メインテキスト:吉田裕「昭和天皇の戦争責任問題を考える」(宮地正人監修『日本近現代史を読む』新日本出版社平成22年所収)
昭和天皇に戦争責任があるのかないのか、議論は尽きない。私も後でそれに触れるつもりです。
と、書いてからずいぶんたった。それから自分なりに各種の文献に当たり、考えてみたのだが、いまだにまとまらない。今回、当ブログの更新が大幅に遅れ、「もうやめるのか」と人からも言われるような状態になったのも、生業が忙しかったことも理由だが、なかなか手をつけかねていた、というのもあった。
しかし、おかげで、一つのことだけはよく得心できた。この問題に関しては、万人どころか、日本人の半分を納得させるような説を唱えることは不可能である。近代日本の抱える最大のアポリアの一つが、ここには現れている。
で、あればこそ、考えがいがあることではないか、とは確かに言える。まずは、どこに難しさがあるのか、できるだけくまなく考えておこう。
今回のテキストは、吉田裕の書いた一頁のコラムだが、当面必要なことが端的に記されているように感じるので、これに反応する形で愚見を述べる。
なおまた、問題を整理するためには、「責任」というか、それが生じる「罪」の、さまざまなレベルを混同しないようにしておくのが大切だと思う。そのためには、カール・ヤスパースが「罪責論」(邦訳は橋本文夫訳『戦争の罪を問う』平凡社ライブラリー平成10年)で示した四分類が有名であり、便利でもあるので、これも使わせていただく。
罪責の第一「刑法上の罪」。普通に犯罪と呼ばれているもので、どう責任をとるかまで、法律に明記されている。この点、国内法では、天皇はあらかじめ責任を免れている、と言うことができる。前にも述べたように、少なくとも議会や裁判所などの公的な機関が天皇の責任について議論したり、その結果問責したりすることはできない。「君主の無答責」と呼ばれる規定で、帝国憲法第三条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」はそういう意味である。
吉田は、たとえそうでも、それは国内だけの話であって、国際的には別だ、と言う。では、国際的な法の裁きにはどのようなものが考えられるか。「日本も調印したヴェルサイユ講話条約」には、「戦争責任者としてドイツ皇帝を訴追することを決めていた」。以下にそれに関する、ヴェルサイユ講話条約二二七条の全文を、清水正義「第一次世界大戦後の前ドイツ皇帝訴追問題」から孫引きする。
同盟及び連合諸国は元ドイツ皇帝ホーエンツォレルン家ヴィルヘルム二世を国際道義と条約の尊厳に対する最高の罪を犯した廉で公式に訴追する。
被告人を裁くため特別な法廷が設置され、その際には弁護の権利に不可欠な保障が与えられる。法廷は下記諸国それぞれから指名される五名の裁判官によって構成される。すなわち、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、イタリア、及び日本。
法廷は判決にあたり国際政治の最高の動機に導かれ、国際取決の荘厳な義務と国際道義の真正さを立証する観点から行われる。科されるべきと考えられる処罰を決定することは法廷の義務である。
同盟及び連合諸国はオランダ政府に対し元皇帝を裁判に付せしめるべく同盟及び連合諸国に引き渡すよう要請を通告する。
実際には、この訴追は実行されなかった。ヴェルヘルム二世が亡命していたオランダは、彼の引き渡しを拒否した。同盟国の掲げる「国際政治の最高の動機」は果たして真正なものかどうか、亡命者引き渡しに関するオランダの国内法や慣習よりも優位におかれるべきものかどうか、疑わしい、というのがその理由だった。そうこうするうちにドイツでは革命の機運が高まり、ヴェルヘルム二世は故国に帰ることなく退位した。ここにホーエンツォレルン家の帝政は終わり、ワイマール共和制が始まる。そうなったら誰も、「特別な法廷」で元皇帝を裁くことになどこだわらなくなり、有耶無耶になってしまったのだ。
