、憲法に対する攻撃、というかたちをとる」(P.41)は、文字通りにやれば、国際法違反になる、とみなすべきなのである。しかし、実際にはアメリカは、かつて日本でやり、今またアフガニスタンやイラクでやろうとして、蹉跌を重ねている。
 ここまででたぶんお察しの通り、私は、現憲法は、アメリカによって押しつけられたものだから、よくない、という考えに、どちらかと言うと共鳴する者である。この考えは今も少数派であろう。それでも、「国民主権」を得る際に、その国民の意思が関与したわけではないという事実に、我々は心理的にどう決着をつけたのか。むしろそういうとは不問に付すのが、現代日本の「国体」の一部になっているのではないだろうか。憲法自体のよい・悪いより先に、私にはそれが一番気になる。愚見の一部は『軟弱者の戦争論』でも述べた。ここではこれ以上は言わない。

 本書序章に関する私の違和感はもう一つある。
 加藤は歴史を学ぶことの効用を、「過去からの教訓」を得るところに求めている。「重要な決定を下す際に、結果的に正しい決定を下せる可能性が高い人というのは、広い範囲の過去の出来事が、真実に近い解釈に関連づけられて、より多く頭に入っている人」(P.72)なのだと。この部分には、アーネスト・メイ『歴史の教訓』(岩波現代文庫)が援用されているのだが、メイはまた、政府の指導者は、過去の事実を知ってはいても、しばしばそれを誤用するのだ、とも言っている。
 一例として、ベトナム戦争がある。「ベスト・アンド・ブライテスト」と呼ばれた、ケネディ及びジョンソン政権を支えたアメリカ最優秀の人々が、アメリカが国家として密接な関わりがあったわけでもないインドシナ半島の、無益な、泥沼のような戦争になぜ深入りしてしまったのか。「共産主義に対する恐怖心から」という、栄光学園の生徒の解答が紹介されている。私はこれが正解なんじゃないかな、と思うのだが、メイ・加藤両先生は、もっと具体的な答えを考えておられた(P.77)。
 その答えは本書に書いてあるので、それを読んでもらえればいい。私が言いたいのは、こういうところからして、本書冒頭の、九・一一テロと日中戦争の類比はどうなのかなあ、というところだ。この二つは似ている、と言われている。どこが? 後者では、近衛文麿首相の「国民党政府を対手とせず」(昭和十三年)という声明に象徴されているように、日本は中国と戦争しているという意識は薄く、悪いことをした人を警察が取り締まるような感覚で戦っていた。九・一一テロ事件を起こした連中に対して、アメリカ人が持った意識もそうだった、と。
 それはアメリカ人がまちがっている、とは加藤は言っていないが、どうもそんなニュアンスである。つまりこれも、新しい形の、ではあるが、あくまで戦争だと捉えるべきだ、ということらしい。そうかなあ。
 日中戦争に似ていると言えば、ベトナム戦争のほうではないか? 両方とも、敵がどこにいるか、いつも細かく特定はできなくても、中国大陸や北ベトナムのどこかにいることは明らかだったし、国家の代表者と呼ぶにはいささか問題はあっても、ちゃんとした指導者はいた。戦争と考えてもよかったはずなのに、そうはせずに、宣戦布告もしないで戦闘を初めて、いつどうやって終わるやらの見込みもつかず、どんどん泥沼化していった、というところで両者は共通する。
 九・一一の場合、「アルカイダ対手とせず」とは誰も言わない。そんな言葉は、相手にしようとすればできる状態でなかったら、出てくるはずがない。近衛声明は、蒋介石を、講和条約の交渉相手にはしない、つまり和平の条件を話し合ったりはしない、という意味だが、アルカイダとどうやって交渉すればいい? アフガニスタンでは勢力があったとはいえ、もとより国ではないし、首謀者とされるオサマ・ビンラディンは、どこにいるのか、生きているのか死んでいるのかさえも、はっきりしない状態なのに。
 第一彼らは、何を狙って貿易センタービルを倒壊させたのか? 「憲法に対する攻撃」? なるほど、狭義の合衆国憲法というより、アメリカ型資本主義体制に対する攻撃として、その象徴を破壊したのだ、というのは、そうかも知れない。でも、そんなことだったら、それこそ、政治というよりは哲学の問題になってしまう。どういう決着がつくのか? アメリカや日本を含めた西欧諸国が中近東から完全に引き上げればいいのかも知れないが、そんなことができるかどうかより、誰と、「その条件が満たされたら、我々はテロをやめる」というような約束できるのか? 
 要するに、戦争を、旧来の、「国家間の、武力行使を伴う紛争」と考えたら、これをそう呼ぶのは、あまりにも無理がありすぎる。IRAがイギリスでよくやる爆弾テロは、戦争とは呼ばれない。犯罪なのだ。IRAやアルカイダに三分の理はあったとしても、同情の余地がある殺人もやっぱり犯罪であるように、そう呼ばれるべきだと私は思う。
 アメリカのまちがいはむしろ、そうであるのに、戦争として、アフガニスタンやイラクに攻め込んだところにあるのではないか。国家が犯罪者集団を直接相手にした前例は、近代ではたぶんない。そこで、かどうかは定かではないけれど、そのためもあって国家を攻撃対象としたとしたら、「歴史の誤用」と呼ばれるべきだと思う。
 特にイラクの場合、指導者サダム・フセインが、大量破壊兵器を保有している・アルカイダとつながりがある、という二つの理由で、第二湾岸戦争を開始したのに、どちらも「はずれ」だった。それでも、今後イラクが完全に「民主化」されるならば、「終わりよければすべてよし」になるだろうか? そうだとしても、道は非常に険しそうだ。一方、この強引なやり方によって、テロリストを初めとする世界中の人々に、より深い反アメリカ感情を抱かせたのは、確かなことである。
 思うに、ここでの「歴史の教訓」はこうだ。我々は、国家ではないが国家並みの武力を持った集団をどう対処するか、まだわかっていないのだから、なるべく早く考え出すべきである。二十世紀の大戦争を経て、人類は、曲がりなりにも戦争の規制のための法を整備してきた。これからは、国家以外も視野に入れて、「暴力の管理」という大問題に取り組まなければならない、ということ。

 以上は、本書に関する軽いジャブみたいなものである。私には、重い、メガトン級、どころか一トン級、いや一キロ級のパンチもないのだから、できるのはせいぜいこんなものだ。今後も、加藤先生には申し訳ないけれど、学びつつ、からむ言い方で、日本の近代の運命について、思いついたことを書き連ねていきたい。
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