由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

正しい道をどこまで行くべきか

2024年08月25日 | 倫理

【AIはどちらを犠牲にする?】正解のない究極の2択「トロッコ問題」とは何か?【科学・ざっくり解説】ぶーぶーざっくり解説【小学生でもわかる科学】

メインテキスト:ベンジャミン・クリッツァー『21世紀の道徳 学問、功利主義、ジェンダー、幸福を考える』(晶文社令和3年初版、令和5年4刷)

 先日の読書会で、日本在住の(国籍は)アメリカ人が、ブログなどのSNSで日本語で展開してきた、倫理に関連する言論をまとめたものを読んで、思うところがあったので書きます。
 クリッツァー氏(以下、著者、と表記する)は、この書籍の発刊当時32歳で、若い。と、言うと、AUのコマーシャルであのちゃんが「『若い』でまとめないで下さい」と言っていたのを思い出す。もちろん、おじさんおばさんにいろいろあるように、若者にもいろいろある。それでも、そのおじさんおばさんの若い頃の一般的な傾向とは少し違うな、と思える特徴があって、そんな感想が出てくる所以を自分で分析すると、次の二のからだ。
(1)例えば「革命」などの観念からではなく、現実、と見えるものから出発しようとするところ、保守的な感じ。
(2)その現実の動きに一本の論理の筋を見つけると、それをどこまでも押していこうとするところ、けっこう過激。

 順に述べると、「第9章 ロマンティック・ラブを擁護する」と「第12章 仕事は禍いの根源なのか、それとも幸福の源泉なのか?」が(1)の典型になる。これらについては、恋愛や仕事(労働)には価値があるし、幸福の基になる、なんて当然すぎる話ではないか、なんでそんなことをわざわざ言うんだ、と不思議に思う人もいるだろう。
 その反応がまだ世間の普通と言っていいだろうが、言論や表現の世界ではdiversityを推進するポリコレ派に勢いがあって、いわゆる普通の、昔ながらの異性愛を称揚するのはオクレている、反動だ、とされそうな雰囲気がある。言わば、ある人々にとって好ましい「多様性」という価値観を一様に押しつけられるような状況はあるのだから、それに対して改めて言う価値ならある。
 労働についての言説はもう少し複雑な感情がからむ。「働いたら負け」なる言葉は聞いたことがあるが、2000年代にネット上に現れたミーム(≒流行語)であることは本書のおかげで知った。その謂いは、昭和後期に若者だった我々とあまり変らない、と即断して回想風に語ろう。小此木啓吾が言って流行語になった「モラトリアム人間」(昭和53年)とか、浅田彰の「スキゾ・キッズ」(昭和59年)などの標語が言い現しているのは、職業≒一定の社会的な立場、によって自分の社会的なペルソナ(外向きの顔)が決まってしまうことへの嫌悪、否むしろ恐怖だった。
 平たく、身も蓋もなく言い直せば、「自分たちの親のような、つまらない大人になりたくない」という気分。これが、主に大学生、その中でも生産に直接結びつかない人文系の学部(有益な批判的観点をもたらすことだってある、と、本書の「第2章 人文学は何の役に立つのか?」では力説されている)に学ぶ若者の間で色濃く見られた。これは私自身が陥った状態で、文学部なんぞというところにいたので周囲にもたくさん見たので、必要以上に確信を持って語ってしまいます。
 古くは夏目漱石「それから」(明治42年)の主人公がそういう心性の持ち主だが、彼は30歳になってもなぜ働かないのか、ちゃんと説明できていない。ありようは、20年以上かけて頭の中で肥大してきた自己像(時々「理想」などと呼ばれた)が、うまくおさまるような場を、現実社会の中に見つけることが難しかったということ。とりわけ我慢ならないのは、周囲からの「お前ももう大人なんだから」という声に負けて就いた職業上の「責任」でもやっぱり負わされるところ。ざっとこういうのが「働いたら負け」の中身である。もちろん、いつの時代でもそんな若者ばかりだったわけはないが、この言葉が多少はバズる(流行る)程度には共感が持たれる。
 ただ、明治時代では働かなくても生活できる男はわずかだったが、戦後の高度成長期を経た日本なら、五十万人程度のニートを養うぐらいの富は、一般家庭にも蓄積されていたのである。
 こういう者たちにとって、「社会は不正に満ちている」というような言説は、現実的・論理的な整合性より、自分たちを正当化してくれるようなのですばらしくも正しくも思え、いつまでも後を絶たない。マルクス主義がその絶対王者的代表だが、近年の話題作としては、D・グレーバー『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』を著者は紹介している。これらにはもちろん、正しい面もある。r(資本成長率)>g(経済成長率)は常に成り立ち、資本家と労働者の経済格差は開く一方である。有害無益な権威や地位を守るための牛の糞なみの仕事もあり、しかもそのほうが人間社会に必要不可欠なエッセンシャル・ワークより高賃金だったりする。
 このような社会の矛盾や害悪が存在するからといって社会に出ないとしても、それによって社会のほうがどうにかなるわけではないのはもちろん、その人自身にも何ももたらさない。単なる妄想以外には、自己満足さえも、ない。人間は社会的な生物なのであって、「幸福を得るためには他者の存在が不可欠であるし、社会に対してなんらかのコミットメントをしなければならない」(P.352)からだ。
 このへんを私なりに敷衍して述べると、他者とは現実そのものなのだ。人間は誰も、自分第一に生きているのだから、他人を丸ごと、そのまま受け入れてくれることなどない。わかりきった話なのだが、誰にとっても自分は特別な存在なので、そこまでなかなか思い至らない。即ち、自己をなかなか客観視できないのが、人間一般の通弊なのである。
 さらにまた、(普通は)職業を通じて社会にコミットメントすることは、マルクス主義者やグレーバーが指摘した、社会悪にいくらか手を染めることになる。その指摘は部分的には正しいから、それを厭い、避けようとする気持ちも、幾分かは正しいことになるだろう。しかしそれを言っても、単なる言い訳にしかならない。個人に現実を換えられるチャンスが少しはあるとしても、そのチャンスは現実の外側にあるわけはないのだから。現実に身を曝すことを厭う自分には、どこからみてもなんの意味もないのだ。

 著者のこのような現実的な平衡感覚は、他でも、例えば「第7章 フェミニズムは「男性問題」を語れるか」のジェンダー論でも発揮されているようである。
 フェミニストの中には、男女それぞれの特性と言われているものや、男らしさ・女らしさの価値観などは、すべてが男性中心社会で、男性に都合のいいように拵えられたフィクションだ、と唱える者がいる。これも完全なデタラメではないが、それでも男女の生物学的な体格・体力差を無視するのは馬鹿げている。それは近年スポーツの世界でトランス・ジエンダー選手が女子競技に進出した結果、明らかになってきた。
 しかし内面的な、思考や行動の様式・傾向の分野になると、身長・体重・筋肉量のような、明確に測定して数値化できる指標はなく、同性間でも個人差が大きいので、曖昧で恣意的と思える部分がどうしても残ってしまう。以前に紹介した小浜逸郎の男女関係論は、性的な身体性に基づくもので、説得力が高いと個人的には感じられるが、そこから一歩進めて社会的な役割分担の話になると、「蓋然的なことしかいえない」のは小浜本人が認めているとおりだ。
 本書で紹介されているサイモン・バロン=コーエンの「システム化思考」と「共感思考」という枠組み(『共感する女脳、システム化する男脳』)も、男はより理性的、女はより感情的、と昔から言われてきた決まり文句に実をつけたようなものではないか。体験的に「それはそうだな」と思う人が多いからこそ決まり文句になっているのだが、それが進化論的必然によるのか、既存の社会規範によるものか、決して確実な証明はできないし、私見では、そんな証明が重要なわけでもない。なんであれ、女性も男性も、この社会でなるべく幸福になりやすい方途を探すほうが大切なのである。。
 この第7章で取り上げられているのは、フェミニストから非難されている「有害な男らしさ」だ。男性は共感力が弱く、他人を傷つけても平気な場合が多い、というのがその内容だが、ではその非難は男性の特性を充分に考えたうえでのものかと言えば、かなり疑問だ。
 彼らの議論は「生物学的な要素を無視して社会構築的な要素を強調するという偏向や、女性の立場からの問題意識が議論に混入しているために、問題の原因に関する冷静で正確な分析がおこなわれているとは期待しがたい」(P.183)。フェミニストの議論は女性の「ため」を図る政治的なものであり、客観的な基準は二の次にされている、というわけだ。これはフェミニスト以外の多くの人が抱く見方だろう。
 「ただし」と、すぐ後で著者はつけ加える。「フェミニストにもたしかな功績があるかもしれない」。「男性問題」は確かに存在するのだ、と。ただし、外部の社会的な問題ではなく、「自分はシステム化思考に偏っており、共感思考に欠如しているのではないか」などと、「内部」の問題としてこれを捉えることを、男性に勧めている。
 これをも含めて柔軟な平衡感覚と評するべきだろうか。そうかも知れないが、それより、「批判している側の顔も少しは立てておこう」という折衷的な態度に見える。本書の他の場所では、「共感思考」より「システム化思考」を重んじている印象が強いので、余計にそう感じられる。

 そこで(2)に移る。
 本書の「まえがき」で、次のように宣言されている。「答えの出せない思考なんて意味がない。(中略)哲学的思考とは、私たちを悩ませる物事についてなんらかのかたちで正解を出すことの出来る考え方なのだ」と。
 個人がある状況に直面したときどうするかの言動にはいくつかのパターンがある。そのうちのどれが他よりましか、より悪いか、答えを出そうとするのが倫理問題だというのはその通りであろう。ただ、「すべてに答えを出せるんだ」と言われたら、その態度には不安が持たれることが多いだろう。著者にもそれがわかっているから、わざわざこう言ったのだろう。
 あらかじめ自分自身の立場を言っておくと、私は、倫理問題に関しては、いつでもどこでも誰でもを納得させることができる答えのほうが、例外だと思っている。だから私たちは常に悩まねばならないし、悩み続けること自体に意味があるとも思っている。なるほどそれは「学問」ではないかも知れないが、世の中には学問より大事なことはある。

 著者の考え方は、良きにつけ悪しきにつけ、私よりずっと「男らしい」と言える。
 例えば、マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』が有名にした「暴走する路面電車」の例は、ずいぶん以前に当ブログでも取り上げたが、ここでは「第5章 「トロッコ問題」について考えなければならない理由」に出てくる。路面電車かトロッコかは問題ではない。要は「複数人の命を救うために一人の命を失わせることは正しいか?」という思考実験だ。摘要だけを述べると。

①「分岐線問題」(と、著者は表記している)爆走するトロッコの前方の線路に五人の作業員がいる。あなたの前にはトロッコの路線を切り替えて分岐線に導くためのレバーがある。このレバーを倒せば五人は助かるが、分岐線のほうには作業員が一人いて、彼は轢き殺されるだろう。あなたはどうすべきか?

②「歩道橋問題」あなたは跨線橋の上から、暴走している路面電車の前方の線路に、五人の作業員がいるのを見る。あなたの隣にはとても太った男(以下、デブと表記する。因みに私も、自他共に認めるデブである)がいた。彼を橋から突き落として電車にぶつければ、その男は死ぬだろうが、電車は止まるか脱線するかして、五人の命は助かる。どうするか?
 
 ①の場合、多くの人が、一人の人を死なせることを選ぶだろう、と予想される、ばかりではなく、哲学や心理学の授業でのアンケートで、そういう結果が出ていることが報告されている。
 因みに、法律もこれを支持しているようだ。条文を挙げると、刑法三七条(緊急避難)。「自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。ただし、その程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる」。
 ところが②になると、デブを突き落とすべきだ、と答える人数はかなり減る。どこが違うのか? 五人の人間の命を救うために一人の命を犠牲にするのは同じだ。司法も、それを「やむを得ずにした行為」だと認めたら、「罰しない」ことになるだろう(実際はかなり微妙であることはここでは措く)。しかし、目的も結果も同じであっても、積極的・直接の行為で一人を殺すのは、心理的・感情的に納得できないところが残る。
 著者はこの問題については明確な自分の答えを出していない。ただ、「明確な答えは出せないという答え」については批判している。①にしても②にしても、自分が現実に直面する確率はゼロとみなしてさしつかえないだろう。ならば、こんなことを考えること自体が無駄ではないか、というような。これはトレードオフ(二者択一)をいやがる態度である。
 思考実験は現実をぎりぎりまで抽象化したものだ。決定的な局面でどちらを選ぶか、迫られる場合は、実人生のうちに決して多くはないけれど、絵空事ではない。小浜『倫理の起源』には、妻が難産で苦しみ、このまま出産を続ければ母体が危険である、と言われた場合が例示されている。そこまで切迫していなくても、介護が必要になった老親を自宅に置くべきか、それとも介護施設に入れるか、などは、今やかなり一般的な問題になった。
 つまり、母体と胎児、老親と他の家族、などのどちらかの負担を軽くするために、どちらかに大きな負担を、極限では命に関わる負担を与えねばならない、これは今後どれほど文明(医療や社会制度)が進もうとも、完全に解消することはできない逆境であろう。この世に生きる誰もが、いつかトレードオフを迫られる可能性はあるのだ。そのために、このような思考実験で練習しておくのは有益である……か?
 最後以外は完全に同意する、というところで元の問題にもどると、一番上で紹介したYouTube動画にもあるように、「分岐点問題」にはその後様々なヴァリエーションが考え出されている。そのうち本書には②の変型である、

③「落とし戸問題」が紹介されている。跨線橋のデブが立っているところが下に開く落とし戸(絞首台にあるあれ)になっていて、デブの体に触れないで電車にぶつけることができるとしたら?

 これはレバーなどの操作で五人を助けることができるという点で、①の場合に近くなる。それで実際に、デブの命を犠牲にしよう、という人が増える。だが結局、違いはどこにあるのか? デブの体に直接触れるか触れないかだけではないか?
 このヴァージョンが出ているのはジョシュア・グリーン『モラル・トライブズ』だが、そこでは、上は感覚的な問題であって、道徳的な優劣ではない、と断定されている。世界全体の幸福は計量可能なのであって、つまり、一人の命を犠牲にして複数の命が助かるなら、そのほうが正しい。これに着目するなら、どう殺すかは問題ではないし、まして体に触れて相手が人間、あるいは生物であることを文字通り実感する負荷(不快感)は無視してよい。
 これは功利主義と呼ばれ、著者もこの立場にある。結局これだけが、トレードオフの問題に正解が出せるのだ、というより、正解を求めるなら、これ以外のやり方はない。
 それは認めねばならない。倫理とはつまり、AとBの二つのやり方があったら、どちらがよりいいかは見つけることができるという信念に基づく。すべて同じだ、というならニヒリズムで、それに徹するのは人間にはなかなかできることではない。
 とは言いながら、このような解決法を示されると、やっぱり「正解」を出すのは難しいな、という思いも同時にしてくる。人間をただ量(数)の点でのみとらえるので、「多数は少数に勝る」で一定の答えが出てくるのだが、もちろん考慮すべき要素は他にもある。
 そこで、さらに次のようなヴァージョンも生まれる。

④五人は老人で、一人が子どもだったらどうするか?

⑤五人が凶悪犯罪者で、一人が世のため人のために尽くしてきて、今後もそうするだろうと予想される天才だったら?

 問題をいたずらに複雑化しようというのではないことはわかっていただけるだろう。人間の置かれた状況は常に個別具体的で無数のケースがあり、行為には常にその場での熟慮と決心が必要で、しかもその挙げ句に後悔することがないとは限らない。トレードオフに一定の回答はなく、だからこそ人はいつも新たに、決断力が必要とされるのだ。

 著者の合理性は、もっとあからさまに常識を逸脱することがある。それが本書のウリではあろうけれど。
 「第6章 マザー・テレサの「名言」と効果的な功利主義」は、マザー・テレサの来日時の発言とされる「大切なことは、遠くにある人や、大きなことではなく、目の前にある人に対して、愛を持って接することだ」(P.137)などの批判から始まっている。同じことは、例えばアダム・スミスなど、多くの人が言っている。
 前出のサンデルの本でも、二人の子どもが海で溺れていたとき、一人が自分の子どもで、もう一方がそうでなければ、自分の子どもを優先して助けるのが正しい、とされている。これもトロッコ問題の別種のヴァリエーションになりそうだ。

⑥五人が他人で、一人が自分の子どもだった場合、あなたはどうするか。

 子どもを死なせる、とためらいもなく答える人はごく少数であろう。
 しかし著者は、今度はピーター・シンガーを援用して、こういうのを「身内びいきのバイアス」と呼び、非合理だ、と言う。もっとも、⑥のような重大な犠牲を払っても、とは言わないが。可能な範囲で寄付しようというような話なら、地球の裏側の人であっても、身近な人たちより困っている場合には、そちらの救済を優先すべきだ、と。
 「10万円しか持たない人がさらに10万円を得る場合にその人が感じる価値と、すでに100万円持っている人がさらに10万円を得る場合にその人が感じる価値を比較した場合、単純に考えると前者は後者の10倍の価値を感じることになるはずだ」(P.154)という「収穫逓減の法則」からして。
 身内びいきが起こる進化的な理由はわかる。人間は個体としてはかなり弱い動物だ。生き延びるために自分を守ってくれる、少なくともそれが可能な身近な人のほうが、顔も知らない人間より貴重なのは当り前なのだ。
 しかし、進化論的にはそうでも、それが道徳的に正しいとは限らない、とシンガーと著者は言う。なるほど、一理ある。「他人への思い遣り」を原理化すれば、こういうことになるだろう。疑念はむしろ、実際的な効率の部分にある。
 寄付、昔風に言えば義捐金は、災害などの一時的に困っている人にこそ有効であろう。サブサハラの民族の多くが苦しんでいるような絶対的な貧困に対しては、いくら出せばいいのか、ゴールが見えないし、ずっと継続して援助できるとしても、それに頼って生活し続けるのは、その地域の人々の精神状態、つまり誇り、を考えると決していいことではない。その地域自体が経済的に繁栄するに越したことはない。
 そのためにはどうすればいいか? 市場経済に参入することだ。これも原理的に、気候条件や資源の有無などを一切無視して言えば、自分たちでお金が儲けられるようにすればこの問題は本当に解決するのだし、それは不可能ではないははずだ。
 豊かな社会とは、もの(サービスを含む商品)が大量に溢れ、それを流通させるためのお金もたくさん流通する世の中を指す。前述のr>gによって、金持ちと貧乏人の差は広がる一方ではあるのだが(だから労働者は世界の少数の金持ちに搾取されていると言ってもいいのだが)、それでもやっぱり我々庶民・労働者の生活も少しずつ豊かになる。理由は至極単純だ。労働者も自由に使えるお金(可処分所得)を持ち、商品を買ってくれた方が、資本家もより多くのお金が儲かるからだ。20世紀初頭にヘンリー・フォードたちが発明したこの大量生産・大量消費方式が、資本主義はいつか行き詰まるというマルクスの予言を超え、現在までのところ経済成長は続いている。
 今の場合に重要なのは、このやり方は、市場から誰かを理不尽な差別によって排除するよりは参加させたほうが、皆にとって都合がいいところである。チャイナの経済が1990年代以降奇蹟のような発展を遂げたのも、国内の努力はあったに違いないが、各国の、あるいは国際的な資本が、消費と労働力の市場としての強大なポテンシャルを認めたからこそだ。現在の世界最貧困地帯にこれが起きることを期待しても悪くはないだろう。
 実際、本書にも書かれているが、1960年代から2020年代のコロナ禍まで、各国の収入の差は、少しずつでも狭まっていた。これは、経済成長の恩恵は世界各地に一応は及んでいることを示している。それというのも、これによってもっと儲かると期待できるからで、道徳心ではなく、エゴイズムが原動力になっているからだ。まず資本家が、自分たちの儲けを追求し、そのために広い範囲への市場の拡大が目指される。この企てはかなりsustainable(持続可能)である。
 問題がないとは言わない。しかし、これ以外に貧乏人をいくらかでも豊かにする方法を人類が見つけていない以上、貧困問題を解消するのに「身びいきのバイアス」を否定しきることはできないであろう。

 最後に、著者の真骨頂と言うべき動物倫理に就いて少し触れる。ビーガニズムそのものに対する批判なら、当ブログでは日本最高のビーガンである宮澤賢治(彼の在世中にはこの言葉はなかったが)について以前に書いているので、そちらを見ていただきたい。また、著者自身がビーガンであるかどうかは明らかではない。P・シンガーなどの論理を祖述しているだけかも知れないのだが、それは追求しない。
 「第3章 なぜ動物を傷つけることは「差別」であるのか?」にあるの主張を最も端的にまとめた文は、「知能の高低に関係なく、苦しみや痛みを感じる動物に苦痛を与えることや動物を殺すことは否定される」(P.65)だろう。
 この謂いは以下。「なぜ人を殺してはいけないか」を考え詰めて、その人に苦痛や恐怖を与えるからだ、という結論にたどりついた。ところで死に際して恐怖や苦痛を感じるのは人間だけではない。だから、この理由で殺人が悪とされるならば、その程度の知性はあると考えられる動物を殺すのも悪とされねばならない、と。
 これは一つの論理の筋を押し通そうとするとどうなるか、の典型であろう。私にもその傾向が、若い頃のみならず、老年と呼ばれる今でもあるので、以下は自戒として書く。
 道徳、にもいろいろあるが、著者やシンガーや、それに小浜逸郎も賛同していた功利主義のそれは、人間の世界を/世界でうまくやっていくことを主眼とするのだし、私もそういうものとして優れていると思う。動物倫理は、そこから逸脱している。これによって人間と動物が今よりもっとうまく共存していけるならいいが、それはまず期待できないからだ。
 本書でも後のほうに出てくる道徳の黄金律は「自分がしてほしくないことは他人にするな」で、これは世界各地の多くの文化に出てくるし、反対する声はほとんど無いので、そう呼ばれている。要するに契約関係である。前述の「思い遣り」もまたここに由来する。自分が他人にできるだけ厭なことをしないと約束して、それと引き換えに他人からもされない権利を手に入れるわけだ。これが完全な形で履行されるわけではないが、原則としてはあることによって、人間の世の中はなんとか保たれている。
 著者は権利という言葉を嫌う。主張した者にしか与えられない感じがあるからだ。動物は主張したりはしない。だからと言って存在を無視されていいものか? というわけだ。しかし上のような契約関係は「自然」に生まれるわけはない。他人の立場に自分を置き換えてみる想像力が必要となる。それは自然から大きく外れた生活をするようになった人間のものだ。
 狼も、危険からは逃げようとするので、殺される恐怖と苦痛は感じるのだろう。が、ではお前に殺されて食われる兎の身になって考えてみろ、と言われても無理だ。能力以前に、そんな不自然な世界に生きていないのだし、第一、他の動物を殺すのを禁ずるのは、彼らの生存を禁ずるのと同じことになってしまう。
 道徳は日本語では人道とも呼ばれる。人間が人間の世界で踏まえるべき正しさ、ということだ。そこに後から合理的な理屈をつけるのはいいが、限度を心得ず、「正しさ」をどこまでも拡張しようとすると、人の世をうまく運営するための道、という功利主義の真面目も台無しになってしまう。これもまた道徳の前提として、心得て置かねばならないことであろう。
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小浜逸郎論ノート その5(共同態・下)

2024年06月13日 | 倫理


メインテキスト:小浜逸郎『倫理の起源』(ポット出版プラス令和元年)
サブテキスト:ジョン・スチュアート・ミル/関口正司訳『功利主義』(原著の出版年は1861年、岩波文庫令和3年)

Ⅵ 理と情
 この人間の二大行動原理については、『倫理の起源』(以下、本書、と呼ぶ)では二つの、典型的な、ある意味で極論が紹介されている。それ自体非常に面白いので、以下にまた自分の言葉で述べる。
 まず当ブログでずいぶん以前に述べたカントの嘘に関する考え。通称「ウソ論文」、正式名称は「人間愛から嘘をつく権利という、誤った考えについて」には次のような例が出ている。
 Aの家に殺し屋Cに追われた友人Bが来て、匿ってくれるように頼む。Bを家に入れてから、Cが来て、Bは来なかったか、と訪ねる。この時AがCに、「Bは来なかった」と言ってはいけないか?
 いけない。なぜなら、それはウソだから。
【上記の例はカントを批判したフランスの哲学者バンジャマン・コンスタンが、「カントたちの説だと、こういうバカなことになるよ」、と例示するために拵えたもので、「ウソ論文」はコンスタンに対する再批判として書かれている。しかし、カントは「自分はこういうことを言った覚えはないが、自分の考えとしてもさしつかえない」としている。などなどの細かいことは、以下では省いて大雑把なことだけ記すので、そのへんの詳細は最近出た『カントの「嘘論文」を読む』(令和6年白澤社発行/現代書館発売)などに当って下さい。】
 「なんだよ、それは」とたいていの人が言うだろう。小浜が言うように、「カントという哲学者はなんてバカなやつなんだと直感的に思」(P.192)う人も多いと思う。
 より軽い、日常的な場面を考えよう。ある女性が男にデートに誘われた。行きたくなかった。「その日は用事がありますから」と言って断った。その実、用事がなかったら、それはウソということで、悪なのか。「あなたが嫌いだから、行きません」というような、いわゆるホンネをいつもぶつけ合わねばならないのか。
 そもそも、「あなたが嫌い」という感情は、「事実」と呼ぶに相応しいのだろうか。そのときの「本心」ではあったとしても、男心も女心も、変りやすい。明日はどうなるのか、本人にもわからない、その場限りかも知れないものを、いちいち明らかにして、どうなるというのか。
 というような考えこそ、カント先生からしたら、最も忌むべきものだったようだ。人間は理性的な存在であり、自分の言動すべてに責任を持つ、持てる……少なくともそうなるべく努力すべき者なのだ。
 この場合の「責任」とは、結果に関するものではない。上の例で「Bはいる」といっても、BがAもCも気づかないうちに家から去っていたら、殺害を免れるかも知れない。同じ状況でAが嘘をついても、BはCと外で出くわし、殺されるかも知れない(やや強引な例のようだが、これはカント先生自身が書いていること)。
 つまり、未来を完全に予測できない人間が、結末について責任を問われるべきではないが、真実や信念について忠実であることなら、できるはずだ。だから、すべきなのだ。
 もう一つ、人間関係で一番大事なのは、他人を、自分の欲望を達成するための道具扱いしてはならない、ということだ。ウソをつくのは、結局は、相手を自分の都合のいいように動かそうとしてのことだろう。その「都合」が正しいものであっても、「相手」が悪人であっても、そのことに変わりはない。だから、誰も、どんなウソでも、つく権利はない……。
 この理念が他にもまして重要かどうかも、議論が分かれるだろう。たとえそう認めたとしても、現実にはやっぱり無理な話ではありそうだ。
 第一に、カント先生自身は例外だったかも知れないが、普通の人間にいつも「正しくあれ」などと要求するところ、いやそれ以前に、いつも「正しさ」を気にかけるように要求するところが無理だ。誰しも、普段あまり深く考えないでふるまい、後からその理由を問われた時に、改めて首尾一貫した動機を考え出す、というのが実情に近い。「自由意志から行為へと言ういう因果関係は、じつは逆なのである」(P.193)と小浜が言う通り。
 カント風の「自由で自律的な個人」の観念に基づいている近代刑法(だから、良い・悪いの判断がつかないとされる心神喪失状態の犯罪は罰せられない。刑法第三九条一項)にも、「嘘つき罪」はない。嘘は、それによって不当な利益を得ようとする動機が明らかなとき、罰の対象になる(詐欺罪)。
 そもそも、いわゆる社交辞令もダメなのだとすれば、どんな共同体も保たれないだろう。コンスタンの批判の要点もそこにあった。
 そんなことを、いかに象牙の塔に籠もった哲学者先生とはいえ、全く知らなかったはずはない。むしろ、だからこそ、人倫と、ひいては人格を、なし崩しの後退から守るために、「嘘はいけない」という道徳律を強く言わなければならない必要性を感じたのだろう。
 事実、それは、子どもを教育する時などに、絶えず言われ続けている。そのことはまた、人の世から嘘は決して消えないことの証左でもある。

 上は友情という「情」と、正直という「理」が対立した場合には、後者のほうを優先すべき、としたものだが、世の中にはこれと反対の主張もある。「論語」の次の箇所。

葉公(しょうこう)孔子に語(つ)げて曰く、吾が党に直躬(ちょっきゅう)なる者有り。その父、羊を攘(ぬす)みて、子これを証せり、と。孔子曰く、吾が党の直なる者は、是に異なり。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直は其の中に在り、と。(子路十八)

