由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

立憲君主の座について その14(幕間狂言、西と東のフーガ 中)

2018年02月27日 | 近現代史

保元合戦図屏風 江戸時代 馬の博物館蔵

メインテキスト:慈圓・大隅和雄訳「愚管抄」/北畠親房・永原慶二 笠松宏至訳「神皇正統記」(永原慶二責任編集『日本の名著9 慈円 北畠親房』中央公論社昭和46年)

(7)この二作は今回気にかける値打ちがあると思った。「神皇正統記」(1339年完成。以下「正統記」と略記する)は「大日本(ヤマト)は神国(かみのくに)なり」で始まる。なぜなら「天祖(あまつみおや)初めて基(もとい)を開き、日神(ヒノカミ)長く統を伝へ給ふ」、つまり、創造神の系統が途絶えることなく現在まで伝わっているからだ、と言う。この点は約100年前に書かれた「愚管抄」も同じで「この日本国は初より王胤はほかへ移ることなし」と言う。即ち、天皇は万世一系だからこそ尊く、その天皇が統べるからこそ日本は神国である。明治になってから学校を通じて広く下々の者たちへも伝えられた観念は、800年以上前にもある人々の頭の中には生じていた。
 しかしもちろん、だからすべてよしで、万々歳、というわけのはいかない。天皇を中心としたこの国の秩序は、しばしば危険にさらされてきたのだし、時代の転換期を公人として生きれば、眼前の危機と直面せずにはいられない。そこで、現実の困難に耐え、できれば打開するための精神的支柱を、歴史の中に求めた、その記録が「愚管抄」であり「正統記」である。 
 「愚管抄」は大正期に広く知られるようになるまでは、著者の実家である九條家でのみ読み継がれていたそうだから、親房がこれを読んだ可能性は低い。しかし、かなりの点で、両者は一致する。天皇を最も神聖視する根本以外に、何が世を乱すのかについての見解も。彼らが一番批判しているのは院政である。
 摂関家や武家など、政治権力を握り、実質的に世を治めた者たちより、厳しく非難されているのはちょっと不思議な気がする。もっとも、慈圓はそもそも摂関家の出身なのだから、という個人的な事情はすぐに頭に浮かぶ。しかし村上源氏の末裔で、本来なら公卿(三位以上の、上級の公家)になれない親房も、天皇を譲位した太上天皇、略して上皇、さらに短い尊称として院、が院宣などを出し、それが天皇の宣旨より重んじられるのは、「世の末になれる姿なるべきにや」と言っている。
 そうなるのも、一番尊いのは天皇であるとしても、実質的な権力者は誰なのか、細かい規定はないからである。太上天皇の呼称そのものは最古の法「大寶律令」にあるそうだが、それが何をすべきなのか、何ができるのか、まではない。これは日本的なのか、あるいは古代的なのか、いずれにしても、長い年月の間には紛擾の種になる。

(8)院政はいつから始まったのか。古代でも既に、第四十六代孝謙天皇(後に重祚して第四十八代穪徳天皇)は、上皇となって後の天平寶字六年(七六二)六月、出家すると同時に、「政事は、常の祀と小事は今の帝が行ひ給へ。国家の大事と賞罰は朕が行ふ」と詔を出し、養子の淳仁天皇から行政・司法権を取りあげている。当時院宣というのは言葉自体がなかったのだろうが、それにしても、天皇以外の人がおおっぴらに詔(みことのり)を出せるとは、驚きである。
 この後淳仁帝は太政大臣藤原仲麻呂と組んで乱を起こし、破れて天皇の地位も失くし、淡路島に流される。これは天皇より上皇の方により権威があったこと、もう少し言うと当時の支配層の多くがそう認め、上皇に味方したことを示している。なぜか、はわからない。言えることは、時代に応じて、天皇の権威は、実際的にも形式的にもけっこう揺らいでいる。万世一系が保たれたのは、自ずから、などではなく、穪徳帝時の和氣清麻呂のような、各時代時代で努力した人がいたからこそなのである。
 もう一つ、この頃既に、神々への「祀り」と、人事を中心とした狭義の「政事(まつりごと)」は分離可能であると人々に意識されていたらしいことは注目される。亀甲占いやら盟神探湯(くがたち)などで集団全体の重大事(戦争をするかしないか、など)やら、人の正邪を決めた時代が本当にあったとすれば、シャーマン(呪術者)が最高権力者、でいいわけだが、それほど不合理にはなり切れず、といって神聖なものを捨て去るなんてこともできない(今の人でも、完全には棄てられない)となれば、「祀る者」と「政る者」は、ともに必要ではあっても、同一である必要はない、いやむしろ、別々にいたほうが自然だ、と、割合と早くから一般的に感じられていたものらしい。
 即ち政教分離、合理的に営まれるべき社会に、如何に(合理的に!?)非合理なものを組み込むか。天皇の在り方とは、この文明社会の根本課題に対する日本的な回答であり、しかしもともと、つける薬がないところにつける薬のようなものなのだから、おそらく今後とも、なんらかの揺れ動きを避けることはできない。

