Greek Theatre
悲劇の起源は集団の、歌舞であつたとされる。集団はコロス(コーラスの語源)、歌舞はディテュランポスと呼ばれた。後者はアジア出身の神ディオニソス(ローマ名はバッカス)に由来する。農耕神だつたが、葡萄から酒が造られることが普通になるにつれて酒の神となり、やがて演劇の神ともなつた。この過程のどこかで、大神ゼウスの息子の一人ともされたのは、この神の存在感がギリシャで非常に大きくなつた証である。
劇の成立については、ディオニソスが象徴する酩酊状態の陶酔・狂乱に、太陽神アポロンの理性が奇跡的に合体したもの、といふニーチェ「悲劇の誕生」の説明がある。それに対する内容面での違和感は、本シリーズ第二回で述べた。しかし、劇の形式面に限定すれば、やはり魅力的な見方である。理性は、パフォーマンスにどのやうな箍(たが)を嵌めたのか、考へてみよう。
コロスは、ディオニソスに仕へる者、例へばこの神の眷属として知られるサチュロスに扮して、歌ひ踊つた。やがてその中心部で、一人の男が、語り始める。ローマ時代にはペルソナ(パーソナリティの語源)と呼ばれることになる仮面をつけて、神話や歴史上の人物を名乗ることもあった。これが俳優だが、ヒュポクリテスと呼ばれた。英語のhypocrite(偽善者)の語源である。最も早い段階の俳優(おそらく、兼劇作家)として名を残すテスピスは、「人前で嘘ばかり言つて恥づかしくないのか」と、ギリシャ七賢人の一人にしてアテネの立法者ソロンに詰られてゐる(「プルターク英雄伝」)。
俳優とコロスの間で演じられた「劇」はどのやうなものであつたか。彼はコロスの代表ではない。後代の劇作品だと、その立場の者は「コロスの長」として、俳優に語りかけることもある。つまり、俳優はコロスから独立してゐる。ならば必ず対話(ディアレクティケ)が生じる。例へば、「お前は何で、何をしようとするか」といふやうな問ひかけと応へがあつたらう。ここから劇が、第一歩を踏み出したのである。
やがてアイスキュロスが、俳優を二人登場させ、さらにソフォクレスが三人にした。それ以後、ギリシャ期には、一作品中の俳優の数が増えることはなかつた(ただし、無言の登場人物、兵などの現在のエキストラ、それに子役はノーカウント)さうだ。
その真偽を私が確かめられるはずはない。ただ、このことを気にしながら、特に作品が残つてゐる最古の劇作家(兼俳優)アイスキュロスの戯曲を読むと、西洋演劇の「発展」の跡が目に浮かぶやうな気がする。
アイスキュロスの作物で現在まで完全な形で残されてゐるのは、「オレステイア三部作」を三つと数へて七作。そこでは、いろいろな劇形式が試みられてゐる。
「ペルシャ人」が一番古い形に近いのではなからうか。ここでの実質的な主役は、ペルシャの元老たちに扮したコロスである。題材は紀元前480年のサラミス海戦。ギリシャ悲劇の多くが神話を題材としてゐる中で、例外的に、歴史的な事実、それも、執筆時期から見てごく近い過去の出来事を描く。
ペルシャが大軍を率ゐてギリシャを襲つたいはゆるペルシャ戦争の最中、元老たちは戦の行方を案じてゐる。そこへ登場するのは王妃アトッサ。夫のダレイオス王は既に亡く、まだ若い息子のクセルクスが跡を継いで遠征に出てゐる。彼女のキャラクター(いはゆる性格と、劇中での役割の両方を示すものとして、この語を使ふ)は、コロスと殆ど変らない。悪夢のために戦況に不安を感じながら、待つばかりだ。
そこへ伝令が悲報をもたらす。これを第二の俳優が務めたと思しい。サラミス海戦でペルシャ海軍は完敗、そのために、エウロペの地(ヨーロッパ)に侵入した陸軍もまた、壊滅の危機に瀕してゐる(史実とは少し違ふのは看過)とのこと。
悲嘆にくれたアトッサの語り乃至歌とコロスの歌舞が順に演じられた後、アトッサの祈りに応じて、先王ダレイオスの亡霊が現れる。これは先程伝令を務めた俳優が早変はりで演じたのだらう。彼は、この戦は若いクセルクスの思ひ上がりから生じたもので、もともと無理な企てであつた、もう二度とギリシャを相手に兵を挙げてはならぬ、と宣託をくだす。
これを受けて、アトッサが退場し、コロスが再び嘆きの歌と踊りを披露した後、やうやう逃げ帰ることのできた当のクセルクスが登場し、最後の愁嘆場となる。これは、第一の俳優が、アトッサから変はつたものだらう。仮面のおかげで、一人二役から何役でも、女から男への変化でも、簡単にできる。衣装はどうしたか、コロスの演舞のおかげで、着替へる時間もある。ただし、敗軍の将らしき扮装までしたものかどうか、たぶんこの時代のギリシャには、そのやうなリアリズムは要求されてゐない。
