メインテキスト:藤原正彦『日本人の誇り』(文春新書平成23年)
「自虐史観」という言葉は、確か藤岡信勝が発明したのだったが、けっこう広まった。むろん、戦後日本で支配的だった、そして今でも支配的な、近代日本の、そのうちでも特に大東亜戦争の見方を、批判する立場から命名したものだ。
「自尊史観」のほうは、これに対抗して、皮肉で、「自虐史観」派の誰かが言ったものだと思う。他に、藤岡たち、主に「新しい歴史教科書を作る会」に集まった面々は、リヴィジョニスト(revisionist)なる厳めしい名前で呼ばれることもある。「歴史修正主義者」という意味で、歴史上のあることに関する一般的な見方はまちがっているから修正しよう、ということなら、何も悪いことではないだろうが、実際の使われ方としては、ヨーロッパでは、ナチスによる大量虐殺はなかった、だの、「アンネの日記」は偽書だ、などと唱える者達を言うらしい。彼らの言うことなど、まるっきりのでたらめであって、真面目な検証にも値しない、という侮蔑感が、この言葉には込められている。
私自身はというと、物心ついた時から、というか、多少ともそういうことを考えるようになった頃から、反左翼で、反「自虐史観」だった。もちろん当初は、大東亜戦争なんて大戦争で、日本だけが一方的に悪い、なんてことがあるもんか、といった程度の素朴なもので、実は今でもその段階を何ほども超えていない。しかし多少は甲羅を経て、また世間で「日本は正しかったんだ」というような発言も珍しくなくなってくると、それまでとはちょっと違った、ひねこびた感想も湧いてくる。単純にそういう性格なのだ。
今回藤原正彦の本を取り上げたのは、あるところまでは共感が持てたからだ。したがって、論点が土台からして全く違っていて、話にならないということはなく、「ひねこびた感想」に筋道をつけて言うのにかっこうな材料だと思えた。
日本の近現代史観についてはほぼ賛成できる。第一次大戦末期に青島(チンタオ)のドイツ軍を攻撃し、山東半島を占領して、それまでのドイツの権益プラスアルファをいただくための「対支二十一箇条要求」をつきつけたのは、空巣狙いのようなもので、まことに卑劣だった。また、満州事変は、現代からみたら日本の侵略だったとしか言いようがない、などなど、何が何でも日本の肩を持つ立場からは一線を画している。
こういうことを言うと怒る人が世の中にはけっこういる。戦前の日本はすべて悪いんだと言われ続けて、さんざん嫌な思いをしてきたのだから、「日本人としての誇り」を回復するためには、逆に、「日本のしたことはすべて正義だ」としなければ収まらないという人が。これは自虐史観が生み出した鬼っ子のようなものであって、この史観の支配力の強さを裏から証明している。
藤原はそもそも、「侵略」に対する感度が違っている。
もし現代の定義を適用して日本を侵略国というなら、英米仏独伊露など列強はすべて侵略国です。ヨーロッパ近代史とはアジア・アフリカ侵略史となりますし、アメリカ史とは北米大陸太平洋侵略史となります。清国も侵略国です。ただしこれらの侵略国家が倫理的に邪悪な国ということにはなりません。この二世紀を彩った帝国主義とは、弱肉強食を合法化するシステムだったからです。また、侵略をしなかった国は道徳倫理が高い国ということにもなりません。単に弱小国だっただけです。人間とはその程度の生物なのです。(P.174~175)
最後の「人間とはその程度の生物」なんて、簡単な断定にはちょっとひっかかるが、あとはすべて同意する。いわゆる大国及び大国だった国で、侵略をしなかったことなど皆無であろう。
いや、日本のした侵略は特にひどかったんだよ、の例として最近までよく出てくるのは南京大虐殺と従軍慰安婦である。しかし、日本が確実にそういうことをしたと言えるだけの証拠はない。
従軍慰安婦についてはこのブログで前に書いた。南京大虐殺については、本書の「第四章 対中戦争の真実」のほとんどの部分をあてて、丁寧に述べられている。この話は、日本軍が南京を侵攻(昭和十二年)した九年後、東京裁判(正式名称は極東国際軍事裁判)時に突然証言として出てきた。その前の時期だと、日本とずっと戦ってきた蒋介石を初めとして、中国側でこれについて言及した人は一人もいない。その後の証言はほとんどが信憑性に乏しく、捏造された証拠も多い。日本軍による民間人への略奪や強姦が全くなかった、とまでは言えないが、何十万人も殺したというのは、話が大げさになっている可能性が高い。
歴史学者は、厳密な実証主義を標榜するのが常だが、そこからしたら、「大虐殺」の事実は、「新たな証拠が出ない限り、今のところ立証不可能」で終わりにするのが至当のようである。そこを押して、なんだかんだ言おうとする学者が多いのは、彼らもまたイデオロギーと無縁ではいられないことを示している。
何しろ、ついこの間(2月20日)も、河村たかし名古屋市長が、「終戦時に南京にいた父親が、現地の人々にとても優しくしてもらったことから考えて、日本軍がそんなにひどいことをしたとは思えない」と発言して、中国側を怒らせたばかりだ。学者でも、何も中国に阿(おもね)るまでの気持ちはなくても、正義漢面はしたい場合はあるだろう。