「特別な法廷」が実際に開かれたのは第二次世界大戦後である。ニュールンベルグ裁判と極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)。上のヴェルサイユ条約二二七条がこれを正当化したとまでは言えない。成文法には依らず、「国際道義」「条約の尊厳」というような抽象的な観念で人を裁くのが正しいのかどうか、そもそも、戦争で勝った国が負けた国を裁くこと自体がどうなのか、議論の余地は大いにあるし、現に議論されている。
それでも、ヴェルサイユ条約には、日本も、調印するという形で賛同したのだし、あまつさえ裁判官を選出すべき五カ国の中に入っているのであれば、同じ精神によって開かれた東京裁判に文句をつけられた義理ではあるまい、というのが、吉田のみならず最近散見する意見である。それはそうかも知れない。
ただ、昭和天皇に限って言えば、ヴェルヘルム二世と違って、国際軍事法廷で訴追されなかった。これにより、法的な責任は、国際的な意味でもない、で終わりである。
第二「政治上の罪」。たとえよい動機から出たものであったとしても、悪い結果を招いたなら、政治に携わる者は責任を負わなければならない。マックス・ウェーバー、なんて名前を出すまでもなく、このことは自明としてよいだろう。
さてそこで、戦争は国家の行う一大事業である。敗戦とは、その事業の失敗を意味する。それに関して、最高指導者に責任なし、とは普通に考えて言いづらい。民間でも、例えば、会社の存続が危うくなるほどの事業の破綻が明らかになった場合、社長が、たとえお飾りで、ただ書類に盲判を押すのが仕事だったとしても、安閑として地位を保ち続ける、ということのほうが稀であろう。
ただそこで、天皇の役割は会社の社長のようなストレートなものではない。いくつかに折れ曲がっている。それを理解しないと、議論が混迷するばかりになる。
制度上の話は、吉田が簡明に述べている通りである。帝国憲法第五十五条「国務大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責二任ス」は輔弼条項と呼ばれる。法令はもとより、勅許であっても、御名御璽の傍らに全国務大臣の副署がなければ効力を発揮しない。そして、責任を取るのは「責に任ず」とされる国務大臣であった。
しかし、最も危険な事業である軍事については、内閣には権限が認められていなかった。いわゆる、統帥権の独立である。帝国陸海軍の大元帥たる天皇には、陸軍からは参謀総長、海軍からは軍令部総長が補佐に当たるものの、彼らの役割は輔弼ではなく輔翼と呼ばれ、行政分野での国務大臣のような、天皇と共同して、あるいは天皇に代わって、責任を負うような存在では全くなかった。文字通りの助言者なのである。
しかしそれは、軍事上の決定が、実際に天皇の意思によってなされた、ということではない。「君臨すれど統治せず」とは、王には制度上権限はあっても、慣例としてそれは使わないという意味であり、それでこそ立憲君主制が成り立つ。昭和天皇も、内閣や軍部から上がってきた公式文書を裁可しなかったことは一度もなかった。
とは言え、とまた反転する。では、昭和天皇は書類に御名御璽を押すだけのデクノボーかと言えば、そうでもなかった。「昭和天皇回顧録」に「この時以来、閣議決定に対して、意見は云ふが、「ベトー」は云はぬ事にした」とあるように、天皇は意見なら言えたし、実際様々なことを言っている。それは軍事についても同様だった。
意見を言う機会としては、例えば「内奏」と呼ばれるものがある。何かの決定をする以前に天皇のお召しで宮中に参内し、御下問に答えるのである。この御下問、つまり天皇からの質問と言うのが、時によっては非常に厳しいもので、陸軍では、お召しがあるとわかっている時には、事前に想定問答集まで作って備えることもあったようだ。田中義一が辞任に追い込まれた会見も、少なくとも田中のつもりでは内奏であった(以上は後藤致人『内奏――天皇と政治の近現代史』中公新書平成22年より)。