(9)院政の代表格である白河法皇(太上法皇。上皇のうち、出家した人をこう呼ぶ)の言葉として、「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」(「平家物語」)というのが有名で、ではそれ以外は全部自分の意のままにできたということか、と取られるのが一般だが、むしろそれほどの権力者でも山法師、具体的には、大衆(だいす)と呼ばれた比叡山延暦寺の僧兵たちには手を焼いていた、というのが元の意味である。
 彼らは自分たちの要求が通らないと、しばしば大勢で都へ押しかけた。強訴という名がついており、要するに過激なデモである。この時、薙刀などより強力な武器になったのが神木とか神輿で、あれ、延暦寺の僧なら仏教徒じゃないの、と一瞬思うのだが、仏教も神道もごちゃまぜで、ちゃんと区別する場合のほうが日本では例外なのだ。ともかく、神聖なものを粗略に扱ったら神罰だか仏罰がくだるという怖れは、当時は相当なものだったから、担いでくるだけで、脅しの道具として有効に使えた。
 武士は、暴力の専門家であるばかりでなく、祟りなんぞを恐れる気持ちは貴族よりは少なかったので、白河院政以降、重宝され、立場も次第に上昇していった。都の公的な警察組織である検非違使の他に、北面の武士という組織を置いたのは白河院で、これは院直属の近衛兵、もっと言えば私兵的な性格のものだった。京から見て北の、比叡山に備えるためだから北面、というのはウソで、院御所の北側に詰所が置かれたからこの名がある。実際、警戒しなくてはならないのは僧兵だけではなかった。帝と上皇、この二重権力構造は絶えず緊張をはらみ、院側から見たら、天皇や親王(次期天皇候補)側から襲われる可能性だってあった。
 この職に地方の豪族が就き、たいていは五位以下(五位以上が宮中に上がれる、いわゆる殿上人)だが、位を与えられた。そして年月を経るうちに世襲化し、桓武平氏のうち伊勢平氏と、清和源氏のうち河内源氏と呼ばれる(いずれも本拠地からの俗称)一族が二大勢力となっていく。

(10)白河法皇の跡を継いだ孫の鳥羽法皇の院政時、既に不穏な空気が醸されていたが、実際の動乱はこの法皇の死を契機としている。
 保元の乱は、ざっくり言えば鳥羽法皇の長子・崇徳院と、第四子・後白川帝の対立が元である。崇徳院は実は白河法皇の落胤だという噂があり、それかあらぬか、白河法皇の死後、父からひどい扱いを受けている。無理矢理譲位させられて新院となり、次は僅か八歳の弟・近衛天皇が継ぐ。崇徳院とは腹違いで、その母・藤原得子(なりこ。後に美福門院)を鳥羽院が寵愛していたのも理由であったらしい。
 それで終わりではなかった。近衛帝が十七歳で崩御なさると、崇徳院には十五歳になる親王がいたというのに、鳥羽院は今度は自身の第四皇子で、崇徳院と同腹の、後白河天皇を即位させた。この人は熱狂的な今様(当時の歌謡曲)ファンで、鳥羽院はかねて天皇の器ではない、と言っていたのだが、関白藤原忠通の献言でそう決めたのだ、と忠通の子・慈圓は書いている。本当は後白河帝の子、後の二條天皇をすぐに即位させたい(美福門院の養子で、娘婿でもあった)ところだったが、二十九歳の親王が健在なのに、いきなりその子、鳥羽院から見たら孫、に譲位するのはまずい、ということだったらしい。いずれにもせよ、これによって、崇徳院自身は院政も敷けず(敷くためには単なる天皇経験者というだけでは足りず、現天皇の父か祖父である必要があるらしい)、またその血統は今後決して天皇にはなれないと宣言されたも同様だった。その無念たるや、察するに余りある。
 この院と、一時は権勢を揮ったが、不遇な立場に追いやられていた左大臣藤原頼長【忠通の弟。藤原摂関家の父子兄弟にはまた、固有の内紛があった。慈圓は、天皇家も摂関家も、兄より弟を可愛がったりするからだ、と言っている】が組んで、後白川帝打倒の兵を挙げた、正確に言うと挙げる寸前までいって鎮圧されたのが保元の乱(1156)。この時武家もまた二つに割れ、例えば源爲義とその子義朝、平忠正とその甥清盛は、それぞれ前者が崇徳院側、後者が後白河帝側に別れて戦った。結果、崇徳院側の頼長と多くの武将が死に、院自身は讃岐に配流された。崇徳院の怨霊は、この後長く都の人々を脅えさせる。
 3年後の平治の乱の時には、後白河帝は譲位して二條帝の代になっていた。この二人は実の父子に違いないが、安定した関係というわけにはいかなかい。一つにはそれまでの争乱が、拭いがたい凝りを残していたからである。
 もっとも、乱自体の真相はよくわからないところがある。表面だけ言うと、後白河院の寵臣として急速に勢力を伸ばした藤原信頼が、源義朝と組んで、同じく院側近として保元の乱の収拾とその後の院政に辣腕をふるった藤原通憲(信西入道)を襲った。この企てに二條帝側がどれくらい関与していたかはわからない。ただ信頼たちは、帝に迫って、自分たちの正当性を証してもらおうとはした。
 熊野詣でから急ぎ帰京した平清盛は、帝の身柄を確保してこの企てを阻み、信頼・義朝は逆に朝敵ということになった。そしてほとんどただちに攻め滅ぼされた。
 朝廷は、この上なく現実的・具体的な「力」を武家に求め、武家の側では力の正当性の保証を朝廷に求める。持ちつ持たれつ、と簡単に言うにしてはあまりに危うい。そんなことでは、正当性とは、あからさまに、単なる道具、あるいは口実に過ぎないように見えるからだ。この危うさは南北朝の動乱期に最も強く現れた。