近現代史は、現在の人間の、国民としてのアイデンティティやプライドに直結するので、単に「事実はこうだったろう」では終わらず、そう言っている者の人間性まですぐに問われてしまう。少なくとも、そういう気分になりやすい。政治もまた、国民のそのような気分は無視できないし、さらにすすんで利用しようとする場合だってある。かくして、冷静な議論が難しい空気が醸成される。
『日本人の誇り』もまた、題名が示すように、日本人のプライドの回復、ということに主眼をおいた本である。これが出てくると、私には違和感が湧いてくる。
これに対して、数学者藤原正彦は、まるで予防線を張るように、次のように言っている(P.44~45)。知識人は知的にみせかけようとして、やたらに自己懐疑のポーズをつけたがる。それは特に文系知識人に多い。理系知識人は、独創が命で、そのためには自分を信じること、即ち自己肯定が不可欠になるので、その度合いは少ない、と。
私は、知識人ではないが、数学や科学はまるっきりちんぷんかんという意味での文系人間として、「懐疑」が単なるポーズだけの問題のように言われるのは承伏しがたい。うんと大きく言えば、そのような態度こそ非科学的ではないのか。
カール・ポパー『開かれた社会とその敵』を卒読して、私なりに理解した「反証可能性」とは次のようなことだ。純粋な自然科学の分野であっても、人間は決して完全な真理に到達することはできない。しかし、少しずつでも真理に近づいていくことなら期待できる。そのためにはある命題(というほどのものではなく、単なる主張でも)が、反証可能な場合にはいつでもできるように開いておくことこそ、肝要なのである。
そうならない場合はいくつかあって、そのうちの二つは、
(a)信念の問題。「日本はよい国だと思う」「日本は悪い国だと思う」などと、根拠なしで主張される場合。ある人が「思っている」ことは他人には反証不可能。そうであるならばまた、「真理」のためには無意味。
(b)圧力が加えられる場合。「日本はよい国だ、などと言うのは、日本のために悲惨な目にあった人の苦しみを増すのだから、悪い奴だ」などという脅迫で、反論しづらくするのも、ここに入る。
前者は感情が、後者は広い意味の政治がからんでくる場合である。社会科学や人文科学が自然科学のような厳密さを期し難いのは、これらと無縁ではあり得ないからだ。
それでも、藤原正彦は、「日本はよい国だ、少なくともよい国だった」ということを、論拠を挙げて、他人を説得するためにこの本を書いたのである。論拠の部分については反証もできる。もっと言えば、反証できることが、論拠がちゃんとしたものである何よりの証拠になる。
そして論拠と反証を比較した上で、日本がよい国か悪い国か、結論は依然として各人に任せるしかないとしても、日本は全体としてどういう国かについての「真理」に近づく、というか、考えを深める役には立つ。ちゃんとした議論は決して無駄ではないのである。
と、大仰に構えてみせたわりには、大したことはできないのだが、試しに、本書の、特に第一章と第二章に出てくる論拠のうちいくつかの、反証になるんじゃないかな、と思えることを挙げてみよう。
(1)「モラル低下は、とかく大げさに取上げられる政治家や官僚だけに見られるものではありません。子殺し、親殺し、それに秋葉原事件のような『誰でもいいから殺したかった』という無差別殺人など、少し前までの我が国にはありえなかった犯罪が頻りに報道されるようになりました」(P.19)
いわゆる保守派の言論人がよく口にする「現代日本人のモラルの低下」である。「それを回復するためにこそ、祖国への愛と誇りを取り戻すのだ」と続くのだが、その前提になっている事実認識は正しいのか?
「少し前」とは、どれくらいの過去のことを言うのか不明ながら、例えば、日本の犯罪史上、一人の人間が犯した殺人数最多を記録した岡山県津山市(正確には、津山市からは二十キロほど離れた山村)の三十人殺し(負傷者を含めると被害者は三十三人)が起きたのは、南京攻略の翌年の昭和十三年。日本はもちろん対中戦争の真っ最中で、小学校では修身が教えられ、国民のうちでも特に男子は、召集令状を受け取ったら「勝ってくるぞと勇ましく」お国のために邁進するのが美徳とされた時代のことである。因みにこの犯人は、数え年で二十二歳の青年だが、結核で、徴兵検査で丙種合格(実質的な不合格)になっている。それもあって、同じ村内の住民にバカにされていると感じて、日本刀と猟銃を主な凶器として、凶行に及んだらしい。犯行後彼はその猟銃で自決したので、はっきりしたことはわからない。
その他、親殺しも子殺しも、戦前から少しも珍しくなかったことは、名サイト「少年犯罪データベース」を運営している管賀江留郎(かんが えるろう)の著書『戦前の少年犯罪』に書かれている。管賀によると、戦前は少年が加害者か被害者になった事件は現在よりずっと多く、ことさらに人々の興味を惹かなかったので、少ないように思われているだけ、逆に言えば現在は、その種の事件が減ったからこそ、大きく「報道されるようにな」ったのだ、とも考えられるとのこと。
私はこちらが正しいように思うのだが、どうだろうか?