 親や子が悪事を働いたとしても、それは匿す。それこそ、正しく、まっすぐ(直)な道である、と言う。人情の自然のようだが、こう断言されると、それはそれでまた、不安になってこないだろうか。子が悪いことをしたときには、親はむしろ世間ではそれがどういう扱いを受けるか、実地に教えてやるべきではないだろうか、など。
 予め結論を言うと、こういう場合にいつも当てはまる普遍妥当な解答はない。一口に親子と言っても、同じ人間は二人といないのだから、同じ親子関係も二つはない。当然その間に流れる感情も独自のもの。また、匿すべきものも、盗みから殺人から過失犯から信用失墜行為まで、千差万別にある。
 ただ、一般に、親子の情と呼ばれ得るような感情は人間社会に広くあることは認められているから、それを頭から無視することはしづらい、という事情があるだけだ。それで現在日本の刑法にも、それを汲んだ規定がある。第百五条(親族による犯罪に関する特例)「前二条の罪については、犯人又は逃走した者の親族がこれらの者の利益のために犯したときは、その刑を免除することができる」。
 「前二条」とは、第百三条犯人蔵匿等、第百四条証拠隠滅等。犯人を匿したり逃がしたり、証拠を隠したり破損したりして、犯罪者の発見を、したがって処罰を困難にしても、その犯罪者の親族である場合には、罪に問われないことがあり得る、ということである。
 ここで親族というのが、民法の定める六親等の血族(姻族なら三親等)だとすると、はとこ(あるいは、またいとこ。祖父母の兄弟の孫)まで、あるいは従姉妹の孫までだから、ずいぶん広い。顔を見たこともない、という場合も多いだろう。
 ただ、たとえ一親等の親子でも、必ず免責されるわけではない。そうなるかどうかは、裁判官の判断次第。犯罪があまりに凶悪だとか、親愛の情からと言うより、金をもらって逃亡を手伝ったような場合は、危うい。逆に、どれほど親愛や恩義を感じていたとしても、また、罪を犯した者にどれほど同情の余地があろうと、親族でなければこの規定は関係ない。
 こういうことを文字の上で眺めているときは、せいぜい、まあそんなものかな、で終わりになる。その程度の納得でも、なかったとしたら、こういう規定は定着しない。しかし、具体的な場面にぶつかったら、このような区別が合理的なものだと思えるかどうかは別問題になる。
 六親等までならよくて、七親等以上はダメ、親類ならよくて、親友ではダメ、などという線引きに明確な理由があるか、と言われるなら、そんなものはない。ただ、一元的な正義の観念をどこまでも押し通そうとするのも、人情だけで世の中を治めようとするのも、どちらも無理で、どこかに制限を設けねばならない必要性があるだけだ。
 つまりこれらの原理は、一方が一方を制限するところに存在意義がある。前述した小浜の「私的・公的という対概念は、互いに他方の「否定態」としてしか成立しない」という言葉は、そういう意味であろう。
 その限度自体も、絶えず揺れ動くから、いつでもどこでも誰でもを完全に納得させることは原理的に不可能。すべては、不完全な人間同士が作る「世の中」を成り立たせるための工夫であり、それ以上ではない。

Ⅶ 公と私
 上の問題もまた、共同態の中で自己意識を持って生きる人間が必然的に直面する矛盾の一種である。ここまで拙論につきあってくださった人にはもうおわかりのことと思うが、私が本書を読みながら終始気になったのはこの一点だ。
 理と情もそうであるように、公と私なら、公の方が高級であり、価値が高い、となんとなく考えられている。また、男女だと、男が主に担うの前者、女は後者で、これは「女・子ども」を軽んじる理由になっている。
 このような見方の修正を図ることが本書の主要な目的の一つであり、そのことには私も基本的に同意する。ただ、その理念上の、また実際上の困難は、小浜以上に気にかかってしまうのである。それについては充分に、ではなくても繰り返し述べたから、もう控えよう。
 本シリーズの最後にあたって、「公共性」の概念を中心として、既述との重複は気にせずに、小浜倫理学の核心と考えられるものを改めて略述しておく。

 小浜は最初に、良心の起源を、幼児が家庭内かその代わりになる場所で、多くは親から受ける叱責だとしている。このとき明示的に「出て行け」とは言われなくても、年長者の怒りは、当の子どもが現にいる共同体=家庭から放逐される恐怖を呼ぶ。それは文字通り死活問題なので、やがて成長して、自分の親を他人の親と比較して客観視・相対化できるようになり、反抗もできるようになっても、深層心理に刷り込まれた恐怖心は消えない。悪いことは、共同体を失う恐怖を呼び起こすから、ブレーキになる。そうならないときもあるが、まあ、だいたいは。
 つまり、良心は一定の共同体の人間関係から身につくものであり、それは他の、思いやり・勇気・正直、などの徳目も、必ずしも親だけではなく、友人や教師などの他の大人との関わりの中で身につけていくものだろう。だから、倫理は共同態から生まれる、と言えるのである。

 しかし、倫理、と改めて言われると、具体的な人間関係とは別次元にあるような気がしないだろうか。それは言葉の抽象性によるところが大きい。「人に迷惑をかけてはならない」と言われる場合の人(他人)の範囲は、無限定である。実際には、バタフライ効果とやらを最大限考えて、「風が吹けば桶屋が儲かる」式のこじつけ連鎖反応まで入れるのでなければ、世界中の全人間に迷惑をかけられる人などめったにいないわけだが、そんなことをわざわざことわる要もない。
 とは言え、抽象化され一般化された徳目は、その分人間の現実を離れる。よい例が前述の、カントの嘘に関する要求だ。繰り返すことになるが、どんな時にも嘘はいけない、ということを実行したら、身辺の共同態を壊してしまいかねない。それでもよい。カントは、時に嘘をつかなくてはやっていけない弱い人間が、自分たちを守るために作り出したような共同態に価値を認めなかったのだから。
 人間は個人として、常に正義と公正を気にかけるべき存在だ。……いや、そう言われても、そんな人間こそ、現実にはめったにいないのだから、観念的ではないかと思えるのだが……。いやいや、ここで「弱いのは仕方ない」などと認めてしまったら、弱いからこそ、人間はどこまでも堕落してしまいかねない。道徳律は、自分の行いを反省するための鑑(かがみ)としてこそ必要なのではないか?
 と、いうような道徳観は、昔から今まで、人間世界に普通にある。おかげで、道徳というと、高いところから一方的に降りてくるお説教のことだという感覚も、普通にある。

 倫理道徳を現にある人間から離れた理念として考えられがちな理由は他にもある。例えば、「人に迷惑をかけてはならない」を一歩進めて、「人には親切にしなければならない」とした場合。これまたいつも、完全にできるものではないが、できるだけそうしましょう、ぐらいには納得できる。それでもなお。
 親切にする対象は、遠くの人より身近な人が、身近な中でもいっしょに生活している家族が優先されることになるだろう。単純に親切な行いをする機会の多さからしても、親愛の情の深さからしても、それがごく自然であり、正しい、とも考えられている。孔子の言葉はそれを踏まえている。
 それでよくない場合はあるか? 次の例を考えよう。川で二人の子どもが溺れていた。Aは自分の子どもで、Bはそうではなかった。この場合、Aを優先して助けるのは正しいのか? この問いはかつてベストセラーになったマイケル・サンデル『これからの正義の話をしよう』(原題は『Justice』)に載っていて、正しい、とされている。西洋でも、そう思われている場合が少なくない。ということだ。
 だがしかし、結果として、Bが救ってもらえないことになったとしたら、Bの親にしたら、素直に「それが正しい」とは感じないだろう。その人の置かれた立場によって、価値観が一八〇度変ってくることもあり得る。情とはそういうものだ。
 では、人の世の価値はついに相対的であるしかないか? 人間の実感に即する限り、そうとしか言えない。ならば、結局のところ、人間の世界から殺人がすっかりなくなることはないだろう。ある人間は、自分の置かれた状況に応じて、他の人間を殺してもよい、あるいは殺さねばならない理由を考え出すだろうから。
 それでも、ではなく、それだからこそ、「人命は大事だ」と言い続ける必要があるのではないか、という考え方も出てくる。そうでないと、人の世は殺人が日常的に横行するような場になってしまいかねない、という心配から。これまた、用心のために、上から降りてくるお説教としての道徳であり、公的に正しいとされる。

 最大の問題点は、以上のような道徳はタテマエというのに非常に近く、身勝手な本心を隠し、自分にとって都合のいいように使い回される可能性が常にあるところだ。いわゆる、偽善というやつ。
 前回言ったように、「愛国心は悪党の最後の逃げ場」になり得るのだし、「世間」という日本特有とも言われる観念については、太宰治が次のように言っている。

 世間とは、いつたい、何の事でせう。人間の複数でせうか。どこに、その世間といふものの実体があるのでせう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こはいもの、とばかり思つてこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言はれて、ふと、
「世間といふのは、君ぢやないか」
 といふ言葉が、舌の先まで出かかつて、堀木を怒らせるのがイヤで、ひつこめました。
(「人間失格」)

 上の文中の堀木とは、一時は太宰が師と仰いだ井伏鱒二のことらしいが、そうであってもなくても、小説中のこの人物が「世間が許さない」と言うのには特別の悪意はない。だいたい、それこそ世間にありふれた道徳を説いているなら、文学者にしてもなお、自分の内面を見つめる必要などめったに感じないものだろう。それが一番やっかいなところかも知れない。
 もっと言えば、権力者など、社会的な上位者こそこういうタテマエを振り回しがちなのも当然であろう。それこそが「教育」だと思い込んでいる人も少なくない。この場合、言われていることの内容より、それを「言い聞かせる」行為が即ち相手に対する上位の証であり、そこで証される上下関係こそ社会秩序を作るようにも感じられる
 最悪の場合、権力者とその側近たちが、抽象的な徳目に自分勝手な内容を盛り込み、それを「正しい善」であるとか「公共」であると言い立てて、国民を抑圧して誤った方向へ導く、なんぞということも、歴史上決して珍しくなかった。

 小浜は、上のような行き方を、そもそもの最初から、人間性の本質を不当に軽んじた一種の転倒であるとする。そして、その端的な例として、プラトン/カントを初めとした西洋の大思想家を批判するのだが、最後には、その弊を脱したものとして、功利主義に、とりわけJ・S・ミルには共感を示している。
 ミルと言えば、私などには馴染み深い徹底した自由主義・個人主義ではなく、『功利主義』の、次の言葉が引き合いに出される。「功利主義が正しい行為の基準とするのは、行為者個人の幸福ではなく、関係者全部の幸福なのである」。
 ここだけみると、これは例えばカントの、「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」と同じような「命令」に見えるが、少し違う。
 功利主義の格率から出てくる「命令」(なんて言葉を使うのがカントの悪影響かも知れない。ここは、当為、正しい方向、ぐらいの意味)は二つ挙げられている。その二つ目には、教育や世論の力で「各個人に、自分の幸福と社会全体の善とは切っても切れない関係があると思わせるようにすること」とある。またしても、「思わせるようにする」という言い方だと、実際はそうでもないのに空想的なキレイゴトを刷り込む、というふうに見えるが、よく考えてみれば、個人の幸福が社会と密接な繋がりがあるのは当然至極なのだ。
 小浜は次のように言っている。

しかしいずれにしても、ここでミルが言いたいことは、「社会的諸関係のアンサンブル」(マルクス)としての本性をもつ人間は、その社会的諸関係を時間的・空間的に拡大して自分の視野の中に収めるようになればなるほど、その全体の「幸福」に配慮せざるを得なくなるということである。できるだけ広範囲の人々の利益や幸福に気配りすることが、結局は身のためでもあることがわかってくる。文明がよりよく発展することは、健全な公共精神が育つための条件の一つである、ということであろう。(P.281-282)

 私の言葉でなるべく平易に言うとこうなる。
 人間は必ず共同態の、人間関係の中で生きていくものだ。それなら、範囲の違いはあっても、誰か他の人といっしょに幸福になるしかない。よほどのサイコパスでもなければ、周りの人全員が不幸で苦しんでいるのに、自分だけ満足して喜んでいる、などということはあり得ない。非常に自己中心的な、自分大好き人間であっても、否むしろそういう者こそ、被自己承認欲求を満たすこと、つまり他人から認められ称賛されることを強く望んでいる。そのためには、他人にとって有益な何かを成し遂げなくてはならない。
 そして、ここがいかにも功利主義なのだが、幸福とは各種の欲求が満たされた状態を言う。この点で、ミルはそうではないが(「満足した豚であるより……不満足なソクラテスであるほうがよい」は『功利主義中』の言葉)、小浜は欲求の対象に上下の区別をつける必要は認めない。優れた芸術作品に接したときのいわゆる精神的な喜びも、おいしい食物を食べたときの快楽も、人に満足をもたらし、幸福な状態に導く点で変わりはない。そしてどちらも、安寧な生活がなければ存分に味わってもいられないことからすれば、人の幸福のためには何が一番重要であるかは、自ずとわかろうというものだ。
 この認識が充分に広く・深く行き渡るならば、「法律と社会の仕組みが、各人の幸福や〔もっと実際的にいえば〕利益を、できるだけ全体の利益と調和するように組み立て」ることも可能であろう。これは、先ほどの引用では省いた功利主義の「格率」から出てくる「命令」の第一である。
 もちろんこの実現は簡単なことではない。「社会的諸関係を時間的・空間的に拡大して自分の視野の中に収める」ことが充分にできるために、人類はどれほどの知見と思慮を重ねていかねばならないことか。20世紀からこっちの世界の歴史を少し見ただけでも、ミルや小浜の言うところは単なる夢物語に過ぎないように思えてくるだろう
 「けれども」と小浜は言う「非常に長い目で見れば、これらの数多い失敗の経験こそが「相互にうまくやる」交渉の技術と叡智とをゆっくりと培っていくはずである」(P.282)。「非常に長い目」とは、1000年単位のスケールだとも。
 1000年先の未来など想像することもできないし、今まで当の小浜の言葉も援用して縷々述べてきた〈公〉と〈私〉のアポリアがどういう形で解けるのか、さっぱりわからないので、小浜に完全に同意することはできない。いや、同意も何も、「この課題の具体的な追究はすでに個別学としての倫理学の範疇を越えている」(P.468)というのが本書の最後の文なので、それはこちらで考えていくしかないとされているのである。
 それでも、個人のささやかな幸福を犠牲にしてでも実現・実行すべき「公」や「正義」の概念が、この世にどれほどの悲惨をもたらしてきたかを考えただけでも、日々の幸福な営みをこそ第一として、そこから公共性を編み上げていくという方向性には、賛成せざるを得ない。人間の不幸をすっかりなくしてしまうことなど不可能だとは思うが、多少はましな未来を目指すためには、これを第一原則とするしかないであろう。
 ……と、思いながら、やはり気になってしまう。人は安寧な暮らしだけで満足できるのだろうか? そうでないとしたら、真理だの正義だの、神聖なものだの民族のアイデンティティだのといった、観念的な、「自分を超えたもの」→「自分をより高く大きな世界へ導いてくれそうなもの」への希求は消えない。それはどういう形になるのか? それもまた、政治や倫理学の範囲の問題ではない、と言われればその通りかも知れないので、それまたこちらで独自に考えていくしかないのだろう。
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小浜逸郎論ノート その4(共同態・中)

2024年04月26日 | 倫理


メインテキスト:小浜逸郎『倫理の起源』(ポット出版プラス令和元年)
サブテキスト:和辻哲郎『倫理学』(初版は岩波書店全三巻昭和12~24年。岩波文庫全四巻平成19年)

 前回は、『倫理の起源』の結論部分に即応して愚考を述べました。これはやや性急過ぎて、小浜の論の魅力的なところを取りこぼしてしまったようです。今回と次回、改めて、各種共同体の相関・相克関係や、公私の別について、小浜の言説をきちんとお浚いして、自分なりに感じる問題点を提出してみようと思います。

Ⅳ 和辻倫理学の継承と批判 往還の相と信頼
 第一のテーゼと言うべきもの。重要なのは常に共同態なのだ。共同態があるからこそ、善がある。また、ある共同態がまずます平和に、幸福に営まれているなら、そこに善は実現されている。

 では、悪とは何か。その共同態が乱れ、さらには失われること、ということになるだろう。
 共同態のための場所である共同体がほぼ完全に消失する場合、BC1世紀ローマ帝国に滅ぼされたカルタゴとか、16世紀スペインのコンケスタドールに征服されたインカ帝国などの例は、今後も起こらないとは言えないが、倫理は共同体内部の人間の在り方を考えるものだ。
 人は共同態の中で生まれ育って初めて人となる、共同態以前にいかなる個人もない、というのは、いわば発生論。元はそうでも、人が太郎とか花子とか固有名を持ち、一個の人格として扱われ、他者とは違う自分を意識したら、それだけで既存の共同性からは微妙に逸れている。
 最も重要なのは、この逸れた個人がもう一度共同態に復帰すること。というよりは、共同性の核(それが何かは少し曖昧だが)を保存したまま、新たに創り上げていく、と言ったほうがいいだろう。

 ある家庭の息子や娘が成長して結婚し、今度は自分が父母になって、子どもを産み育てる。今でも三世帯同居など、大家族はあるけれど、それでもそれは、元の「家」とは別のものになっている。子どもが結婚して嫁さんなり婿さんなりが入ってくるだけでも元とは違う。そこに新たな子どもが誕生すればまた違ってくる。
 それでも、子育てなどの基本的なモデルは代々ずっと受け継がれた部分が大きく、それこそ共同態なのだが、親子が別居した場合でも、そのような無形の部分の継承はなされている。

 小浜が、というより彼が最も影響を受けたと認める和辻哲郎の倫理学は、このような過程を共同態からの「往還」と呼ぶ。
 個人が、反抗期とか何かで、意識的にもせよ無意識的にもせよ、共同態から背き離れるのが「往」、それからまた共同態に復帰するのが「還」、これが人間の、生活の歴史を形成する。
 それで、「往」が悪の過程で、「還」が善の過程なのだが、いつかまた還る運動の過程にあるなら、「往」も全き「悪」とは呼べない。行ったっきりで戻る道が見つからない、あるいは完全に否定するとしたら、それこそが「悪」になる。
 これでもう贅言は要さないかも知れないが、和辻―小浜が最重要と考えたのは、現にある家庭とか国家とかを保ち守ることよりむしろ、個々人が他者と共有し共生できるだけの、精神的なものを含めた場を創ることで、「他人への思いやり」と言えば、ほぼ尽きている。

 小浜が悪の代表と考えるのは、個人の自由を重んじるあまり、「自分が正しいと信ずるなら、人を殺してもいい」なんて思うこと。ドストエフスキー「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフはこの状態に陥ってしまった。
 文学からまた別例を探すなら、ロビンソン・クルーソーは、事故で共同体からは離れてしまったが、それまで同胞とともに生きてきた英国社会の共同性から身につけたマナー(考え方と行動のパターン)は保っているので、共同性を失ったわけではない。それは、食人の習慣がある南米の原住民を野蛮人とみなすprejudice(偏見、だけど、元義は、「前もってする判断」)を含めての話ではあるが。

 別様に表現すると、人間は関係性によって形成される、関係的な存在である。しかし、関係的存在であることを認識するところに自己が現れる。そして、それゆえにまた、人としての正道と言えば、関係性を自ら背負うところにある。つまり、関係性こそが倫理となるのである。【キルケゴールの「自己とは関係がそれ自身に関係する関係である」はそういうことではないかと私は思っている。】
 ここまでなら特に異論はない。しかし実は倫理上の実際の問題は、この次からなのである。

 小浜逸郎は和辻哲郎の倫理学を高く評価し、自分はその後継者を目指す者であることも認めている一方で、その弱点も厳しく指摘している。小浜の倫理学は、この弱点の克服を目的としている、と言っても過言ではない。
 以下、小浜の和辻批判を私なりに言葉をやや変えて紹介すると。

(1)和辻は、共同体の中心核となる感情は信頼だと言う。それはそうで、成員同士に信頼感がなかったらいかなる共同体も成り立たないのは自明。ただ、それだけで共同体が保たれるかと言えば、これまた明らかに違う。
 和辻がそう言っているわけではない。が、共同性こそ人倫の基礎という割には、共同性につきまとう諸問題にはあまり言及していない。
 小浜の言い方だと、和辻は「ザイン」(現にあるもの・現実)と「ゾレン」(あるべき存在・当為)をちゃんと区別していないようだ。別言すれば「倫理学は、生の暗黒面という現実を直視しつつ、しかも最終的には「ゾレン」を追究する学であるという姿勢を一貫するのでなくてはならない」(pp.308~309)とすると、和辻にはその直視が足りないと言わざるを得ない。
 例えば和辻『倫理学』第三章「人倫的組織」中の第4節「地縁共同体」における、村落の共同労働や祝祭における絆の深さについての記述など、現実にはまず存在しない、いいことずくめである。それから、第5節「経済的組織」では、そこでの人倫精神の要は「奉仕」というキーワードで語られてい、これではブラック企業の経営者が喜ぶばかりだろう。

(2)共同体相互の関係。上に一部示したように、和辻は人間社会の「人倫的組織(=共同体)」を、家族・親族・地域共同体・経済的組織(企業など)・文化共同体(ある、一定、と見なし得る文化、例えば日本文化を共有していること)・国家、に分類している。近代人はこの全部、あるいは少なくともいくつかには属しているのが普通である。
 それぞれの共同体には固有の論理と倫理があり、すべて相俟って人間社会を支えている。しかし、すべてが矛盾なく並び立つ、なんてことはない。それはかつての徴兵制があった時代の戦争を考えただけで明らかだろう。
 男たちは基本的に、自分や家庭や地域の都合とは関係なく、国家の命令で戦地に赴き、最悪の場合には命を落とした(これが前回採り上げた「永遠の0」の主題)。今でも、企業人としての激務に追われ、家庭や親族間ではほとんど長期不在状態が続き、最悪その共同体の崩壊に繋がることもある。
 こういう場合、最小のもの(家族)から最大のもの(国家)まで、共同体の範囲が広くなるのは当然だが、その分価値も高くなるように感じられるのは、功罪相半ばする、というか、当然なところと危険なところがある。

Ⅴ 改めて、国家とは何か
 小浜は、現存する最大の共同体である国家については、その幻想性を語るところから始めている。
 国家とは実体ではなく、人々があると思っているからある。ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』、吉本隆明『共同幻想論』、古くはカール・マルクス『ドイツ・イデオロギー』にも同じ考えはある。
 一理あるが、殊更に「幻想」と呼ぶと、他所に何か実体があるような印象を与える。「しかし少し考えてみればわかるように、その程度はさまざまであれ、およそ人間が作る共同性は、すべてある意味で「想像」によって成り立ち、「幻想」を媒介としたものであることを免れない」(P.405)
 これは「少し考えてみればわかる」ことではないかも知れない。例えばこういうことだろう。結婚して新たな家庭という共同体を創る場合、自分及び相手に対する幻想、と言って言葉が強すぎるなら、ある種の思い込み、あるいは期待、がなくて結婚生活は始めるケースは稀だろう。前述の〈信頼〉も、結局はこれに基づく。
 だから、他のより小さな共同体に比べて、国家とは単なる幻想であり擬制だ、とは言えないのだが、しかし、その幻想―信頼の質そのものが、他とは決定的に違うものであることなら、誰にでも直感的にわかる。

 小浜は国家を次のように定義している。「近代国民国家とは、人々がさまざまな形で共有する土着的・伝統的な同一性、同質性を基礎にしながら、それらを一つの統治構造によってまとめ上げていこうとする虚構であり、運動なのである」(P.407)
 ポイントは〈運動〉とその〈作用〉というところにある。この着眼と表現は、たいへん秀逸なものだと思う。

第一に、国家は個々の政府機関のような実体なのではなくある統合性をもつ力の作用(はたらき)である。したがって第二に、その作用(はたらき)が有効に機能するために、統合を維持するに足る象徴性を必要とする(たとえば皇室や憲法や国旗や国籍のような)。そうして第三に、メンバー全員の間に、その象徴性に対して、たとえ無意識的にではあれ、同意と承認を与える心のシステムが成立しているのでなくてはならない。(P.410)

 そうである以上、「愛国」という言葉は今もあるけれど、国家への〈愛〉とは、普通に使われるこの言葉の示す心の働きとはずいぶん違う。前回述べたことをもう少し詳しく言うと。
 人は生まれ育った土地、いわゆる故郷に愛着を感じることはある。「忘れ難きふるさと」ということで。しかしそれは、唱歌の中でも、「兎追ひしかの山/小鮒つりしかの川」と歌われているように、風景や、そこで共に過ごした人々の具体的なイメージと結びついている。国全体となると、大きすぎて、各人が各人の想像力を使って思い浮かべるしかない。
 保守派の論客が愛国心教育のためにとよく持ち出す日本文化も、非常に多様で曖昧な諸概念である。他国と比較すると、特徴が際立つようにも思えるのだが、日本国内で普通に暮らしていて、何が「日本的」かなどめったに意識することはないし、もちろんそれでよい。
 逆から見ると、何が国の価値であって、どうすればそれを〈愛する〉ことになるのか、かなり好き勝手に言えることになる。サミュエル・ジョンソンの警句の通り「愛国心は悪党の最後の逃げ場」(もっともこの場合の愛国心はnationalismではなくて、patriotismだから「愛郷心」のほうが適当)になり得る。

 これらを要するに、あらゆる共同体がフィクションではあるが、国家、特に近代国家は、人間が成長するにつれて自然に身につく情感や知見とは最も遠い、という意味で、最も人工性、つまりフィクション性が高い。
 そもそもなぜ人類はこういうものを必要としたのか、小浜の論述から少し離れて、試みに、素朴なモデルを示しておこう。

 例えば老子は、「小国寡民」こそが理想的な社会だとした。一番大事なのは、そこで暮らす人々が、小さな共同体の中で完全に自足し、今ある以上のものは求めないこと。ならば、他所と交通する意欲もなく、他人を羨むことも、争うこともない。すると、文明の進歩はない。文明は、人々に快適をもたらすが、それ以上に不幸をもたらすものだというわけなのだろう。一理ある。が、人類は、西洋でも東洋でも、ほとんどこの道を採らなかった。
 今以上を求めるから、産業も商業も発展するのだが、一方、自分たちにはなくてよそにあるものを妬む心から、争いへとつながることは避けられない。争いはほとんど直ちに暴力に結びつき、他より立ち勝り、できれば支配するために、暴力の手段(兵器)も集団(軍隊)も発達する。これが野放図に横行したりしたら、明らかに安定した生活はない。
 対応策として、ある集団が揮う暴力のみを正当(公的)として、他のすべてを禁ずる、といってもなくすことなどできないので、不当・不法として取り締まる、という方式が選ばれた。そのために国家という機関ができた、とさえ考えられる。
 マックス・ウェーバーの有名な定義「国家とは、ある一定の領域内部で、正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体」(「職業としての政治」)はたとえ言い過ぎだとしても、それこそ、つまり暴力の管理こそは国家の枢要な仕事の一つであることはまちがいない。

 ただし、暴力は悪なので、押さえるためには、それを上回る暴力がなくてはならない、というのは、矛盾に見える。そこでその暴力の正当化の根拠として、国家の正当性が宣揚された。先の引用文中の「土着的・伝統的な同一性、同質性」さらにそれを簡明にした「象徴性」が動員される。「この国は、神に選ばれた偉大な民族である我々が建てたのだ」というような。時には、このような神話とも呼ばれるフィクションが新たに創られる場合もある。
 そして、暴力が最大限に発揮される場である対外戦争が仕上げをする。
 ヨーロッパ中世期では、戦争は王侯貴族がやるもので、一般庶民は、無理矢理駆り出されたか、他は金で雇われた傭兵が大部分で、命がけで戦う義理など感じていなかった。戦局が剣呑になれば、すぐに逃げ出した。マキャベリ「君主論」には、合計二万の軍勢が四時間戦いながら、戦死者は一人だけ、それも落馬した時の怪我がもと、という例も書かれている。

 徴兵制はフランス革命の産物だ。革命が自国に飛び火することを恐れたヨーロッパの諸王国は連合してフランスを攻撃した。フランスの国民公会は、これに対抗するために、様々な曲折の後、ルイ16世とマリー・アントワネットが処刑された年である1793年に「国民総動員令(または、「国民総徴兵法」)」を成立させ、18歳から25歳までの国内青年男子を動員し、百万人規模の軍隊を作った。この〈国民軍〉はその後ナポレオンに引き継がれ、戦時には民兵を指揮し、平時には軍事訓練を事とする専門の軍人によるいわゆる常設軍もできる。
 これはその後すぐに西欧世界全体に広がり、ここに、〈国民〉とナショナリズムが歴史の前面に躍り出た。以前に書いたように、あらゆる共同体が〈内〉と〈外〉を分けるもので、程度の差こそあれ、排他的になる。この力学をさかさまにして、〈外〉の脅威とそれによる危機感を煽って、〈内〉の結束を強めるのもよくある手法である。
 強大な外の脅威に対抗するには全力を挙げて戦わねばならない。戦争はいまや苛烈を極めたものとなり。何人もの人が命を落とす。すると、これまた逆転して、何人もが命懸けで保ち守ろうとしたからこそ、そこには価値がある何かが存在する、とも感じられる。それが即ち、(近代)国家である。

 しかも国家の価値は、根拠は怪しい分だけ、巨大でダイナミックである。その一部として、その存続を懸命に保ち守ろうとすることで、個人の背丈を遙かに超えた歴史の過程に参入した感じになれる。
 幻想だと言って侮る勿れ、その高揚感は、安定した日常生活では得られないものだ。20世紀の多くの若者を捉えた「革命」への熱情も、たとえ旧来の国家の廃絶を唱えたとしても、質的には同じである。いや、民主主義で、一国の政治に責任を感じて主体的に関わるように求められるなら、誰もがこの心性と無縁ではない。

 現代では、欧米のいわゆる先進国の多くは、常設軍はあっても、徴兵制は廃止している。20世紀末に冷戦が終わり、デタント(緊張緩和)が訪れた結果なので、ウクライナ戦争でロシアの脅威が再び高まったので、また導入が検討される場合も稀ではないようだ。
 それでも、成人前の(たいてい)男子に兵役に就く気があるかどうか答えさせるのがせいぜいで、つまり、いやだと言えばそれまで、無理矢理兵士として使役するまではとてもやれないのが実際らしい(六辻彰二「徴兵制はなぜオワコンか――ウクライナ戦争でもほとんど‘復活’しない理由」)。
 個人の意思の尊重をたてまえとする民主主義国ではそれが当然だろう。ただそれも、ヨーロッパの今後の情勢次第ではどうなるかわからない。

 戦後日本は徴兵どころか正式な軍隊もない。そもそも、国家意識に非常に乏しいと言われる。それでいて、国際性がどうのこうのと言っても、その「国際(各国の関係性)」の概念が他国の標準とは合っていないのではないかと思えるのだが、それはここで扱えるような問題ではない。
 小浜も、上の意味の国家意識には乏しいと言えるだろう。国家とはそれ自体が愛憎の対象になる価値なのではなく、機能なのだ、としている。人類が今更小国寡民の原始時代に戻れない以上、現在の生産と流通の状態を維持するために、統括のための巨大組織が必要になる。犯罪の取り締まり。即ち警察力もなくてはすまない。ここに国家の実際的な存在意義もある。