以上で、この劇の三人の登場人物が、いずれもヒーローとは呼べないことは明らかであらう。彼等は劇中、決定的な行動に踏み出すわけでもなく、オイディプスのやうに新たな認知(アナグノリシス)を得るわけでもない。ゆゑに、急展開(ペリペティア)もない。それら「劇的」なるものがすべて終はつた後に登場して、嘆いたり反省したりするばかりだ。
さういふ劇は他にもある。日本の能楽など、たいがいそんなものだ。しかし、描写といふことができる映画ではなく、舞台で、歌も踊りもなかつたとしたら、けつかう退屈するのではないだらうか。西洋近代の、いはゆるストレート・プレイ(せりふ劇)と結びつくには、もう何段階かを経る必要があつた、といふことである。
見逃せない要素は他にある。「伝令」あるいは「使者」の役割だ。固有名が与へられてゐないところからもわかるやうに、彼の性格などは全く問題にされない。重要なのは語りのはうである。もつとも、戦場から命からがら逃げ帰つた兵の一人といふポジションはあるが、それを除けば、まるで吟遊詩人のやうだ。「イリアス」におけるトロイ戦争さながら、海戦の模様を、具に、朗々と語る。
思ふに、アイスキュロスが成し遂げたのは、叙事詩とディテュランポスとの合体ではなかつたらうか。吟遊詩人なら、戦や英雄の物語を直に聴衆に語り聞かせる。今、彼が語る相手は、別の人物に扮した者達だ。観客は、話を聞くと同時に、その話によつて、強い影響を受ける者達(を演じる者達)を見る。詩や歌舞から受ける感銘はそのままだつたとしても、以前と同じ立場にゐるわけはない。
それはコロスと俳優との対話によつて既に始まつてゐたが、ここにはもつと大規模な、歌舞と叙事詩と俳優のそれぞれに明確な立場を与へることになる全体の枠がある。観客はその外側の、メタ(Meta。「間に」「後に」「超える」などの意味)と言はれるに相応しい位置にまで押し上げられたか、あるいは押し込められたのだ。
もう一つ、「伝令」は、外部から、知らせをもたらす者だ。つまり、直接目に見へない「外部」があり、明確に意識される。観客が見るのは、それに対応した、「内部」である。ここにも枠が出来上がつてゐる。舞台が文字通りの枠である額縁(プロセニアム・アーチ)を備へるのはもつとずつと後のことになるが、象徴的な意味でなら、もうできてゐた。
悲劇のヒーローたるに相応しい主人公は、「テーバイ攻めの七将」に登場する。オイディプスとイオカステの子の一人エテオクレス。彼とポリュネイケスとの、テーバイの王位をめぐる骨肉の争いの顛末は、第5回に記した。
この劇はアルゴス軍によるテーバイ攻略戦を描く。全体が壁で囲まれたこの都市国家には、全部で七つの門があり、そこへアルゴスの七人の武将が、各々籤で持ち場を選び、押し寄せる。コロスは戦き怯えるテーバイの女達を演じる。エテオクレス(第一の俳優)は彼女たちを叱つたり宥めたりする。ところへ使者(第二の俳優)が、アルゴス軍の様子を伝へに来る。
使者、実態は物見の兵士、の報告に応じてエテオクレスが適確(なのだらう)な命令を下してテーバイを守り、それを周りで聞いて一喜一憂する「輿論」をコロスが示す。この三者が緊密に結びついて劇は進むが、アクションは城塞都市の、壁の外側で起こつてをり、それは使者の言葉によつてのみ舞台にもたらされる。
だからここでも彼の朗誦だか雄弁だかは決定的に重要である。それはどんな調子だつたか、講談のやうに、「さて四番目の門外に、大音声で呼ばはるは、魁偉なるヒッポメドン、大なる円形の盾を振り回せば威風辺りを払ふなり」といふ感じだつたか、どうかわからないが、何しろ高い調子で観客を引き込んだものだらう。それに対してエテオクレスが、冷静に、テーバイの将から適材を選んで防御に行かせる。
かくして報告=戦況が進み、最後の、第七の門に来たのはポリュネイケスであることが告げられる。これを迎へ撃つのはエテオクレス自身しかない。
と、彼が言うのを、女達(コロス)が止める。他に武将が残つてゐないわけではなし、王自らが戦闘に出る必要はない。何しろ、相手は血を分けた兄弟ではないか。オイディプスが彼らに下した呪ひは知つてゐる。しかしさうであればなほのこと、自ら怖ろしくも厭はしい運命に飛び込むなんて馬鹿げてゐる。