(2)要旨「日本は大陸から多くの文物を移入したが、それを消化して、独自の文化を創造した。宗教だと、仏教や儒教は、支那では支配層のものにとどまったが、鎌倉時代には武士道となって武家階級に広まった。さらに武士道精神は江戸時代には講談、読本、浄瑠璃、歌舞伎、といった大衆文芸や芸能を通じて庶民にまで伝わった。儒教の四書五経もまた、武士の子弟だけでなく、庶民の通う寺子屋でもしばしば教えられ、国民の共有財産となった」(P.36)
こういうデカい話だと、いろんなふうに言えてしまうものだ。で、自分が少しは知っている分野から述べる。
講談や歌舞伎に描かれた武士道とは、武士道のパロディと言うべきものである。以前にも書いたが、忠義や義理のためには、自分も他人も犠牲にしてもよい、いや、それこそ正しい、なんぞというのを、普通に生活している庶民が実際のエートスとして信じ込んだわけはない。フィクションだからこそ、面白いのだ。
それでも、日本人の倫理観の中核に、広い意味の「武士道」があったろうと言われるなら、その通りかもしれない。しかし、同じことは、中世ヨーロッパの騎士道物語についても言えないか? また、講談や京劇で伝説の英雄豪傑の事績が物語られたのは支那のほうが本場。つまり、文芸や芸能を通じての国民道徳の涵養ということで、日本が他国より優れている証拠は特にない。
寺子屋にしても。ここに通って、論語の素読などを教わった日本の子どもの割合は、キリスト教の日曜学校などで、神父・牧師の説教を聞いたヨーロッパの子どもより高かったのだろうか?
日本人は欧米人に比べて宗教心に乏しく、従ってモラリティも低い、という主張は若い頃何度か目や耳にした覚えがある。それは要するに宗教観の違いに過ぎないじゃないか、と思ったし、今も思う。この藤原の話はその上下をひっくり返して見せたようなものだ。簡単にそんなことができることで、元の話のいい加減さんはよくわかったが、さればとてこっちの話のほうが確かだ、とするほどの説得力もない。
(3)「(日本には)貧乏人は存在するが貧困は存在しない」(P.40)
これは大森貝塚の発掘で有名なエドワード・S・モースの言葉を、渡辺京二『逝きし世の面影』から孫引きしたものである。本書第二章「すばらしき日本文明」には、他にもたくさんの、同種の、西洋人の見聞録が渡辺の本から引用されている。つまり、この点では藤原はほぼ全面的に渡辺に頼っている。それは別にかまわないとしても、それだけで、「日本には貧乏はあっても貧困はなかった」「日本では貧乏人もみんな、礼儀正しく、正直で、幸福だった」なんて結論づけていいものか。
だったら犯罪なんかゼロだったはずだ、で、反証は充分である。
もちろん藤原も、強調のためのレトリック以外で「みんな」と言っているわけではない。全体的な傾向として、の話だ。外国人の証言以外の論拠としては、例えば第一章には、「(要旨)江戸の人口は百万人超だったのに、警官に当たる与力・同心は数百人程度、それでよく治安が保たれていた」(P.19)と言われている。今はともかく昔の日本は、犯罪が皆無ではなかったにしろ、際立って安全な社会だった。ゆえに、日本はよい国だった、と。
それは嘘ではないだろう。しかし一方で、「十両盗めば首が飛ぶ」と落語などでよく言われていることも思い出される。八代将軍吉宗の時代に制定された「御定書百箇条」には実際にこの規定がある。おしなべて、江戸時代の刑罰は、近代刑法よりずっと重くて、死刑も頻繁に行われていた。そのうえ、磔・獄門と呼ばれる死罪は、公開処刑だった。それは人権の概念がなかったからで、池波正太郎「鬼平犯科帳」などから連想されるような凶悪犯罪が実際に多かったから厳罰が必要、と感じられたからではないだろう(「火付盗賊改め」という特別警察が必要と感じられる程度にはあったが)。それでも、江戸時代の治安が非常によかったのは、国民のモラルの高さより、残酷な刑罰から与えられる恐怖のほうが効果的だったのではないか? 考慮に入れる必要はあるだろう。
近代については、ジャック・ロンドン『どん底の人びと-ロンドン1902』やジョージ・オーウェル『パリ・ロンドン放浪記』が挙げられて、イギリス下層階級の、日本とは違う悲惨な境遇はこれらでわかる、とされている。それなら、単に釣り合いから考えても、松原岩五郎『最暗黒の東京』(1893年)や横山源之助『日本の下層社会』(1899年)などは論及するべきだった。イギリスとの比較はともかく、これらのルポルタージュに描かれた日本の実情は、「貧しけれど心は豊か」などと言えるものかどうかを。