(前略)近代国家の精神は、個人個人の愛国感情によって支えられるよりも、はるかに大きく、そこに属する住民の福祉と安寧とをいかに確保するかという機能的・合理的な目的意識によって支えられているからである。
 このことは軍事・外交・安全保障にかかわる施策や行動においても例外ではない。もちろん実際の戦闘時の士気を維持することにとって参加メンバーの愛国心は大いに寄与しているように見えるが、それはよく個々のメンバーの行動心理に照らしてみれば、個人の愛国の情の力の集積というよりも、大きな目的を合理的に理解した上での、各部署における職業倫理と責任意識であり、同じ目的を追求していることから生じる同朋感情であり仲間意識なのである。これらがうまく機能するとき、「強い・負けない」国家はおのずと現れる。
(pp.417~418、下線部は原文傍点部)

 従ってここでも、何よりも各人が家庭や職場でそれぞれ具体的な責任を果たすことが重要であり、国家サイドからすると「身近な者たちへの愛が損なわれることのないような社会のかたち(秩序)をいかに練り上げるかという理性的な「工夫」」(P.420)こそが肝要と言うことになる。ここから前回掲げた「生活を共有する身近な者たちがよりよい関係を築きながら強く生きるという理念を核心に置き、その理念が実現する限りにおいてのみ、国家への奉仕も承認する」(p.466)という理念も出てくる。

 私も国家の第一の目的は国民の安寧秩序を守るところにあるのは同意する。そのための国家は、できるだけ理性的・合理的に営まれるべきなのも、そうであろう。しかしその道は幾重にも折れ曲がっている。ナショナリズムというかなり非合理な感情一つとっても、そう簡単には決着がつかない。
 そういうことに拘るのは、私が、小浜よりもっと、人間の暗黒面が気にかかる傾向があるからだ、ということは認めつつ、もう少し歩を進めたい。
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小浜逸郎論ノート その3(共同態・上)

2024年03月01日 | 倫理


メインテキスト:小浜逸郎『倫理の起源』(ポット出版プラス令和元年)

 初期の著作『男はどこにいるのか』からいきなり晩年の大著に移るのは、最近これについての勉強会を開催したからです。それで久しぶりに『倫理の起源』を読み返して驚いたのは、書かれていることの九割方に同意できること。それなのに、初読(小浜ブログ「ことばの闘い」の連載記事)の時から感じてきた違和感はなんだったのか、あらためていぶかしく思えました。今回はこれにこだわってみます。

Ⅰ.善の在りどころ
 小浜の最大の意図は明瞭で、西洋の大哲学者たちが、倫理の根拠を、善のイデアだの我が内なる道徳律だの、やたらに高いところや深いところにおいてきたものを、身近で具体的な人間関係の場に降ろそうということである。
 その中でも、あまりに卑近に感じられるからだろう、従来まともにとりあげられることもなかった男女の性愛関係に重きを置こうとする指向は、独創的と呼ばれてよいかも知れない。
 それ以外だと、一般的に、人間にとって最も重要なのは具体的な共同性であるのは当然すぎる話だ。人間は人間から生まれるだけではなく、普通は家庭という最小の共同体内で、人間に育てられなければ人間にはなれない。共同性(他者とのかかわり)以前に個人はない。倫理(人としての正しいふるまい)もまた、人の間にいればこそ必要なのである。

「善」とは、そもそも共同存在としての人間の生活を離れたところに自立的に成り立つような「観念」ではない。それは人間生活がうまく回っていることやうまく回そうと努力していることを示す「現実」の表現である。(P.077)

 ならば「善」は、なんら特別なことではなく、家庭も社会もひっくるめた共同体が無事に経営されている、それを支える日々のルーティンの中の「ひそやかで慎ましいもの」(p.079)であるはずなのだ。しかし、しばしばそれでは足りないと考えられて、それは簡単に錯覚だとは言えない。
 すると、むしろ問いは、なぜことさらに、共同性以外の人倫の根源を、特に西洋の思想家たち(東洋にもなくはない)が、探してきたか、という形にすべきではないだろうか。
 小浜が置いてくれた里程標を辿って、この問いに自分なりに向き合おう。
【実は、つい最近まで本当に忘れていたのですが、以下の記事は以前「倫理の起点」として書いたものと内容はかなり重なります。ただ今回は、ここから自分なりの一歩進めたいという意欲だけははっきり自覚しましたので、それに沿う形で編み直しました。】

Ⅱ. 国家の在り方
 近代国家は現在のところ最大の共同体だが、大きすぎて、全体を完全に把握することは誰にもできない。日本ぐらいの国になれば、国内でも、一度も行ったことのない土地のほうが多いだろうし、大部分の人とは一度も会っていないだろう。ごく普通の意味で(エロス的に)愛せるようなものではなく、「そこに属する住民の福祉と安寧とをいかに確保するかという機能的・合理的な目的意識によって支えられている」(p.418)ものなのだ。
 具体的には国家はどのような体制であるべきなのか。一見両極端が挙げられている。

(1)生活を共有する身近な者たちがよりよい関係を築きながら強く生きるという理念を核心に置き、その理念が実現する限りにおいてのみ、国家への奉仕も承認する(p.466)

 国家は国民の安寧秩序を守ることを第一の目的とすべきだ、ということなら、私を含めて、反対する人は現在少数だろう。ただ上の言葉を、個々人の幸福のためなら国家なんてどうでもいいんだ、というふうに取るなら、戦後の進歩主義と同じだということになる。小浜はそうではなかった。

(2)もし公共体としての国家が、外敵から己れを守るために個人の命を捨てることを要求する場合には、進んでそれに従わなければならない。(p.390)

 これはスイスの憲法の規定らしく、小浜自身が明らかに賛成しているわけではないが、反対はしていない。
 この二つはどのように両立するのか。

個体生命倫理そのものはなるべく貫かれるべきであるし、個々の個体生命の限界を超えて維持されるべきであるが、しかし絶対的ではない。いずれ誰もが死ぬということは、すべての人がよく知っているので、(中略)この倫理をただ何よりも優先されるべきものとして前面に押し出せば済むのではなく、ケースによっては死んでも仕方がないという諦念をいつも傍らに引き寄せておく必要がある。(p.393)

 「ケース」は、〈自分の属する共同体を守るために必要なら〉というのがすぐに頭に浮かび、だから(2)のような要求も出てくる。しかしこの要求が正当であり、従うしかないとすれば、「よりよい関係を築きながら強く生きる」のほうは損なわれる。これはアポリア(解き難い矛盾)とするしかないと思う。

(前略)公共性という概念そのものは厳として存在する。それは、もともと私的であることと一対の関係にある概念だから、抽象的であることを免れないのである。つまり、この種の関係概念は、ある事態(たとえば家族生活)が他方の事態(たとえば国家活動)に比べてより私的かより公的かという相対的な位置関係で把握するほかない概念である。言い換えると、私的・公的という対概念は、互いに他方の「否定態」としてしか成立しない。 (p.395)

 それでも小浜は後のほうで、このアポリアを解くことはできるという考えを示した。そのモデルとして採り上げられたのが百田尚樹の小説「永遠の0」。これについては前にも述べたが、未読の人のために以下に粗筋を書いておく。
 主人公は宮部久蔵という大東亜戦争中の軍人であり、達人の域に達した戦闘機乗り。にもかかわらず、戦場にいて「生きて家族の元へ帰りたい」と公言して、物議をかもす。戦局が悪化し、彼が指導した若いパイロットたちが特攻によって散っていくことが重なるにつれて、罪の意識からの葛藤に追い詰められていく。最後には彼自身が特攻に志願するが、同時に進発する隊員の中にかつて宮部を庇おうとして無茶をした大石がいた。宮部は自分が乗る予定の機に不調があるのを知って、口実を作って大石の機と交換し、自分は無事(?)米艦に突撃して戦死する。大石は、エンジントラブルのために無人島に不時着し、帰還する。この場合に限って、特攻から生還することが認められていたのだ。そして終戦。大石は帰国し、宮部の妻と面会、やがてお互いに行為を抱くようになって結婚、彼女と子どもとを守る。宮部が家族とした約束は、このようにして、大石によって果たされた、とみなせる。
 感動的な話である。お伽話としては。「単に戦前・戦中をひたすら軍国主義が支配した悪の時代と見る左翼的な平和主義イデオロギー」と「その左翼イデオロギーの偏向を批判するために、日本の行った戦争のうちにことさら肯定的な部分を探し当てたり、失敗を認めまいとしたりする一部保守派の傾向」という「戦後における二つの対立する戦争史観の矛盾を止揚・克服している」(以上p.445)とも言えるかも知れない。
 しかし、現実には。上の梗概の、「最後には彼自身が特攻に志願する」以下の部分の、偶然の連なりを考えれば、宝籤の特賞に連続して当るほどの確率だから、こんなことの実現はほぼ不可能だな、と自然に納得されるのではないだろうか。
 お伽話そのものも、ありがちなご都合主義も軽蔑はしない。そこには人間の時代や場所、さらには根本的な人間の条件をも超えたいとする切ない願望の現われである。それが傲慢な駄法螺にはならないのは、語るほうと聞くほうに、「世の中、そう都合良くはいかないがな」という諦念があればこそだ。
 結局、公と私とは、「互いに他方の「否定態」としてしか成立しない」のであれば、(イギリスの王家の紋章に描かれた王冠を支えるライオンと一角獣のように)、決して完全には相容れず、争い続けるまさにそのことによってこの世界を保っているということだ。
 ならばまた、個々の場面では、どちらかがどちらかのために犠牲になることを完全になくす術はない。この場合、弱い立場の私・個人のほうが、犠牲になるべく強いられることが圧倒的に多いのもごく自然であろう。
 できることは、「生活を共有する身近な者たちがよりよい関係を築きながら強く生きる」ことこそ人間が望み得る最高の幸福であり、簡単に無視されたり毀損されることがないように心がけていく、ぐらいではないだろうか。これすら、けっこう難しいのだ。

Ⅲ. 自己を支えるもの
 戦後の日本は、「個人の命を捨てることを要求」することはないだろう。少なくとも、露骨には。(個人の)生命至上主義は、普段敢えて頭に上ることさえないぐらい我々の常識になっている。とりあえず、結構なことと思う。
 国民が命懸けで国のために尽くす場面の代表はなんといっても戦争、壮年男性であれば必ずそこに参加することを義務とする、つまり徴兵制は、現在の先進国ではたいてい、実質的になくなっている。しかし、軍隊はある。徴兵制に対して志願制で。日本でも(自衛隊は軍隊かそうでないか、なんぞという面倒な議論は置くとして)、以下のような誓約をしてから国防の任に就く。

事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め、もって国民の負託にこたえることを誓います。

 つまり、国家から与えられた責務を完遂するためには一身を擲つこと、するとかなりの確率で「身近な者たち」の「よりよい関係」を失うことまで要求できるのは、事前に「それでいい」と約束した人だけになる。最初に個人の決断が必要とされている。
 いや、最初ではない、そもそもある個人がそのような決断に至るまでには、彼の過去の共同性に由来する価値観や、今後の共同性をうまく保っていくための配慮(だいたい、日本国憲法第九条がある以上、日本は戦争なんかしない、だから、兵士として危険な目に合うなんてことは実際はないんだ、と予想するような配慮まで含めて)が、決定的な働きをしているはずだ、と小浜的な立場からは言うだろう。
 それに間違いはないのだが、いずれにしろ個人の意向はあり、それは無視できない、というのは民主主義国家の重要な前提、いやタテマエである。
 そうでなくても、人生には選択がつきものである。人がある共同態の中でけっこう不満を抱えていようと、まずます幸福にすごしていようとも。その選択の基準もまた、共同体から得た価値観にあるが、個別具体的な事態は決して繰り返されることはないのだから、結果は完全な予測は不可能であり、『人間は時間の中でたえず新たな「決断」と「行為」をなしていく存在』(p.304)であるからこそ、人は絶えず不安を抱えずにはいられない存在である。
 本書には、妻が難産で苦しみこのまま出産を続ければ母体も危険である、と言われた場合が例にでている(p.388)。このように直接に生死に関わる問題以外に、介護が必要になった老親を施設に入れるか在宅介護にするか、いつどの相手と結婚するか、転職するかしないか、家を建てるかマンション住まいを続けるか、などなど。
 念のために言うと、その問題が各個人及び家族にとってどれほど重い問題であるか、まで含めて、よそからは窺い知れない。自己責任なる言葉は好きではないが、何かを選んで、何かを捨て、何かを為すのは、個人であるしかない。
 ただ、小浜はこここで、それでもやはり、共同体への信頼感(これこれをやれば、家族や知り合いに認められる、少なくとも非難はされない、といった)がなければ、人は何事も決断し得ず、何事もなし得ない。つまり、人は不安であるからこそ、共同体内部の信頼が必要となる、としている。ここは非常に微妙なポイントなので、後で改めて考える。
 いずれにしても、現に決断して、その結果を受け止めねばならないのは個人である。選択がうまくいかなかったと感じられたときには、であることによって、そのを物心両面にわたって産み出した共同性が実現されている、という幸福な一体感は揺れて、単独者としての私が顔を出す。
 大前提として、小浜は、身近な人間関係、即ち彼の言うエロス的関係以外は、国家も、自由で自立的した個人も、すべて人間社会を保つためのフィクション(人工物・仕組み・約束事)だと考えていた。私もそう思う。しかしそれがフィクションである以上、〈共同主観〉ではあっても、根拠が見失われたら雲散霧消してしまいかねない。その危険は常にある。

それでは、「個人の自由意志の結果としての行為」という、近代道徳の図式の基礎にあるフィクション性には何の根拠もないのかといえば、そうではない。そこにはフィクションを構成せざるを得なかったそれなりの理由がある。また私たちは、人と交わりつつ生活していくうえで、このフィクションを設定せずにはすまない。
 それは、簡単に言えば、私たちが関係を編みながら生活しているとさまざまな摩擦葛藤が生まれ、やがてそれが高じて取り返しのつかない不幸な事件や解決不能な不祥事が引き起こされることがあるからである。つまり自由意志から行為へという因果関係は、じつは逆なので、まず不幸や不祥事が起きた時に私たちの感情が混乱し、自己喪失や共同性の崩壊の感覚に襲われるのだ。それを何とか収拾して未来に臨むために、私たちは、「ある個人の行為は、その人の自由で理性的な選択意志を原因としている」というフィクションを必要とするのである。
(P.193)

 問題は、不幸や不祥事だけではない。我々庶民が生涯のうちに何度か直面せざるを得ない選択もそうであることは前述の通り。だいたい、crisisの原義は「分岐点」なのだ。
 あらゆるものがそうであるように、共同性も時間の中にあり、変化する。親も自分も年老いるし、幸せな性愛関係を結んでいた相手もあるとき突然心変わりする。そこに肉親の扶養義務や、結婚という制度の枠を嵌めて、外側から、あまりに乱脈にしないようにするのは国家の役割だが、内面的に、既成の共同性を超えてを支えてくれる存在への冀求も生じる。そこにまた、自分を大きな存在と思いたい心性も相俟って、永遠に確固不動の超越者・絶対者の概念が、人間社会の中に広く長く見出されるようになる。
 我々東洋人、特に日本人は、伝統的に、「自己喪失や共同性の崩壊の感覚に襲われ」ることが少なかったか、あるいは、それをことさらに問題視する心の習慣に乏しかったせいで、絶対なる観念とは縁遠かった。それは幸せなことと言ってよい。なぜなら、そんな観念が必要と感じられる共同体は、けっこう不幸なものだろうから。
 しかし、今後もその幸運が続き、例えば、私というフィクションを支えるための絶対者などの大フィクション(苦しいときに頼む神であっても)の必要が実感されないかどうか、そこまではわからない。
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小浜逸郎論ノート その2(男女関係論)

2024年02月05日 | 倫理


メインテキスト:小浜逸郎『男はどこにいるのか』(草思社平成2年→ちくま文芸文庫平成7年→ポット出版平成19年)

 前回の続きですが、表記の著作の主題である男性論・男女関係論について、特に興味を惹かれたところを、できるだけ咀嚼して自分の言葉にして述べてみます。地の文の〈  〉は強調、引用文中のは引用者の註記です。

Ⅱ.フェミニズム。すべての男女関係を権力関係として糾弾する。
 旧来の〈男らしさ・女らしさ〉、いわゆるジェンダー・アイデンティティに疑問符をつきつけたのは何よりもフェミニズム及びそれに近い人々だった。
 現在ではX(旧ツイッター)に蟠踞する通称ツイフェミや、各種NPO法人での活動が目立つが、30年前には上野千鶴子や江原由美子らの少壮の学者がマスコミによくとりあげられていた。彼らは歴史学や精神医学、さらには文化人類学からさまざまな知見を動員した言説を展開したが、この思想が世に広まった論理と心理は昔も今も変わらず、以下のように要約できる。
 「男性がこの世を支配し、女性が屈従に甘んじている」(P.262)。これは理不尽でもあれば不当である(論理)。ムカつく(心理)。
 まるっきりのデタラメではない。そう言ってもいい現実はあったし、ある。そして、このような論理と心理の最大の強みは、少なからぬ人が、多くは女性が、日頃抱きがちなルサンチマンに訴えることができる点だ。「自分が職場や家庭でうまくいかないのは、男性(中心)社会だからだ」という具合に。
 さらにルサンチマンは被害者感情を与え、そこからして、多少(でもないが)の無理には目を塞いで、単純化した見方をゴリ押しすることをも正当化する。①旧来の社会悪は、戦争も圧政もすべて男がやったことだ、とか、②いつも男は加害者で女は被害者だったのがから、補償を求めても当然、とか。たぶんここで得られる快感は、合法的に得られる範囲では、他にほとんどない。
 しかし、と小浜は言う。「現在の男と女の枠組みは「作られ」「仕組まれた」ものだというようなことを何べん声高に繰り返してみたところで、それは相も変わらぬ潜在的な不満や怒りを一定の水準にまで組織化できるだけであって、そこから先には一歩も進むことができない」(P.27)。
 大切なのは、個々の理論や社会観の正しさ以上に、一人の女性、と男性、の幸福に、いかに、どれくらい資するか、なのだ。このような穏健な考えでさえも、攻撃専用武器に特化したフェミニズムからは、旧来の、男性社会の、社会悪を防衛しようとする動機から出ているように見えてしまう。小浜もまた、そのような糾弾を浴びることがあった。
 それに社会運動でもあるフェミニズムは、一歩を進めたとも言えるようである。運動や思想内部では細かい相違もあるが、大きなところでは、〈男らしさ・女らしさ〉の枠をできるだけ緩やかにすること、いわゆるジェンダー・フリーが、大きな目標となった。それがSDGs十七の目標の一つに入ったのは、この運動の成果ではある。また日本ではフェミニズムがウーマンリブと呼ばれていた頃から、女性の社会進出の促進が叫ばれ、昭和47年の男女雇用機会均等法という成果を出した。
 それを踏まえて、改めて考えよう。男らしさ・女らしさは、長い間広い範囲で通用してきた価値観であり、それには個人を束縛する要素も必ずあるだろう。とりわけ、女性を家庭に縛りつけ、いわゆる社会の指導層に入ることを妨げてきたことはあるだろう。そのことは女性にとって、不幸なことばかりだったのだろうか。
正確に言えば、男を地位や権力を手放さないできたのではなく、勝ち負けや成功失敗がはっきりせずにはおかない、地位や権力をめぐるゲームに巻き込まれてきたのであって、女はそのゲームから外されてきた」(P.37)のが実情なら、女性もまたそのゲームに加わることが必ずよいなんてどうして言えるのか。権力と呼ばれる強制力が、ずっと人間社会で必要とされてきた事情が、女性が中心の座を占めたところで変わるものではない。それは、政治や経済の指導層に女性が多く就くようになったヨーロッパの国々の様子を見ても明らかであろう。
 個々の女性の立場からしても。このようなゲームでは、確実に、勝者より敗者のほうが多くなる。職場で実績を出して能力が認められ、輝いているキャリア・ウーマンはいるだろうが、それは少数。まず大抵は、若い女性が嫌うくたびれたサラリーマンおっさんの女版になるしかない。女性も社会で働くのがごく当り前になった現在だから、そのことも明らかになったのである。
 いや、それすらもう古いのかも。「男に頼らない自立した女性」を持ち上げた雑誌記事などを信じて未婚を選んだ女性たちの、その後の嘆きを描いた松原惇子『クロワッサン症候群』が出たのは、昭和最後の、1988年である(文藝春秋社刊)。
 結局のところ、この点で従来の社会風習の問題点としては、意欲も能力もあるのに、女性だからという理由でしかるべき地位に就けない場合は、本人にとっても社会にとっても不幸なのだから、できるだけ改めたほうがよい、ということに尽きるのである。

Ⅲ.家庭の変貌。「継ぐもの」から「創るもの」へ。その中の男。
 近代日本の「家」の変貌について、歴史的なことは小浜はあまり言っていないので、私が別の機会に調べたことを下に略記する。
① 家(父)長制。明治31年完成の旧民法では、家長(法文では戸主)が家産のすべてを受け継ぎ、家人はその許可がなければ転居も結婚もできなかった。その代わり老親など、家人を扶養保護する義務も専一にあった。次代の戸主は、可能な限り長男が継いだ。
② 江戸時代では人口の八割以上を占める農民は、歩いて行ける範囲の田畑を耕して生計を立てた。同一地域に住居と仕事場がある人々は、協力し合うことも多い村落共同体の中で生活していた。明治以後、産業の発展と共に、大都市の企業に勤めるサラリーマンは、郊外に家を持ち、30分から1時間以上かけて通勤する「職住分離」が代表的な勤務形態になった。同時に、妻は、多くの場合、夫の補助としてであれ、農作業に従事することが当り前だった立場から、夫が仕事中に「家を守る」専業主婦に変わった。
 両方合わせると、家庭は縦軸(家名・家督)からのも横軸(地域社会)の共同体からも独立を強め、一国一城の如きものとなった。男と女が、お互いに相手を探して結婚して家族となり、子どもを産んで育てて、その子が成長したらまた新たな家族を創る。それがサラリーマンが勤労者の九割近くを占めるようになった現在の、ごく普通の家族の在り方であり、小浜が最大の価値を置いたものである。
 旧制度は男というよりは、共同体の最小単位、いわば細胞であると同時に生産拠点でもあった家(農家)を守るためのものであった。しかし、男性中心・優位を当然としてはいる。新民法では、この前提は建前上消えて、男性の優位は「金を稼いでくる」以外にはない。小浜はこの点では全く守旧派ではなく、こう言い切っている。「しかし、いわゆる男の権威なるものが実態のない前世紀の遺物にすぎないならば、この〈男は家庭内では無力であるという〉自己暴露は進めば進むほどよい」(P.249)。
 また地域社会は、よい時には、労働時の協力以上に、セーフティ・ネットとして有効に機能したこともあった。母が病気で寝込んだとき、隣家の奥さんが食事を作って持ってきてくれる、なんぞというのは、昭和29年生まれで農村育ちの私が実際に経験したことである。また、男女ともにいい歳まで独身でいると、近所の世話焼きおばさんがお見合い話を持ってきてくれることも普通にあった。すべての男女が独力で結婚相手を見つけられるわけではないので、おかげで助かった人もいる。今は結婚相談所があり、各種の配達サービスや福祉施設のサポートなどで、そういうのはいわばアウトソーシングされている。ただし、けっこう充実している場合でも、大きな家族のような地域社会が持っていた直接性や即応性にはどうしても欠ける。
 それこそが温かい人間同士の結びつきなのに、日本社会が豊かになり都会化した結果すっかり失われた、なんぞという保守的な人々にありがちな嘆きは、ものごとのせいぜい半面しか見ていない。これは「半ば戦後大衆自らが個人生活の快活さを求めて進んだ道」(P.258)であって、「「核家族」という生活思想の枠組みは、けっして後戻りもできず、また後戻りすることがよいともいえないような、強固な現実的基盤としての意味」(下線部は原文では傍点部。P.259)がある、と小浜は言う。近所中が昔からの知り合いで、雨戸以外は障子一枚で外と仕切られた家では、プライバシーなどないも同様、それは不快だ、と多くの人が思わなかったら、今のような世の中にはなっていないはずだ。
 その上で考えるべきこと。「家庭が無条件に憩いの場であってほしいというのは、男が飽くことなく抱いてきた幻想」(P.246)だが、その構築と維持には現在特有の難しさがある。そもそも「家を守る」というが、家名なんぞというのは江戸時代には名字もなかった庶民にはもともと関係ない話なのだし、「位牌を守る」というのは、お盆の時の民族大移動的な故郷への墓参の形でまだ残っているとは言え、日常的にはすっかり薄れている。今の家が具体的に守るべきものは、子ども以外にはない。だから、家庭の中心課題は子ども、その「教育」になった。
養育時間の自立と、平等社会というイデオロギーと、親の職能伝授による成長促進の喪失。〈中略〉この三条件はよく考えてみると、すべて子どもが成人するまでの時間をいったん白紙の状態に置き、そこへ他者主導型の「教育」という過程を介入させる予備条件の意味を持っている。」(P.253)地域共同体という目に見える中間項が崩壊した状態で、子どもの将来の社会的な価値を測ろうとすると(測らないわけにはいかない)、国家大の一般的な尺度によらざるを得ない。偏差値とか、有名大学への入学とか。それを示すのは、学校とそれに付随する教育産業などの外部機関だ。核家族、なんぞという言葉がもう使われなくなったほど当り前になった現在では、仕方のないなりゆきではある。
 それでも、子どもの扱いに迷ったとき、外部の「専門家」に頼るまでは仕方がないとしても、それに家庭の内部事情まですっかり委ねるのは「グロテスク」(P.256)でしかない。一般社会と家庭は本質的に違う場所だし、そうであるべきなのだ。
 また、社会的な評価基準は、夫を測るためにも当然使われる。収入とか、企業内の地位とか。妻子から見てもそれが男の価値のすべてになったりしたら、実質的に家庭崩壊である。
 すべてひっくるめて、家庭というエロス的共同体であるべき場所もまた、タダで手に入るものではないことが明らかになった。男もより主体的に家庭に関わることが求められる。それは必ずしも家事や育児をもっと分担しろという意味ではなく、「男はおざなりに用意された空虚な権威性や古い枠組みに安住せず、家庭内における存在性を人間的実力によって獲得すべき」(P.260)なのだ。
 ただ、こう言うだけなら、単なる説教にしか過ぎない。それはもちろん小浜も気づいていて、「好むところでもなければ、得意とするところでもない」が、「ある望ましい心構えを私たちが形成することは、現在の社会体制のなかにある問題点を少しでも鮮明にすることに寄与するかもしれないと考えて、あえて慣れないことを試みた」(以上P.261)と付け加えている。
 また、後の著作では、父親像を「家父長型」「人まかせ型」「友だち型」の三タイプに分け、「一つの前提」として自分がどういう傾向に陥りやすいか、少しでも意識してほしい、「その後は、自分及び自分の家族にとって一番いい父親像とはどういうものかということを、各自で模索していくしかない」(『中年男性論』筑摩書房平成6年P.93)としている。一般的に言えるのは、これがせいぜいなところなのは、了解できる。

Ⅳ.セクシャリティー(性の在り方)について
(1)「見るー見られる」関係

男は女との出会いの瞬間から、女の直接的な身体性を性的信号として受け取っているが、その信号は、もともとエロス的な関係の全体性にむかって開かれてゆく可能性を持っている」(P.55)。その場合まず肝心なのは、見る側と見られる側を固定しないことである。固定されたら、それは正に権力の関係になる。秘密の裡に徹底的に監視されていて、ゆえに完全に管理されているG.オーウェル「1984」を思い浮かべるとよい。その関係が「全体性にむかって開かれてゆく」ためには、〈見返す〉眼差しが必要となる。
 倫理学の点で小浜が最も影響を受けた和辻哲郎の言葉を、以前にも引用したが、もう一度引いておこう。

間柄において「ある者」を見るときには、この見られた者はそれ自身また見るという働きをする者である。だからある者を「見る」という志向作用が逆に見られた者から見返される。このことは「見る」という働きが単なる志向作用ではなくして間柄における働き合いであることを意味している。(和辻哲郎『人間の学としての倫理学』)

 これを男女関係で考えると、「女は性的主体として受動的であることによって能動的である。彼女は自分の心と肉体を他者のまなざしにさらすことを通じて自分の性的主体性を確認してゆく。「見られる」ことは「見せる」ことでもある。」(P.70)
 〈見られる〉身体を〈見せる〉ものとして主体的に引き受ける時、〈見る〉者としての(普通は)男を引き受けるかどうかの決定権も得る。レイプとセックスは違うが、(普通は)男との行為が暴力であるかエロスの関係であるかは、女性の思い次第である。
【もちろん「不同意性交」などで罪に問われるとしたら、一応でも客観的な基準が必要になるが、それはあくまで社会的関係の次元の話。男性は、女性に認めてもらえなかったら、性交はできても、エロス的関係にはなれない、ということ。】
 上記の〈確認〉は生涯のかなり早い段階で起きる。「女の子は、性の目覚めを生活に連続するものとして受けとめるが、男の子は、一回ごとの行為〈ここは「行為」ではなく「欲望」では?〉に促されるものとして受け止めてしまい、自分に起こっている問題を自分の未来や具体的な他者につなげていくことに困難を見出す。そういう原基的な世界経験の差異というものが、言語とか思考とかの領域において、世界への向き合い方についてについてのある〈男女別の〉特定のスタイルを無意識に選び取ることに作用していないはずはない」(P.150)。
【ちょっと疑問なのは、女性は性自認において完璧に安定してるというラルフ・R・グリーンソン(マリリン・モンローが最晩年に頼った精神科医で、彼女との数十時間に及ぶ面談テープを遺したことで有名)の言葉を小浜は引用し(P.218)、賛同しているが、本当だろうか。男からすると、12歳前後に初潮を迎えてから女性の身体になっていき、それと同時かその後に〈見られる〉性であることを引き受ける心の過程はかなりドラマチックではないかと想像される。それを経た(のか?)女性は、なるほど、男性よりずっと落ち着いて見えるけれど。】