エテオクレスは聞き入れない。禍(わざわひ)を蒙らねばならないなら、(臆病者の)恥辱は避けるべきだ、と。彼は、怒りつぽいといふ父祖伝来の気質に負けるのでも、他者(例へば、神)によつて敷かれた破滅への道を盲目的に辿るのでもない。自分の宿命だと感じたものは必ず全うせねばならぬと感じるほど、自分自身であることに固執する人物なのだ。ここにヒーローがゐる。
「救ひを求める女達」にはヒーローは登場せず、主役はコロスである。五十人の娘(これがコロス)が従兄弟の五十人に求婚されるが、なぜかこの結婚を嫌つて他国に逃れ、その地の領主の庇護を求めるといふ、思ひ切つて荒唐無稽な筋立て。
注目すべきなのは、ここにも「伝令」といふ役名の者が登場するが、彼は従兄弟たちの使ひで、力づくで娘たちを連れ去ろうとし、領主に追ひ払はれる。つまり、悪役である。前述の二作では使者・伝令の語りで伝へられた外部の悪意が、ここで当の伝令の、人間の姿で現れ、コロスと対立して、舞台に目に見える緊張をもたらす。「人間の劇」に向かふ、さらなる一歩の跡が、ここに見出される。
「縛られたプロメテウス」では、のつけに四人登場する。もつとも、そのうちの一人は終始無言。主人公のプロメテウスも、最初は無言だから、吹き替へ役を使ひ、セリフのある二人のうち一人が、先代市川猿之助(現猿翁)ばりの早変はりでプロメテウスになり代はつて、一人取り残された後の長い独白を語る、といふこともできなくはない。が、そんなことをしても全く有害無益な演出だとしか、少なくとも今日の目からは見えないだらう。
劇の主要部は、俳優二人でできるやうになつてゐる。
プロメテウスは、天から火を盗んで人間に与へた神話で有名だが、この作品中の彼は、火のみならず数や文字、さらには薬まで、文明と呼ばれるものの一切を人間に教へ、ために人間を未開のままにしておきたかつた大神ゼウスの怒りを買つて、大岩に縛り付けられる。
そこへ、彼に同情的かあるいは敵対する者(神)が順繰りにやつて来て、対話する。最後に伝令も来るが、ここではヘルメスといふ固有名と、ゼウスの意向を伝へて頑迷な主人公を諭す、明確なキャラクターが与へられてゐる。
コロスはと言ふと、海の妖精たちで、プロメテウスの味方となり、最後に彼とともに奈落に落とされる。
すべてをひつくるめて、俳優二人+コロスによつて構成される劇のお手本のやうなのだが、最初の、やや喜劇的な趣のプロロゴス(→プロローグ)だけさうなつてゐない。
登場するのは主人公の他、彼を引つ立てて来るクラトスとビアー。前者は権力、後者は暴力の意味で、ゼウスの手先、といふより、大神の属性を擬人化したものだ。後者が終始無言なのは、暴力の比喩として適切なのかも知れない。それにしては、権力が少ししやべりすぎるやうな気がするのだが。
それはさうと、最後にへバイトス(ローマ名はバルカン)が出てくる。これはゼウスの息子で火と鍛冶の神、つまりプロメテウスから火を盗まれた張本人なのだが、彼に同情的である。しかし父神の命令はもだし難く、しかたなく(実際に何度もさう口にする)、プロメテウスを鎖で縛り、その鎖を大岩に打ち付ける。
このヘバイトスこそが三人目なのだ。敵対する二者の間にゐて、どつちつかずの曖昧な態度を取る。
それは、劇の主要プロットである敵対関係を外から眺める「第三者」の視点であり、やがてこの関係が揺れ動き、変化することを予兆させる。どう変はるのかは、本作を第一とする三部作(ギリシャ悲劇はたいていさう構成されたものらしい)の残り二つが散逸したため、わからない。
それでも、人間関係(いや、神間関係、だが)を複雑化させる要素が、人間(神、だが)の姿で現れたことには、重要な意味が窺へる。
三部作構成の劇で、唯一完全な形で残つてゐる「オレステイア」になると、劇の結構が複雑になり、それにつれて俳優の役割が増す。
もつとも、第一部「アガメムノン」は「ペルシャ人」とそつくりの雰囲気で始まる。物身の兵士の独白によるプロロゴスの後、コロスが演じるアルゴスの長老達が、戦地に赴いて十年になる王アガメムノンを案じる。トロイ攻めの初端、ギリシャ艦隊が、逆風のためアウリスの港から出て行けなかつた時、ギリシャ連合軍総大将であるアガメムノンが、娘のイピゲネイアを神への生贄にしたことも、彼らの歌の中に出て来る。