あるいは、この種の貧困は、日本にも輸入された資本主義がもたらしたものであり、そこからイギリスなどとも同種の社会問題が生じた、とも考えられるかも知れない。すると、藤原の言う「貧乏はあっても貧困はない」すばらしい国は、江戸時代までの日本だったのか。それならそうと言ってもらいたいものだ。
戦争の話にもどる。
この分野では藤原は、日本に対してけっこう厳しい見方をしていることは前述した。ともかく、中国側を不必要なまでに怒らせて、大陸での戦いを泥沼化させたのは、愚かだったとされている。
何が不必要なのかと言うと、最大のものは近衛文麿の「国民(党)政府対手とせず」であろう。蒋介石は共産党勢力にはずっと悩まされてきて、現に最後には大陸を追われることになったのだから、うまく持ちかければ、対共産党軍共同戦線が組める。そうすれば、満州の承認の得るぐらいは可能だったかもしれない。それなのにこの段階で和平交渉を打ち切ったのは、思慮も辛抱もなさすぎる、と。
このへんはいわゆる保守派の間でも意見が分かれている。現在の私の意見は、蒋介石と組んで共産党と戦うぐらいまでならできても、「今から見ると明らかな侵略」で手中にした満州は、アメリカを始めとした列強が認めないのだから、ここを手放さない限り最終的な和平など不可能。一方日本からすれば、「二十億の資材と二十万の生霊で贖った地」満州をただあきらめるなんてことは、国民感情からしても不可能。というわけで、どのみち大東亜戦争は避けられなかった、というものだ。
第一、当時も列強のうちでも最強国の、アメリカが和平を望んでいなかった。この点では、藤原も、保守派言論人の見方も、概ね一致している。アメリカは、第一次世界大戦後、日本を警戒するようになり、オレンジ計画と呼ばれる対日戦争計画も早々に策定されていた。いわゆる援蒋ルートを通じて、国民党に軍事物資を供給し、日中戦争を長引かせた。日本軍が南方に進出すると、ABCD包囲網で石油の輸入を完全に止めた。最後に、対日制裁解除の条件として、普通の主権国家だったらとうてい呑めないとわかっていること(中国・南仏からの完全撤退を含む)をハル・ノートでつきつけ、日本が対米戦争に踏み切らざるを得ないようにした。
対米戦争は、実質的にはアメリカが仕掛けた、というわけである。大筋で、それに間違いはないだろう。ただ、「人間とはその程度の生物」という前述の藤原の言葉をここで思い出そう。アメリカは、日本に脅威を感じたから、叩きにかかったのである。もう一つ、当時の大統領フランクリン・ルーズベルトは、第二次世界大戦に参戦する口実がほしくて、ドイツと同盟を組んでいた日本が攻撃をしかけてくれることを望んでいた、という話も今は有名だ。真珠湾攻撃は、日本というカモが奇襲というネギまでしょってやってきてくれたようなものだ。といって日本が道徳的に正しいなんてことにはならない。謀略戦もまた戦争であり、それに負けたのは間抜けだった、というだけの話になる。
謀略と言えば、コミンテルンのそれも最近ではよく話題になり、本書でも少し言及されている。日中戦争が長引き、また日米戦争が始まったことで、どこよりも助かったのは、ソ連と中国共産党である。日本とドイツが手を組んでソ連を挟み撃ちにしたらやっかいだし、前述のように、国民党と日本が協力して中共に当たっていたら、たぶん中共は掃討されていたろう。「得をする者が怪しい」という推理ものの常道からすると、この事態には国際共産主義者たちの思惑が働いているのではないか、と自然に疑いたくなる。
例えば、昭和十二年の盧溝橋事件は、日中戦争の直接のきっかけとなったできごとだが、このとき日本軍に最初に発砲したのは中共の工作員だったという説がある。次に、「国民(党)政府対手とせず」の政策には近衛側近の西園寺公一や尾崎秀実の献策が大きかったと言われているが、尾崎は周知の如くソ連のスパイだった。また、ハル・ノートを起草したハリー・ホワイトもまた、ソ連のスパイだった。
この頃コミンテルンが何を指令し、それによって各国のスパイたちがどう動いたか、今後新史料の発掘によってかなり明らかにされると期待される。その前には、推測というより空想の世界のことになってしまいそうだが、最近反共主義者たちによって言われていることをうんと単純化すると、ルーズベルトや蒋介石はコミンテルンに操られ、そのルーズベルトや蒋介石に日本は操られていた、という図ができそうである。
どうも、なあ。事実だったらしょうがないんだけど…。そういうことだったなら、侵略国の汚名は軽減されるかもしれないけれど、これほど愚かな国に「誇り」なんてもてるもんですか?