(2)哲学男と物語女
 「人間〈特に男〉は社会的動物である」という自己認識がいかに偏ったものであろうと、男は、他人の目にも見える形で、つまり自分の外側で、何かを達成してナンボ、という価値観は少なくとも当分は変わらないだろう。
 セックスもまた、男にとっては達成すべき事業の面がある。「それ〈男性にとっての性行動〉は、道具を用いて「一仕事やってのける」というイメージにたいへん近い。それは短時間で終結してしまう一回ごとの物語であり、彼(の意識)は、その終わりを「やれやれ」といって離れることができる」(P.120)。つまり、男にとっての性行為は、勃起(スタンドバイ)→挿入(過程)→射精(完成)と順序立てて進む作業であって、終わったら「ご苦労様」と、誰も言ってくれないが、自分で自分に言いたくなるイベントである。
 これに対して女性は、「一般にからだのいろいろな部分をさわられることに非常に敏感であり、〈中略〉しかも女性器は身体の内部につながる器官であり、膣にペニスを挿入されるという受け身的な経験は、それが本当に快楽を引き起こすなら、全身への拡張を容易にし、ちょうど体内の痛みが心の注意を強く引きつけるように、しかしそれとは逆の意味で、心的なはたらきを喚起する度合いが強いように思われる」(小浜『エロス身体論』平凡社新書平成16年p.170)。
 つまり女性の性体験は〈全人的〉であり、その相手である(普通は)男の、ペニスではなく、〈人間性〉はより大きな問題にならざるを得ない。また自分が単なる女(≒女性器)として扱われることには大きな屈辱を感じる。
 さらに、「〈子どもを産むポテンシャルのために〉自分の人生について彼女はあるイメージをもってしまい、自由で不安定な状態にとどまることの可能性が自然と狭められる。授乳と養育に駆りたてられるのは、単に機能的な必要性の観点からそうなるのではなく、彼女の心身そのものが大きな方向性を受けとってしまうからそうなるのである。彼女は、自分が主人公である長い物語を与えられた」(P.122)
 赤ん坊は女性にとって文字通り血肉を分けた分身なので、母親はそれに〈とっての〉存在であることはごく自然に受け取られ、それとのともに生きていく物語もまた自然に受け入れることができる。
 言い換えると、「女はエロスの神に正式採用されるが、男はいつも臨時雇いにすぎない」(P.123)ので、「一人の女とエロス的な時間を共有しようとするとき、男は自分のエロス的なものの欠損部分を、倫理的なものによって補償するしかない。愛と呼ばれるものは、男にとって半ばは倫理であり、愛そうとする意思である。」(P.150)。ヤッちまって孕ませちまったら女とガキが生きていけるように責任取るしかないよな、というような倫理と意思。この哲学を実践する自分はカッコいいぜ、という、またしても誰も言ってくれないが、自分で思うのは自由で、そんな快楽が男には大事なのである。
 一応の結論。「男は社会、女は家庭という分業形態は〈中略〉なかなかに変わり硬い人間的性差を根拠とした、一つの支配的な現象形態であった」(P.143)「蓋然的なことしかいえないのだが、要するに、この〈男女の分業上の〉違いは、原初的な性差と、それに基づく歴史的分業過程との合作」(P.144)なので、そんなに容易には変わらないし、無理に変えるべきものでもない。だからといって女性の社会化(社会進出)が進むこと自体がいけないわけではないが、その場合でもこれを視野に入れていたほうが、男女双方とも幸せになりやすいだろう。
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小浜逸郎論ノート その1(序)

2024年01月24日 | 倫理

Bronze statue of Eros sleeping, 3rd–2nd century BCE, Collection of the Metropolitan Museum of Art, New York

 昨年物故した小浜逸郎さんは、もしかしたら日本最後の思想家ではないかと思います。
 知識人や広い意味のジャーナリスティックな言論人なら今もいるし、これからも登場するでしょうが、思想家は。この言葉を見ただけで、何やら時代遅れのような、場違いのような気が少しするでしょう。思想を、今簡単に、〈言葉で、人間と人間世界の在り方を根源的に捉え、そこから可能な「あるべき姿」を探求しようとする試み〉だとすると、そもそも、言葉に対する信頼感がもうそんなにないんだよ、という気分に突き当たります。これには、いささか心が寒くならざるを得ません。
 それでは何ができるか? もちろん大したことはできせんが、とりあえずの試みの場として、我々には、小浜さんが著作以外に遺してくれた「日曜会」という勉強会があります(左側コラムの「ブックマーク」の一番上にHPのリンクがあります)。元は小浜さんが始めたのですが、30年ほど続くうちには、それなりにいろいろあって、今はかつて事務連絡を担当していた私が主催ということになっています。いままでにももちろん小浜著をテキストに採り上げたことはあったのですが、改めて、若い世代を中心に、小浜思想の検証を行えばどうだろう、と思いつき、その若い世代の賛同を得ることが出来ました。
 その最初として、昨年の11月12日、高校時代から小浜逸郎の著作に親しみ、最近全著作読破をなしとげたという若き哲学徒・Fさんに、小浜逸郎の全体像を概観する発表をしてもらいました。小浜は著作だけでも、新書本を含めて50冊以上あり、短い時間で語るのは至難の業なのですが、よくまとまった、しかも真摯な情熱が伝わってくる発表で、感心しました。
 発表のタイトルは「小浜逸郎 《生活者の思想》」(このときのレジュメ、というよりそれ自体立派な論攷は、なぜかここには直リンを貼れないのですが、左の「思想塾・日曜会」から「しょ~と・ぴ~すの会」GO⇒「現在までの記録」GOの順にクリックしてもらえると、全文アップしているページにたどりつきます)。これは、西洋哲学・思想を初めとする様々な理論を学び、現代社会に対する精緻な分析も示しながら、それを必ず、この世で実際に生きている人間=我々の場において検証することを忘れなかった、そこに小浜さんの最大の特質がある、ということです。そう言うと、けっこうありふれている評のようですが、もっとずっと掘り下げて考える値打ちがあります。
 今簡単に入口だけを言いますと、小浜の出発点であった初期三部作(『学校の現象学のために』『方法としての子ども』『可能性としての家族』)で展開した方法論があります。学校・子ども・家族は、誰にとっても身近な領域なので、改めて思想の対象にされることはそんなに多くはない。なっても、それはいわゆる上から目線の、学校は/家族はこうあるべき、といった「べき論」の立場からのものがむしろ普通です。
 別の言い方をすると理念先行型で、現にそこで生きている人々の実態・実感は二の次にされる。そのため、現実には不幸をもたらすことのほうが多いようにように思います。
 教育論という名の学校に関する言説には、特にこの傾向が強いです(『学校の現象学のために』は当ブログではここでとりあげました)。そこで小浜はまず、それらを「おこさま教」「おめでた教」「おなみだ教」等々とサンプリングして、その非現実的な、今で言うお花畑的な思考、というより、「~教」のネーミングからうかがえるように、例えば「子どものすばらしさ」は絶対の真理とする一種の宗教と言うべきもの、をぶった斬っていく(この論者の中には現役の教師もいる。現に生徒に接しているときと、論を述べる時には自然に別人格になるらしい)。 
 実のところ、「子どもは素晴らしい」「教育は偉大だ」と浮かれているだけならいい。困るのは、では、「すばらしいとは言えない現実はどうして生じたのか」に転じると、ただちに、「それは教育を与える主体たる教師が悪いからだ」になる。最初からこれが言いたかったとしか思えない言説者(評論家や行政者)も多く、教師は、一切の反論は許されず、まともに聴いたりしたら、無力感に苛まれるしかないような代物です。
 しかし見かけだけだと、理念先行型は、都合の悪い現実を些事あるいは夾雑物として最初から捨てているので、一見いかにも颯爽としていて、明快で、「覚悟がある」言いようになる。これは、特筆大書したいのですが、全くの錯覚です
 一方、現実の諸条件を踏まえている言論は「理念はかくかく、しかし現実はしかじか」という具合に揺れるので、どうしても「ああでもないこうでもない」(『男はどこにいるのか』初版の「あとがき」にある小浜の自認)の煮え切らない印象がつきまといがちになります。
 さらには、「それでいい/仕方ない」という意味での現状肯定の動機を秘めているようにも見えてしまいます。それもあって、小浜はやがて、保守的言論人の一人にカウントされるようになりました。

 本年1月に、Fさんの跡を継ぐ形で、私が、男性論、というか男女関係論を定点として、そこから見えてくる小浜思想の特質を考えましたが、このことに改めて気づく機会になりました。
 一つにはこれは、家族や学校より以上に身近過ぎて、本格的な思考の対象にしようなどとは滅多に思わないトピックだからです。誰もが性別のカテゴリーを無視して社会で生きることはできません。具体的な異性を意識することとは別に、男はどうたら女はこうたらいう話を、一度も言ったことも聞いたこともない大人は、たぶんいないでしょう。多くは、飲み会などの場で。たいへん一般的であると同時に、徹底して個人的(プライベート)な問題。非常にデリケートで感情が絡んでくるのは避けられない問題なので。
 逆に、何を言おうと、「そんなの、人それぞれじゃないか」という感想をもたれがちですし、「いろいろコムズカシイ理屈を並べているが、結論は当り前のことじゃないか」というのもあります。むしろこういうほうが多いかも知れませんね。小浜の著作は、そこでまた、読む人を選んでしまうのです。

 それでもこの主題は、小浜の文業の中では家族論→倫理論と(狭い意味の)エロス論、現代社会状況論にまたがっていて、その重要な一部を成しています。今回と次回の二回に分けて、発表のレジュメに基づき、ここで採り上げられている論点のいくつかを整理して、自分の感想を加えて、私の小浜逸郎論の最初にしたいと思います。
 テキストとしては、六冊目の単著、『男はどこにいるのか』(草思社平成2年→ちくま文芸文庫平成7年→ポット出版平成19年)を主に使用します。時に小浜逸郎は43歳。後にこのテーマは、『中年男性論』(筑摩書房平成6年)『中年男に恋はできるか』(佐藤幹夫との対話形式、洋泉新書y平成12年)『男という不安』(PHP新書平成22年)などで展開されるのですが、若い時代の文章は、やや硬いのですが、その分勢いがありますし、また目配りの広さも一番です。引用文末の頁数は断りがなければポット出版版『男はどこにいるのか』のものです。

Ⅰ.小浜の大テーマ・権力とエロス。人間関係の二原則。
 晩年の主著『倫理の起源』(ポット出版平成31年)にまで至る小浜の倫理観、小浜倫理学と言ってよいものは、その基本は人間同士の関係性を二大別するところから始まる。「人間はおおむね社会生活とエロス的生活という二つの生活軸を抱えて生きている」(P.251)
 この二つの中でも小浜にとって重要だったのはエロス(的生活)であったことにまちがいはない。エロスなる言葉については、いろいろなことが言われているのだが、小浜独自の定義と言えそうなものを同書の中から探すと、「自分が誰々に「とっての」存在であると同時に、その誰々も自分に「とっての」存在であるような生き方」(P.142)がそうだろう。つまり、その人間の存在自体が問題になる、真にかけがえのない者としてある関係性がそうなのだ。
 それならば、全人的な関係とか、人格的な結びつきとか、他にも言い方はあると思うのだが、なぜ誤解を招きやすい「エロス」に最後までこだわって使い続けたのか、今回『男はどこにいるのか』を久しぶりにじっくり読み返してみて、わかるような気がした。男女の性愛関係こそその典型だと考えていたのだ。これについては後述する。
 一方社会的な関係の場においては、権力が必要になってくる。権力とは「ばらばらな人間意思を、その個々のものの思惑や属性のいかんにかかわらず一つにしてしまう意思の実現」。従って、「この定義に関するかぎり、権力的であることは、非エロス的である。なぜならば、エロス的関係が本来的な意味で成り立つ場合には、まさに相手の個別性や思惑そのものを媒介として融合することがめざされている」(以上P.126。下線部は原文では傍点部)のだから。
 しかし、「「人間は社会的動物である」という偏った自己確認が、男のアイデンティティを圧倒的に支配してきたために、その領域における人間関係の基本的なポリシー(引用者註、権力関係、だろう)に基づいてエロス的な領域に向き合う傾きが、歴史的に習慣化してしまった」(P.127)。これは誤りであり、エロス的関係の場であるべき、普通は家庭を中心として、その安寧を守ることを外部の共同体、その最大のものは国家、の至上命題とするように編み変えるべきである。そこに、小浜倫理学の眼目があった。「生活を共有する身近な者たちがよりよい関係を築きながら強く生きるという理念を核心に置き、その理念が実現する限りにおいてのみ、国家への奉仕も承認する」(ブログ『小浜逸郎 ことばの闘い』中「倫理の起源61」2015年1月21日よりコピペ)
 以上の二区分は、純粋な理念、概念規定であって、軍隊の指揮官が大勢に号令するような場合は別として、個人に命令する場でも、いっしょに生活する場合でも、必ず幾分かはこの二つの感覚は認められる。企業のような利益共同体であっても、ある者の仕事の上での有能さとは別に、その者の人間性に関する上司や同僚からの好悪は必ず問題になるし、たとえ夫婦二人きりの最小の共同体であっても、社会は社会なのであり、時を過ごすうちに、二人の成員のうちのどちらかが、権力、と言って言葉が強すぎるなら、主導権を握るか、は自然に決まってくる。
 人間はさほど純粋な存在にはなり得ない、ということで、それぐらいは小浜にも当然分かっていた。

 それとは別に、上記について私の疑問があります。大別して二つ。両方とも小浜さんに直接訊く機会があり、うるさがられました。
(1)エロスそのものの中に、権力欲、に似た欲求が認められるのではないか。言い換えると、エロスと呼ばれ得る一個の人格そのものへの親密な感情の中には、その人のためを思う、というのとは逆向きな、完全に支配して、ついには破滅にまで至らせる淫猥な権力衝動が働いている場合があるのではないか。
 このことについての思い出は、このブログでトルストイの家出騒動(をめぐる正宗白鳥と小林秀雄の論争)について触れたとき、小浜さんが妙にのってきて、エロス(このときは、現在普通に使われているエロスの意味に近かった)について、いろいろ語ったことです。それはフェイスブックのメッセージでもらったのですが、どういうわけか今は消えています(たぶん、向こうが消したんでしょう)。それで私が調子に乗って、便乗する形で、ザッヘル・マゾッホと谷崎潤一郎を題材にしたエロスー権力論を↓に書いたら、それっきり何もお応えはなくなりました。
 権力はどんな味がするか その7(槌か鉄床か)

 もっとも、この点では小浜さんのほうがまともなのかも知れません。いずれにしろ、このテーマは、彼とは無縁なので、別途に考察していかねばならないでしょう。

(2)家族(的なものを含む)こそ最重要、そのためにこそ国家などのより大きな共同性は機能すべきだという考えは、革命的であり、あまりに理想的過ぎる。小浜はかなりの部分、その困難には敢えて目をつぶっているふしがある。第一、前記「生活を共有する身近な者たちが……限りにおいてのみ、国家への奉仕も承認する」の部分は、これだけなら戦後日本の進歩主義者が言ってきたこととほんとんど変わらない。
 これは小浜倫理学の枢要に関わるので、今後できるだけこだわっていきたいと思います。今回は、参考までに、以前のブログ上のやりとりを以下に紹介するだけに止めます。
 まず『倫理の起源』の元、いわば初出である小浜ブログ『ことばの闘い』の連載記事の一つ。この時採り上げられた百田尚樹「永遠の0」を題材に、日曜会で討論したばかりだったので、それに基づき、私が長文のコメントを寄せました。
 「倫理の起源60」2015年1月15日

 ↑の私へのコメント返しの最後に、「そのうえでまたお話ししましょう」とおっしゃってくれたのを真に受けて、自分のブログで、小浜さんと、当時は日曜会の常連メンバーの一人だったW.H.という人を相手に(するつもりで)書いた拙ブログの記事。
 「国家意識について、小浜逸郎さんとの対話(その1)」
 
 私の不躾さに戸惑いながらも応えていただいた小浜さんの文章を読み、掲載させていただいたうえで、さらにもう一度書いた記事。
 「国家意識について、小浜逸郎さんとの対話(その2)」
 
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最強の言葉には顔がない・下

2023年08月20日 | 倫理

荻田浩一構成・演出「Tabloid Revue『rumor~オルレアンの噂~』」令和3年1月赤坂RED/THEATER

メインテキスト:エドガール・モラン/杉山光信訳『オルレアンのうわさ 女性誘拐のうわさとその神話作用 第2版』(原著の出版年は1970年、みすず書房1973年)
芥川龍之介「震災雑記」(『中央公論』大正12年10月号初出。『筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻』昭和46年に「大正十二年九月一日の大震に際して」の表題で、大震災関係の他の文章といっしょにまとめられた)

 最後に、私が最も恐いと考えているものについて述べる。プロパガンダからは少し離れるが、恐怖アピールグランファルーンに関連する。
 人を行動に駆り立てる最大の感情は恐怖だろう。生命を、生活を、地位や財産を奪われる危険は誰しも怖い。そして危険はどこに潜むかわからないのだから、用心するのは自然だし当然だ。そのために、保険を初めとして、危険に対応する商品も各種売られている。危険への恐怖、軽く言って不安、が強ければ強いほど、そういう商品の需要は高まるわけだから、宣伝家たちは危機感を煽りがちである。特に悪いことではない。度の過ぎた誇張や、ノーマン・メイラーの言う事実もどき(factoid、P.83)という嘘を使うのでなければ。
 しかし、事実もどきは、野心的な政治家や宣伝家が作るだけではない。民間から自然発生的に出てきたとしか思えないものもあり、これは普通「」、少し硬い言葉で「風評」と呼ばれ、時たま非常にやっかいなものになる。意図が全然ないか、大勢に拡散されているので、麻原彰晃やヒトラーのような個人が、ちょっとしたことでボロを出して、嘘がばれる、少なくとも威力が減る、ということもない。
 『プロパガンダ』に載っている事実もどきの例は、発生元はわからないとしても、誰かが政治的か経済的な目的に利用しようとしたものがほとんどで、それは本の主題からして当然である。ここでは、噂の拡大と伝播について、瞥見しておきたい。

 1969年、英仏百年戦争時にジャンヌ・ダルクが解放したという逸話以外には日本人には馴染みのないフランスの一地方オルレアンで、ある噂が広まった。ブティックの試着室に入った若い女性のうち何人かが消え、売春組織に売られた、というものだ。警察の公式記録ではこの時期に行方不明になった人は一人もいなかったにもかかわらず、この話は口伝えでどんどん広まっていった。エドガール・モランと彼が率いる研究グループがこれを調査して考察を加え、今日社会学の古典の一つとされている一書『オルレアンのうわさ』にまとめている。
 話(E.モランは「神話」と呼んでいる)の由来、というか、神話学で言うアーキタイプ(元型)はあった。売春組織に拉致される娘の話はフランスの各地にあり、オルレアンの噂が立ち始めた頃、雑誌に、ブティックで麻酔で眠らされた上に、地下室に監禁された若妻に関する、根拠不明の記事が出た。ただそれは、オルレアンとは遠く離れたグルノーブルでの出来事ということになっていたが。
【その後1980年代の日本で、これらに基づいたと思われる「だるま女」という神話も生まれた。海外のブティックで誘拐された日本人女性が、四肢を切断されたいたましい姿で見世物にされたという、より猟奇性の強いもので、一度雑誌に取り上げられたこともある。外務省はこの「事実」を完全に否定している。】

 新しい要素としては、このブティックがどこか、かなり最初の段階から特定されていたことがある。それは、ユダヤ人の夫婦が経営する新しいお洒落な店だった。
 それなら、この店のライバル店や、経営者夫妻に恨みを持つ者の仕業か、とすぐに思いつくが、警察も、モランたちの調査でも、見つけることはできなかった。エロティックな現代神話、現在の日本では都市伝説と呼ばれているものに、ナチス崩壊後もずっとヨーロッパでくすぶり続けていた(そして今もある)反ユダヤ感情が結びついたことが確認されるだけだった。
 もし、首謀者は実際にはいたのに、見つからなかったのだとしたら、その人物こそマーク・アントニーやヨゼフ・ゲッペルスを凌ぐプロパガンダの、そしてアジテーションの天才と呼ばれるべきかも知れない。
 それというのも、誰が作ったかはともかく、何のために作られたかは明らかなのが広告だが、その意図があまりに露骨な場合は、それ自体が鬱陶しくて反発を招く場合があるからだ。誰にもせよ、他人に操られていると思えば、不快になるだろう。だから現在の広告制作者は、意図を、うまく見つかるように隠すテクニックに磨きをかけているように見える。
 しかしそもそも、明確な意図などなく、大衆の感情、あるいは集合無意識とかいうものが、ある方向へと惹きつけられたらどうだろう。反発を向けようにも、その対象はない。しかも、そうなるとまた、浮遊するイメージに、後からさまざまなイメージがくっついて雪だるま式に大きくなりがちであり、稀には、ある社会全体を揺さぶるまでになる。
 オルレアンの雪だるまの中には、犯罪の規模に関するものもあった。「怪しい」ブティックは一軒から、同じくユダヤ人の経営する六軒に増え、「被害者」の女性の数は六十人以上にふくれあがった。誘拐の手口も、女性たちは川から船で大都市にある秘密の売春組織に運ばれ、そこからさらに中近東や南米に売られる、というような具体性を増したものになった。
 川から運ばれることについて話をした最初の人物は、例外的にわかっている。当のブティックの経営者が冗談として知人にしゃべったものが基だった。その後の経過からすると、軽率とも言えそうだが、彼としては、噂は全く根も葉もないもので、自分も気にしていないことを示したかったのだろう。「てなことがあったら怖いですな。ハハハ」という風に。彼はユダヤ人だが、地域社会に溶け込んでいて、誰かに恨まれる覚えは全くなかったのだから。
 翻って考えると、この話を口から耳へ、それからまた口にして広めた地元の人々は、どの程度に「本気」だったのか。むしろ冗談に近い軽いノリで、女学生たちの雑談から、その友人知人、家族、そして地域社会全体を覆うものへと成長していった可能性が高い。最初の頃に聞いた人の中には、そんな他愛もない話、わざわざむきになって否定するのも大人げないしな、と思ったこともあったかも知れない。実際、放置するうちに、自然に消えてしまう噂が大部分なのだ。
 けれどこの場合は、あまりにも大勢の知るところとなり、するとそのこと自体が、信憑性のように見えてきて、女学校の教師(その中にはユダヤ人もいた)や娘を持つ家族が、保護する責任のある女の子たちに、件のブティックへ行くことを禁ずるに及んで、事態は冗談ではすまなくなってきた。

 早い段階で公的な機関が対処すればなんのこともなかったのではないか。例えば、警察がブティックを調査して、怪しい節は何もないと発表すれば。しかし、大統領選挙が近づいていて、警察としては、わざわざそんなことをする余裕もないし、必要性も感じなかったようだ。
 そのうちに、失踪した女性たちの捜査をしない(そりゃ、いない人の捜査はできない)警察も、事件を一切報道しないマスコミも、行政当局も、すべてユダヤ人から買収されているんだ、という話も出てくる。それまで皆が信じたら、どんな調査をしてその結果を発表しても、「それはインチキだ」と言われてしまうだろう。
 幸いなことに、騒乱が起きる手前で事態は収束した。名指しされた店の付近をぶらついたりたむろする者が増えて、本当に恐怖を感じた店主たちが訴えた結果、市当局もやっと本腰を入れ、ユダヤ系の人権団体はキャンペーンをくりひろげた。
 最も効果的だったのは、いくつかの新聞・雑誌が、この話は元来反ユダヤ主義の陰謀から出てきたものだ、と書き立てたことだったようだ。こちらにも、しっかりした根拠などない。多分、事実もなかったろう。モランたちはこれもまた神話であるとして、「対抗神話」と呼んでいる。けれど、多くの人が、この噂を口にしたら、「反ユダヤ主義者」のレッテル(それは公的には、悪いこととされていた)を貼られるのではないかと恐れた結果、控えるようになった。もともと、「そんなの嘘だ。こっちが本当だ」とむきになって主張するほどの動機や信念のある人などいなかったのだから。
 それにしても、根拠のない噂を打ち消したのが同じように根拠のない話だったというのは、皮肉なような、また当然のような、妙な気がする。
 いずれにしろ、人々の関心の焦点は自然に大統領選挙へとシフトしていった。その後改めて、事件、ではなく噂について訊かれると、ほとんどの人が「もちろん私はそんなことは信じていませんでしたけどね」などと付け加えた。
 そんなものか? そんなものだ。それでも人々の不安と怒りは、自然発火近くまで至っていたのかも知れない。日本で起きた痛ましい事件からして、そういう推測も出てくる。

 大正12(1923)年の関東大震災時に、多数の朝鮮人や朝鮮人に間違えられた人が住民に殺された。これは我が国近代最大の黒歴史と言うべきものである。
 未曾有の災害によって多数の死傷者を出し、人々の恐怖は極限まで高まった。流言蜚語が飛び交い、混乱に乗じた火事場泥棒的な犯罪も多かった。治安維持のためには、警察では足りないと感じられたので、行政の呼びかけに応じるかまたは自発的に、民間の自警団が組織された。この自警団が、見回りにとどまらず、犯人捜しや制裁まですすんでやろうとした挙句、しばしば、蛮行の主体となったのだった。
 芥川龍之介も自警団に参加した一人だが、震災時の見聞及び感想「震災雑記」には、以下の印象的な一章がある。

 僕は善良なる市民である。しかし僕の所見によれば、菊池寛はこの資格に乏しい。
 戒厳令のしかれた後、僕は巻煙草を啣へたまま、菊池と雑談を交換してゐた。尤(もっと)も雑談とは云ふものの、地震以外の話の出た訣(わけ)ではない。その内に僕は大火の原因は○○○○○○○○さうだと云つた。すると菊池は眉を挙げながら、「譃(うそ)だよ、君」と一喝した。僕は勿論さう云はれて見れば、「ぢや譃だらう」と云ふ外はなかつた。しかし次手(ついで)にもう一度、何でも○○○○はボルシエヴイツキの手先ださうだと云つた。菊池は今度は眉を挙げると、「譃さ、君、そんなことは」と叱りつけた。僕は又「へええ、それも譃か」と忽ち自説(?)を撤回した。
 再び僕の所見によれば、善良なる市民と云ふものはボルシエヴイツキと○○○○との陰謀の存在を信ずるものである。もし万一信じられぬ場合は、少くとも信じてゐるらしい顔つきを装はねばならぬものである。けれども野蛮なる菊池寛は信じもしなければ信じる真似もしない。これは完全に善良なる市民の資格を放棄したと見るべきである。善良なる市民たると同時に勇敢なる自警団の一員たる僕は菊池の為に惜しまざるを得ない。
 尤も善良なる市民になることは、――兎に角苦心を要するものである。


 「○○○」の伏せ字部分の一部には「朝鮮人」の文字が入っていたのは明らかである。明治43(1910)年の日韓併合から、かの国の人も日本人となり、東京でもよく見かけるようになっていたのだが、彼らからは、ヨーロッパにおけるユダヤ人と同じ、「異物感」が拭えなかった。それが、大震災という本当の危機の際に、「井戸に毒を投げ入れた」「民家に火をつけた」「この機会に乗じて革命を起そうとしている」という噂が流れると、不安が一気に極限まで高まり、蛮行にまで至ったのだ。
 芥川は上の文章を書いたときには、殺戮の事実についてはあまり詳しくは知らなかったのではないかと思われる。知った上で「もし万一信じられぬ場合は、少くとも信じてゐるらしい顔つきを装はねばならぬ」などというアイロニカルな一文を書いたのだとすれば、かなりタフな神経で、この作家の繊細なイメージに合わない。いや、それもまた根拠のない印象論だな、とすぐに反省されたので、さておくとして、彼はここで「同調圧力」についてまことにうがった見方を示している。

 構造の部分を考えると、こうだろう。
 ある噂が流れる。最初誰が言ったのか、わからない。複数の場所で、大筋では同じ話を聞く。「聴いた話」として、自分でも言ってみると、「それ、俺も聞いた」という者に出会う。そのうちに、それは「みんなが言っている」ことになる。「みんな」の実数は五、六人のこともあるが、それでも、前述した信憑性があり、さらに「公共性」まであるような気になる。伝達ゲームの過程で、比較的想像力豊かな者が、新たな話・イメージを付け加えることもある。こんなふうにして、雪だるまが膨れていく。
 そうなっても、公的機関や大手メディアが何も言わないとしたら、それはどこまでも内輪話の性格を保ち続ける。実は、これにも噂にとっては都合が良い条件になり得る。事実はどうか、なんて面倒な検証とは縁がなく、仲間内の雑談として気楽に喋れる感じになるから。
 そう、こういうのは仲間同士の話なのだ、というか、元々の仲間ではなくても、話を共有する、それも、「まあ、そうなの」「へええ~、そんなことが」という感じで聞いてくれるなら、即席で、その場限りでも、仲間になる。
 そして、仲間同士の「」ができるなら、同時に「」もできる。共同性は必ず、排他性を含む。この場合の「外」とは、もちろん、身近にいながら、この話を全く信じないか、「それは本当か?」などと真顔で訊いて、なかなか納得しない者のことである。そういう不穏分子から共同性を守るべく、この仲間の結束は固くなり、一方で、仲間ではない者を排除する傾向も強くなる。これらは、共同性という同じ盾の表と裏なのである。
 関東大震災の時は、単なる「仲間はずれ」ではすまなかった。何しろ、危機は眼前にある。これに対処するという大義名分もある。実際は、普段は仕方なく抑制している暴力衝動を発露できる絶好の機会だという暗い情動も、かなりの部分を占めているだろうが、それはもちろん禁句。行動はしないまでも、話を信じる、最低でも信じている顔をするのが、共同性に忠実な「善良なる」者であり、そうしようとしないのは共同体の共同性に背く背信者、即ち「悪しき」者である。このような心理が、広い範囲に受け入れられ、ついに恐るべき蛮行まで引き起こしてしまった。
 もちろん、当時の東京でも、全員がこんな状態に陥ったわけではない。菊池寛も、それから芥川も、朝鮮人陰謀説など全く信じていなかった。それが昔も今も「良識」というものだ。しかし普段なら当たり前の良識、否むしろ退屈な常識が、危険とみなされることも、最悪実際に攻撃が加えられることさえある。通常の市民社会の中に、もう一つの社会ができて、の境界が変わってしまったからだ。自分は全く動いていないのに、世の中のほうが「兎に角苦心を要する」場所になってしまうことがあるのだ。