【因みに、制度的な裏付けはないこの内奏は、昭和天皇の希望で、戦後まで続けられている。重光葵が渡米前に「駐屯軍の撤退は不可なり」と言われたのも内奏の場である。】
天皇はこういう形で、軍事について、御自分の意思を示された。そして、戦前、天皇の御意思が分かっている時、それを無視するのは困難だったことは言うまでもないだろう。天皇に政治上の責任がない、とは簡単には言えない。
では、それは具体的にはどのようなものか。昭和天皇と大東亜戦争の関わりはどんなものだったか、歴史の問題として非常に興味深いから、現在まで実にいろいろなことが言われている。私も今後できるだけ勉強して、当ブログで断続的に意見を開陳していきたい。
第三「道徳上の罪」。吉田裕も「最後に道義上の問題が残ります」と言う。ここまでくると、まず道徳・道義とはどういう意味で使われているのか、が問題になりそうだ。単純には、昭和天皇の命令で大勢の人が命を失ったことに対する責務は、あったとすべきではないか、という一種の感情論から来ているものが多いようだ。
感情論を軽蔑するわけではないが、多くの場合天皇の意思をストレートに表現しているわけではない「天皇の命令」の全体は、上の「政治上」に入れて考えるべきものだと思う。
そうではなく、人命が失われたこと自体への、政治家ではなく人間としての責任、というものも、考えられはする。しかし、それを他人について、声高に追求するのは控えるべきではないだろうか。
だいたい、戦争で人命が失われたこと自体に対する責任と言うなら、ルーズベルト及びトルーマンも、チャーチルもスターリンも蒋介石も、負うべきではないか。彼らの戦争は正しいもので、従ってそのために大勢の戦死者が出たのは、よかったとは言えないまでもやむを得ないことであり、日本がやった戦争は悪だから、戦死したのは無駄死にだった、とでも言うのだろうか。
実のところ、そう言いたげな人はけっこういる。ただ、なかなかはっきりとは言えないのは、ここには「勝てば官軍」、Might is rightの論理と感情が働いていることは見易いからだろう。現実に、ルーズベルト以下は勝ったから、その政治上の責任も道徳上の責任も、表立って追及されることはなかったのだ。ならば日本も、もっと多くのアメリカ兵や中国兵を殺し、大東亜戦争に勝ってさえいたら、責任はなくなってしまうのか。
こんな考えこそ道徳的ではない。明白なニヒリズムだ。人間が道徳的になり得る可能性を守るためにも、こういうことにはあまり首を突っ込まないほうがよいであろう。
ヤスパースの罪責分類の最後は「形而上的な罪」で、これは、何国人であるとか、政治家か否かなどの立場の相違を超えた、最も根源的な、「人間の条件」に由来する、そしてそれゆえに、前の三つの罪責の根底になるものである。昭和天皇についてこれを考えるのも、上と同じ理由で、控えようと思う。
ただ、すべての人間に共通する人間性とは真逆に、天皇という存在は、一般民衆はもとより、世界の他のどの国王や指導者にもない特質がある。これは視野に入れないわけにはいかないだろう。
私もぼんやりしたことしか言えないのだが、我々日本人は、天皇を、「責任」などという概念が似合う存在ではないように感じていないだろうか。現実に何をして何を言おうとも(と言っても自ずから限度はあるが)、汚れることのない、根本的に無垢な存在。これを守ることによって何かが得られるというわけではなく、守ること自体が我々の無上の栄光であると感じられる存在。
多分、神聖とか絶対とかの概念が、日本と西洋では、決定的に違うところがある。それなのに、上のような存在をEmperorとして、明治以後の日本は近代化の歩みを進めなければならなかった。明治から平成(今上)に至るまでの天皇は、よくその任に耐えたが、敗戦という最も過酷な現実に際会して、解きがたい矛盾が現れてしまったようだ。天皇と戦争との関わりを考えることを通じて、そのことの真の意味に光を当てることができれば、と思う。