(11)改めて、平安朝末期の争乱の歴史的な意味は何か。日本最大の政治問題は、古来皇位継承だった。そしてともかく、血統の原理が否定されたことはなかったので、争いは必ず親族間で、骨肉相食む形で行われるしかなかった。
 その中で保元・平治の乱については、他ならぬ都で、血で血を洗う騒擾が生じたことを、慈園は最も特筆している。かつての壬申の乱(672年)や、藤原仲麻呂の乱(764)は、都(前者は近江宮、後者は平城京)から、近いけれど、あくまで外部で行われ、決着がついた。平安京になってからは、平城太上天皇の変(藤原薬子の変、810)や承和の変(842)は戦争になる前に叛乱側が押さえられた。叛乱側は、東国で挙兵しようと企てながら、そこへ行く前に捕らえられたところも共通している。
 あらえびすの土地である東国ではなく、他ならぬ王城の地そのものが戦場になる、ということは、生々しい権力闘争が最もむきつけの姿で都人の、中でも直接の利害関係者たちの目の前で展開された、ということであり、新たな政治形態の必要性を最も雄弁に物語る新たな現実ではあったろう。換言すれば、最大の政治課題の一つである暴力の管理が、ごまかしようのない形で露出し問題化したのである。
 二つの乱を勝ち抜いた平清盛は、都では武家の代表者として圧倒的な存在感を示した。彼の宮廷側のパートナーは、後白河院だが、これがまた歴代天皇中最大級の際立った個性の持ち主であり、その場その場に合わせた姑息だか、もっと手の込んだ権謀術数だかを弄して、清盛も、その他の人も、悩ませたのだった。
 最初のうちは清盛に破格の出世をさせた。平治の乱の翌年正三位参議昇進を皮切りに、7年後の従一位太政大臣まで一直線で昇っていった。位打ち、だったのかな。この言葉は司馬遼太郎の小説で読んだ。ある人を分不相応なままに闇雲に出世させると、位の重みと人の実力なり徳なりとのバランスが取れないから破滅するという、手の込んだ罠だそうだ。
 実際、そう考えたくなるような勘違い、と思える振る舞いが、平家一門には多かった。いやむしろ、そう見えるできごとだけを、「愚管抄」や「平家物語」に強調して書かれているのかも知れない。「平家に非ずんば人に非ず」とか(清盛の義弟・時忠の言葉とされる)。その他、都で平家の評判を悪くした院や帝側近、さらには摂関家への非礼など、たいていは清盛以外がしたことだ。それでも、平家は敵役になる。後白河院がそこまで見越して清盛を取り立てたのだとすれば、その遠謀深慮は計り知れないと言うべきであろう。しかしそうだとしても、皇族と摂関家以外例のない人臣最高位の太政大臣の職まで与えたのは、革新的だった。実態はほとんど名誉職あって、清盛も3カ月で辞めているとは言え、武家が政治の中心に来ることを正式に認めたことになるのだから。
 それはそうと、鹿ヶ谷の謀議(1177)以降、後白河院を黒幕とした平家打倒の動きは本格化する。3年後、院の第三皇子以仁王が都における源氏の代表者源頼政と挙兵。企てそのものは失敗するが、この時作られた平氏追討の令旨が全国に伝えられ、東国武者たちの決起を促す。
 平将門の乱から約250年、何度か火の手は上がった【前九年の役・後三年の役・平忠常の乱など。これらは結果として、朝廷側に立って乱を平定した源頼信→頼義→義家と続く河内源氏の声望を高めた】が大火には至らず、都からの前述したような火種はあったがそれには引火せず、ここへきてようやく東の大爆発が起こった。
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