 どうすればいいのだろう? 共同体を離れて生きられる人などいない。我々は皆、共同体のエートス(一定社会の倫理・慣習・行動様式)の中にいて、それを自分の中に取り入れて「」となる。こういう普遍的な事情に対して、自分の立場をいちいち反省して、それに基づいて行動したりするのは、かなりのストレスになる割には、実効はあまり期待できない。たいてい、周りから、「変わり者」と呼ばれて終わり。上述のような危機的状況になったら、なんとか逃げ道を見つける必要はあり、そのために「変わり者」ポジションは有利なようにも思えるが、実はそれも怪しい。かえって、普段から怪しい奴なのだからと、真っ先に攻撃衝動が向けられる恐れもある。
 では、根拠のない話は信じない? しない? 難しいですね。私など、根拠のあやふやな話はするなと言われたら、今の半分も喋れなくなってしまうでしょう。それはきっと、我慢できない(笑)。
 では? これならなんとかできるし、大事かな、と漠然と思うことは以下です。どこかに悪辣な陰謀家や宣伝課がいて、私たちをダマそうとしている、と用心するのは良い。しかし、悪なる存在は世界のどこかにいて、我々はダマされることはあっても、全く潔白な、「善良なる市民」なんだという思いがあったら、できるだけ軽くしたほうがいい。主観的には確かにそうでも、無自覚のうちに、害のある思いに囚われ、さらにそれを広めているかも知れない。言葉を覚える以前の赤ん坊でない限り、誰もが完全に無罪ではあり得ない。
 そう心得ておけば、最悪の事態を回避するには、いくらか役に立つのではないかと思うのですが、どうでしょうか?
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最強の言葉には顔がない・中

2023年08月14日 | 倫理


メインテキスト:高田博行『ヒトラー演説 熱狂の真実』(中公新書平成26年)

 最初に、プロパガンダとは「他人にあることを信じ込ませる説得術」だと言ったが、現在この定義は修正ないし補足したほうがよいように感じられる。「説得」には、「理を尽くして相手を納得させる」ことだという含意があるが、大衆を相手にした場合、「理」は、あるにはあっても、あまり目立たせぬようにしたほうがよい。人間は理屈より感情に動かされやすい。集団になればますますそうだ。戯曲「ジュリアス・シーザー」はその具体例を示している。そしてプロパガンダが社会で重視されるようになったのは、19世紀以降、大衆が社会の表面に本格的に現れるようになってからだ。
 ここでは人の感情に訴える、いわゆる胸の琴線に触れる言葉(視覚的イメージを含む)こそが主流になる。それは愉快なものとは限らない。不安や焦燥を掻き立てるものもある。なんであれ、心を動かし、購買や投票のような、一定の行動にまでつなげることを目指す。ここでの宣伝家は、説得者と言うより扇動家というほうが相応しい。
 なぜそんなことが必要とされるのか? そのモノなり人なりに、本当に価値があるなら、特に何もしなくても自然に認められるはずではないか? と、言ってみると、ただちに「なかなかそうはいかないな」という苦い思いに囚われる。だいたい、ここで言う価値とは、かなりの部分、人が心に抱く価値観のことで、つまり主観的で、相対的だ。ある行為が正義感の発露か、許しがたい裏切りか、少し観点を変えれば正反対にもみえてしまうことも稀ではない。

 もう少し細かく言おう。モノ本来の価値はある。空気や水がなくては困るにことは誰でも知っている。ただ、いつでも手に入る限り、その価値は特に意識されないだけだ。一足す一は二と同じような、退屈な真理というに過ぎない。しかし環境活動家が言うように、空気が汚染されるとか乏しくなったりすれば、大問題だ。その恐怖や危機感があるなら、空気も商品になり得る。二酸化炭素の排出量を権利として売買するアイディアはそれに近い。
 一方水は、現に乏しい地域はある。「砂漠で水を売る」ようなもの、という言い方がビジネスの世界にはあるらしいが、それは昔から日本にある「濡れ手で粟」に近い。絶対的な需要があるのだから、必ず売れる、ということ。しかし実際にはそう簡単にはいかない。そんなにおいしい商売なら、やりたがる人間はたくさんいる。その間に競争が生じる。政治的な制約がないとしたら、「神の見えざる手」が働く、自由市場が形成されるわけだ。そこで水は商品として、価格・品質・輸送速度・売る側の信用、などが他より多く売る条件になってくる。ならば、それらの情報を伝える活動にもまた、必要性が生じる。古典的な宣伝活動の始まりである。

 大衆社会では、モノが大量に、多様に作られる。そして、空気や水のような、それがないと誰もが生きていけないというほどの必需品でなければそれだけ、実利からは少し離れたイメージが重視されるようになる。加えて、TVが各家庭にあるのが当たり前になってからは、視覚的な、見かけのイメージは直ちに、大量に伝達される。
 バブルの頃は、「自動車はデザインで売れる時代」などと言われた。どんなにかっこいい車でも、乗ったらすぐに壊れる製品がそんなに売れるとは思えないから、それは言い過ぎであるにもせよ。と、いうか、10年乗ってもまず一度も故障しない製品を作る高い技術力が普通になった上で、新たな付加価値として、「見かけ」の重要さが全面的に出てきたのである。
 需要と供給のどちら側が先にそうしたかはわからない。需要に応じて供給はなされるが、新たな需要を作って新たな供給への道を開かなければ、経済発展はない。そして、新たな製品や性能を開発するより、イメージを更新するほうが容易ではある。そこに需要が見つかるなら、作って売る側も重視せざるを得ない、といった、いわゆる卵―鶏関係が認められるばかりだ。そこで宣伝広告は、商品の優れたところを伝えるだけではなく、イメージをアピールし、時には作り出すものとして、かつてより大きな地位を占めるようになった。

 もう一つ留意しなければならないのは、品質や性能については虚偽の広告はあるが、イメージにはそもそもそれはない。
 昭和44年、丸善石油(現コスモ石油)の「Oh! モーレツ!」というTVCMが放映された。車の通過音の直後にミニスカートの裾が捲れ上がり、そこにオフ・スクリーンの「Oh! モーレツ!」という声を重ねる。性的な刺激の露骨な押し出しで、今そのまま使うのは難しいだろう。【平成13年にリメイク版が作られたが、下着に見える部分はギリギリ隠された。】当時もたぶん問題視されたろうが、それより「猛烈なダッシュ」というキャッチ・コピーが誇大広告の例としてどこかが公にやり玉にあげたのを、NHKのニュースで見た覚えがある(するとますますこのCMが世に知られる結果になるのだが)。何が猛烈で何がそうでないか、客観的な基準などあるわけではないのに、誇大と言ってもどうなんだろう、と当時中学生だった私は思ったものだ。
 嘘と言えば、車がどんなに速く走っても、上昇気流が発生するわけではないから、外にいる女性のスカートが捲れ上げるなんてまずないが、そんなの面白いツッコミにもならない。だいたいこのCMは、当の製品であるガソリンが、セクシーだと言うわけではないのはもちろん(笑)、車に優れたダッシュ力を与えると言うわけでもない。そのような「主張」は。時に押しつけがましくて鬱陶しく感じられるから、「本当にそうか?」「言うほどのことはないじゃん」というような疑念や反発を招く可能性がある。
 それは避けて、セクシーで軽快なイメージの「奥」にあるものとして、製品を提示して見せた。それが売り上げにどれくらい貢献したかは知らないが、高度成長時代初期の社会風潮を端的に表現したものとして、本作は日本CM史上屈指の有名作品になっている。

 人間にイメージを纏わせる場合でも、同じような手法は用いられる。モデルやタレントなら、イメージ自体を売りものにするから、それで充分。例えば上のCMで主演を務めてセクシーさが強調された小川ローザは、これ一本で有名になった。
 他の分野で、特に多くの人を動かそうとするなら、さすがにそれだけでは足りない。何ができるのか・できそうか、は必ず問題にされる。そのため、彼らの人格や能力の大きさを語る言葉が使われる。「彼は公明正大な人間だ」とか「彼女なら難しい仕事を成し遂げる力がある」など、抽象的に言われてもそんなに説得力はない。
 過去の実績が具体的に語られるに如くはない。マーク・アントニーの語ったシーザーの逸話から、現在だと「東大法学部を主席で卒業した」とか、「他の社員の三倍の売り上げを達成した」などなど各種あり、並外れたものは「伝説」などと呼ばれる。信憑性からすると、実態が強調されたものから誇張されたもの、さらに完全なデタラメまであるが、一番の問題は説得力だ。そこに加えて、彼/彼女の身体像や話し方などの現在のイメージが重なって、最もうまくいった場合には、カリスマ性と呼ばれるものを生む。
 これを中核とした集団は、「預言者や──政治の領域における──選挙武侯、人民投票的支配者、偉大なデマゴーグや政党指導者の行う支配」の下にあるものだとウェーバーは言っている(前掲書)。
 この中では預言者(神の言葉を伝える者)に拠る宗教団体が最もそうなりがちである。政治的・経済的な集団は、権力や利益などを追求するという明確な目的があるので、構成員相互の連帯感はそんなになくても、存在価値は認められる。宗教は現実の代償を求めるものではない。もっとも、現世利益を約束する教団もあるが、そのやり方は「祈り」に拠るので、個々人でやるしかなく、集団の必要はない。そこで一番重要なのは信仰を同じくする者同士の支え合いであって、それなら信徒同士の、中でも中心にいる人・教祖への信頼は正に肝心要になる。
 そうは言っても、現在時折メディアに登場する教祖にはそんなにカリスマ性は感じられない、と思う人はいるだろう。内部の人の目にはどう映っているのか、よくわからないが。その点では、大昔に起源を持つ大宗教はとても有利で、開祖が超人的な能力を発揮したことになっており、基本的なイメージ形成はもうできている。後の人は、それを「受け継いでいる」と言えばいい。「処女から生まれ、死人を甦らせるなどの数々の奇蹟を行い、処刑されたが三日後に復活した」などは代表例。「そんなのは科学的に不可能だ」なる批判は、今更、と自然に思えるくらい、この伝説は信徒以外の人にもよく知られていて、それだけでも一定の力を持つ。
 ここでは開祖は伝説を纏っているというより、伝説そのものであるわけで、ならば生身の肉体はもうこの世にないほうがいい。人間は、生きて活動している限り、好むと好まざるとに関わらず、人間的な弱点を曝け出しがちなものだ。麻原彰晃のウリだった伝説の、空中浮遊は、彼が東京拘置所に入れられたら、「なんで空を飛んで脱出しないんだ」という、多少は面白いツッコミのネタになってしまう。
 それより、ソクラテスやシーザーやイエスのように、非業の死を遂げたほうが、自身の聖化にはよほど役に立ったろうが、信者や教団に対するそこまでの親切心はなかったようだ。

 20世紀最大の悪夢の一つであるナチス・ドイツを考えるためにも、上の視点は抑えておくべきだろう。
 アドルフ・ヒトラーは「偉大なデマゴーグや政党指導者」としてのカリスマの典型だ。そのイメージは「戦う者」だった。ドイツ国民にとって、第一次世界大戦での敗北は、それ自体が屈辱だし、その後のいわゆるベルサイユ体制下で、戦勝国であるヨーロッパ各国による経済的軍事的な締め付けから、現に苦しめられていた。そこへ、ニューヨークに端を発する大恐慌の波が押し寄せたのだ。安定した生活を取り戻すためには、思い切った行動が必要だと自然にみなされるようになった。
 敵は内部にもいる、国際金融資本の手先として、ドイツの民族的団結を妨げるユダヤ人がそれだ、と言われた。これらすべてと断固として、妥協なく戦うこと、ドイツの栄光を取り戻し、より輝かせること、それができるのはヒトラーしかいない。そう自分で言い、またヨゼフ・ゲッペルスたちの卓抜な宣伝によってこのイメージを浸透させるところに、ナチスの最大の政治戦略が置かれた。
 つまり、反対側のマイナス・イメージを強調して、こちらにプラス・イメージをつけるやり方、というと、高等テクニックのように思えるかも知れないが、国政レベルなら政治家は、程度の差はあれ、たいていやる。ジョー・バイデンの支持には、反ドナルド・トランプ感情がかなりの部分含まれているだろうし、現代日本の野党には反自民以外の存在意義を見つけることは難しい。
 中でヒトラーがずば抜けていたのは、まず彼自身の個性による。彼はオーストリアの出身で、ドイツとオーストリアは統一されるべきという大ドイツ主義者であり、1938年にはそれを実現した。ただし第一次世界大戦に従軍する以前には、一所不在で定職もないニートだった。つまり、彼は何者でもなかった。
 何者かになろうとしたとき、一気に跳躍して、ドイツの運命と一体化することに自己の根底を見出したのだろう。普通なら誇大妄想で終わるしかないものを実現するためには、宝籤の特賞に当たる以上の運(あるいは、不運?)と、政治家としての才能も努力もあったことは認めねばならない。
 しかし何より大きいのは、ルサンチマンをバネにして出てきた熱狂だろう。それは熱心な愛情、この場合は愛国心、にも見えてしまう。もっとも、すべて主観の話なのだから、ヒトラーは120%の愛国者であったと言ってもまちがいとは言い切れない。いずれにしろ、例えば彼の演説の力は、その内容よりもはるかに、溢れ出る熱気から出ていることは明らかである。
 宣伝相ゲッペルスはヒトラーを心から敬愛していた。1945年5月1日、前日に自決した総統を追って、家族と無理心中を遂げた。こういうことをしたナチス高官は他にはいない。
 その彼がやったことは、ヒトラーの理想を全国民に広げ、もってドイツ全体を、さらには全世界をヒトラーのものにしようとすることだった。そこで彼は当時可能なあらゆる媒体(メディア)を宣伝に利用した。ヒトラーの政治活動開始とほぼ同じ時期に拡声器が発明され、大群衆にまで演説の言葉を届かせることができるようになっていた。次にラジオは、かなり高額だったのを、ゲッペルスは自分が資金を出してまで安価な製品を作り、家庭でも彼らの言葉が聞けるようにした。さらに新式なメディアとして映画があり、旧来の新聞やポスターももちろん活用された。

 そこでのプロパガンダの基本理念の点では、二人はほぼ完全に一致していた。大衆は原始的で、移り気で、忘れっぽい。だから長々と理屈を述べて説得しようなんて無駄以上に、有害でしかない。そんなのには直に飽きて、聞かなくなってしまい、ひいては語る者への愛着も信頼もなくなってしまうだろう。そこで大衆を動かすために心得ておくべき原則については、彼ら自身の言葉もいろいろ残っているが、私なりに簡単にまとめると、次の三点になる。①目立つこと、②単純明快であること、③繰り返すこと。
 例えば「永遠のユダヤ人」という紅いイタリック体の太文字に、黒服でキッパ(ユダヤ帽)を被った顎髭の、ステレオタイプのユダヤ人を描いたポスターを見よう。元は1937年にミュンヘンで開催された政治ショーのためのもので、1940年には同名の映画も作られ、その宣伝にも同じ絵が使われた。両方とも制作者はゲッペルスである。
 この戯画中のユダヤ人は右手の掌に金貨を載せ、左手には鞭を持ち、左の上腕か脇の下には、ソ連の地図を象った上に鎌とハンマー(共産主義のシンボル。上に星をつけるとソ連の国旗のデザインになる)が描かれた瓦礫が突き刺さっているように見える。当時のドイツ人にはその寓意はすぐにわかったろう。「永遠のユダヤ人」とは別名「さまよえるユダヤ人」というヨーロッパの伝説中有名なキャラクターで、刑場に牽かれていくイエスを嘲った罰で、再臨の日まで死ぬこともできず地上をさ迷い続けなければならない。この呪われた者のイメージに、金と支配と共産主義のシンボルを重ねる。目立つし、メッセージも明確で紛れはないが、言葉の持つ押しつけがましさはない。
 同じような絵柄の画像は今でもざらにあり、つまり宣伝手法としてはまだ有効ということだ。これらと、演説の肉声、新聞の文章、映画の映像などで、ナチスこそ悪を打倒する正義のヒーロー、のメッセージはドイツとその支配地の隅々まで浸透したろうか。大成功だった、だからナチスの暴走は止まらなかったのだ、という見方が一般である。

 必ずしもそうは言えないと論じたのが『ヒトラー演説』である。それによると、1932年に国会で第一党になった時が彼らのプロパガンダ活動の絶頂期だった。ヒトラーは選挙運動のために軽飛行機に乗ってドイツ全土で遊説した。ラウド・スピーカーによる大音量で響かせる言葉と、高揚した口調、大仰な身振りを総合したパフォーマンスは、大勢の人を魅了することができた。これによってナチスは政権を手中にした、と言っても過言ではない。
 が……。早くも翌34年には、ヒトラーを揶揄する声が民衆の間からけっこうあがっていたことを伝える秘密警察の報告が残っている。
 一つには、明らかなやりすぎがあった。ゲッペルスのおかげで普及したラジオから、毎日のようにヒトラーたちの言葉を聞かされたのでは、いくら表現を換えて「ヴァリエーションをつけた反復」を心がけたとしても、内容は結局同じなので、そのうちには「擦り切れ」てくるのは避けられない。それが言葉による説得の、免れがたい宿痾である。もっとも、ナチス側からすれば、自分たちのメッセージを充分に浸透させるためには、その疵には目を瞑るべきだと考えていたのかも知れない。
 もう一つ、媒体がどれほど多種多様であっても、メッセージは結局は一つの方向から、究極的にはヒトラーその人から来ているのは明らかで、彼から人間的な弱点が綻び出た場合には、それだけ信用は失われる。
 政権奪取後は、ます首相として、34年以後は大統領も兼ねた総統として、ドイツの現状を説明する義務も生じたが、そういうときの演説は、今も日本の政治家がよくやる、原稿をただ読み上げるだけの熱のないものとなった。攻撃に強い者が守りに回ると弱いと言われることの典型で、これも幻滅を与える一因となったろう。
 対抗手段としては、ヒトラーを中核とした強固な団結心を形成することが一番だろう。
おそらく最も悪魔的で効果的だったナチの宣伝戦略は、恐怖アピールとグランファルーン法を結びつけたものだろう」と、『プロパガンダ』にはある(P.296)。恐怖アピールはこれまで述べた、ユダヤ人や共産主義者への恐怖心を煽る手法。グランファルーン法とは疑似共同性を作ること。同書でとりあげられているのはヒトラー・ユーゲントの制服や集団訓練の例だが、これはあくまで特別な集団である。
 広い範囲を対象にした場合には、演説なら、折々あがる聴衆の大歓声が、さらに集団行動時のシュプレヒコールや行進で醸し出される、高揚感と一体感が最も有効な手段となる。集団内の信頼感に基づく連帯と違って、言わば身体的な感覚だから、直ちにイコールふだんの共同性になるわけではないが、傍で見ていたり映像で見たりしただけでも、「一丸となる」こと自体の愉悦は伝わるだろう。時には「サクラ」を使ったりして、うまく組織できさえすれば、権力の強固な基盤になりそうから、今でも、野心的な政治家や宣伝家は熱心に研究していることだろう。
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最強の言葉には顔がない・上

2023年07月29日 | 倫理

Julius Caesar in Flint Hills Shakespeare Festival in 2016

メインテキスト : A.プラトニカス/E.アロンソン『プロパガンダ 広告・宣伝のからくりを見抜く』(原著の出版は1992年。社会行動研究会訳、誠心書房刊、平成10年)

 令和4年7月の言語哲学研究会において、小林知行さんのレポートで、上記をテキストに読書会を開いてから1年経った。その時の出席者だった河南邦男さんからこの題材に関して小林さんに意見を述べるメールを送り、受け取った小林さんが藤田貴也さんと由紀草一にも意見を求めるべくそれを転送したのが昨年末。由紀草一がこれを受けて、テーマとしてたいへん重要なので、できるだけ広い範囲から意見を求め、プロパガンダ再考」としてもう一度研究会を持つように、小林さんから会員に呼びかけていただいた。残念ながらこの呼びかけへの応答はなかった。皆さんそれぞれお忙しいのだから、仕方ない。しかし本年6月30日、藤田さんからこれに関する本格的な論考をいただいた。これで最後に由紀草一が愚考を述べれば、最初に小林さんが考えた意見交換の範囲はカバーされる。やらなかったら、義理が悪い、だろうな、やっぱり。
 のみならず、藤田さんの論考は、狭義のプロパガンダから推論の一形式としてのアブダクションから、現在SNSを中心に広がる陰謀論といった、言語の問題を広く深く考察したものであった。あるいは「プロパガンダ」というテーマからすれば逸脱、とも見えるかも知れない。しかし、私見では、重要な言語問題につながるものである以上、いっこうにさしつかえない。
 これに元気づけられて、私も、現在いよいよ大きな問題になっていると思える言語状況について以下に云々してみよう。それで、最初に投げかけられた問題からは離れすぎていて、混乱を招くばかりだ、と読む人に思えたら、それはそれまでの話として。
【上記の各文は以下のリンクで、ネット上で読めます。
 小林知行「【日曜会・言哲】2301プロパガンダ プロパガンダ再考に向けた改稿」
河南邦男「再読:プロパガンダ」
藤田貴也「プロパガンダ再考:アブダクションと陰謀論」

 プロパガンダの核心を「他人にあることを信じ込ませる説得術」のことだとすれば、古代ギリシャからある。ソフィストと呼ばれる弁論の専門家がいた(B.C.5世紀頃)。ソクラテスが彼らを、真理を歪める者として嫌ったことは有名だが、そのソクラテス自身が、黒を白と言いくるめる詭弁術の大家だと、同時代の劇作家アリストパネスに批判されている(「雲」)。西洋だけではない。チャイナの戦国時代(B.C.3世紀頃)には、蘇秦、張儀、といった縦横家、後には名家(諸子百家)とも呼ばれる弁論術の達人たちが活躍した話は「史記」にある。
 文明が発達すれば言葉も発達する。現実の何とどう結びつくのかよくわからない抽象語が増えていく。比喩(メタファー)と言われる観念連合を使ったいわゆる文学的な言い回しも出現する。「飛んでいる矢は止まっている」「白馬は馬ではない」なんぞと、逆説という、言葉の曲芸をしてみせる者さえ現れる。
 かくて、言葉は結局何を伝えようとするのか、よくわからなくなっていく。弁論術の専門家とは、むしろそれをいいことにして、言われていることが本当(真実)であると思わせる者たちだが、一方、洋の東西を問わず、「口舌の徒」というと、なんとなく信用がならない者とのイメージがつきまとうのもゆえなしとはしない。

 とは言い条、言葉はコミュニケーションの中心ではあり続けた。言葉は知識を集積し、それを伝達する手段として欠くことのできないものではあったから。知識の伝達は教育と呼ばれ、文明が複雑化するにつれて、そのための施設、つまり学校が出来上がり、子どもはそこへ通うのが当たり前になり、などで、言葉の地位は確固たるものになった。
 教育とプロパガンダはどこが違うのだろう? 
 学校教育に限定して言うと、一番は、他人に信じ込ませようとする「あること」が「真理」であることが疑われないところだろう。これ自体がけっこう怪しいことは、『プロパガンダ』にある。
 学校で教わることは純粋で客観的で主義主張のバイアスがかかっていないものであると信じられている。しかし、例えば小学校の算数の教材を見てみよう。そこでは労働や品物の売買、金を借りた場合の利子のことが書かれている。これは、この資本主義社会における金銭の流れをただ反映しているだけではない。「系統的にそのシステムを支持し、正当化し、当然で標準的な方法であること」を無意識のうちに生徒に刷り込むものだ(『プロパガンダ』P.252。以下ページ数はすべて同書から)。
 これは非常に微妙で困難な問題なので、この内部には踏み込まず、周辺的なことを考えておこう。知識伝授の過程で、必ず他の事柄(一定のイデオロギーや社会通念)も伝えてしまうにもせよ、やはり純粋な知識はある。それを習得しない限り、人はこの社会では生きられないし、そんな人が増えたのでは社会が成り立たなくなる。だからやはり、知識伝授の必要はある。
 一足す一は二だ。地球は約24時間で地軸を中心にして一回転する。それを疑ってどうしようというのか。午前9時は誰にとっても午前9時でなければ、共同作業は成り立たない。もっとも地球には時差があるが、それを具体的に意識しなければならぬほどのスピードで実際に人が移動できるようになる頃には、グリニッジ標準時を基準にした全地球の日時の決め方は定まっていた。それを全部覚えている人はごく稀だろう。日本の午前9時はニューヨークの何時に当たるか、即答できる人は、それよりは多いだろうが、社会の多数派ではないだろう。多くの人にとって日常的に必要な知識ではないからだ。必要が生じたら、今ならインターネットなどの手段で、すぐに知ることができる、ということを知っているだけで充分なのだ。
 ところで、上記のようなことを私はいつどこで習ったのだろう。親からか教師からか知人からか、あるいはTVからか、本からか。もう忘れた。これもまた、最も広い意味の教育の強みである。近代の学校の教師は、主に実際の生活とは直接関係のない知識を教える専門職だが、その権威も結局のところ、知識の、つまり真理のそれに依っている。それはそうだ。ある教師が一足す一は二だと言い、他の教師が一足す一は三だと言うなら、そして、どちらが正しいか決定する手段がないのだとしたら、そんな知識は真理ではなく、覚える値打ちはない。「誰が言ったか」は二次的な意味しかない、ということだ。
 以上が教育の強みである。「人を説得しようとすること」だという点ではプロパガンダと共通するが、基本的に、誰が、何を目的として言っているか問題とされないところは対極的なようだ。別の見方からすると、教育は理想のプロパガンダと言える。伝えられることが意図ではなく、真理だと納得させることができたならば、説得はもう成功している。そのためにはどうしたらいいか、人は頭を絞るのだ。

 動機についてはどうか? 説得が、善意から出たものか、それとも悪意からか。これは依然として大きな問題で、また教育とプロパガンダを分かつポイントではないか。
 実際、最初からこちらを陥れようとするプロパガンダ、いわゆる詐欺は昔から今まで絶えることはない。インターネットの普及以後は「あなたに~千万のお金をさしあげます」といったなかなか笑えるスパム・メールもよく届くようになっている。つまり、インターネットは、真理と同じくらいかより多く、嘘も伝える。これは言葉を使う人間が変わらない限り、変わりようがない。もちろんごく素朴なものから、もっと手の込んだ説得術を駆使した手口もたくさんあり、油断はならない。『プロパガンダ』の第5章には、人をうまく乗せようとするやり口のサンプルが列挙されていて、とても有益である。こちらは文章による教育と呼ばれるべき、か? つまり教育は動機も効果も良きもの、か? そうかも知れない。
 難しいのは、良い動機からした説得でも、悪い結果を招く場合が決して少なくないことだ。「良き意図が良い結果しかもたらさないと考える者は、政治のイロハも知らない」と、マックス・ウェーバーが言っているとおり(「職業としての政治」)。意図したことが必ず意図通りに実現するものなら、政治と呼ばれる営みの多くが必要なくなる。少なくとも政治家という専門職は不要になるに違いない。
 ソクラテスは近代学校制度以前の優れた教師と言っていいが、彼の言説が若者に悪い影響を与えたというのは、部分的には本当だろう。一方、ソクラテスに死刑判決を出した方は、アテネの若者に、ひいてはアテネの未来に害をもたらす者を除こうとする純粋な愛郷心にかられたのかも知れず、あるいは邪な利己心にかられていたのかも知れない。そのへんはどれくらい自覚されていたろうか。
 人間は全知全能ではないどころか、自分の心についても完全にわかっているとは言えない。言葉は嘘もつく。それは、自分自身を騙すためにも使われる場合がある。そしてどうであれ、ソクラテスの刑死というような、一定の結果は出る。
 詐欺は、意図が明確なだけ、このような面倒は少ない。その意図が明らかになることが即ち企図の失敗を意味して、紛れがないからだ。