根本的に私は、「正しい戦争」をしたから「正しい国だ」、「まちがった戦争」をしたから「まちがった国だ」という考え方に、どうにも馴染めないものを感じている。
例えば「近代という隘路 その7」で取り上げた本郷源三郎。彼は正しかったのか、まちがっていたのか? 勇敢だったのか、愚かだったのか? このような問い自体が、非常にくだらないとは思えないか? 彼は日本の最も困難な時代の要請、と感じられたものに全力で答えようとして、絶対に彼自身のものである運命を生きたのである。それは、より悲惨な、田山花袋が描く一兵卒についても言える。
そして日本全体もまた。アジアでほとんど唯一、遅れた近代化を遂げ、西欧列強と伍する軍事力も身につけて、国際社会へと乗り出していった。愚かなことも、卑劣なこともしたろうが、そういうことを全部ひっくるめて、過酷で偉大な悲劇を演じて見せたのである。今後の日本が進むべき道の参考にするために、やったこととやらなかったことを批判検討するのはけっこうだが、こと道徳問題となったら、この巨大な過去に対する畏敬と共感を欠いた歴史観は、最も重要な何かを逸している、と私には感じられる。
最後はやっぱり感情の問題で終わってしまったが、これだけ長々と書いたのだから、きっと反証のしようはある、というか、ツッコミどころはたくさんあるだろう。興味と時間のおありの方は、どうぞやってみてください。
「自虐史観」という言葉は、確か藤岡信勝が発明したのだったが、けっこう広まった。むろん、戦後日本で支配的だった、そして今でも支配的な、近代日本の、そのうちでも特に大東亜戦争の見方を、批判する立場から命名したものだ。
「自尊史観」のほうは、これに対抗して、皮肉で、「自虐史観」派の誰かが言ったものだと思う。他に、藤岡たち、主に「新しい歴史教科書を作る会」に集まった面々は、リヴィジョニスト(revisionist)なる厳めしい名前で呼ばれることもある。「歴史修正主義者」という意味で、歴史上のあることに関する一般的な見方はまちがっているから修正しよう、ということなら、何も悪いことではないだろうが、実際の使われ方としては、ヨーロッパでは、ナチスによる大量虐殺はなかった、だの、「アンネの日記」は偽書だ、などと唱える者達を言うらしい。彼らの言うことなど、まるっきりのでたらめであって、真面目な検証にも値しない、という侮蔑感が、この言葉には込められている。
私自身はというと、物心ついた時から、というか、多少ともそういうことを考えるようになった頃から、反左翼で、反「自虐史観」だった。もちろん当初は、大東亜戦争なんて大戦争で、日本だけが一方的に悪い、なんてことがあるもんか、といった程度の素朴なもので、実は今でもその段階を何ほども超えていない。しかし多少は甲羅を経て、また世間で「日本は正しかったんだ」というような発言も珍しくなくなってくると、それまでとはちょっと違った、ひねこびた感想も湧いてくる。単純にそういう性格なのだ。
今回藤原正彦の本を取り上げたのは、あるところまでは共感が持てたからだ。したがって、論点が土台からして全く違っていて、話にならないということはなく、「ひねこびた感想」に筋道をつけて言うのにかっこうな材料だと思えた。
日本の近現代史観についてはほぼ賛成できる。第一次大戦末期に青島(チンタオ)のドイツ軍を攻撃し、山東半島を占領して、それまでのドイツの権益プラスアルファをいただくための「対支二十一箇条要求」をつきつけたのは、空巣狙いのようなもので、まことに卑劣だった。また、満州事変は、現代からみたら日本の侵略だったとしか言いようがない、などなど、何が何でも日本の肩を持つ立場からは一線を画している。
こういうことを言うと怒る人が世の中にはけっこういる。戦前の日本はすべて悪いんだと言われ続けて、さんざん嫌な思いをしてきたのだから、「日本人としての誇り」を回復するためには、逆に、「日本のしたことはすべて正義だ」としなければ収まらないという人が。これは自虐史観が生み出した鬼っ子のようなものであって、この史観の支配力の強さを裏から証明している。
藤原はそもそも、「侵略」に対する感度が違っている。
もし現代の定義を適用して日本を侵略国というなら、英米仏独伊露など列強はすべて侵略国です。ヨーロッパ近代史とはアジア・アフリカ侵略史となりますし、アメリカ史とは北米大陸太平洋侵略史となります。清国も侵略国です。ただしこれらの侵略国家が倫理的に邪悪な国ということにはなりません。この二世紀を彩った帝国主義とは、弱肉強食を合法化するシステムだったからです。また、侵略をしなかった国は道徳倫理が高い国ということにもなりません。単に弱小国だっただけです。人間とはその程度の生物なのです。(P.174~175)
最後の「人間とはその程度の生物」なんて、簡単な断定にはちょっとひっかかるが、あとはすべて同意する。いわゆる大国及び大国だった国で、侵略をしなかったことなど皆無であろう。
いや、日本のした侵略は特にひどかったんだよ、の例として最近までよく出てくるのは南京大虐殺と従軍慰安婦である。しかし、日本が確実にそういうことをしたと言えるだけの証拠はない。
従軍慰安婦についてはこのブログで前に書いた。南京大虐殺については、本書の「第四章 対中戦争の真実」のほとんどの部分をあてて、丁寧に述べられている。この話は、日本軍が南京を侵攻(昭和十二年)した九年後、東京裁判(正式名称は極東国際軍事裁判)時に突然証言として出てきた。その前の時期だと、日本とずっと戦ってきた蒋介石を初めとして、中国側でこれについて言及した人は一人もいない。その後の証言はほとんどが信憑性に乏しく、捏造された証拠も多い。日本軍による民間人への略奪や強姦が全くなかった、とまでは言えないが、何十万人も殺したというのは、話が大げさになっている可能性が高い。