昭和天皇に戦争責任があるのかないのか、議論は尽きない。私も後でそれに触れるつもりです。
と、書いてからずいぶんたった。それから自分なりに各種の文献に当たり、考えてみたのだが、いまだにまとまらない。今回、当ブログの更新が大幅に遅れ、「もうやめるのか」と人からも言われるような状態になったのも、生業が忙しかったことも理由だが、なかなか手をつけかねていた、というのもあった。
しかし、おかげで、一つのことだけはよく得心できた。この問題に関しては、万人どころか、日本人の半分を納得させるような説を唱えることは不可能である。近代日本の抱える最大のアポリアの一つが、ここには現れている。
で、あればこそ、考えがいがあることではないか、とは確かに言える。まずは、どこに難しさがあるのか、できるだけくまなく考えておこう。
今回のテキストは、吉田裕の書いた一頁のコラムだが、当面必要なことが端的に記されているように感じるので、これに反応する形で愚見を述べる。
なおまた、問題を整理するためには、「責任」というか、それが生じる「罪」の、さまざまなレベルを混同しないようにしておくのが大切だと思う。そのためには、カール・ヤスパースが「罪責論」(邦訳は橋本文夫訳『戦争の罪を問う』平凡社ライブラリー平成10年)で示した四分類が有名であり、便利でもあるので、これも使わせていただく。
罪責の第一「刑法上の罪」。普通に犯罪と呼ばれているもので、どう責任をとるかまで、法律に明記されている。この点、国内法では、天皇はあらかじめ責任を免れている、と言うことができる。前にも述べたように、少なくとも議会や裁判所などの公的な機関が天皇の責任について議論したり、その結果問責したりすることはできない。「君主の無答責」と呼ばれる規定で、帝国憲法第三条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」はそういう意味である。
吉田は、たとえそうでも、それは国内だけの話であって、国際的には別だ、と言う。では、国際的な法の裁きにはどのようなものが考えられるか。「日本も調印したヴェルサイユ講話条約」には、「戦争責任者としてドイツ皇帝を訴追することを決めていた」。以下にそれに関する、ヴェルサイユ講話条約二二七条の全文を、清水正義「第一次世界大戦後の前ドイツ皇帝訴追問題」から孫引きする。
同盟及び連合諸国は元ドイツ皇帝ホーエンツォレルン家ヴィルヘルム二世を国際道義と条約の尊厳に対する最高の罪を犯した廉で公式に訴追する。
被告人を裁くため特別な法廷が設置され、その際には弁護の権利に不可欠な保障が与えられる。法廷は下記諸国それぞれから指名される五名の裁判官によって構成される。すなわち、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、イタリア、及び日本。
法廷は判決にあたり国際政治の最高の動機に導かれ、国際取決の荘厳な義務と国際道義の真正さを立証する観点から行われる。科されるべきと考えられる処罰を決定することは法廷の義務である。
同盟及び連合諸国はオランダ政府に対し元皇帝を裁判に付せしめるべく同盟及び連合諸国に引き渡すよう要請を通告する。
実際には、この訴追は実行されなかった。ヴェルヘルム二世が亡命していたオランダは、彼の引き渡しを拒否した。同盟国の掲げる「国際政治の最高の動機」は果たして真正なものかどうか、亡命者引き渡しに関するオランダの国内法や慣習よりも優位におかれるべきものかどうか、疑わしい、というのがその理由だった。そうこうするうちにドイツでは革命の機運が高まり、ヴェルヘルム二世は故国に帰ることなく退位した。ここにホーエンツォレルン家の帝政は終わり、ワイマール共和制が始まる。そうなったら誰も、「特別な法廷」で元皇帝を裁くことになどこだわらなくなり、有耶無耶になってしまったのだ。