 ここで説得される側に目を移すと、ソクラテスが語ったのは彼に惹かれて集まってきた若者たちだし、蘇秦たちは王たちに献策して歩いていた。誰に聞かせるために喋っているのかは明らかだったということだ。一方ナザレのイエスや釈迦牟尼ら、宗教者の説法は、対面ではあっても、不特定多数の聴衆に向けたものであったろう。近代以降では、政治の分野でも、民主制なら、この活動は不可欠になる。古代にも、奴隷つきではあっても、民主制はあったから、その実例を見つけることはできる。
 B.C.44年、ローマの政治家にして武将のジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)が暗殺された。当時のローマは共和制だが、シーザーの実績と人気は大きく、終身独裁官になっていた。現ロシアの終身大統領・プーチンみたいなものだと思えばいい。シーザーはさらに、主権(sovereign power国家のことは自分の意思だけで決められる)のある 帝王になろうとしたのだと疑われ、共和制主義者たちの刃に斃れたのだった。
 1599年、ウィリアム・シェイクスピアはこの事件を基に悲劇「ジュリアス・シーザー」を書いた。タイトル・ロールのシーザーはあまり登場せず、途中(全五幕中第三幕第一場)で死んでしまう。主人公は彼の暗殺者のプルータスで、シーザーの腹心マーク・アントニーとの演説合戦、即ち言葉による戦いが、劇の最大のクライマックスになっている(同第二場)。シェイクスピアは材料をほぼ完全に「プルターク英雄伝」に拠っているのだが、構成と言葉(台詞)は自身の創作であり、歴史的な事実には拘らず、大衆に自らの意図を届かせる説得術という政治の要諦の一つを、迫力をもって描き出している。
 シーザーを殺した後のプルータスの言葉は簡明だ。「おれはシーザーを愛さぬのではなく、ローマを愛したのである」(福田恆存訳。以下同じ)。
 内容は、この力強い格言風の言い回しがすべてだ。少し広げて言うと、シーザーはまことに優れた人物であって、私も彼を敬慕する点では人後に落ちない。しかし彼は、個々人の自由を重んじるローマ人にとっては最も忌むべき存在、即ち帝王になろうとした。この野心によって彼は死なねばならぬ者となったのだ。
 この結論を聴衆(ローマの自由民たち)に伝え、理解を得るために、プルータスが採った手段は、「誰にせよ、このなかに、みづから奴隷の境涯を求めるがごとき陋劣な人間がゐるだらうか? もしゐるなら、名のり出てくれ、その人にこそ、私は罪を犯したのだ」。これとほぼ同じ内容を、最後の「もしゐるなら」以下は言葉もほぼ同じで、三度繰り返すこと。よく知られた反復による強調(P.155)に、疑問形で言われることで、「自己説得」(P.141)と呼ばれる技法も使っていることが認められる。正面から疑問がぶつけられるのは、答えを強要されるのと同じである。それでもその答えはやっぱり自分で出したものだ、と思えるから、納得するしかない。そうではないか? 
 しかもこの質問は、「お前は陋劣な人間か?」と問われているのと同じなので、なかなか「そうだ」とは言えない、という「恐怖アピール」(P.185)も少し入っている。かくしてプルータスは市民から「そんな奴はゐない」という答えを得て、彼の主張は一時的に受け入れられた。
 しかし、後ですぐにわかるように、説得術という観点から見ると、彼の演説は拙劣なものだった。だいたいプルータスは、術を弄しているつもりはなかった。
 『プロパガンダ』中に示された分析・分類は有益だが、あらゆる学問・科学がそうであるように、後付けである。文法以前に言葉は存在していたし、人を説得する必要性も生じていたことはまちがいない。あまり親しくない人に何かを信じさせようとするなら、言葉に頼るしかない。プルータスはこの事情に充分に自覚的ではなかった。彼は詐欺師とは正反対の、自他共に認める公明正大の士だったからだ。意図を隠したり飾ったりするのとは真逆に、自分の真意を伝えることこそが関心事だったのだ。
 それで彼の言葉は、いわゆる上から目線の、傲慢さを纏ったものになった。たぶん、自身の親や師や先輩たち(その中にはシーザーも含まれるかも知れない)の自分に対する語りと語り方を無意識のうちに倣ったのたろう。彼は、すべての大前提である「シーザーは帝王になろうとした」のは事実であると論証しようとさえしなかった。
 根拠として言われたのは、「私の人格にたいする日頃の信頼を想ひ起してくれ」、つまり、人格者たる自分が言うのだから、それは真実だ、とばかり。自分が公明正大であることは自分が一番よく知っている。他人もそう認めているはずだ、と確信するまではいかなくても、そう信じる、言わば権利がある、とは思い込んでいたろう。
 そしてこの自信は、彼の言葉に力を与えたろう。その場にいた誰もが彼を信頼した。けれどこのような信頼はイメージに過ぎず、移ろいやすい。「チャンピオンが口にするのを食べる」(P.103)ように導く宣伝広告はCMが始まって以来絶えたことはないが、タレントや有名アスリートのイメージを商品につけられるのも、イメージそのものが元来無根拠でいいかげんで、さらにそれでもいいと認められていればこそではないか。
【それに、専制より自由のほうがよい、という価値観自体、現代の自由主義国ではそう教育され、真実とされているが、この時代でもそうだったとは限らない。現にローマは、B.C.24年にシーザーの養子が初代皇帝に即位すると、西ローマ帝国だけでも、A.D.476年まで帝制は維持された。】

 マーク・アントニーは、プルータスの論敵として、その論拠のなさを突けばよかった。ただ彼は、議論を申し出るのではなく、プルータスの後でシーザー追悼の演説をさせてくれ、と言うので、最初から意図を隠した詐術を使っていた。
 だいたい、議論なら、後から喋るほうが有利であることは、よく知られている。そこでアントニーは、論理、即ち理屈を弄したり、プルータスらシーザーの暗殺者たちを正面から非難することは避けた。代わりに、シーザーのエピソードを挙げた。
 「生前、シーザーは多くの捕虜をローマに連れ帰つたことがある、しかもその身代金はことごとく国庫に収めた」「貧しきものが飢えに泣くのを見て、シーザーもまた涙した」「過ぐるペルカリア祭の日のことだ、私は三たびシーザーに王冠を捧げた、が、それをシーザーは三たび卻(しりぞ)けた」。
 これらはすべて事実と言えるかどうか、わかる者はほとんどいなかったろう。たとえ事実と呼ばれ得るにしても、二番目の「貧しき者が」云々など誇張があるかも知れず、三番目のは野心を隠して実現し易くするためのよくある政治的なパフォーマンスだったかも知れない。しかし、確実に見せかけだ、と断言できる者もいないから、とりあえず素直に聴くしかない。
 その上でアントニーは、その事実に反するものとして、必ず「が、プルータスは言う。シーザーは野心を抱いていたと。そしてプルータスは公明正大の士である」と付け加え、これを三度繰り返す。反復は、ある主張を大衆に浸透させるために有力な手段であることは、ヒトラーやナチスの宣伝相ヨゼフ・ゲッペルスも認めるところだが、やみくもにやればいい、というものではない。私たち大衆は、確かに忘れっぽいし、初めて見聞きするものより慣れ親しんだものに好意を抱きがちだが、反面飽きっぽくて、慣れたものは軽視する傾向もある。後者は「擦り切れ」と呼ばれる現象で,これを防ぐには「ヴァリエーションをつけた反復」、つまり基本的に同じ情報でも目先を変えることが効果的である(P.160)。現にプルータスも、「ローマ市民なら、帝王は認めないはずだ」という主張を、言葉を換えて繰り返している。
 短時間で、同じ人間が、同じ言葉で繰り返すなら、聞く人はむしろ不快感が強くなり、言われていることの内容も陳腐に思えてくる可能性がある。さらに、その言葉「シーザーには野心があった」の前に、反証になる事実を置いて、疑念を生じさせる。かなりの高等テクニックで、プルータス自身をほとんど知らず、「人格者だ」という評判だけで納得していた人に、「本当にそうか」と反省させる力はある。

 大衆扇動家(アジテーター)としてのアントニーの真価が発揮されるのはこの後である。シーザーの部屋で遺言状が見つかったと告げる。本物だとしたら、暗殺を予想もしない時期に書かれたのであろう。読んでくれ、と当然要求されるのに、アントニーはなかなか応じようとしない。それではプルータスたち立派な、シーザーの暗殺者たちを誣いる(誹謗する)結果になりはせぬかと恐れる、とか言って。
 聴衆をじらすわけだ。この技巧は『プロパガンダ』中には直接挙げられていないが、希少性・入手困難性(P.220~221)を仄めかし、遺言状の中身の価値を期待感によって心理的に高める手法に近い。さらに、それが打ち明けられた時は、ある秘密が共有された気になるという意味での共同性・親密さを醸し出すグランファルーン・テクニック(P.193~201)の効果もある。
 いよいよ遺言を読み上げる前に、アントニーはもう一つダメ押しの演出を加える。シーザーの言葉はシーザーの傍でと、民衆を遺骸の周りに集め、マントの血のついた部分を指しつつ、「これが、あれほどシーザーに愛せられたプルータスの刃のあとなのだ」等と言う。こうして、耳で聞く言葉に視覚効果を加え、そして遺言は「全市民、一人一人に、七十五ドラクマずつ贈れ」。それ以外にも、シーザーがいかに傑出した人物だったかを訴える多くの言葉が繰り出されるのだが、これだけでも充分だったろう。かくて、プルータスたちは、ローマ市民たちに逐われる身となった。

 すべてをまとめて言うと、アントニーの勝因は、根本的に、この闘いをプルータス対アントニーの構図にはしなかったところだと言える。彼ら二人のどちらが立派な人物で、どちらが信頼に値するか、などは、様々な見方があるから、容易に決着はつかない。
 だからアントニーは、シーザーを前面に出して、自らはその栄光と悲惨の語り部になることに徹した。殺人の直後なら、殺した側より殺された側に同情が集まりがちなのは当然だ。殺した側がどんな正当性を並べようと、こちらはそれが疑わしいことを仄めかせばそれでいい。
 こちらはこちらで、遺言状は本物か、とか、傷口は本当は誰がつけたか、などに、疑わしいところがあったとしても、それをわざわざ問題にするのは、一般大衆レベルではまずないことだ。
 もう少し一般化して言うと、話している個人から言葉を放した方が、説得力は増す。次回これをもう少し検証してみたい。
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権力はどんな味がするか その8(完全な支配)

2021年04月30日 | 倫理
 
1984, 1984, directed by Michael Radford

メインテキスト:ジョージ・オーウェル 田内志文訳『1984』(原著の出版年は1949年。角川文庫令和3年)
サブテキスト:ジョージ・オーウェル 井上摩耶子訳「象を撃つ」(1936年作、川端康雄編『オーウェル評論集 1』平凡社ライブラリー平成21年所収)

 今度の新訳は、評判通り読みやすかった。おかげで、学生時分に卒読したときには自分が「何もわかっていなかったのだな」とよく納得された。
 この小説は、全体主義・監視社会の恐怖をプロットにしており、その一部は、今も、おそらくは執筆当時も、実現している。しかしその中でオーウェルは、全体主義の原理を精緻に語り、結果、それが完全な形では実現不可能であることまで暗示し得ていると思う。ちょうど、人間が完全に自由になる世界は原理的に決して来ないように。

 作中で語られる、(執筆・発表当時では)未来社会についてまず略述する。
 1950年の大戦争を経て、地球は三つの超大国によって分割統治されている。ユーラシア・イースタシア・オセアニアがそれで、主人公ウィンストンが棲むロンドンはその最後のものに属する。なんでロンドンがオセアニア? と一瞬戸惑うが、アメリカがイギリスを併合し、ここを含む大西洋の島々、南アフリカ、オーストラリアとその近隣から成る、つまり、大雑把にかつての大英帝国の版図が意識されているようだ。
 この地を統治しているのは〈党〉であり、その指導者はビッグ・ブラザー(B・B)と呼ばれる。実際に会った者はほとんどいないが、顔は誰でも知っている。テレスクリーン(東京都内の主要地にある街頭大型テレビのようなもの)に大きく映し出されているからだ。それは動画ではなく画像だが、移動してもこちらから見える限りは向こうがこちらを見ているような印象になるように描かれている。顔の下には《ビッグ・ブラザーはあなたを見ている》の文字。18世紀にジェレミー・ベンサムが考案したパノプティコンは、ミシェル・フーコーによって権力の象徴として取り上げられる前に、このように可視化されていた。
 この視線の下で、ウィンストンは〈真理省〉と呼ばれる役所の〈記録局〉という部局に勤め、記録改訂の仕事に従事している。訂正すべき重要案件がこの世界には多いのだ。オセアニアは今イースタシアと同盟してユーラシアと戦争しているのだが、少し前には戦争相手はイースタシアであったような記憶がある。そんな記憶は間違いだ。また、昨年発表された各種生産物増加の予測は大幅に下回ったが、それなら、そんな予測はなかったのだ。党が今正しいと言っていることは、ずっと正しかったのであり、そうではないという記録や記憶は改変あるいは抹消されなければならない。
 それなのにあるとき、ウィンストンは決定的な証拠を目にしてしまう。党の草創期には活躍したが、やがて裏切ったとして処刑された三人の男が、重大な背信行為をしたとされるその日に、別の場所にいたことを示す報道写真だ。それはウィンストン自身の手ですぐに棄却されたのだが、彼の記憶には残ってしまう。この世界は欺瞞に基づいて成立している。そこで内面の自由を保つために、ウィンストンは密かに日記をつけ始める。
 用心の上にも用心をしなければならない。監視の目は至るところに光っている。子どもたちは、相変わらず両親の手で育てられているが、親子の情愛より党の〈正義〉を優先するように教育されていて、両親に怪しい言動があった場合には、すぐに密告するまでになっている。
 怪しい、と言っても違法行為というわけではない。だいたい、法律なんて、もうない。当人にもよくわからぬうちにであっても、党の正しさに疑問を付したような場合には、〈思想警察〉に捕らえられ、多くの場合、その後どうなったかはわからなくなる。その恐怖こそ、党の統治手段なのだった。

 しかしウィンストンと同じ省の〈調査局〉で働くサイムによると、こんなのはほんの序の口なのだ。
 彼は文献学者で、『ニュースピーク辞典第十一版』の編集に携わっている。これによって新しい言語・ニュースピークは完成するはずだ。最大のポイントは、新しい単語を作り出すのではなく、むしろ古い言語(現在の英語)を削減するところにある。
 この原理は、作者が巻末にわざわざ「付録」をつけて詳述するぐらい力を入れており、優れた考察が示されている。以下では、付録中、日常言語に関する「A語彙群」での例を紹介する。一言で、大雑把に言うと、「必要性」からみた単語の整理統合である。
 例えばgood(善/よい)に対してungoodという言葉を発明すれば、bad(悪/わるい)は不要になり、捨てることができる。「とてもいい」はplusgoodと言えばよく、「とてもとてもいい」はdoubleplusgoodと言うことにする。逆に、「とてもよくない」はplusungood、「とてもとてもよくない」はdoubleplusungood。すべての名詞・形容詞にこの接頭辞を適応し、副詞形語尾は一つとする。
 これで英語はどれくらい簡便になることか。善悪に関する全概念はたった六語で現わされ、しかも元は一語で、あとはその変化、というか、接頭辞か接尾辞を付け加えて、しかも常に同じ辞で作られるるのだ。
 別にいいんじゃない? 簡単で、便利になるんでしょ? とおっしゃいますか。考えてもみよう。この原則では、nice, fine, virtue, vice, evil, wonderful, excellentなどの類義語が削られることが予想される。そのうちにはkind/kindness, beauty/beautiful, cruel/crueltyのような、けっこう違う意味の単語でも、要するに「いいこと/悪いこと」のうちなんだろ、ということで葬られるかも知れない。
【福田恆存の戦いがどうしても心に浮かぶ。例えば、戦後の国語国字改革の流れの中で、「狼狽した」が読めなかった、どうして「あわてた」と書いてくれなかったのか、と思ったなどと言う者がいた。それに対して福田は、「狼狽」の語を使ってはいけないということは、「さすがに狼狽の色は隠せなかつた」という文体の死を意味する。そんなことを要求する権利が誰にあるのか、と批判した。『私の國語教室』所収「陪審員に訴ふ」による】
 これによって、複雑な表現はほぼ不可能になる。ならば、まず文学が、次に思想が死滅する。言うまでもなく、人間は言葉によって思考する者だからだ。それはサイムにもよくわかっており、むしろそれこそがニュースピークの本当の狙いなのだ、と誇らかに言う。

ニュースピークの目的は総じて、思考の範囲を狭めることにあるというのが分からないか? 最終的には思想を表現する言葉がなくなるわけだから、従って〈思想犯罪〉を犯すのも文字通り不可能になる。

 思想警察や監視なんてことが必要なのは、まだまだ支配が完璧ではない証拠だ、というわけだ。
 しかしここには、ウィンストンやサイムが、インテリであるがゆえについ見逃してしまう要素がある。それは人間存在のどうしようもない猥雑さであり、いいかげんさである。

 ジュリアという〈創作局〉に勤める若い女性を、ウィンストンは最初嫌う。女としての魅力に溢れていながら、党是を心から信奉し、例えば〈二分間ヘイト〉(党の敵とされた人物への憎悪を集団で示す集会)のときには熱狂的な怒りをスクリーン上の〈人民の敵〉にぶつける。もし自分の内心を知られでもしたら、たちまち密告されてしまうだろう、と思うから。
 ところが思いもかけず、彼女から「愛しています」というメモをもらう。罠ではないかと疑いながらも、会ってみると、向こうの気持は本物で、彼らは逢瀬を重ねるようになる。
 ジュリアの行動原理は簡単明瞭、人生を楽しむことだ。ウィンストンのように、党のあり方に論理的に疑惑を抱く、なんてことはない。ただ、面白くもないことを押しつけられて、面白いことを禁じられるのは我慢ならない。それでも、正面切って反抗する、なんてしない。最も面白くない結果を招くことは明らかだから。党の目を盗んで楽しいこと、例えば気に入った男と楽しいひとときを過ごすのが一番だわ。
 他と同様、享楽も表だって禁じられているわけではない。現にジュリアは、プロレ(←プロレタリアート、実質的には下層民)向けの三流ポルノの制作に携わっている。その程度の性的放縦は許される、いやむしろ推奨されているに近いことは、何しろお役所が作って配布しているところからわかる。売春も、こっそりチマチマやるならOK。労働者階級は全人口の85%に及ぶが、どうせ何もわからず、何もできないのだから、放っておいてもよい、と考えられているのだ。サイムも、「プロレどもは人間じゃない」と言う。
 党に属している者たちには、禁欲主義が押しつけられている。もちろんジュリアはそんなものを信じていないし、厳格に守る気もさらさらない。性的なことだけではなく、食物や嗜好品についても。酒も煙草もチョコレートも、配給されるのはすべて不味いまがいものなのだが、彼女はあるとき本物の砂糖やパンやジャムやミルクやコーヒーや紅茶を持ってくる。
 どこにあった? 党の内局、つまり幹部連中ならみんな持っていて、自分たちだけで楽しんでいる。どうやって手に入れた? についてははっきりとは説明しないが、たぶん、彼女の性的な魅力を使ったのだろう。お偉いさん達のお楽しみが、食の分野にのみ限定されているとは思えないから。
 実際の社会主義国でざらにあったし、今もある党中枢の堕落だ。そもそもこんな快楽は、〈ブルジョワ的〉と呼ばれ、否定されたのではなかったか? しかし、せっかく苦労して革命を成し遂げたのに、ささやかな楽しみさえダメというのは、あんまりではないか? 下の者への示しをつけるためなら、こっそりやればいいのだろう? と言って、どんなにうまく秘匿しようとしても、この〈堕落〉はやがて、例えばジュリアがやったであろうような手段で、外部に漏れ、党の〈正義〉を疑わせ、ひいては体制の崩壊をもたらす。
 だから、党の綱紀を引き締めなければならない、などと言うのは簡単だが、実際にうまくいったためしはない。そんなんでは、人生が、少しも面白くないからだ。
 この実例として、ウィンストンの結婚生活が描かれる。

 妻の名はキャサリンという。すらりとした美人だが、頭はからっぽで、党の言うことしか入っていない。セックスは嫌い、なのに、党は子どもを作れ、と要求するので、週に一度、よほどのことがない限り、ウィンストンを強制して、やる。ウィンストンにとって、他のすべてには我慢できても、これには耐えられなかった。離婚は許されていなかったので、すぐに別居した。
 いやなのに、義務としてだけ行うセックス。労苦というよりは拷問に近い。男女の立場が変わっても、同じ事だろう。
【オルダス・ハックスリー「すばらしき新世界」は、「1984」より前の1932年に書かれているのに、試験管ベイビーの発明によって、この問題を理論的に解決している。この世界ではセックスは、まるでスポーツのような、純粋な娯楽になっている。それですべてうまくいくかと言うと……、については、この作品に直接あたってください。】
 話は個人的なところでは終わらない。サイムの理想は、すべての人間をキャサリン化することだ。いや、それ以上だ。党が正しいということ以外は、想像もできない、思いつくことさえない人間にしようとするのだから。
 人間が快楽を知り、快楽を求める以上、決して完全に実現することはないと思うが、もし実現したら、そこにいるのはもはや人間とは言えない。ロボットだ。
 即ち、完璧な支配とは、支配される側をロボット化してその上に君臨することだ。
 しかし、そんな支配になんの喜びがあるのだろう? 
これが、私が以前に述べた「ピグマリオンのジレンマ」である。
 作中のラスボスである党の指導者(B・Bよりは下)は、「いかなる瞬間であろうと、そこには勝利の興奮が、無力な敵を踏みにじる愉悦がある」と言うのだが、これは相手が無力ではあっても人間だからではないか。子どもがおもちゃを壊す快楽もあるにはあるが、そんなに長続きするものではない。
 それだけではない。完璧な支配が実現したら、支配者、即ち「踏みにじる」側も、人間である必要はなくなる。いやむしろ、そうでなかったら完璧ではない。現に、このラスボス氏も執筆者の一人であるという文書には、こう書いてある。

 ヒエラルキー的構造が不変のままであれば、誰が権力を掌握しようが問題ではないのである。

 支配―被支配のシステムの作り出すヒエラルキーがあれば、権力者という〈個人〉は、むしろいないほうがいい。これがパノプティコンの要諦なのである(フーコーの言う、「権力の没個人化」)。現に、B・Bという最高指導者は、画像だけで、たぶん実体はこの世にない。
 生きている人間も似たようなものだ。ウィンストンが捕らえられ、ラスボス氏と対面して、「あなたも捕まったのか!」と問うと、彼は正体を現し、「捕まったのはずいぶんと昔の話だよ」と言う。これは、彼がシステムにほぼ完全に絡めとられていることを暗示している。
 ただ、「ほぼ」であって、完全に「完全」なのではない。「無力な敵を踏みにじる愉悦」に浸る変態性という、かろうじて人間的な部分を残している。彼はウィンストンを、いわゆる人間性へのこだわりを抱いているという意味で、「最後の人間」と呼び、その部分の抹殺を図る。拷問を使って、それには成功するのだが、本当に完全を目指すなら、自分自身がヒエラルキーの最上位というシステムの純粋な一部になりおせなくてはならない。憎しみも、変態的な喜びも、感情はすべて、余計な夾雑物なのだ。
 
 ところで、支配がこんなものだとしたら、古今東西繰り返された血みどろの権力闘争はなんのためか、そんなつまらない地位を得て、維持するために、どうしてそんなに人を殺さねばならなかったのか、と疑問が生じるかも知れない。
 その理由は、既に15世紀、シェイクスピアが「マクベス」や「リチャード三世」で余すところなく描いている。一度「やるかやられるか」の闘争の世界に入ったら、もう止まることはできなくなる。止まれば、弱気を見せたとみなされ、やられるからだ。実際はどうでも、自己の恐怖心からは逃れられない。何より、自分が今まで、反対側で、さんざんやってきたことなのだから。
 恐怖そのものは人間的な感情だと言える。しかし、まちがいなく惨めなものだろう。このため、時代が下るに従って、殺人も圧迫も、強制収容所(≒パノプティコン)などを使ったシステマティックなものになっていった。「1984」では〈愛情省〉という役所がそれだ。
 もっと大きな矛盾がある。闘争を止めるためには、ホッブスが「リヴァイアサン」で説いたように、大きな力による支配が必要になるところ。権力を完全に否定することはできない。「1984」の世界はすぐ隣にある。人間世界に、「正/不正」(good/ungood?)の概念しかないなら、だが。

 元に戻って、支配システムの本当の怖さを、オーウェルは支配する側として体験していた。彼の数あるエッセイの中でも特に名高い「象を撃つ」は、極めて簡潔に、これを伝えている。
 1920年代前半、オーウェルはイギリスの植民地だったビルマで警官をしていた。「南(ロワー)ビルマのモールメインでは、私はたくさんの人々に憎まれていた――たくさんの人々に憎まれるほど重要な存在となったことは、私の生涯でこの時だけである」。まずこのアイロニーに満ちた書き出し、doubleplusgoodですな。
 話はいたって単純で、どこからか逃げ出した象が市場であばれているので、なんとかしてくれないか、という依頼を受けたオーウェルが、古いウィンチェスター銃を持って現場に赴き、この象を撃ち殺す。以上。
 問題はこの過程での彼の心理にある。オーウェルは象を殺したくなどなかったのだし、その必要もなかった。最初のうちこそ暴れまくって、店を壊し、人も一人ふんずけて死なせていたが、彼が着いたときにはもう弱っていて、危険はなかった。象の持ち主が来るのを待って、引き渡せばよかった。
 しかし、この一番簡単なことができなかった。なぜなら、少なくとも二千人はいる野次馬のビルマ人のうち、誰一人それを望んでいなかったからだ。

この時私は悟った。白人が暴君と化すとき、彼は自らの自由を破壊するのだと。彼は、見せかけだけの、ポーズをとったかかし(ダミー)の一種、型にはまった旦那(サーヒブ)となってしまう。なぜなら、白人が「土民たち」を感服させようと努めながら一生を費やすことこそ、白人支配の条件であり、それゆえ重大な場面ではつねに、白人は「土民たち」の期待に応えるようにふるまわねばならないからである。彼は仮面をかぶる。すると、しだいに顔のほうが仮面に合うようになってくる。

 この事件の前から、オーウェルは帝国主義はまちがっているという確信を抱くようになっており、一日も早く仕事を辞めてイギリスへ帰ろうと考えている。心情的には、ビルマ人の味方だった。しかし、そんなのは問題ではない。彼は支配者としてそこにいる。実態は支配機構の端くれなのだが、そうであればなおのこと、支配者として相応しく振る舞わねばならない。そうでなければ、彼の存在価値は、ゼロというよりマイナスになってしまう。
 冒頭の一文にあったように、支配者はこの国の人々に嫌われている。そりゃ、力で無理矢理支配しているんだから、当然だ。支配者らしい振る舞いをすれば、一時は「感服させ」られても、結局はますます嫌われるだろう。そうかと言って、相応しくない振る舞いをするなら、そこに「変な、だらしない奴」という軽蔑がつけ加わるだけなのだ。支配―被支配のシステムの外へ出ることは決して出来ない。これがオーウェルの実感した「帝国主義の本性――専制政府を動かしている真の動機」なのだった。
 植民地から収奪する富は大きいに違いない。しかしそれも所詮は抽象物で、支配者と被支配者が顔をつき合わせている具体的な場では口実以上の意味はない。儲ける奴は他所にいるのだから、「具体的な場」にいるのは双方とも犠牲者だ、というのも、そのレベルの正しさだ。そういうものは個人の究極的な支えにはならない。ウィンストンは「1984」の最後に、それをとことん思い知らされる。

 「希望があるとするならば……それはプロレたちの中にある」とウィンストンは秘密の日記に書く。それは正しいのだが、やっぱり少し方向がズレている。現在の党の支配は欺瞞に満ちた不当なものであり、やがてはそれに気づいた大衆の手で打倒されるだろう、というお馴染みの希望がそれで、そういうことは、絶無ではないにしろ、めったに起こらないものだ。ボルシェヴィキでも中国共産党でも、民衆そのものとも、民衆の代表とも、すんなりとは呼べないでしょう? ここをよく見定めないから、各国の革命運動は成功してもしなくても、おかしなことになってしまうのだし、「1984」はその事態の究極を描いているのである。
 最大のポイントはやはり言語の統制だ。本当にそれができるだろうか? プロレたちは、貧しくてもそれなりに生き生きと生きていることは少しだが描写されている。もちろんそこには淫行もあれば犯罪的なこともあるだろうが、それをも含めて。
 日常言語とは、我々庶民が生活の中で抱く、あまりにも種々雑多で、完全にはまとめようもとらえようもない感情の表象なのだ。そこで、古いとか、めんどうくさいとか、なんとなく気分にそぐわないとか、誰にもよくはわからない理由で使われなくなる言葉がある。一方、狭い共同体や、若者階層でのみ流通する言葉があって、後者は今はSNSのおかげですぐに全国的に広まる。それを使えば、いわゆる大人とは一線を画した若者の世界ができるような気がするので、あるものは一時期好んで使われ、大人たちは「言葉の乱れ」に眉をしかめる。
 私も眉をしかめる側だが、こういうものを完全になくすことなどできないぐらいは知っている。いいも悪いもない。人間が生きている限り、自然に歳をとるように、自然に変わるというだけの話だ。そしてこの「自然」が完全に破壊されないなら、どのように整備されたシステムも、内部から相対化され、揺らいでいくことは免れない。人間の生活実感は、必ずシステムをはみ出してしまう、と言ってもよい。
 ただし、これだけだったら人の世は完全な無秩序状態になってしまうので、箍(≒システム)をはめるための権力が必要になる、というところで話はくるくる回ってしまい、決着はつかない。それでも、元来、正義も、法も、人間が生きて行くために必要とされるのだ。今後どのような世の中になろうと、この基本だけは忘れてはならないと思う。
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経済オンチがお金について語ってみた その4(お金と金との奇妙な関係)

2020年12月25日 | 倫理

The money changer and his wife, 1514, painted by Quentin Massys

メインテキスト:バルトロメー・デ・ラス・カサス、染田秀藤訳『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(原著は1542年に執筆、岩波文庫昭和51年)
中野剛志『目からウロコが落ちる 奇跡の経済教室【基礎知識編】』(KKベストセラーズ令和元年)

