St.Basil the fool For Christ of Moscow, around 1700
メインテキスツ:大江健三郎「不満足」(初出は『文學界』昭和37年5月号、新潮文庫『空の怪物アグイー』昭和47年所収)/同「個人的な体験」(新潮社昭和39年刊、新潮文庫昭和56年)
初期の大江健三郎もまた、終戦直後の「青春」を描いた代表的な作家である。しかしそれは常に、脱出すべき不毛で閉塞的な状況としてある。
鳥(バードとルビがふられている。二十歳)、〈僕〉(十六歳)、菊比古(十五歳)の三人が汽車に二時間乗って地方都市に着いたところから短編小説「不満足」は始まる。彼等は定時制高校で同じクラスだった。リーダー格の鳥は、年下二人に仕事(肉屋)を世話することになっていた。
車中鳥は大人ぶった態度で、「興味と無関心と嘲弄とを交互にしめしながら」なぜ仕事をする気になったのか二人に訊く。
そこで僕と菊比古は逆に子供の領分に閉じこもって、鳥にそれを結局子供の気まぐれなのだ、と感じさせようとした。
僕と菊比古は自分たちの体のなかに蜂のように巣をつくり、ぶんぶん唸る怖れ、ずっしりと重い恐怖について、鳥にうちあけることが羞恥のあまりとてもできなかったのだ。
なぜなら鳥は、「あらゆる種類の恐怖心から自由な男」として崇拝されていたのだから。
菊比古と〈僕〉とは週末にも退学になることが決定的だった。鳥が持ってきた、(たぶん非合法部分の)共産党が刷った反戦ビラを、米軍基地へ配りに行ったからだ。その内容について二人は何も知らない(鳥も、政治活動にさほど深入りしていたとは思えない。少なくとも、それについては作中では何も語られない)。鳥自身は、これより前に、学校の体育館で下級生の女の子と寝たことで、退学になっていた。
昭和25年、朝鮮戦争が始まり、警察予備隊が創設されようとしていた。学生でもなく仕事もない若者(今風に言えばNEET)は強制的に徴兵され、朝鮮へ送られるという噂が流れていた。「こういう噂を信じることはなかったのかもしれない」ことはわかってはいたのだが、そんなものにも脅えるほど、社会の中に公的な居所をなくした彼等の不安は強かったのだ。
前回述べたことを繰り返すと、青春とは、学校という社会制度によって作られた人工的な期間である。そこに属している学生だから、呑気に遊んでいても許される、という黙契がある。少なくとも、彼らはそう思っていた。それがつまり「青春を謳歌する」ための条件なのだ、と。因みに、今の若者もけっこうそう思っている。
駅に着くと、急行列車の寝台車に乗った、顔の下半分のない若いアメリカ兵を目撃する。二人の恐怖は倍加される。
三人は駅から市電に乗る。その中で菊比古と〈僕〉とは、肉屋になどなりたくないことを打ち明ける。そこで肉屋のある繁華街を乗り越し、終着駅の精神病院まで行く。無礼な態度の運転手を鳥が殴り倒す。少年グループのタフなリーダーとしては相応しい振舞で、菊比古は満足するが、結果、彼等は運転手の仲間であるこの街の不良少年達(蝮団)につけ狙われるようになる。
鳥は精神病院の知り合いから、脱走した気ちがい(原文のママ)を連れ戻すことを依頼され、受ける。三人は自転車を無断借用して探索のため街へ赴く。
運河に人だかりがあるのに出くわし、鳥たちは、彼等の探す者がそこにいたことを知る。彼はずっと橋の下に寝ていて、夕暮れに橋の上に出てきて、通行人に、「この世は地獄かそうではないか」などと訊いていた。そして、女の子が溺れかかったのを見て、ガラスの破片で一杯の河原で、足や尻が傷つくのもかまわず、水に入って救う。
その後鳥と他の二人は別行動で探索を続ける。
菊比古は〈僕〉に、鳥に対する不満を初めて口にする。鳥は自分たちとは別の友だちを作っている。その男は「勤勉に生活しているもと詩人といった自己満足ぶりさ。鳥もああいうふうに満足した大人になりたがっているんだよ、いつも不満足なおれたちと別れて」(下線部は原文傍点。以下同じ)
彼等は屋台で呑んでいる足を怪我した男を見つけるが、菊比古は「可愛らしいお嬢ちゃんのよう」だとからかわれたので、腹を立てて怪我をしている足を蹴る。「あいつは会社に行きたくなくて、わざわざバタ・ナイフで踵を切ったんだよ」。
いい年をして仕事をろくにせず飲んだくれているような男は、彼の目から見ても軽蔑すべき者なのだ。「青年」もまた、このような社会の「べき論」から離れたところで生きているわけではない。だからこそまた、その「べき」によって、彼ら自身が脅かされることになってしまう。
これをきっかけに、二人は人探しの意欲をすっかりなくす。
鳥は一時間遅れて待ち合わせの場所に現れる。彼は気ちがいに出会ったおかまといんばいの、二人の人物から話を聞いてきていた。