「特別な法廷」が実際に開かれたのは第二次世界大戦後である。ニュールンベルグ裁判と極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)。上のヴェルサイユ条約二二七条がこれを正当化したとまでは言えない。成文法には依らず、「国際道義」「条約の尊厳」というような抽象的な観念で人を裁くのが正しいのかどうか、そもそも、戦争で勝った国が負けた国を裁くこと自体がどうなのか、議論の余地は大いにあるし、現に議論されている。
それでも、ヴェルサイユ条約には、日本も、調印するという形で賛同したのだし、あまつさえ裁判官を選出すべき五カ国の中に入っているのであれば、同じ精神によって開かれた東京裁判に文句をつけられた義理ではあるまい、というのが、吉田のみならず最近散見する意見である。それはそうかも知れない。
ただ、昭和天皇に限って言えば、ヴェルヘルム二世と違って、国際軍事法廷で訴追されなかった。これにより、法的な責任は、国際的な意味でもない、で終わりである。
第二「政治上の罪」。たとえよい動機から出たものであったとしても、悪い結果を招いたなら、政治に携わる者は責任を負わなければならない。マックス・ウェーバー、なんて名前を出すまでもなく、このことは自明としてよいだろう。
さてそこで、戦争は国家の行う一大事業である。敗戦とは、その事業の失敗を意味する。それに関して、最高指導者に責任なし、とは普通に考えて言いづらい。民間でも、例えば、会社の存続が危うくなるほどの事業の破綻が明らかになった場合、社長が、たとえお飾りで、ただ書類に盲判を押すのが仕事だったとしても、安閑として地位を保ち続ける、ということのほうが稀であろう。
ただそこで、天皇の役割は会社の社長のようなストレートなものではない。いくつかに折れ曲がっている。それを理解しないと、議論が混迷するばかりになる。
制度上の話は、吉田が簡明に述べている通りである。帝国憲法第五十五条「国務大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責二任ス」は輔弼条項と呼ばれる。法令はもとより、勅許であっても、御名御璽の傍らに全国務大臣の副署がなければ効力を発揮しない。そして、責任を取るのは「責に任ず」とされる国務大臣であった。
しかし、最も危険な事業である軍事については、内閣には権限が認められていなかった。いわゆる、統帥権の独立である。帝国陸海軍の大元帥たる天皇には、陸軍からは参謀総長、海軍からは軍令部総長が補佐に当たるものの、彼らの役割は輔弼ではなく輔翼と呼ばれ、行政分野での国務大臣のような、天皇と共同して、あるいは天皇に代わって、責任を負うような存在では全くなかった。文字通りの助言者なのである。
しかしそれは、軍事上の決定が、実際に天皇の意思によってなされた、ということではない。「君臨すれど統治せず」とは、王には制度上権限はあっても、慣例としてそれは使わないという意味であり、それでこそ立憲君主制が成り立つ。昭和天皇も、内閣や軍部から上がってきた公式文書を裁可しなかったことは一度もなかった。
とは言え、とまた反転する。では、昭和天皇は書類に御名御璽を押すだけのデクノボーかと言えば、そうでもなかった。「昭和天皇回顧録」に「この時以来、閣議決定に対して、意見は云ふが、「ベトー」は云はぬ事にした」とあるように、天皇は意見なら言えたし、実際様々なことを言っている。それは軍事についても同様だった。
意見を言う機会としては、例えば「内奏」と呼ばれるものがある。何かの決定をする以前に天皇のお召しで宮中に参内し、御下問に答えるのである。この御下問、つまり天皇からの質問と言うのが、時によっては非常に厳しいもので、陸軍では、お召しがあるとわかっている時には、事前に想定問答集まで作って備えることもあったようだ。田中義一が辞任に追い込まれた会見も、少なくとも田中のつもりでは内奏であった(以上は後藤致人『内奏――天皇と政治の近現代史』中公新書平成22年より)。