お金は、借りたいという人がいたとき、その人の返済能力を調査して、その分を発行する。だから、借りる人がいなかったら、この世の中に新たなお金は生まれない
 これがMMTによってもたらされた知見だ。
 MMTerはこれを「事実」だと言うのだけれど、「事実そのもの」なんて、あってもなくても、問題にならない。問題はそれをどう解釈し、説明するかなのだ。「絶対の真実」に近いものを探せば、まずこれだろう。
 自然科学の世界でさえ。引力なんてものが「事実」としてあるのかどうか、本当のところは誰にも分からない。分かりようがない。ただ、あると考えると、地上で物が落下する現象から天体の運行まで、うまく説明できて、将来の予想(かくかくの条件の時にはしかじかの結果になる)もつくので、便利ではある。他にもっと有効な説明原理が出てこない結果、万有引力の法則が、いわば暫定王者として「真理」の称号を得ているのだ。
 MMTと古典派経済学の違いは、地動説と天動説の違い、というのも。運動は相対的なので、地球が動いているのか、宇宙全体が地球の自転・公転の逆方向に動いているのか、決め手はない。どう言った方が都合がいいか(例えば、「自転・公転」というような、地動説を前提とした言葉を使って説明するのが便利、というような)、があるだけ。
 まして社会科学の世界では。文法を例にして言うと、地球上のいつでもどこでも、文法を習ってから母国語を話し始める、なんて人はいないだろう。逆に、一定の社会で読み書きに使われている言葉があって、後からそれを学者が分類・分析して、文法規則をまとめる。実際に使われている言葉からは必ずいくぶんかずれるので、文法の研究は決して終わりがない。これは、自然科学でも同じで、創造的な思考が決して不要にならないという意味で、むしろいいことだ。
 経済もそうだ。長い歴史の間に蓄積されてきた商取引や金融の慣行があり、それはけっこう合理的なので、整理して記述するのが経済学、のはずではないか。多少は現実とのズレが生じるのが当り前で、それをもって経済学をクサすとしたら、心ない仕打ちだとも思う。
 何しろ、役にたてばいいのだ。社会に、あれやこれやの条件がそろったら、インフレやらデフレやらになりやすいから、それで国民生活が過度に圧迫されないように、対策を講じる。そのための大枠のガイドラインでも出せるなら、たいへん有用な学と呼ばれるべきだろう。
 むしろ、社会科学が、自然科学の数学的な厳密さに憧れ過ぎると、ろくなことにはならない、と門外漢からは見える。なにしろ、物質の運動と違って、ちっぽけながら曖昧で雑多な欲望や観念で動く人間を直接扱うのだ。それがつまり、後付けで法則化しようとしたら、必ずいくぶんかはズレる理由である。強引にやろうとしたら、かえって人間社会の諸要素の、かなりの部分を切り捨ててしまう結果になるだろう。

 以上は前置き。で、冒頭の、お金に関する「事実」、ではなくて、事実の説明を眺めると。
 お金は、借金の形でしかこの世の中へ出てこない。と言うか、お金とは負債、つまり借金の証文そのものなのだ。もちろん、通貨(現金+預金、ただし硬貨は除く)が。これに関する日本銀行の説明を以下にまとめる。
 昔は通貨とは銀や金が本来であって(本位通貨)、銀行が発行するお札は「金銀を預かっていますという証書」として値打ちがあった。今のお札は、この値打ちの元は失われた(銀行へ持って行っても、金銀と交換してくれない)が、適切な金融政策で、価値を安定させるのだと言う。
 これは具体的には、根拠なんてなくても、とにかく価値はあると信頼させる、皆がそう信頼しているなら、それで価値は保たれる、ということを意味する。
 かつて豊田商事事件というのがあった。地金を売って、しかし現物は渡さずに預かり証だけで、たくさんのお金を集めた。皆の信頼が続き、預かり証で、他のものとの交換(売り買い)ができるものなら、金(Gold)の現物なんてなくたって、誰も困らない。しかしそうはならず、ここの会長は詐欺師だとうことになって、捕まる前に取材に来ていた報道陣の前で刺殺されてしまった(昭和60年。バブルの直前だ)。
 会長は、日本だけではなく世界中の国がやっている管理通貨制度の真似をしたのだ。それは、皆がインチキだと言い出せば、インチキになる。人間が考え出した制度の中でも、特に面白いものの一つだと思う。そう思えるので、以下にいくつかの断面に分けて、眺めてみます。

断面1 貴金属の価値
 金や銀が本位通貨、という時代が長かった(実際の制度のバリエーションは様々にあるが)ので、金銀にはそれ自体価値がある、とみなされることがあり、みなす人々は「金属主義者」と呼ばれる、とのことだが、考えてみればこれも不思議な話だ。金それ自体になんの値打ちがあるのか。
 普通に見る金とは、薄く延ばしてシート状にした金箔とか、それを細かくした金粉。昔TVで、金箔を海苔みたいにしてご飯に載せて食べている成金さんを見たことがあるけれど、ちっとも羨ましくない。海苔ほど栄養価もないだろうし、旨くもないだろう。
 その他、建物も衣服も、金だけで、作れないことはないかも知れないが、優れた材質、というわけにはいかないだろう。つまりは表面のお飾りに使われるのが金なのだ。
 昔はよく見かけ金歯も、もうめったになくなったし、金がなくても、人は生きていける。【パソコンにはごく微量の金銀が使われているそうで、他の物質では代替不可能だとすれば、必要不可欠のものと言えますが、とりあえず、コンピューターの発明よりずっと以前の話をします。】
 名高いミダス王の伝説はそのことを伝えている。彼はディオニソス神に願って触れるものすべてを金に変える能力を得たが、さてその富でご馳走を食べようとしたら,食物も金に変わってしまい、やっぱりまずかったんだな、すっかり閉口して、また神様にお願いして、この能力を取り消してもらった。【娘に触ったら彼女も金になってしまった、というのは、1852年に出版されたナサニエル・ホーソン『ワンダ・ブック』中のヴァージョン。】
 見方を変えると、この話はずいぶん昔から、金は価値あるものとされてきたことを伝えている。実在のミダス王は紀元前700年ぐらいの人だということだ。近代のはるか以前に、洋の東西を問わない広い範囲で、金と、それから銀も珍重されていた。これだけの歴史が、その名も貴金属(noble metal)には、本来値打ちがある、との感じの裏付けになっている。
 一方、かなり後になっても、次のようなことがあった。1492年にコロンブスがアメリカ大陸を「発見」してから、インディオと呼ばれたその地、特に資源豊富な南米大陸に、スペイン人が多数侵入するようになった。彼らは、その地に住むインディアスに対して、史上最大規模の略奪暴行を働いた。
【インディオとはインド、インディアスは英語ではインディアンで、つまりインド人の意味。コロンブスが、自分が発見した「新世界」はインドだと信じたところからこの名称が生じた。それが誤解であることはやがてわかったが、だいたい当時のヨーロッパ人はインドとは正確にはどこかもほとんど知らず、反対方向の海の向こうに発見された新世界を、そことは区別する必要も感じなかったのだろう。それでこの呼称は、その後も、現在までも、続くことになった。】
 同じキリスト教徒がやることでも、これは許せない、と感じた宣教師ラス・カサスがスペイン国王に送った報告書には、例えば次のようなエピソードが記されている。
 1511年、スペイン人がキューバへやってきた時、一人のカシーケ(酋長)が、なぜキリスト教徒たちはこれほど残虐非道なのか、配下に説明した。

「(前略)彼らには、彼らが崇め、こよなく愛している神があるからだ。彼らが私たちを征服したり、殺したりするのは、私たちにもその神を崇めさせるためなのだ」と言い、傍にあった金製の装身具のいっぱい詰まった小籠を手に取り、言葉をつづけた。「これがキリスト教徒たちの神だ。(後略)」

 インディアスたちは、神のご加護を得ようと、この籠の前でへとへとになるまでアトレイ(舞と踊り)をし続けた。さてしかし、この神を身近に持っていたのでは、結局はそれを奪おうとするキリスト教徒に殺されてしまうだろうと、この小籠は川に投げ捨てられた。
 それで神の怒りをかったせいかどうか、このカシーケは火炙りで殺された。死の直前、キリスト教に改宗するかどうか尋ねられて、彼は言下に断った。キリスト教徒と同じ天国とやらへ行って、また彼らの顔を見たりはしたくないから、と。
 インディオでも金はそれなりに珍重されていたようだ。身を美しく飾り、ひょっとしたら、権威の象徴ともなった道具だったのかも知れない。それはヨーロッパ人と同じだ。しかし、大勢の人間を殺して強奪したいものだとは、夢にも思えなかったのだろう。
 彼らが知らなかったのは、金は、美しいだけではなく、ヨーロッパではこの時までに交換の中心となり、そこで働く期待=信用を司り、それによって商業社会の神となっていたことだ。

メソポタミア文明の粘土板
断面2 交換について
 「交換」の最初が物々交換か否か、時々話題になるが、そう気にすることはないだろう。
 人々がなぜ交換するのか言えば、狩りをしたり植物を採集したりするのと同様、自分にとって価値のあるモノを手に入れるためだ。それを強奪するのでなければ、相手にとって価値のあるものを渡して、交換することになる。だから、結局はすべてが物々交換であるに決まっているのだ。
 ただ、交換に介在するものが古くから存在し、これが文明的、あるいは人間的としか言い様がない独特の働きをする。
 介在するものはさまざまにあった。人類最古の文明発祥の地と言われるチグリス・ユーフラテス河周辺からは数十万枚の粘土板が出土されていて、そこにこれまた現在知られている最古の文字である楔形文字が刻まれている。
 中には紀元前4000年以上と推定される板もあり、後代になるほど高度な内容の、学芸と呼ばれるのに相応しいもの、例えば「ギルガメッシュ叙事詩」なども含まれるが、初期は広い意味の証文が多いそうだ。例えば、いついつまでにこれこれのモノを渡す、などの。なるほど、文字や数字は最初、貸し借りの記録のために発明された、というのは、ありそうな話である。
 中野剛志が次のような、ありそうな推測を述べている。
 魚を採った人Bがそれを麦と交換したいと思う。しかし、今は麦は採れない時期だ。そこで、麦を栽培している人Aから、麦そのものではなく、収穫の時期になったらこれこれだけ麦をもらう、という約束をして、魚を渡す。その約束を記したのが粘土板に書かれた証文であり、もしかしたらそれが、文字と数字の起源にもなった。貨幣の起源であることはほぼ確実である。
 これは二人の間での約束。ここに第三者、第四者……が登場するとどうなるか。上で麦の借用書を受け取ったBが、気が変わって、麦はもういい、木材がほしい、と思うようになり、Cからこの借用と引き換えに材木をもらう。借用書を手に入れたCは、今度はそれと引き換えにDから斧をもらう……、という順に借用書を流通させることができたほうが、いちいち新たな借用書を作成する(貸借関係を結ぶ)よりは明らかに便利だ。人とモノが増えていって、貸借関係が複雑になれば、ますますそうなる。
 さてしかし、このような交換がスムースに行われるためには、主に二つの条件が必要になる。
(1) 約束通りにモノの引き渡しが行われること、即ち信用。約束が履行されなかった場合に備えて、罰則まで含めた処置が決められていないとしたら、交換=経済が安定している社会を長期間維持することは困難だろう。
(2) 上の例でAの借用書は最終的にはDのものとなるのだが、Aの麦・Bの魚・Cの木材・Dの斧は、どうやって価値を比べられるのか。もちろん、一部だけの交換も考えられる。Cは材木十本でBの魚=Aの麦と交換したのだが、そのうちの半分だけで(材木では五本分に当たる)Dの斧に替える、とか。それができない交換は非常に不便だ。
 しかしそのためには、麦一把・魚一匹・材木一本などなどに共通する単価がなければならない。この共通単価を示して社会で流通するものが、通貨と呼ばれる。
 こうして、(1)取引の履行、そして(2)通貨、この双方の管理が必要になってくる。権威と、たいていはその社会で最強の武力を備えてこれを行う者が、権力者である。


断面3 貨幣について
 貨幣の発生はどのようなものだろうか。自然発生的、というのか、まずごく狭い集落で使われていたものが、次第に流通範囲を拡げていった、ということも考えられないではない。しかし、今日の国家並の面積(バチカン市国よりは広いとして)で、同じ貝殻なら貝殻が、地方と時期により多少の価格差はあるにしても、交換のツールとして用いられたとしたら、そこには流通を管理する権力があったと考えるのが自然だ。
 現在まで残っている最古の硬貨は、紀元前6世紀ぐらいに、現在のトルコにあたる地域にあったリディアという国で使われていた。
【前述したミダス王が治めていた国・フリュギアはその隣国で、B.C.7にはリディアに支配された。ミダス王はディオニソスから授かった能力を洗い流すために、この地の河で身を清め、ためにその河の流域は砂金が豊富になったのだ、という伝説もあるようだ。】
 この硬貨は高校世界史の教科書にも出ているので、詳しく言わなくてもいいだろう。重量によって何種類かに分かれ、ライオンの紋章など、王家の象徴が刻印されている。材質はエレクトラムと呼ばれる金と銀の自然の合金。
 これを要するに、金銀がその重量に応じて、すべてのモノの交換価値、即ち市場価格の尺度となったということだ。麦一把・魚一尾なら金1グラム、木一本で5グラム、斧一丁で10グラム、という具合。初期の頃は実際にいちいち金銀の重さを量ったらしいが、それを切り分けておいて、すぐに使えるなら、それは便利だ。同時に、モノの価格がこれによってある程度固定されたわけだが、これまた、交換のためには非常に便利だ。
 それ以外にも、西洋でも東洋でも、金銀が代表的な貨幣の材料となったのは、もちろん偶然ではない。そうなる条件がそろっているのだ。
 まず、特に金は、純度の高いものほど、ピカピカ光って、美しく、豪奢で、富と、それから権威の象徴として相応しいことは、第一に挙げられるべきだろう。古代では呪術に使われていたのも頷ける。しかし、ここでは機能面のみを考えると、
(1)地球上のいろいろな場所で、少しずつ見つかる。決してありふれてはいないが、どれほど苦労しても見つからない、というほどではない、ちょうどいいぐらいの稀少性。「ダイヤモンドが石ころと同じだけあったら、石ころと同じ値打ちしかないだろう」と言ったのは誰だったか、ともかく量が限られていることは価値を保つ必須の条件であるとともに、貨幣を造って流通させる側、即ち権力側にしてみれば、管理しやすい(他の者に貨幣を造らせないようにし易い)という利点になる。
(2)化学組成が安定していて、錆びたり腐ったりしづらい、つまり、変質しづらい。そのため、保存に便利。ここが、いつかは枯れてしまうチューリップなどとは全く違う。富の蓄積こそ、近代資本主義が成立する必須の条件なので、金のこの性質が寄与するところは大きい。
(3)前述したように、生活の直接の役には立たず、なくても人は生きていける。これは「価値の安定」のためには大きな長所になる。
 つまり、生活必需品は、時と場所に応じて、実感として、価値が変わってしまう。水は、沙漠では貴重だが、日本ではタダ同前、日本で家を建てようと思ったら、木材が大量に必要だが、できてしまったらもうそんなには要らない、という具合に。
 金銀も、現に相場が立っていて、価格の上がり下がりはあるが、それは実際の必要性とは関わらない。特に金の値打ちは、欲しがる人は社会に、必ず一定程度存在するという、つまりは期待・信用に拠るところが大部分である。
 それでも、金銀は重さで量り売りされるモノではある。FRBや日本銀行の地下金庫には大量の金塊が眠っているらしいとかいう噂は絶えることなく(事実である可能性は否定しない)、価値の最終的な根拠だという思い込みは消えない。そう思いたい人が多いのだろう。
 因みに硬貨は、借金に基づいてはないことは、現在も同じ。補助通貨の扱いで、金額が大きくなる金銀材料のものは発行されず(少しの例外はある)、外国の通貨とは交換できないことはご存知の通り。しかし元来は、金銀の預かり証・借用書として、紙のお金が出てきたのだ。
 貴金属の信用というフィクション(作りごと・約束事)の上にもう一層フィクションを重ねたようなものだが、すると元のフィクションのほうは現実味を帯びてくるわけだろうか。交換の単なる手段が通貨(現金+預金)なのだが、それ自体に価値がないのは、どうも不安だという心性は、長く、ある意味では現在まで、人々の間に存在し続けている。
 それも無理はないかも知れない。紙幣は金の保有高に応じて発行される、というフィクションが名実ともに崩れ去ったのは1971年の、いわゆるニクソン・ショックによってだから、来年でやっと50年、半世紀しか経っていないのだ。
 私は、人間の世界を現に動かし、従って大きな厄介のタネにもなるのは、誰それの手の込んだ陰謀などではなく、一般の人々の単純な思い込みではないか、と思っている。
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経済オンチがお金について語ってみた その3(バブル怪談)

2020年11月24日 | 倫理

串田和美演出「幽霊はここにいる」新国立劇場平成10年

メインテキスト:安部公房「幽霊はここにいる」(昭和33年作。『幽霊はここにいる・どれい狩り』新潮文庫昭和46年)
サブテキスト:マイク・ダッシュ、明石三世訳『チューリップ・バブル 人間を狂わせた花の物語』(原著は1999年。文春文庫平成12年)
永野健二『バブル 日本迷走の原点1980ー1989』(新潮社平成28年、新潮文庫令和元年)

 経済的な用語や、まして理論はなるべく使わないで(だいいち、よく知らない)、お金の話をしてみようと思ってやってきたんですが、どうせなら、素人の強みを発揮して、もっとラディカル(過激&根源的)な話をしてみようと思います。もっとも、それも、書いている本人がそう思っているだけかも知れませんが。

 「一万円はどうして一万円の値打ちがあるのか」というのが私の、今では思い出すことができないぐらい昔からの疑問だった。少しばかり経済学の本を囓ってみたりもしたが、管見の限りでは明確な答えを見つけることはできなかった。
 ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論』には、「租税が貨幣を動かす」なる言葉があった。なるほど。主権国家には貨幣発行権と徴税権がある。国家とその下にある地方公共団体に納める税金は、基本的にその国家が発行している通貨でしか支払われない。としたら、同じ国に住む誰にとってもこの通貨は必要になる。だから、国民はみんな欲しがり、国内の交換(最広義の商品の売買)のために普通に使われるようになる。
 ただ、考えてみればこれは、通貨(貨幣+預金)の有用性を、後付けで創っているということだ。値打ち=価値とは、人々が欲しがるもののことだろう。誰も、税金を払うために働いている、なんて人はいない。
 それなら、ちょっと、見る角度を変えてみれば。なぜ、一万円札には一万円の値打ちがあるのか。引き換えに、一万円で売られているモノが手に入るからだ。
 では、そのモノにはどうして一万円の値打ちがあるのか。一万円で買う人がいるからだ。売れると思って生産された商品が売れないことなどたくさんある。その商品に人々が、一万円なら一万円の値打ちを認めなかった時には。
 以上から、交換の場=市場における価値の決まりかたがわかる。言わば、相互依存型なのだ。一万円札は一万円のモノが買えて初めて価値を実現する。一方でモノは、一万円で売れて初めて価値が確認される。この交換―流通以前にあるのは、「買えるだろう」「売れるだろう」という予想=期待=信用のみ。

 「何をわかりきったことを」と言われますか。「交換価値は、交換されて初めて出てくる」とでも言えば、当り前、というよりトートロジーになる。
 それに、将来手に入るものを期待して今何かをするのは、人間なら普通のことだ、とも思えるだろう。お百姓は半年後の収穫を期待して、現在畑を耕し、種を蒔く。これは経済活動のうちだが、子どもに、将来の「よい生活」のために、今は必要性を感じられないし、面白くもない勉強をやらせる、なんぞというのも含めれば、人間生活のかなりの部分が「期待」で成り立っている、と言える。人間だけではなく、動物だって、ごく短いスパンでなら、将来の何かを「予想」して何かをすることは多いだろう。
 ただ人間は、交換価値の表象である貨幣というモノを発明した。それは、「何かを手に入れたい」という欲望と直接結びつく。言わば欲望そのものの具現化だ。これによって人間社会に特有の、さまざまなことが生じる。
 
 戯曲「幽霊はここにいる」には、「その気になれば、石っころだって金にしてみせる」と豪語する名うての詐欺師が登場する。家族から、「いいかげんに詐欺みたいなことからは、足を洗ったら」と言われて、反問する。ものの値段はどう決まる? 
 例えばこの特大のハンカチは、買えば三十五円はする、とりあえず、それだけの値打ちがあるんだ。しかし、なぜだね? なぜそんな値打ちがあるんだね? 「きまってるじゃないの、材料費と工賃よ」。
 それへの反論として、彼は以下の金銭哲学を開陳する。
 
馬鹿な! それじゃおまえが、電柱ほどの丸太ん棒をけずって、つまようじを一本こさえたら、誰かがそれに、材料費と工賃を払ってくれると思うかね?……そうれみろ、くれはすまい……いいか、これが三十五円の値打ちがあるってのはな、ほかでもない、これに三十五円はらってくれる人間がいるからさ。物でも人間でも、値打ちってものはな、他人がそれにいくら支払ってくれるかできまってしまうものなんだ。金を払うやつがいりゃあ、それが値打ちになる……世の中にはな、だいたい詐欺なんてものはありゃせんのだ……
 
 売れて初めてものの値打ちは確定する。ならば、ここを逆にして、それにお金を出す者がいるなら、それには価値がある、としてもよい。そうではないか?

 そんな彼が、死んだ戦友の幽霊(彼にしか見えない)といっしょに旅をしていると言う男と出会い、新たな商品開発を思いつく。幽霊だ。いるかいないかわからないのに? かまわない。いない、とはっきり証明されたらさすがにマズいだろうが、それは「悪魔の証明」で、原理的に不可能だ。「もしかしたら……」と、多くの人が思うなら、それで充分。
 むしろ難しいのは供給管理である。仕入れ先はたくさんありそうだが、「幽霊はここにいる」と誰かが言うのをすべて買っていったら、資金がたいへんだし、数が多すぎて供給過剰になったら、つまりデフレで、値崩れを起こす可能性がある。
 メリハリをつけるために、生前の写真を買い集めることにする。一枚三百円。今の価値で四、五千円程度だろうか。幽霊と照合するためだという触れ込みで。照合してどうするのか、については何も言わない。言わないで、勝手な憶測が噂になって尾鰭が付いて広まるのを待ち、それを利用する。
 最大のつけ目は、生きている人間は、けっこう、死人に負い目がある場合が多いことだ。「死人に口なし」なら、忘れればいいのだが、なんらかの形で口を開く可能性もあるとなると、どうも……いろいろと、不安になる。不安とは、期待の裏返しであることは言うまでもない。この時点で、幽霊の商品化は半ば成功する。
 ワケありの(この世の誰かに恨みを残していそうな)死者の写真は高額で取引されるし、幽霊の講演会(もちろん、通訳付き)の依頼もあり、幽霊だから着たきりでいいわけではあるまい、と幽霊用ファッションショーも開かれ、幽霊も手厚く供養されるためにはお金が必要だろうと、幽霊保険も開設される……。

 これを書いた頃の安部公房は日本共産党の党員だったのだから(昭和36年には、党の方針を批判した廉で、除名されている)、資本主義体制を批判するつもりだったのかも知れない。
 しかし、幽霊、というか、いわゆる超自然物は、近代以前こそありふれていたわけだし、社会主義になったからといって消えるわけではないだろう。そうでなければ、こういう作品は、パロディとしても必要な、最低のリアリティも保てない。
 安部の功績は、この存在というか心理を、市場経済の中にぶちこんで、ころがして見せたところにある。フィクションとはいえ、面白い思考実験にはなり得ている。

 幽霊はいる。どこに? 人々の期待と不安の中に。だからそれは近代でもしっかり生き延びている。しかも、けっこうお金が絡む。お金こそ、期待と不安の表象だから。
 本当の幽霊(?)みたいな、いるかいないかはっきりしないものでもそうだ。目に見える標しがあったら? 言わば、幽霊の依代が。そうなり得るものも、なり得たものも、あったし、今もある。それは、バブル経済と呼ばれるものの中で、最も暗躍する。

 最初の投機バブルは17世紀前半、オランダで起きたと言われる。チューリップバブルという言葉は多くの人が知っていると思うが、昔のことで、詳細ははっきりしない。チューリップの球根一つが現在の日本円にして約一億七千万円で売れた、という話もあって、ともかく、途方もない取引があったことは事実であるようだ。
 どうしてそんな値がついたのか? その値段で買う人がいたからだ。

 この花は、中央アジア原産のものがオスマン・トルコ帝国のサルタンに愛好され、ここを経由してヨーロッパに紹介された。新奇であるうえに、現在のよりずっと複雑な色合いになることがあり(ウィルスつきの、病気の花だからなのだが、当時はそれはわからなかった)、優美で豪奢で、金(gold)と同様に、あるいはそれ以上に、富と権力の象徴として相応しい、と思う人もいた。
 そういう人が複数いたら、ライバルを出し抜いて手に入れた場合、その事実が、より立ち勝った社会的な力の証になる。いわゆる「見せびらかし消費」で、そこでは同じようなものが二つあったら、高いほうが選好されるという、普通の市場原理とは逆の事態も起きる。
 何も悪いことではない。商品は狭義の有用性の他に、象徴的な意味も含めて売り買いされてきたのは、文明の常だ。ただ、こういう商品には固有の弱点がある。希少性が価値の多くの部分を支えるので、買い手は自然に少数になる。というより、少数である必要がある。その少数の買い手が、「もう、いらない」と思ったら、それですべておしまい。
 チューリップバブル市場は、ある日、売ろうと思ったら、全く買い手がつかず、値崩れどころか相場自体がそれこそ幽霊のように雲散霧消して、始まったときより唐突に終わった。それまでに巨万の富を得た人もいるが、もっとずっと多くの人が破産の憂き目を見た。

 20世紀後半の日本では、幽霊は資産と呼ばれるものに取り憑いた。
 資産とは、財産とも言い、個人や企業が所有している土地・建物・有価証券・美術品など、売ろうと思えば売ってお金にすることができるモノを指す。もちろん、お金を出して買う人がいなければ、成り立たない話ではある。
 逆に、買いたいという人がたくさんいたらどうなるか? 需要と供給の単純な公式によって、そのモノの価格は上がる。
 このバブルのきっかけは、1985年のプラザ合意だというのが定説だ。アメリカの貿易赤字解消のために、結果として円高を押しつけられた日本が、予想される不況の対応策として、銀行の貸し出し金利を下げた。実際に投資は活発になったが、それだけでは使い切れないお金が市中に流れ、資産の買い付けに向ったのだと。
 そのうえに、特に、土地となると。日本の土地の値段は、少なくとも東京のは、決して下がらないという、いわゆる土地神話が、私が物心ついたときには、既にあった。ならば、買って損はない。買えるものなら、買おう。そう思う人が増えたと思ったら、論より証拠、現に、土地の値は上がるではないか。
 この事実が広く知られるにつれて、値上がりのスピードも速くなる。買い付け資金を銀行から借りても、利子以上の値上がり益は見込めるし、もちろん担保価値も上がる。かくて、土地を買ったらそれを担保にしてお金を借りて、新たな土地を買って、そしたらそれを担保にして……なんて無限ループ、なわけはないんだが、そう見えるもの(それこそ、幽霊だ)を勧める人もいて、実際に嵌まる人もいて、結果いよいよますます土地の値は上がっていく。

 バブル経済を一番簡単に定義すると、お金に直接反映する期待感の暴走、ということになるだろう。それが暴走であることは、止まってからはっきりわかるのだが、元来、期待の裏側には不安が貼り付いている。期待感が高まればそれにつれて不安も高まる。「こんなこと、いつまでも続くわけはない」との思いが強くなって表面に出てきたら、それで期待もしぼむ。もう思ったほどの値段では売れなくなり、担保価値も下がり、しかし借金も利子も元のままで残るので、日本社会は大量の不良債権を抱えることになった。
 総量規制(大蔵省銀行局長通達「土地関連融資の抑制について」平成2年)などの政策でバブルははじけとんだのだ、とも言われるが、きっかけとしては大きいだけで、いずれはそうなる運命だった。と言うか、これらの政策は、無駄に犠牲を大きくしたという意味で、遅きに失した、と永野健二などは言っており、こちらのほうに説得力を感じる。
 いずれにしても、市場が、即ち経済が、期待、言い換えると信用、に基づいて営まれている以上、バブルを完全に防止することなど、できない話だ。

 いいところはないだろうか? チューリップバブルは、ともかく花を栽培しなければ始まらなかったのに対して、資産バブルは、モノを生産せずに、既にあるものの売買益だけを狙うところが、いかにも不毛な感じがする。ここで動いた金額はGDPにも計上されないし。
 それでも、お金を社会の広い範囲に行き渡させる効果はあったのではないだろうか。

 もう一つ、心理的な効能もある。
 17世紀のオランダは、80年にわたる独立戦争に勝ち(独立が正式に承認されたのは1648年)、オランダ東インド会社(1602年設立)によってヨーロッパの海運業の覇権を握った。文化的にもレンブラントやフェルメールが活動した時期で、チューリップバブルは、国力の絶頂期に咲いたあだ花だったのだ。
 それが実際に社会の発展に寄与した、とは言えないけれど、市場の空前の活況がもたらした高揚感までは否定できない。景気とは、その字の示す如く、かなりの部分人々の気分に左右される。
 日本のバブル期の浮かれ気分も、今では伝説になっている。個人的な好みを別にして言うと、現在のようなくすんだ景色と気分には、いいかげん倦み疲れたが、かといってそれをなんとか打開しようとする元気も出ない、というのも、切ない話ではある。

 現在も昭和末期のような低金利政策が採られているが、株価の異様な上昇(一種のバブルだろう)以外、世間は不況なまま。これは、政府の金融・財政政策の失敗が根本的な原因であることは確かだ。
 しかし一方、バブルの失敗に懲りた企業経営者の気分が、なかなか積極的な経営方針に向わず、「失われた20年」が30年となり、さらに延びようとしている一因になっているのではないか、という疑念は拭えない。
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経済オンチがお金について語ってみた その2

2020年10月08日 | 倫理


 お金についてFace Bookに挙げた記事をまたまとめます。これに対して数人の人からご意見をいただき、本当にありがたく思っています。
 おかげで、長い間私の中で謎だった、信用創造money creatingということについて、最近ようやく見え始めたか、と思えるところまでは来ました。以下の記事は、それ以前の、とても未熟な見識も含んでいます(一番ひどい、というか他の記事との重複が大きい、と思えた一つは今回省きました)。それでも、金融の現場にはいない人間の素朴な思考の歩みの記録として、なにほどか価値があろうかと思って、再録します。少なくとも、私自身にとっては(^^;)。
 他の人にとっても、「反面教師」であっても、役に立つことを期待しつつ。

◎疑問3:(松田智臣さんより)よく財務官僚の答弁でマーケットの信用という言葉が使われますが、PB黒字化のその信用に与える影響とはどんなものなのでしょうか?また、S&Pなどの格付け会社の影響力のほどはどの程度と考えられるでしょうか?
お答え:マーケットの信用とは、例えばつぎのようなことですかね。
 「収益を大きく上回る借金によって経営している企業があるとする。誰もそんなものを信用して、株を買ったりするわけがない。いるとしたら、その企業を乗っ取ってやろうとする者だけだろう。国家だって、同じことだ。PBの黒字化、つまり、政府の正当な収入である税収の範囲で公共事業をやっていかなければ、信用は失われるばかりだ」
いや、そりゃないでしょう(😣)
 企業は、借金したらそれを返済するのにどこからかお金を調達しなければならないわけですけど、日本はそのお金を、一種の子会社である日本銀行に言って、創り出すことができるんですから。
 格付け会社については、一流証券マンとして長年勤め上げた知人(この人は、MMTはカルトのようだ、とも言ってますが)によると、「格付け機関とヘッジファンドがグルになっているという噂は事実のようだ」とのこと。
 私などに実態がわかるわけないんですけど、S&P、フィッチ、ムーディーズの三大格付け会社も、相当いかがわしい存在であると思ったほうがいいようです。
 以上で終わり、ではあんまりなんで、有名な政府文書を一瞥しておきましょう。皆さん先刻ご存知でしょうが。
 平成14年(2002)、上記三社が、日本国債の格付けを、AAA(トリプルA、信用度最高)からA(シングルA、信用有り)に下げたとき、当時は財務相の財務官だった現日銀総裁黑田東彦氏が抗議のために提出したもので、イの一番に
日・米など先進国の自国通貨建て国債のデフォルトは考えられない。デフォルトとして如何なる事態を想定しているのか
とぶつけている。
 いやあ、カッコいいじゃないですか、黑田さん、この勢いで、財務省の後輩たちを叱ってやって下さいよ。
 それはともかく、その後の主張を簡単にまとめますと、
(2)日本は世界最大の貯蓄超過国にして経常黒字国、債権国であり、外貨準備も世界最高。
 だから、赤字国債と言っても、よそ(海外)からお金を借りず、国内でやりくりしている。このような経済基盤を格付け会社は考慮に入れていないようだ。
(3)各国国債間の格付けの根拠に、一貫した整合性が感じられない。
 そらまあ、韓国や中国のより日本国債は格下だ、と言われると、愛国心(身びいき)はたなあげにしても、「え~? マジ?」と思えてきますね。
 これに対しては先方からははかばかしい返事はないとのこと。
 こんなんでも、格付け会社のほうを信用して、日本を信用しなくなる人がいるわけですかね?