やがて伝令が、ギリシャの勝利、アガメムノンも直ちに帰還する、との報告をもたらす。この作の伝令の役割はこれで終はり。コロスは喜んで王妃クリュタイメストラに告げるが、王妃のはうでは物見の兵からの知らせで、既にこれを知つてゐた。彼女は、この劇の初めから終はりまでを見通してゐるただ一人の人物なので、この設定が相応しい。
さて、アガメムノンの凱旋。ここまでで、この劇は半分近くの時間を費やす。のみならず、カッサンドルの神懸りをちょうど中間にして、外部からの働きかけ、それに対する集団(コロス+俳優)の反応、で進行する劇が、名前を持った人物たち相互の関係性に基づくものへと変はる分水嶺が、認められるやうである。
後者の中でも、クリュタイメストラの二重性を帯びた言動は際立つてゐる。彼女は最初優しい言葉で夫を労ひながら、後で殺害する。即ち、単なる悪役ではなく、裏切者といふ、人間関係を根底的に揺さぶり複雑化させる人物なのである。イエス・キリストの物語(福音書)が、神とローマ帝国との軋轢の他に、ユダといふ裏切者の存在によつて、印象深くなつてゐることが思ひ出される。
一番顕著な例としては、夫がいやがるのに、譲らず、玉座への道に高価な布を敷きつめて、その上を歩かせる。大戦争の勝利者にはこれが相応しいのだ、と。これはそのままアガメムノンの死への通路を彩る、禍々しい演出となる。
この後、戦利品として、女奴隷にされたトロイの王女カッサンドルの場となる。クリュタイメストラはアガメムノンと彼女の両方と言葉を交す(もっとも、カッサンドルのときは、彼女が頑に沈黙してゐるので、一方的な語りかけ)のだから、俳優が二人だとしたら、アガメムノンを演じた者がカッサンドルに早変はりすることになる。後で二人の死体が並ぶことを度外視しても(それは、他の、無言の役者でもすむ)、「縛られたプロメテウス」の時と同様、そのやうな演出に好ましい効果があるとは思へない。
【三部作最後の「慈しみの女神たち」では、アテナ、アポロン、オレステスの三名が同時に舞台に出て話す必要があるので、アイスキュロスも後期は、俳優を三人にしたとみなすべきなのだらう。】
カッサンドルは、アポロンに愛され、真正の予言の能力を与へられたが、後に同じ神の憎しみを買つて、その予言は誰にも信じられなくなつた。予言のアイロニーを体現してゐるので、ギリシャ神話中でも有名な人物の一人である。
この劇中で彼女は、クリュタイメストラが去つて、コロスの中に残されると、それまで無言で凝然としてゐたものが、狂乱の態になり、アルゴス王宮に澱む血腥さを訴へ、次いで自らの死を予兆する。ここには俳優がただ一人だつたときの名残があるかも知れない。しかしすぐ後に、自身とアガメムノンとの実際の死が来るので、これ全体が、敷き詰められた布と同様、殺人の衝撃を強調するエピソードとして、劇全体の中に組み込まれる。
殺害者クリュタイメストラはと言ふと、自分がやつたことを少しも隠さうとしない。長老たち(コロス)は彼女を非難するが、それをものともせず、これは殺された娘イピゲネイアの仇討だから、正当だ、と主張する。アガメムノンがギリシャの盟主としての義務を果たさうとしてしたことが、彼女には単なる殺人でしかない。
もっとも、それだけで彼女が夫を殺したのかどうか、疑問の余地はある。アガメムノンの従兄弟アイギストス(彼は彼でアガメムノンを恨む理由があることは、煩雑なので省略)と通じてゐて、彼を次の王にするのだから。真の動機は、愛憎の縺れと権力の奪取だつたのかも。いづれにもせよ、立場を替へれば、人間の行為は様々に評価され得る、といふ世の常が、非常に端的に現れてゐる。
第二部「供養する女たち」で、彼らの前に、オレステスが現れ、父が殺されたことの報復を成し遂げる。ところがそれは、母殺しの大罪を犯すことであつた。その顛末は第3回で述べた。彼は母親に比べると単純な人物だが、置かれた状況が既にアポリアになつてゐて、彼を縛り、決断とさらにその結果、さらにその決着、へと導く。彼の場合、それが即ち、「オレステスとは何か」に全力で応えることなのである。
このやうにして、劇の発動する場が、外部の声に対する応答から、複数(最低三人)の人物の関係内部へと移された。これが必然の道程かどうかはわからない。しかし、西洋演劇が現に辿つた道ではある。