【因みに、制度的な裏付けはないこの内奏は、昭和天皇の希望で、戦後まで続けられている。重光葵が渡米前に「駐屯軍の撤退は不可なり」と言われたのも内奏の場である。】
天皇はこういう形で、軍事について、御自分の意思を示された。そして、戦前、天皇の御意思が分かっている時、それを無視するのは困難だったことは言うまでもないだろう。天皇に政治上の責任がない、とは簡単には言えない。
では、それは具体的にはどのようなものか。昭和天皇と大東亜戦争の関わりはどんなものだったか、歴史の問題として非常に興味深いから、現在まで実にいろいろなことが言われている。私も今後できるだけ勉強して、当ブログで断続的に意見を開陳していきたい。
第三「道徳上の罪」。吉田裕も「最後に道義上の問題が残ります」と言う。ここまでくると、まず道徳・道義とはどういう意味で使われているのか、が問題になりそうだ。単純には、昭和天皇の命令で大勢の人が命を失ったことに対する責務は、あったとすべきではないか、という一種の感情論から来ているものが多いようだ。
感情論を軽蔑するわけではないが、多くの場合天皇の意思をストレートに表現しているわけではない「天皇の命令」の全体は、上の「政治上」に入れて考えるべきものだと思う。
そうではなく、人命が失われたこと自体への、政治家ではなく人間としての責任、というものも、考えられはする。しかし、それを他人について、声高に追求するのは控えるべきではないだろうか。
だいたい、戦争で人命が失われたこと自体に対する責任と言うなら、ルーズベルト及びトルーマンも、チャーチルもスターリンも蒋介石も、負うべきではないか。彼らの戦争は正しいもので、従ってそのために大勢の戦死者が出たのは、よかったとは言えないまでもやむを得ないことであり、日本がやった戦争は悪だから、戦死したのは無駄死にだった、とでも言うのだろうか。
実のところ、そう言いたげな人はけっこういる。ただ、なかなかはっきりとは言えないのは、ここには「勝てば官軍」、Might is rightの論理と感情が働いていることは見易いからだろう。現実に、ルーズベルト以下は勝ったから、その政治上の責任も道徳上の責任も、表立って追及されることはなかったのだ。ならば日本も、もっと多くのアメリカ兵や中国兵を殺し、大東亜戦争に勝ってさえいたら、責任はなくなってしまうのか。
こんな考えこそ道徳的ではない。明白なニヒリズムだ。人間が道徳的になり得る可能性を守るためにも、こういうことにはあまり首を突っ込まないほうがよいであろう。
ヤスパースの罪責分類の最後は「形而上的な罪」で、これは、何国人であるとか、政治家か否かなどの立場の相違を超えた、最も根源的な、「人間の条件」に由来する、そしてそれゆえに、前の三つの罪責の根底になるものである。昭和天皇についてこれを考えるのも、上と同じ理由で、控えようと思う。
ただ、すべての人間に共通する人間性とは真逆に、天皇という存在は、一般民衆はもとより、世界の他のどの国王や指導者にもない特質がある。これは視野に入れないわけにはいかないだろう。
私もぼんやりしたことしか言えないのだが、我々日本人は、天皇を、「責任」などという概念が似合う存在ではないように感じていないだろうか。現実に何をして何を言おうとも(と言っても自ずから限度はあるが)、汚れることのない、根本的に無垢な存在。これを守ることによって何かが得られるというわけではなく、守ること自体が我々の無上の栄光であると感じられる存在。
多分、神聖とか絶対とかの概念が、日本と西洋では、決定的に違うところがある。それなのに、上のような存在をEmperorとして、明治以後の日本は近代化の歩みを進めなければならなかった。明治から平成(今上)に至るまでの天皇は、よくその任に耐えたが、敗戦という最も過酷な現実に際会して、解きがたい矛盾が現れてしまったようだ。天皇と戦争との関わりを考えることを通じて、そのことの真の意味に光を当てることができれば、と思う。