おかまによると、
その男が極端だけど心底からこの世界を恐がっているのを見ていると、その男をつうじて真実の世界がみえてくるようなんだといっていた。しかも恐ろしい現実世界にひとりぼっちでいる勇気もあたえられるみたいだといってたよ。おれたちが安穏と生きていられるのは、かわりにあんな男がこの世界の地獄について考えているからじゃないかとおかまはいうんだね。
まるで子どものようないんばいは、気ちがいに無償で自分を差し出さなかったことを強く後悔していた。
菊比古は、鳥の話を遮り、「汚い連中のことはもういいじゃないか。ほっといて帰ろうよ」と言うのに対して、鳥は、菊比古がCIEのアメリカ人と寝ていることを暴く。彼等の友情は壊れる。菊比古と〈僕〉とは私鉄の終電で帰る。「鳥、おれは恐かったんだよ!」という言葉を残して。
鳥は気ちがいを見つけて逃がす気になっている。その述懐。
いままでおれが自分を勇敢だと思ってやってきたいろんなことが、本当は卑怯な無責任なことだったという気がしてきたんだよ。運転手を殴ったりしたことがなあ。おれは無責任は厭になったんだよ。唯、自分のまわりに不満足で暴れている無責任がな。
「不満足」の〈1〉はこれで終わり。〈2〉になると、〈1〉では語り手だった〈僕〉は消え、三人称によって鳥の探索の顛末を描く。また、〈1〉に比べるとごく短い。このような手法は何を意味するか、今のところ興味がない。
内容。深夜に、あと少しで気ちがいにたどり着きそうになった時、鳥は蝮団に襲撃される。凄惨なリンチから目覚めると、病院が捜索のために放ったシェパード犬に脅えたその男は、既に首を吊って死んでいた。病院の知人がオート三輪で迎えに来ていた。それに乗せてもらいながら、「鳥はもう、菊比古たちの不満と恐怖の世界に戻ってゆくことはないだろう」と、思うのだが、やがて、そうではなかったことが明らかになる。
二年後の「個人的な体験」に鳥は再登場し、不満と恐怖の世界を、まさに「この世は地獄だ」と実感される時間を過ごすことになるのだ。
そこに移る前に、「大人になること」とはどういうことか、愚考をまとめておこう。
他者との具体的な関係の中で、あるいは関係を通じて、最広義の「善」を実現すべく、ある役割を、自己の「責任」として、積極的に、できれば持続して、引き受けること。
上がある程度認められたとしても、面倒なのは、「善」とは何か、必ずしもいつも自明ではないところだ。
病院を脱走した精神病患者を逃がしたりしたら、犯罪になるのかどうか、よく知らないが、普通の感覚で「いいこと」だとは言えないだろう。しかし鳥は、自分が捜索を依頼された男が、監禁されたり監視されたりするのは相応しくない、どころか、不当な行いになる者だと確信する。
この人物は、ロシア文学に出てくる宗教的畸人(ユロ-ジヴイ)としての救い主のイメージに近い。奇矯なふるまいと言葉で人々を惑わすが、それによって深い真理を伝え、ある人々には唯一無二の精神的な救いをもたらす。【大江の後の作品に登場する隠遁者ギーなどは、同類のようだが、そういう点からみると、あまり説得的に描かれていないように思う。】
少なくとも、他人に危害を及ぼすことはないようなのだから、どこかに押しこめておく必要はない。それを合法的なやり方で人に納得させることができればいいわけだが、たぶん非常に面倒な手続きが必要だろう。そこでそれを省いて、どこか好きなところへ(この人は「港」へ行きたがっている)勝手に行かせようとするのは、「無責任」だと言い得る。
そういうところ、鳥はまだ大人ではない。だからこそ思い切ったこともできるわけだが。
「個人的な体験」は、その七年後を描く。二十七歳になった鳥は予備校の英語の講師をしている。【不良少年のリーダーからまたずいぶんな変身だな、と思う人もいるだろうが、これに近いケースは実際にある。例えば、ザ・タイガースのドラマーで、沢田研二の次ぐらいに人気があった瞳みのる。バンド解散後。以前に中退した京都の定時制高校に入りなおし、そこから慶応大学、同大学院を経て、つい最近まで慶応高校の漢文の教師をしていた。】非常に優秀で、教授の娘を妻にしたぐらいだが、酒で失敗して大学を離れた。
その彼に初めての子どもが生まれた。するとそれは、頭が二つあるように見える奇形児だった。
鳥は懊悩し、かつての同級生で、一度寝たことがある火見子の許を訪れ、次のように述懐する。子どもの時分には自分は急いでいた。すぐに子どもでなくなることがわかっていたからだ。
たしかにぼくはすぐ子供でなくなったね。そしていま父親の年齢だ。しかし父親としての充分な準備なしだったから、ちゃんとした子供にめぐりあえなかったんだ。ぼくが規格に合った子供の父親になれるのはいつだ? ぼくは自信をもてないよ。