悲劇の起源は集団の、歌舞であつたとされる。集団はコロス(コーラスの語源)、歌舞はディテュランポスと呼ばれた。後者はアジア出身の神ディオニソス(ローマ名はバッカス)に由来する。農耕神だつたが、葡萄から酒が造られることが普通になるにつれて酒の神となり、やがて演劇の神ともなつた。この過程のどこかで、大神ゼウスの息子の一人ともされたのは、この神の存在感がギリシャで非常に大きくなつた証である。
劇の成立については、ディオニソスが象徴する酩酊状態の陶酔・狂乱に、太陽神アポロンの理性が奇跡的に合体したもの、といふニーチェ「悲劇の誕生」の説明がある。それに対する内容面での違和感は、本シリーズ第二回で述べた。しかし、劇の形式面に限定すれば、やはり魅力的な見方である。理性は、パフォーマンスにどのやうな箍(たが)を嵌めたのか、考へてみよう。
コロスは、ディオニソスに仕へる者、例へばこの神の眷属として知られるサチュロスに扮して、歌ひ踊つた。やがてその中心部で、一人の男が、語り始める。ローマ時代にはペルソナ(パーソナリティの語源)と呼ばれることになる仮面をつけて、神話や歴史上の人物を名乗ることもあった。これが俳優だが、ヒュポクリテスと呼ばれた。英語のhypocrite(偽善者)の語源である。最も早い段階の俳優(おそらく、兼劇作家)として名を残すテスピスは、「人前で嘘ばかり言つて恥づかしくないのか」と、ギリシャ七賢人の一人にしてアテネの立法者ソロンに詰られてゐる(「プルターク英雄伝」)。
俳優とコロスの間で演じられた「劇」はどのやうなものであつたか。彼はコロスの代表ではない。後代の劇作品だと、その立場の者は「コロスの長」として、俳優に語りかけることもある。つまり、俳優はコロスから独立してゐる。ならば必ず対話(ディアレクティケ)が生じる。例へば、「お前は何で、何をしようとするか」といふやうな問ひかけと応へがあつたらう。ここから劇が、第一歩を踏み出したのである。
やがてアイスキュロスが、俳優を二人登場させ、さらにソフォクレスが三人にした。それ以後、ギリシャ期には、一作品中の俳優の数が増えることはなかつた(ただし、無言の登場人物、兵などの現在のエキストラ、それに子役はノーカウント)さうだ。
その真偽を私が確かめられるはずはない。ただ、このことを気にしながら、特に作品が残つてゐる最古の劇作家(兼俳優)アイスキュロスの戯曲を読むと、西洋演劇の「発展」の跡が目に浮かぶやうな気がする。
アイスキュロスの作物で現在まで完全な形で残されてゐるのは、「オレステイア三部作」を三つと数へて七作。そこでは、いろいろな劇形式が試みられてゐる。
「ペルシャ人」が一番古い形に近いのではなからうか。ここでの実質的な主役は、ペルシャの元老たちに扮したコロスである。題材は紀元前480年のサラミス海戦。ギリシャ悲劇の多くが神話を題材としてゐる中で、例外的に、歴史的な事実、それも、執筆時期から見てごく近い過去の出来事を描く。
ペルシャが大軍を率ゐてギリシャを襲つたいはゆるペルシャ戦争の最中、元老たちは戦の行方を案じてゐる。そこへ登場するのは王妃アトッサ。夫のダレイオス王は既に亡く、まだ若い息子のクセルクスが跡を継いで遠征に出てゐる。彼女のキャラクター(いはゆる性格と、劇中での役割の両方を示すものとして、この語を使ふ)は、コロスと殆ど変らない。悪夢のために戦況に不安を感じながら、待つばかりだ。
そこへ伝令が悲報をもたらす。これを第二の俳優が務めたと思しい。サラミス海戦でペルシャ海軍は完敗、そのために、エウロペの地(ヨーロッパ)に侵入した陸軍もまた、壊滅の危機に瀕してゐる(史実とは少し違ふのは看過)とのこと。
悲嘆にくれたアトッサの語り乃至歌とコロスの歌舞が順に演じられた後、アトッサの祈りに応じて、先王ダレイオスの亡霊が現れる。これは先程伝令を務めた俳優が早変はりで演じたのだらう。彼は、この戦は若いクセルクスの思ひ上がりから生じたもので、もともと無理な企てであつた、もう二度とギリシャを相手に兵を挙げてはならぬ、と宣託をくだす。
これを受けて、アトッサが退場し、コロスが再び嘆きの歌と踊りを披露した後、やうやう逃げ帰ることのできた当のクセルクスが登場し、最後の愁嘆場となる。これは、第一の俳優が、アトッサから変はつたものだらう。仮面のおかげで、一人二役から何役でも、女から男への変化でも、簡単にできる。衣装はどうしたか、コロスの演舞のおかげで、着替へる時間もある。ただし、敗軍の将らしき扮装までしたものかどうか、たぶんこの時代のギリシャには、そのやうなリアリズムは要求されてゐない。