歴史学者は、厳密な実証主義を標榜するのが常だが、そこからしたら、「大虐殺」の事実は、「新たな証拠が出ない限り、今のところ立証不可能」で終わりにするのが至当のようである。そこを押して、なんだかんだ言おうとする学者が多いのは、彼らもまたイデオロギーと無縁ではいられないことを示している。
何しろ、ついこの間(2月20日)も、河村たかし名古屋市長が、「終戦時に南京にいた父親が、現地の人々にとても優しくしてもらったことから考えて、日本軍がそんなにひどいことをしたとは思えない」と発言して、中国側を怒らせたばかりだ。学者でも、何も中国に阿(おもね)るまでの気持ちはなくても、正義漢面はしたい場合はあるだろう。
近現代史は、現在の人間の、国民としてのアイデンティティやプライドに直結するので、単に「事実はこうだったろう」では終わらず、そう言っている者の人間性まですぐに問われてしまう。少なくとも、そういう気分になりやすい。政治もまた、国民のそのような気分は無視できないし、さらにすすんで利用しようとする場合だってある。かくして、冷静な議論が難しい空気が醸成される。
『日本人の誇り』もまた、題名が示すように、日本人のプライドの回復、ということに主眼をおいた本である。これが出てくると、私には違和感が湧いてくる。
これに対して、数学者藤原正彦は、まるで予防線を張るように、次のように言っている(P.44~45)。知識人は知的にみせかけようとして、やたらに自己懐疑のポーズをつけたがる。それは特に文系知識人に多い。理系知識人は、独創が命で、そのためには自分を信じること、即ち自己肯定が不可欠になるので、その度合いは少ない、と。
私は、知識人ではないが、数学や科学はまるっきりちんぷんかんという意味での文系人間として、「懐疑」が単なるポーズだけの問題のように言われるのは承伏しがたい。うんと大きく言えば、そのような態度こそ非科学的ではないのか。
カール・ポパー『開かれた社会とその敵』を卒読して、私なりに理解した「反証可能性」とは次のようなことだ。純粋な自然科学の分野であっても、人間は決して完全な真理に到達することはできない。しかし、少しずつでも真理に近づいていくことなら期待できる。そのためにはある命題(というほどのものではなく、単なる主張でも)が、反証可能な場合にはいつでもできるように開いておくことこそ、肝要なのである。
そうならない場合はいくつかあって、そのうちの二つは、
(a)信念の問題。「日本はよい国だと思う」「日本は悪い国だと思う」などと、根拠なしで主張される場合。ある人が「思っている」ことは他人には反証不可能。そうであるならばまた、「真理」のためには無意味。
(b)圧力が加えられる場合。「日本はよい国だ、などと言うのは、日本のために悲惨な目にあった人の苦しみを増すのだから、悪い奴だ」などという脅迫で、反論しづらくするのも、ここに入る。
前者は感情が、後者は広い意味の政治がからんでくる場合である。社会科学や人文科学が自然科学のような厳密さを期し難いのは、これらと無縁ではあり得ないからだ。
それでも、藤原正彦は、「日本はよい国だ、少なくともよい国だった」ということを、論拠を挙げて、他人を説得するためにこの本を書いたのである。論拠の部分については反証もできる。もっと言えば、反証できることが、論拠がちゃんとしたものである何よりの証拠になる。
そして論拠と反証を比較した上で、日本がよい国か悪い国か、結論は依然として各人に任せるしかないとしても、日本は全体としてどういう国かについての「真理」に近づく、というか、考えを深める役には立つ。ちゃんとした議論は決して無駄ではないのである。
と、大仰に構えてみせたわりには、大したことはできないのだが、試しに、本書の、特に第一章と第二章に出てくる論拠のうちいくつかの、反証になるんじゃないかな、と思えることを挙げてみよう。
(1)「モラル低下は、とかく大げさに取上げられる政治家や官僚だけに見られるものではありません。子殺し、親殺し、それに秋葉原事件のような『誰でもいいから殺したかった』という無差別殺人など、少し前までの我が国にはありえなかった犯罪が頻りに報道されるようになりました」(P.19)
いわゆる保守派の言論人がよく口にする「現代日本人のモラルの低下」である。「それを回復するためにこそ、祖国への愛と誇りを取り戻すのだ」と続くのだが、その前提になっている事実認識は正しいのか?
「少し前」とは、どれくらいの過去のことを言うのか不明ながら、例えば、日本の犯罪史上、一人の人間が犯した殺人数最多を記録した岡山県津山市(正確には、津山市からは二十キロほど離れた山村)の三十人殺し(負傷者を含めると被害者は三十三人)が起きたのは、南京攻略の翌年の昭和十三年。日本はもちろん対中戦争の真っ最中で、小学校では修身が教えられ、国民のうちでも特に男子は、召集令状を受け取ったら「勝ってくるぞと勇ましく」お国のために邁進するのが美徳とされた時代のことである。因みにこの犯人は、数え年で二十二歳の青年だが、結核で、徴兵検査で丙種合格(実質的な不合格)になっている。それもあって、同じ村内の住民にバカにされていると感じて、日本刀と猟銃を主な凶器として、凶行に及んだらしい。犯行後彼はその猟銃で自決したので、はっきりしたことはわからない。
その他、親殺しも子殺しも、戦前から少しも珍しくなかったことは、名サイト「少年犯罪データベース」を運営している管賀江留郎(かんが えるろう)の著書『戦前の少年犯罪』に書かれている。管賀によると、戦前は少年が加害者か被害者になった事件は現在よりずっと多く、ことさらに人々の興味を惹かなかったので、少ないように思われているだけ、逆に言えば現在は、その種の事件が減ったからこそ、大きく「報道されるようにな」ったのだ、とも考えられるとのこと。
私はこちらが正しいように思うのだが、どうだろうか?