生まれた子が(規格に合った?)健常児だったとしたら、彼は自信を持てたのだろうか? そんなもんよ、と火見子は言う。確かに、そんなものだろう。しかし、天は(と、東洋的には言うのだろう)大人になる前に、鳥に厳しい試練を課したのだった。
鳥は行き場をなくしたと感じ、「最良のオルガスムの探究者」である火見子の与える肉の歓びにのみすがるようになる。
まだ名前もつけられていない子どもは、すぐに死ぬと予想されていたが、それは誤診で、生き延びられる可能性が出てきた。ただし、植物人間か、よくても知的障碍者として。鳥は父親としてそういう存在を背負っていく力は自分にはない、と感じる。
最終的には、大学病院を無理やり退院させ、火見子の知っている、非合法の堕胎もしている医者のところへ連れて行ってこっそり死なせ、自分は火見子といっしょにアフリカに逃れようと計画する。その医者は、この赤ん坊は肺炎を起こしかけている、と言う。特に何もしなくても、放っておけば、間もなく死ぬだろう。
病院からの帰途、彼らは菊比古の経営するゲイ・バーに立ち寄り(火見子はこの店に何度か行ったことがある)、かつての田舎町の不良少年二人は七年ぶりの再会を果たす。
「(前略)二十歳の鳥が、こんな風に意気消沈してしまうことはなかったなあ。いま鳥はなにかを怖がっていて、そこから逃げ出そうとしている感じだけど」と機敏な観察力を発揮して菊比古はいった。かれはもう鳥の知っている、かつての単純な菊比古ではないようだった。
菊比古の言う通りなのだ、と鳥は感じ、唐突に、逃げるのはやめる、と言い出す。彼の内面の変化は、次のようにしか描写されない。
おれは赤んぼうの怪物から、恥しらずなことを無数につみ重ねて逃れながら、いったいなにをまもろうとしたのか? いったいどのようなおれ自身をまもりぬくべく試みたのか? と鳥は考え、そして不意に愕然としたのだった。答は、ゼロだ。
かつて鳥が「あらゆる恐怖から自由」であったのは、自分自身を含めて、守るべき値打ちのあるものが何もなかったからだ。守るべきものは、ある役割・責任を引き受けるのでない限り、決して生まれない。
「引き受ける」とは例えば次のようなことだ。赤ん坊が本当に結核なのだとしたら、手術を受けさせるために元の大学病院へ連れて帰ろうとしても、途中で死んでしまうかも知れない。すると、鳥は、およそ無意味に赤ん坊を連れ出したことは明らかなのだから、殺人犯になる可能性だってある。その場合は、赤ん坊を自分の手で殺したのも同様だと認めよう。
かつてはそうではなかった。定時制高校では、トラックの群の間で危険な自転車運転をして憂さ晴らしをした。おかげで、同級生の百姓のせがれはぶつかって死んでしまった。さらに遡って小学校の時、同級生の座ろうとする椅子を後に引いた。よくある悪戯だが、おかげでその子は脊椎カリエスになって今も寝たきりだ。どちらも、鳥は責任を取らなかった。いや、取れなかった。「ああ、おれが悪いんじゃないのに」と叫ぶばかりで。こういうのは、どんなに深刻な結果を引き起こそうと、所詮遊びでしかない。それこそ、いっときの愉快と、後の不満足しかもたらさないものだった。
何か価値のあるものがあらかじめあって、それを守ろうとする、というのは順序が違うのだ。守ろうとすることで、それが価値あるものになるのだ。だから、赤ん坊が生まれたら、すぐに死んでしまおうと、植物人間だろうと、知的障害者だろうと、自分のものとして守り育てなくてはならない。それ以前に、自信がどうたら言うのが、すでに幼稚で無責任なふるまいであったのだ。
こうして鳥は大人になった。そのためには、かつての遊び仲間の菊比古や〈僕)、それに優れた性技で危機の時期の鳥を慰め支えた火見子との交情は捨てなければならない。「鳥が自分自身にこだわりはじめたら、他人の泣き声なんか聴きはしないよ」と菊比古は言う。彼らから見たら、これは身勝手な振舞に見えるだろう。仕方がない。それもまた、人が成長するために不可欠な部分なのだから。
「個人的な体験」は、大江の作品中、前年に生まれた障がいのある長男を題材とした小説として、短編「空の怪物アグイー」(同年発表)に次ぐもので、誕生直後の状況を最も生々しく描いているので、一種の私小説ではないかと言われている。大江自身は、こんな逡巡を感じることはなかったろう。しかし、大人として、親として、普通ではない子どもと向き合うとき、かつて「大人になろう」と決意した、自身のそれまでの作中唯一の登場人物を再登場させて、その重さをドラマチックに伝えようとしたのだろう。
小説のできとは別に、そうする権利はある。大人になる、とは、それほどのものなのだから。