以上で、この劇の三人の登場人物が、いずれもヒーローとは呼べないことは明らかであらう。彼等は劇中、決定的な行動に踏み出すわけでもなく、オイディプスのやうに新たな認知(アナグノリシス)を得るわけでもない。ゆゑに、急展開(ペリペティア)もない。それら「劇的」なるものがすべて終はつた後に登場して、嘆いたり反省したりするばかりだ。
さういふ劇は他にもある。日本の能楽など、たいがいそんなものだ。しかし、描写といふことができる映画ではなく、舞台で、歌も踊りもなかつたとしたら、けつかう退屈するのではないだらうか。西洋近代の、いはゆるストレート・プレイ(せりふ劇)と結びつくには、もう何段階かを経る必要があつた、といふことである。
見逃せない要素は他にある。「伝令」あるいは「使者」の役割だ。固有名が与へられてゐないところからもわかるやうに、彼の性格などは全く問題にされない。重要なのは語りのはうである。もつとも、戦場から命からがら逃げ帰つた兵の一人といふポジションはあるが、それを除けば、まるで吟遊詩人のやうだ。「イリアス」におけるトロイ戦争さながら、海戦の模様を、具に、朗々と語る。
思ふに、アイスキュロスが成し遂げたのは、叙事詩とディテュランポスとの合体ではなかつたらうか。吟遊詩人なら、戦や英雄の物語を直に聴衆に語り聞かせる。今、彼が語る相手は、別の人物に扮した者達だ。観客は、話を聞くと同時に、その話によつて、強い影響を受ける者達(を演じる者達)を見る。詩や歌舞から受ける感銘はそのままだつたとしても、以前と同じ立場にゐるわけはない。
それはコロスと俳優との対話によつて既に始まつてゐたが、ここにはもつと大規模な、歌舞と叙事詩と俳優のそれぞれに明確な立場を与へることになる全体の枠がある。観客はその外側の、メタ(Meta。「間に」「後に」「超える」などの意味)と言はれるに相応しい位置にまで押し上げられたか、あるいは押し込められたのだ。
もう一つ、「伝令」は、外部から、知らせをもたらす者だ。つまり、直接目に見へない「外部」があり、明確に意識される。観客が見るのは、それに対応した、「内部」である。ここにも枠が出来上がつてゐる。舞台が文字通りの枠である額縁(プロセニアム・アーチ)を備へるのはもつとずつと後のことになるが、象徴的な意味でなら、もうできてゐた。
悲劇のヒーローたるに相応しい主人公は、「テーバイ攻めの七将」に登場する。オイディプスとイオカステの子の一人エテオクレス。彼とポリュネイケスとの、テーバイの王位をめぐる骨肉の争いの顛末は、第5回に記した。
この劇はアルゴス軍によるテーバイ攻略戦を描く。全体が壁で囲まれたこの都市国家には、全部で七つの門があり、そこへアルゴスの七人の武将が、各々籤で持ち場を選び、押し寄せる。コロスは戦き怯えるテーバイの女達を演じる。エテオクレス(第一の俳優)は彼女たちを叱つたり宥めたりする。ところへ使者(第二の俳優)が、アルゴス軍の様子を伝へに来る。
使者、実態は物見の兵士、の報告に応じてエテオクレスが適確(なのだらう)な命令を下してテーバイを守り、それを周りで聞いて一喜一憂する「輿論」をコロスが示す。この三者が緊密に結びついて劇は進むが、アクションは城塞都市の、壁の外側で起こつてをり、それは使者の言葉によつてのみ舞台にもたらされる。
だからここでも彼の朗誦だか雄弁だかは決定的に重要である。それはどんな調子だつたか、講談のやうに、「さて四番目の門外に、大音声で呼ばはるは、魁偉なるヒッポメドン、大なる円形の盾を振り回せば威風辺りを払ふなり」といふ感じだつたか、どうかわからないが、何しろ高い調子で観客を引き込んだものだらう。それに対してエテオクレスが、冷静に、テーバイの将から適材を選んで防御に行かせる。
かくして報告=戦況が進み、最後の、第七の門に来たのはポリュネイケスであることが告げられる。これを迎へ撃つのはエテオクレス自身しかない。
と、彼が言うのを、女達(コロス)が止める。他に武将が残つてゐないわけではなし、王自らが戦闘に出る必要はない。何しろ、相手は血を分けた兄弟ではないか。オイディプスが彼らに下した呪ひは知つてゐる。しかしさうであればなほのこと、自ら怖ろしくも厭はしい運命に飛び込むなんて馬鹿げてゐる。