(2)要旨「日本は大陸から多くの文物を移入したが、それを消化して、独自の文化を創造した。宗教だと、仏教や儒教は、支那では支配層のものにとどまったが、鎌倉時代には武士道となって武家階級に広まった。さらに武士道精神は江戸時代には講談、読本、浄瑠璃、歌舞伎、といった大衆文芸や芸能を通じて庶民にまで伝わった。儒教の四書五経もまた、武士の子弟だけでなく、庶民の通う寺子屋でもしばしば教えられ、国民の共有財産となった」(P.36)
こういうデカい話だと、いろんなふうに言えてしまうものだ。で、自分が少しは知っている分野から述べる。
講談や歌舞伎に描かれた武士道とは、武士道のパロディと言うべきものである。以前にも書いたが、忠義や義理のためには、自分も他人も犠牲にしてもよい、いや、それこそ正しい、なんぞというのを、普通に生活している庶民が実際のエートスとして信じ込んだわけはない。フィクションだからこそ、面白いのだ。
それでも、日本人の倫理観の中核に、広い意味の「武士道」があったろうと言われるなら、その通りかもしれない。しかし、同じことは、中世ヨーロッパの騎士道物語についても言えないか? また、講談や京劇で伝説の英雄豪傑の事績が物語られたのは支那のほうが本場。つまり、文芸や芸能を通じての国民道徳の涵養ということで、日本が他国より優れている証拠は特にない。
寺子屋にしても。ここに通って、論語の素読などを教わった日本の子どもの割合は、キリスト教の日曜学校などで、神父・牧師の説教を聞いたヨーロッパの子どもより高かったのだろうか?
日本人は欧米人に比べて宗教心に乏しく、従ってモラリティも低い、という主張は若い頃何度か目や耳にした覚えがある。それは要するに宗教観の違いに過ぎないじゃないか、と思ったし、今も思う。この藤原の話はその上下をひっくり返して見せたようなものだ。簡単にそんなことができることで、元の話のいい加減さんはよくわかったが、さればとてこっちの話のほうが確かだ、とするほどの説得力もない。
(3)「(日本には)貧乏人は存在するが貧困は存在しない」(P.40)
これは大森貝塚の発掘で有名なエドワード・S・モースの言葉を、渡辺京二『逝きし世の面影』から孫引きしたものである。本書第二章「すばらしき日本文明」には、他にもたくさんの、同種の、西洋人の見聞録が渡辺の本から引用されている。つまり、この点では藤原はほぼ全面的に渡辺に頼っている。それは別にかまわないとしても、それだけで、「日本には貧乏はあっても貧困はなかった」「日本では貧乏人もみんな、礼儀正しく、正直で、幸福だった」なんて結論づけていいものか。
だったら犯罪なんかゼロだったはずだ、で、反証は充分である。
もちろん藤原も、強調のためのレトリック以外で「みんな」と言っているわけではない。全体的な傾向として、の話だ。外国人の証言以外の論拠としては、例えば第一章には、「(要旨)江戸の人口は百万人超だったのに、警官に当たる与力・同心は数百人程度、それでよく治安が保たれていた」(P.19)と言われている。今はともかく昔の日本は、犯罪が皆無ではなかったにしろ、際立って安全な社会だった。ゆえに、日本はよい国だった、と。
それは嘘ではないだろう。しかし一方で、「十両盗めば首が飛ぶ」と落語などでよく言われていることも思い出される。八代将軍吉宗の時代に制定された「御定書百箇条」には実際にこの規定がある。おしなべて、江戸時代の刑罰は、近代刑法よりずっと重くて、死刑も頻繁に行われていた。そのうえ、磔・獄門と呼ばれる死罪は、公開処刑だった。それは人権の概念がなかったからで、池波正太郎「鬼平犯科帳」などから連想されるような凶悪犯罪が実際に多かったから厳罰が必要、と感じられたからではないだろう(「火付盗賊改め」という特別警察が必要と感じられる程度にはあったが)。それでも、江戸時代の治安が非常によかったのは、国民のモラルの高さより、残酷な刑罰から与えられる恐怖のほうが効果的だったのではないか? 考慮に入れる必要はあるだろう。
近代については、ジャック・ロンドン『どん底の人びと-ロンドン1902』やジョージ・オーウェル『パリ・ロンドン放浪記』が挙げられて、イギリス下層階級の、日本とは違う悲惨な境遇はこれらでわかる、とされている。それなら、単に釣り合いから考えても、松原岩五郎『最暗黒の東京』(1893年)や横山源之助『日本の下層社会』(1899年)などは論及するべきだった。イギリスとの比較はともかく、これらのルポルタージュに描かれた日本の実情は、「貧しけれど心は豊か」などと言えるものかどうかを。
あるいは、この種の貧困は、日本にも輸入された資本主義がもたらしたものであり、そこからイギリスなどとも同種の社会問題が生じた、とも考えられるかも知れない。すると、藤原の言う「貧乏はあっても貧困はない」すばらしい国は、江戸時代までの日本だったのか。それならそうと言ってもらいたいものだ。
戦争の話にもどる。
この分野では藤原は、日本に対してけっこう厳しい見方をしていることは前述した。ともかく、中国側を不必要なまでに怒らせて、大陸での戦いを泥沼化させたのは、愚かだったとされている。