エテオクレスは聞き入れない。禍(わざわひ)を蒙らねばならないなら、(臆病者の)恥辱は避けるべきだ、と。彼は、怒りつぽいといふ父祖伝来の気質に負けるのでも、他者(例へば、神)によつて敷かれた破滅への道を盲目的に辿るのでもない。自分の宿命だと感じたものは必ず全うせねばならぬと感じるほど、自分自身であることに固執する人物なのだ。ここにヒーローがゐる。
「救ひを求める女達」にはヒーローは登場せず、主役はコロスである。五十人の娘(これがコロス)が従兄弟の五十人に求婚されるが、なぜかこの結婚を嫌つて他国に逃れ、その地の領主の庇護を求めるといふ、思ひ切つて荒唐無稽な筋立て。
注目すべきなのは、ここにも「伝令」といふ役名の者が登場するが、彼は従兄弟たちの使ひで、力づくで娘たちを連れ去ろうとし、領主に追ひ払はれる。つまり、悪役である。前述の二作では使者・伝令の語りで伝へられた外部の悪意が、ここで当の伝令の、人間の姿で現れ、コロスと対立して、舞台に目に見える緊張をもたらす。「人間の劇」に向かふ、さらなる一歩の跡が、ここに見出される。
「縛られたプロメテウス」では、のつけに四人登場する。もつとも、そのうちの一人は終始無言。主人公のプロメテウスも、最初は無言だから、吹き替へ役を使ひ、セリフのある二人のうち一人が、先代市川猿之助(現猿翁)ばりの早変はりでプロメテウスになり代はつて、一人取り残された後の長い独白を語る、といふこともできなくはない。が、そんなことをしても全く有害無益な演出だとしか、少なくとも今日の目からは見えないだらう。
劇の主要部は、俳優二人でできるやうになつてゐる。
プロメテウスは、天から火を盗んで人間に与へた神話で有名だが、この作品中の彼は、火のみならず数や文字、さらには薬まで、文明と呼ばれるものの一切を人間に教へ、ために人間を未開のままにしておきたかつた大神ゼウスの怒りを買つて、大岩に縛り付けられる。
そこへ、彼に同情的かあるいは敵対する者(神)が順繰りにやつて来て、対話する。最後に伝令も来るが、ここではヘルメスといふ固有名と、ゼウスの意向を伝へて頑迷な主人公を諭す、明確なキャラクターが与へられてゐる。
コロスはと言ふと、海の妖精たちで、プロメテウスの味方となり、最後に彼とともに奈落に落とされる。
すべてをひつくるめて、俳優二人+コロスによつて構成される劇のお手本のやうなのだが、最初の、やや喜劇的な趣のプロロゴス(→プロローグ)だけさうなつてゐない。
登場するのは主人公の他、彼を引つ立てて来るクラトスとビアー。前者は権力、後者は暴力の意味で、ゼウスの手先、といふより、大神の属性を擬人化したものだ。後者が終始無言なのは、暴力の比喩として適切なのかも知れない。それにしては、権力が少ししやべりすぎるやうな気がするのだが。
それはさうと、最後にへバイトス(ローマ名はバルカン)が出てくる。これはゼウスの息子で火と鍛冶の神、つまりプロメテウスから火を盗まれた張本人なのだが、彼に同情的である。しかし父神の命令はもだし難く、しかたなく(実際に何度もさう口にする)、プロメテウスを鎖で縛り、その鎖を大岩に打ち付ける。
このヘバイトスこそが三人目なのだ。敵対する二者の間にゐて、どつちつかずの曖昧な態度を取る。
それは、劇の主要プロットである敵対関係を外から眺める「第三者」の視点であり、やがてこの関係が揺れ動き、変化することを予兆させる。どう変はるのかは、本作を第一とする三部作(ギリシャ悲劇はたいていさう構成されたものらしい)の残り二つが散逸したため、わからない。
それでも、人間関係(いや、神間関係、だが)を複雑化させる要素が、人間(神、だが)の姿で現れたことには、重要な意味が窺へる。
三部作構成の劇で、唯一完全な形で残つてゐる「オレステイア」になると、劇の結構が複雑になり、それにつれて俳優の役割が増す。
もつとも、第一部「アガメムノン」は「ペルシャ人」とそつくりの雰囲気で始まる。物身の兵士の独白によるプロロゴスの後、コロスが演じるアルゴスの長老達が、戦地に赴いて十年になる王アガメムノンを案じる。トロイ攻めの初端、ギリシャ艦隊が、逆風のためアウリスの港から出て行けなかつた時、ギリシャ連合軍総大将であるアガメムノンが、娘のイピゲネイアを神への生贄にしたことも、彼らの歌の中に出て来る。