何が不必要なのかと言うと、最大のものは近衛文麿の「国民(党)政府対手とせず」であろう。蒋介石は共産党勢力にはずっと悩まされてきて、現に最後には大陸を追われることになったのだから、うまく持ちかければ、対共産党軍共同戦線が組める。そうすれば、満州の承認の得るぐらいは可能だったかもしれない。それなのにこの段階で和平交渉を打ち切ったのは、思慮も辛抱もなさすぎる、と。
このへんはいわゆる保守派の間でも意見が分かれている。現在の私の意見は、蒋介石と組んで共産党と戦うぐらいまでならできても、「今から見ると明らかな侵略」で手中にした満州は、アメリカを始めとした列強が認めないのだから、ここを手放さない限り最終的な和平など不可能。一方日本からすれば、「二十億の資材と二十万の生霊で贖った地」満州をただあきらめるなんてことは、国民感情からしても不可能。というわけで、どのみち大東亜戦争は避けられなかった、というものだ。
第一、当時も列強のうちでも最強国の、アメリカが和平を望んでいなかった。この点では、藤原も、保守派言論人の見方も、概ね一致している。アメリカは、第一次世界大戦後、日本を警戒するようになり、オレンジ計画と呼ばれる対日戦争計画も早々に策定されていた。いわゆる援蒋ルートを通じて、国民党に軍事物資を供給し、日中戦争を長引かせた。日本軍が南方に進出すると、ABCD包囲網で石油の輸入を完全に止めた。最後に、対日制裁解除の条件として、普通の主権国家だったらとうてい呑めないとわかっていること(中国・南仏からの完全撤退を含む)をハル・ノートでつきつけ、日本が対米戦争に踏み切らざるを得ないようにした。
対米戦争は、実質的にはアメリカが仕掛けた、というわけである。大筋で、それに間違いはないだろう。ただ、「人間とはその程度の生物」という前述の藤原の言葉をここで思い出そう。アメリカは、日本に脅威を感じたから、叩きにかかったのである。もう一つ、当時の大統領フランクリン・ルーズベルトは、第二次世界大戦に参戦する口実がほしくて、ドイツと同盟を組んでいた日本が攻撃をしかけてくれることを望んでいた、という話も今は有名だ。真珠湾攻撃は、日本というカモが奇襲というネギまでしょってやってきてくれたようなものだ。といって日本が道徳的に正しいなんてことにはならない。謀略戦もまた戦争であり、それに負けたのは間抜けだった、というだけの話になる。
謀略と言えば、コミンテルンのそれも最近ではよく話題になり、本書でも少し言及されている。日中戦争が長引き、また日米戦争が始まったことで、どこよりも助かったのは、ソ連と中国共産党である。日本とドイツが手を組んでソ連を挟み撃ちにしたらやっかいだし、前述のように、国民党と日本が協力して中共に当たっていたら、たぶん中共は掃討されていたろう。「得をする者が怪しい」という推理ものの常道からすると、この事態には国際共産主義者たちの思惑が働いているのではないか、と自然に疑いたくなる。
例えば、昭和十二年の盧溝橋事件は、日中戦争の直接のきっかけとなったできごとだが、このとき日本軍に最初に発砲したのは中共の工作員だったという説がある。次に、「国民(党)政府対手とせず」の政策には近衛側近の西園寺公一や尾崎秀実の献策が大きかったと言われているが、尾崎は周知の如くソ連のスパイだった。また、ハル・ノートを起草したハリー・ホワイトもまた、ソ連のスパイだった。
この頃コミンテルンが何を指令し、それによって各国のスパイたちがどう動いたか、今後新史料の発掘によってかなり明らかにされると期待される。その前には、推測というより空想の世界のことになってしまいそうだが、最近反共主義者たちによって言われていることをうんと単純化すると、ルーズベルトや蒋介石はコミンテルンに操られ、そのルーズベルトや蒋介石に日本は操られていた、という図ができそうである。
どうも、なあ。事実だったらしょうがないんだけど…。そういうことだったなら、侵略国の汚名は軽減されるかもしれないけれど、これほど愚かな国に「誇り」なんてもてるもんですか?
根本的に私は、「正しい戦争」をしたから「正しい国だ」、「まちがった戦争」をしたから「まちがった国だ」という考え方に、どうにも馴染めないものを感じている。
例えば「近代という隘路 その7」で取り上げた本郷源三郎。彼は正しかったのか、まちがっていたのか? 勇敢だったのか、愚かだったのか? このような問い自体が、非常にくだらないとは思えないか? 彼は日本の最も困難な時代の要請、と感じられたものに全力で答えようとして、絶対に彼自身のものである運命を生きたのである。それは、より悲惨な、田山花袋が描く一兵卒についても言える。
そして日本全体もまた。アジアでほとんど唯一、遅れた近代化を遂げ、西欧列強と伍する軍事力も身につけて、国際社会へと乗り出していった。愚かなことも、卑劣なこともしたろうが、そういうことを全部ひっくるめて、過酷で偉大な悲劇を演じて見せたのである。今後の日本が進むべき道の参考にするために、やったこととやらなかったことを批判検討するのはけっこうだが、こと道徳問題となったら、この巨大な過去に対する畏敬と共感を欠いた歴史観は、最も重要な何かを逸している、と私には感じられる。
最後はやっぱり感情の問題で終わってしまったが、これだけ長々と書いたのだから、きっと反証のしようはある、というか、ツッコミどころはたくさんあるだろう。興味と時間のおありの方は、どうぞやってみてください。