やがて伝令が、ギリシャの勝利、アガメムノンも直ちに帰還する、との報告をもたらす。この作の伝令の役割はこれで終はり。コロスは喜んで王妃クリュタイメストラに告げるが、王妃のはうでは物見の兵からの知らせで、既にこれを知つてゐた。彼女は、この劇の初めから終はりまでを見通してゐるただ一人の人物なので、この設定が相応しい。
さて、アガメムノンの凱旋。ここまでで、この劇は半分近くの時間を費やす。のみならず、カッサンドルの神懸りをちょうど中間にして、外部からの働きかけ、それに対する集団(コロス+俳優)の反応、で進行する劇が、名前を持った人物たち相互の関係性に基づくものへと変はる分水嶺が、認められるやうである。
後者の中でも、クリュタイメストラの二重性を帯びた言動は際立つてゐる。彼女は最初優しい言葉で夫を労ひながら、後で殺害する。即ち、単なる悪役ではなく、裏切者といふ、人間関係を根底的に揺さぶり複雑化させる人物なのである。イエス・キリストの物語(福音書)が、神とローマ帝国との軋轢の他に、ユダといふ裏切者の存在によつて、印象深くなつてゐることが思ひ出される。
一番顕著な例としては、夫がいやがるのに、譲らず、玉座への道に高価な布を敷きつめて、その上を歩かせる。大戦争の勝利者にはこれが相応しいのだ、と。これはそのままアガメムノンの死への通路を彩る、禍々しい演出となる。
この後、戦利品として、女奴隷にされたトロイの王女カッサンドルの場となる。クリュタイメストラはアガメムノンと彼女の両方と言葉を交す(もっとも、カッサンドルのときは、彼女が頑に沈黙してゐるので、一方的な語りかけ)のだから、俳優が二人だとしたら、アガメムノンを演じた者がカッサンドルに早変はりすることになる。後で二人の死体が並ぶことを度外視しても(それは、他の、無言の役者でもすむ)、「縛られたプロメテウス」の時と同様、そのやうな演出に好ましい効果があるとは思へない。
【三部作最後の「慈しみの女神たち」では、アテナ、アポロン、オレステスの三名が同時に舞台に出て話す必要があるので、アイスキュロスも後期は、俳優を三人にしたとみなすべきなのだらう。】
カッサンドルは、アポロンに愛され、真正の予言の能力を与へられたが、後に同じ神の憎しみを買つて、その予言は誰にも信じられなくなつた。予言のアイロニーを体現してゐるので、ギリシャ神話中でも有名な人物の一人である。
この劇中で彼女は、クリュタイメストラが去つて、コロスの中に残されると、それまで無言で凝然としてゐたものが、狂乱の態になり、アルゴス王宮に澱む血腥さを訴へ、次いで自らの死を予兆する。ここには俳優がただ一人だつたときの名残があるかも知れない。しかしすぐ後に、自身とアガメムノンとの実際の死が来るので、これ全体が、敷き詰められた布と同様、殺人の衝撃を強調するエピソードとして、劇全体の中に組み込まれる。
殺害者クリュタイメストラはと言ふと、自分がやつたことを少しも隠さうとしない。長老たち(コロス)は彼女を非難するが、それをものともせず、これは殺された娘イピゲネイアの仇討だから、正当だ、と主張する。アガメムノンがギリシャの盟主としての義務を果たさうとしてしたことが、彼女には単なる殺人でしかない。
もっとも、それだけで彼女が夫を殺したのかどうか、疑問の余地はある。アガメムノンの従兄弟アイギストス(彼は彼でアガメムノンを恨む理由があることは、煩雑なので省略)と通じてゐて、彼を次の王にするのだから。真の動機は、愛憎の縺れと権力の奪取だつたのかも。いづれにもせよ、立場を替へれば、人間の行為は様々に評価され得る、といふ世の常が、非常に端的に現れてゐる。
第二部「供養する女たち」で、彼らの前に、オレステスが現れ、父が殺されたことの報復を成し遂げる。ところがそれは、母殺しの大罪を犯すことであつた。その顛末は第3回で述べた。彼は母親に比べると単純な人物だが、置かれた状況が既にアポリアになつてゐて、彼を縛り、決断とさらにその結果、さらにその決着、へと導く。彼の場合、それが即ち、「オレステスとは何か」に全力で応えることなのである。
このやうにして、劇の発動する場が、外部の声に対する応答から、複数(最低三人)の人物の関係内部へと移された。これが必然の道程かどうかはわからない。しかし、西洋演劇が現に辿つた道ではある。