◎疑問4:MMTerはよく、「万年筆マネー」とか言って、銀行の「信用創造」は英語ではmoney creationなんで、お金とは、銀行が貸し出したときに生まれるものだ、銀行はゼロから、ただ通帳に金額を書き込むだけで、お金を創れるんだ、なんて言う。
 そうだとしたら、
① 誰でも、俺でも草一でも、明日から銀行を創設して、頭取になれる。
② ゼロから創り出したお金を貸して、「返却させる」とはどういうことだ。利子ともども、元金まで銀行が丸儲けか。
など、疑問が湧いてくるぞ?
お答え:これ、要するにレトリック(言い回し)の問題じゃないんでしょうか。いわゆる経済についての話というのも、ずいぶんレトリックが幅を利かすんだ、と最近わかりました。人間的な、あまりに人間的な領域なんだから、当然なんですけど。
 市中銀行には、もちろん日本銀行券、いわゆるキャッシュは創れません。預金だって、普通預金や定期預金を、万年筆で書くって言うか、今はコンピューターのキーボードを叩いて(キーストロークマネー)、それだけでこの世に出現させられるわけはないんです。もしできるというなら、私にも、元金なしで、創ってもらいたい😉。
 貨幣の価値を保証するものの一つに、希少性がありますからね。誰でも彼でも創って、同じように流通させられるとしたら、それだけで貨幣制度は崩壊するでしょう。その貨幣が、モノであっても記号であっても。
 ランダル・レイが「負債のピラミッド」というので図解しています。政府の負債→銀行の負債→銀行以外の主体の負債、の順に価値が下がっていく、と。負債、とは即ちお金のことですから、実は銀行でなくても、誰でも、IOU(借用書)というお金を発行できるのです。ただ、その信用力によって価値のヒエラルキーが形成され、流通の範囲と期間が決まる。
 と、言いますか、下の二つは、てっぺんの、政府の負債、普通に言うお金と、期限が来たら替えることができる、というのが即ち信用なんです。このへんは以前に書きました。
 因みに仮想通貨というの、政府負債と直接には結びつかないので、国家権力を相対化するんじゃないか、と国家嫌いの左翼的な人々が期待したようですが、なかなかそうはいかない。そう簡単になんとかなっちまうんでは、危なくて仕方がない。権力者じゃなくても、普通はみんな、その危惧のほうが強いんです。
 元にもどって具体例。例えば銀行が企業に1億円貸したとします。その後その企業か、そこから小切手をもらった人が来て、全部じゃなくても、1千万円を現金にしてくれ、と要求しました。
 銀行としては、ない、とは決して言えない。本当になければ、どこからか借りて払うしかない。必ずそうするのが銀行の信用ですから。
 どこから借りるか。普通は、「銀行の銀行」である日本銀行からなんでしょうね。この場合の利率を公定歩合と言う、と高校で習いました。また、担保には、その銀行が保有している国債があてられる場合が多いようです。
 ですから、銀行は、貸したお金を回収したら丸儲け、ということにはならない。逆に、返済されなかったら、そこから生じる損害をかぶらなければならない。私如きが明日から銀行の頭取にはなれないんです。
 「万年筆マネー」のキモは、それより、次の点にあるのでしょう。
 借りる人は元金+利子以上のお金を稼ぐ見込みがあるから借りるのでしょう。言い換えると、1億円以上のモノ(サービスを含む)を作って売る自信があって、1億円借りわけです。
 見込み通りなら、その企業は銀行に1億円+利子を返した後で、いわゆる粗利から、社員の給料やら税金を払います。たとえ失敗しても、そのモノを作る過程で使った材料費やら工賃は、1億円分、社会に出回ります。
 逆に、こういう借金→投資がなければ、お金は社会で流通しない。銀行の日銀当座預金にいくらあろうと、それは使えないんだから、我々一般国民にとっては、ないのと同じこと。
 お金は、銀行の貸し出しによって初めて生じる、とはつまりそういう意味だと、私は理解しております。

◎お金の話をなんとなく始めてから、多くの人からご意見をいただき、とてもありがたいのですが、どうも元来無知で無能なのでうまく飲み込めません。これ以上話をすすめるには時間がかかりそうなので、自分の立ち位置を改めて述べておこうと思います。結局言い訳になってしまうでしょうし、大して興味も持たれないでしょうが、よかったらお読み下さい。
 世の中には私には理解出来ないことがごまんとあることは、さすがに承知しています。宇宙生成の話ですとか、変形生成文法ですとか。それは黙っていても、自分の身がどうなるということもなさそうなので、専門家に任せておけばばよい。
 しかし、経済政策となると、今日明日にも日本社会が、ということは社会の一員である私個人にも、密接に関わってくる領域です。そこで、
「日本の借金1,100兆円、国民一人当り880万円」
「将来世代にツケを残す」
というような明々白々たるデタラメが公然と言われているのを見ると、これを黙っていたのではせっかく民主国家の国民でいる甲斐がない。そう思ったのです。
 私は幸にして、「これは悪い冗談みたいな話だが」と言ってくれる人(誰だか忘れました(-_-;))から赤字国債の話を聞きましたので、ダマされずにすみました。説明が必要だとしたら、例えば、皆さん先刻ご承知でしょうが、例えば次の表でもざっと頭に入れておけば。
 これによると、本年6月の時点で、国債の47.7%(約490兆円)、国債の償還や借り換え時につなぎとして使う国庫短期証券を含めても44.5%(約520兆円)を日銀が保っています。これは、事実上、国債の半分近くが既に償還済みであることを意味します。「国の赤字1,100兆円」は、この時点でウソ。
 それから、残りの国債は、市中銀行と保険会社が保っています(全体の35.6%)。国債を買うのは主にここなのでしょう。その資金は? 結局は国民のお金、というのは後に述べる理由で憚られますが、取敢えず、民間のお金が使われているんです。
 これを借金と考えても、国民の税金から返す、なんてことなら、税の二重取りに近くなります。なんと、そうではありませんか。まるっきり筋の通らない話なんです。
 これで終わりならいいんですが、まだ先があるんです。銀行が顧客から集めた預金で国債を買っている、ならわかりやすいんですけど、そうすると、
「これから老齢化で、預金を取り崩して生活する老人が増える。そうすると、預金が減るんで、銀行は国債が買えなくなる」
なんて言う人もいて。
 だいたい、これは事実ではない。「お金は、誰かが銀行から借金した時に生まれる」という信用創造論。日銀の人もあっさり認めた、言わば公認された事実なんですが、これを財務や会計の現場にいたことのない人が理解するのは容易ではない。
 我々は、
「銀行は国民から預金を集めて、それを企業などに貸し付けるんだ」
と教わってきましたからね。私も、中野剛志『富国と強兵』を読むまではそう思っていました。
 これはけっこう大きな問題ですよ。なるべくたくさんの人に同意していただけないと、「多数の意思が政策を決定する」という民主主義の原則が働きませんから。何かの利害関係やら、イデオロギーに捕らわれている人を説得するのは不可能、と私はとうにあきらめています。しかし、一応聞く耳はある一般の人の素朴な疑問にちゃんと答えられないなら、いかなる正論も、社会的な力を持ち得ないでしょう。
 個人的に、何人かと話をして、「万年筆マネー」を言い出すと、「そんなバカな」という顔をされたり、直接言われて、終わりでした。だいたい、私自身が完全に納得していないのだから、当然です。
 なんとかならないものかな、としばらく前から考えあぐねています。こんな奴の相手もしてやろう、という奇特な方々、この先もご意見をいただければ。

◎信用創造money creatingの話は私の頭の中でまだ足踏みを続けてますんで、ちょっと視点を変えて、人間の道徳心について考えてみます。
 「自分で稼ぐ金以上に借金をして、その金で暮らしていくなんて、まともじゃない」というやつ。これは、個人については全く本当なんですが、国にはあてはまらない。今や私でさえも、「そんなの、当り前だ」と思ってしまう。そこで傲慢になって、「分からない奴はバカなんだ」なんて態度になると、鼻持ちならず、この「当り前」が世間に広まる支障になります。もう少し向こう側に寄り添ってみましょう。
 例えば、「税金の無駄遣い」なる、よくある言い回し。
 先日、日曜会で法廷ものの傑作映画「検察側の証人」(1957年、ビリー・ワイルダー監督、アガサ・クリスティー原作、マレーネ・ディートリッヒ主演。「情婦」なんて、ひどい邦題がついている)を鑑賞しました。この中で、証言台のマイクをぞんざいに扱う中年女性の証人を、判事が、「それは税金で買ったものです」とたしなめる場面がありました。
 これを、「そのマイクは、政府の、返さなくてもいい借金で買ったものだ。大切に扱いなさい」なんて言ったら、説得力がない、どころか、「ふざけてるのか?」ということになるでしょう。
 1957年と言えば、いわゆるニクソン・ショック(1971年)で、金本位制が名実ともに崩壊する四半世紀前ですから、現在とは国の財務状況は違っているのかも知れない。そうだとしても、この言い回しは連綿として残っている。
 ひょっとしたら、上の「当り前」が世間一般でもそうなった後も、残るかも知れない。税収からだって、支出されないわけじゃないですし。
 よく、主流派経済学とMMTの違いは、天動説と地動説の違いだ、なんてMMT寄りの人は言いますね。
 今では、天動説が正しいんだ、と思っている人はめったにいないでしょう。しかし、「日の出」sunrise「日の入」sunsetなんて表現は普通に残っている。普通人の生活実感に合ってますからね。
 おそらく、「税金の無駄遣い」も、長く残るんじゃないでしょうか。別に害がないなら、それでもいいです。私だって、つい使ってしまうことが、今後もないとは言えない。何から買ったものだろうと、ものを大切にするのはいいことですんで。
 ただこれが。「税金泥棒」なんて、社会の特定の立場にある人々を非難するために使われると、ちょっとまずい。それは中には、いいかげんな公務員もいるでしょうが、だから全員の給料を減らせ、人数も減らせ、になると、結局は公共サービスの低下という形で国民に害をもたらす。
 それから、三橋貴明さんの言う「お金のプール論」ですか、すぐに「で、その財源は?」ときて、これが明らかにならない案は非現実的だ、とみなす思考。
 政府は税収の範囲でしかお金を使えないんだとすると、その総額が急に伸びることはない(というか、それは国民の所得を今よりたくさん取り上げることになりますので、社会に出回るお金の総量を減らす結果をもたらす)ので、他の分野に使われているお金を回さなければならない、という。
 ここまできたら、その財政観、中でも税金に対する考え方はまちがっている、と言わざるを得ない。
 これを説得するのは難しい。長い間人々の生活実感の中に蓄積されてきた金銭観と、自然に結びつきますから(社会的な特定の立場や、イデオロギーに囚われている人はここでは除きます)。
 最後に、税金からちょっと離れます。
 MMTは、お札は無限に刷れるという主張だとみなして、「そんなの錬金術だ」「打ち出の小槌みたいな話だ」と言う人々。
 MMTに関する誤解を除けば、この考え方はまちがっていません。いや、「そんなもの、ないんだ」は、この世の中の鉄則と言っていいでしょう。
 ただしそれは、お金ではなく、生産され消費されるモノ(サービスを含む)に対して言うべきなのです。
 どんな時代でも、人は、労働して、価値あるものを生産しなくてはならない。それが乏しくなったら、買うための手段であるお金の価値も自然に下がる。
 要するに、お金には最初から値打ちがあるのではなく、それが使える状態があるから、価値あるものとみなされるのです。
 ここは自分で完全に納得しておりますので、もっと表現力を磨いて、一人でも多くの人に伝えていきたい、と念願しておるのです。
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経済オンチがお金について語ってみた その1

2020年09月17日 | 倫理

エコノミストOnline とことんMMT より
 
 以下はFaceBookに9月5日から12日にかけて出した投稿をまとめたものです。このシリーズは現在も継続中です。
 なんでこんな話を始めたかの、個人的なきっかけは言わなくてもいいでしょう。私は、経済についてよく知らないし、わかりません。そんな者でも、社会的な利害関係やイデオロギーとは関係ないところで感じたことなら、多少は他の人の役にも立つか、と期待して、言ってみました。

◎一番単純なお金の話。
 豊かになる、とは経済的に発展することで、そのためには通貨(マネー)を増やす必要がある。
 昔は通貨には金(Gold)が最も多く使われたので、これをめぐって争いが起き、その奪取に一番成功した西欧諸国が世界の覇者となった。
 しかし近代ではそう乱暴によそから奪ってくる、というわけにはいかないし、だいたいこれでは、金の量以上に経済規模は拡大しない。
 それ以前に、貸し借りは普通になっていたし、通貨は紙切れが主になっていた。貸したらIOU(証文)を書くのだが、これもお金に結びついた紙切れなら、通貨扱いしてもいい。事実、そうなる場合があった。
 そしたらさ、お金を借りて、それをできるだけ、できれば永遠に、返さなかったら、お金が増えたことにならないか?
 ということで、管理通貨制度下での、経済発展が始まった。
「なんかおかしい。真っ当じゃない」と感じたり言ったりする道徳的な人は必ずいる。
 そうかもわからん。しかし、彼らが満足する社会とは、経済発展とは逆に、皆が貧乏になっていく場所だ。
 私ぐらい以上の年代がかろうじて覚えている、気楽にものが買えるスーパーやコンビニはなく、医者に行くのも一苦労、川の堤防が老朽化しているのはわかっていても、容易には直せない。
 しかもこの状態は進行する。おかげで死んでしまう人も大量に発生する。
 それでもなんでも、借金なんかしないで、真っ当に生きて行くのが人の道だ、とまで言うなら、一つの思想的な立場として認めないでもない。
 ただ、そういう人がたいてい私より裕福で、優雅な暮らしをしているようなのが、どうも釈然としないだけだ。

◎また単純なお金の話。
 借金が許されない国があったとしよう。かなり苦しい想定だけど。会社は社員の持ち寄りの資金でなんとか商品(サービスを含む)を作って(それって、社員が会社にお金を貸してることになるじゃん、というような厳しいツッコミは暫くご容赦)、売る。売れたお金は社員で分ける。この会社では損は出なかった、としたら、顧客の総体がそれだけのお金を払ったことになる。
 GDP三面等価の原則、なんて持ち出すまでもない。誰かが国内でお金を稼ぐなら、必ず誰かがそのお金を出していて、その総額は必ず一致する。余分なお金は生じない。当り前の話。
 余剰金を出すためには、よそからお金を入れるしかない。貿易収支の黒字で、国外からか、あるいは、通貨発行権を持つ政府が、お金を刷って配るか。前者は、日本は今は黒字のようだが、急に増える要素はなし、ほぼ一定、と考えてよい(実は、一国について上で考えたことを、世界大に拡げたら、日本は他国のお金を吸い上げていることになって、ここで過度に儲けるのは、国際社会ではあんまり好ましいことではないでしょう)。
 後者の場合、無根拠に出す、というわけには、いくのかも知れないけど、怖いんで、やっぱり、一種の借金という形にする。経済発展するためには、これだけは目をつぶろうよ、てな感じで。
 目はつぶれるんだよ。国は、国債という債券で借金をするんだが、返してくれ、と言われたら、その時こそその分の現金(無利子無期限の、一種の債券)を刷って(実際は相手の銀行口座に金額を書き込むだけ、が大部分だろう)、替えればいいんだから。誰も困りゃしないんだ。
 こうしてできた金で、国は、最も広い意味の公共事業、つまり、インフラ整備やら公務員の給料やら国防やら各種補助金やらを拠出する。その分が国全体の余剰金になる。つまり、社会全体のお金が増えて、社会全体が経済成長する。
 いや、それでもなんでも、借金は借金なんだから、いかん、ということになると、国の正規の収入である税金ですべてを賄え、と要求しているわけで。
 税金て、基本的に、国民が稼いだ利益から出すもんだ。つまり、国民の支出から出すのと同じこと。全部形を変えてこっちに返ってくるんだとしても、余分なお金は生まれない。国が経済発展するわけないんだ。
 いや、生産―供給に回す分が足りなくなるだけ、確実に金不足、つまり貧乏になるだろう。
 プライマリーバランスの黒字化って、こういう恐ろしいことになる。なんと、皆さん、そうではありませんか?

◎またまた単純なお金の話。
「国がいくらでもお金を刷って使えるもんなら、税金を取り立てる必要ないんじゃね?」という批判はよく聞くし、これに対する反論も多い。
 しかし、これが嵩じて、「お金っていくらでもタダで作れるんでしょ? だったら、俺にもタダでくれよ」なんてことになると、冗談にしても度が過ぎてるな、って感じになる。
 緊縮財政派の真意を最大限好意的に忖度すると、こういう人が増えるのを警戒しているのかもね。
 だが、MMT派も、たいてい、BI(ベーシック・インカム)にもヘリコプターマネーにも反対してるんだがね。
 一万円札になぜ値打ちがあるって思えるのか。それは、日本国内でなら、これと交換に、一万円相当のモノ(商品+サービス)が手に入るって信じられているからでしょ? それ以外に理由はないよね。元は借金だろ、なんて、誰が気にするんだ?
 だから、日本の生産・供給力が落ちて、交換できるモノ、つまり買えるモノが乏しくなったら、一万円の値打ち、つまり信用力も下がる。
 買えるモノが何もなくなったら値打ちゼロ。お札の総数が多くても少なくても関係ない。鼻紙にも、メモ用紙にも、使い勝手が悪い、ただの紙切れになってしまう。
 日本人ができるだけ一所懸命働いて、売るべきモノを作っていくことが、円の値打ち・信用力を支えてるんだ。
 これがうまくいっていて、買えるモノがたくさんあるなら、一万円札の値打ちは、インフレ・デフレで多少高下しても、ゼロにはならない。必ずほしがる人はいる。私もほしい😉
 多くの人が欲しがる債券は決して暴落なんかしない。円や国債の信用がどうたらの話はこれでおしまい、でよくないですか?
 それにまた、コロナ禍の現在では、生産や供給の拠点である企業を、可能な限り潰さないようにすることこそ、最も肝要、ということになりますよね。

◎以下では、いくつかいただいた疑問を、自分なりにまとめたうえで(つまり、答えやすくして😉)、ポツポツお答えしていこうと思います。あくまで、自分の頭の整理のためにです。
疑問1:「借金でお金を増やす」とはどういうことだ。オレは昔信用ならん奴を信用してしまって、1万円貸して、逃げられたことがある。そいつは1万円得して、オレは1万円損したわけだ。よしんば返してもらったところで、オレの財布から出た1万円が一度そいつの財布に入って、また元にもどるだけの話だ。利子があったら、オレの儲けにはなるがな。それはそいつの金がこっちへ来るだけで、世の中のお金なんて、一文も増えてないぞ。
お答え:はい、これは以下のようなメカニズムだと思います。
 私がAさんに、IOU(借用書)を書いて、1万円借りました。その後、逃げたというわけではないんですが、外国へ行ってしまい、取り立てが面倒になりました。急に1万円が必要になったAさんは、共通の知人のBさんに相談したところ、Bさんは、
「草一なら帰ってきてから必ず返すだろうから、その借金は俺が引き受けよう」
と言ってくださって、草一発行のIOUと引き換えにAさんに1万円渡しました。
 その他、Cさん、Dさん、Eさん……と、沢山の人がBさんと同じように思って、1万円とこのIOUを交換してくれたとします。すると、
(1) 草一が1万円返さなくても、誰も困らない。
(2) 結果、世の中のお金(のようなものを含む)は1万円だけ増える。草一が1万円返却した時点で、件のIOUは価値を失い、世の中のお金は1万円だけ減る。
 そんなのあり得ない話だ、とおっしゃいますね。その通りです。私の信用力では無理に決まってます。でも企業が振り出したIOUである小切手や手形なら、割引とか、いろいろあって、額面通りではないかも知れないけど、とりあえず流通してますでしょう。ごく限られた範囲と期間内では。
 国内最大の信用力を持っているのは、言うまでもなく政府です。そのIOUたる国債は、流通することはそんなになくても、売り買いの形で、日本のもう一つの負債である日本銀行券、及びそれと同等の価値を持つ銀行預金に替えられていきます。
 お札も負債です。日本銀行自身がそう説明しています。
 利子もなければ支払期限もなく、それどころか、昔は金(ゴールド)を返したことがあったのかも知れませんが、今では返すものがそもそも何もないIOUなのです。
 管理通貨制の国家とは、そういう途方もないもので経済をまわしているのです。
 ですからまた、日本政府が借金を返そうなんぞとしたら、日本からお金は、ほとんど消えてしまいます。
 なんでそんな恐ろしいことを考えるんでしょうか?

◎疑問2:国が大規模な財政出動をして、公共事業で有効需要を創り出すことができたとしても、儲けるのはせいぜい一部のゼネコンとか土建屋ばかりだ。日本の社会構造を変えない限り、貧乏人が報われることはないんじゃないか?
お答え:こんなふうに言いたくなる気持は、理屈より、それこそ感情的にわかります。私もずっと田舎暮らしなんで、地元のボスと呼ばれる人たちとちょっとは接触がありました。田舎では、金持ちと言えば土建屋さんばかり。彼らが公共事業を受注して、下請けの業者に仕事を回していく。正にボスで、市長も市会議員も、誰も逆らえない。
 中にはいい人もいましたよ。しかしそれは、私がそのような金脈=権力構造の外側にいたからで、内部の人はウラミツラミが溜まっていくこともあったでしょう。構造改革というのはそういう人たちにウケたので、例えば長野では田中康夫が知事になり、「脱ダム宣言」なんてぶち上げて、結果今年の……いやこれはまだ検証途中らしいん、自主規制。
 つまり、ものごとには両面あって、未だに構造改革が足りない、という人もいて、それには正当な部分があるでしょう。日本の(だけではないでしょうが)社会構造には、できたら変えたほうがいい部分は沢山ある。でも、そのためには何から手をつければいいのかも、残念ながら私には見当もつかない。
 現今の優先順位としては、それでもやっぱり、社会にお金を流すべきなのではないか、と。ボスさんたちだって、金は、使わなきゃ意味ないんですから。ラスベガスで豪遊して全部スったりしない限り(そりゃいくらなんでも少数でしょう)、今よりは地域社会、ひいては日本にとって、マシだと思います。
 これだけではあんまりだらしないんで、一気に話を拡げてみます。かの有名な問題です。
「資本主義国では、金持ちはどんどん金持ちになり、貧乏人はどんどん貧乏になっていく」
 事実なんでしょう。残念ながら、かつ申し訳ないことながら、国が豊かになっていったら、まず、金持ちが金を増やす。この部分は今のところどうにもならないらしい。
 それでもどうにかしなくてはならないのは、反比例して、貧乏人のお金がどんどん乏しくなること。経済政策は、ここの是正を主眼にして行われねばなりません。
 根本的な定理。経済発展していかないなら、その社会の金持ち>貧乏人の反比例関係は大きくなる。
 当然でしょう? その状態で金儲けしようと思ったら、他人のお金を奪うより他に仕方ないんですから。
 とりあえず、今の日本は、貧乏人により多くの負担をかける消費税は減額、理想的には、全廃すべきです。
 因みに、消費税を社会保障費の財源に使うというのはインチキであることは、2年前、山本太郎が議員だった頃に暴いています。未見の方は、どうぞご覧下さい。

◎こちらにポツポツと発表した愚考について、皆様から有益なコメントをいただきました。ありがとうございます。それを踏まえて、も少し先(かな?)を述べます。
 学生時代にオルダス・ハックスリーの傑作ディストピア小説「すばらしき新世界」を読んだら、描かれているのは、宗教が死滅して科学技術一辺倒で営まれている社会なのですが、ここでは英米人がよく口にする間投詞(おや、まあ、ぐらいの感じの)としてのJesus!の代わりにFord!と叫ぶのです。
 これはヘンリー・フォードのことだと、岩波文庫の解説で読んだと思いますが、え? フォードって、仮にもイエス・キリストに替わり得るような、そこまですごい人なの? とちょっと戸惑いました。
 その後、フォーディズムと呼ばれるものをちょっと勉強しましたら、概要は以下。
(1) 自動車の生産ラインの流れ作業化を徹底して、一台あたりの生産コストを下げる。
(2) 労働者の賃金を当時の相場で約三倍まで上げて、自社の商品(自動車)を買いやすいようにする。労働者は家に帰れば消費者になる、ということに改めて着目した、「コロンブスの卵」であったかも知れません。やっぱり、すごい。
 基本的にはこのやり方が広まり、先進国で大量生産・大量消費時代が到来したわけですね。技術革新と、社会成員すべての収入アップ。そしてこの両者≒生産―消費がスムースに流れるための貨幣量の調節。
 これらがうまくかみあって社会が豊かになっていくことを経済成長と呼ぶ。
 残念なことかもしれないけれど、貧乏人がいくぶんかでも金持ちになる方法は、人類はこれ以外には発明していないのではないでしょうか?
 ただ、これで万々歳というわけにはいかない。大量生産→大量消費→豊かな社会、の見本だったアメリカが、今、まだ経済成長が続いているにもかかわらず、貧富の差が絶望的なまでに開いていることは、もはや周知の事実です。
 それにはヘッジ・ファンドなどの金融ビジネスの巨大化が大きな要因になっているでしょう。
 r(資産運用で得られる利益)>g(労働によって得られる所得)は、資本主義ではしかたないのかも知れない。貨幣だって一種の債券なんですから。
 ただ、ここからくる弊害を減らすことに、経済政策の焦点が置かれるべきであることは確実です。
 消費税について前回申しましたが、外国資本の安易な流入も警戒しなくてはならぬでしょう。
 地元密着型の土建屋さんとか、メーカーの実質的な社長さんなら、地元民や社員との生の人間関係がありますから、そこまで阿漕なことはできない、歯止めにはなると期待されます。
 しかし、地球上のどこにいるのかもわからない資本家や投資家にとって、地域社会も、社員も含めた会社そのものも、単なる商品以外ではない。そのほうが儲かるとわかったら、解体して売り飛ばしちまっても全然かまわんでしょう。
 やるべきことはいっぱいあるんです。政争なんてやっているヒマは、本来ないはずなんですが。
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倫理の起点

2019年05月31日 | 倫理
メインテキスト:小浜逸郎『倫理の起源』(ポット出版プラス、平成31年)

 小浜ブログに断続的に掲載されてきた「倫理の起源」がこのほど一書にまとまった。現在のような出版事情でこのような書籍が出るのは、それだけで慶賀されるべきであろう。
 以前からの読者として(と言って、よい読み手というわけではないが)感想、というより、心に浮かんだことを書きつけておきたい。それがつまり「一読三陳」の趣旨でもあるので。
 
 この書は「倫理“学”」ではなく、「倫理学批判」を目指すものだ。つまり、主に西洋哲学によって、とんでもなく遠いところ(「善のイデア」とか「道徳律」とか)へ祭り上げられた倫理の根拠を、より身近な、人と人との関わりの場へもどす試みである。

 まず、良心とは何か。著者はその淵源を、子どもが親に叱られた時の恐怖に見いだす。幼児は、親に見捨てられては生きていけない、そのことは本能的に察知する。長じても、人は他人との関わりの中でしか生きていけない。そもそも、共同性以前に「個人」なるものはない。共同性こそ、人間にとって「本源」(和辻哲郎の用語)なのだ。それが毀損される不安が、関わり合い=共同性をできるだけ良好に保とうとする心性を生む。それが即ち良心である。
 これは多くの人の腑に落ちる言説であろう。発達心理学の本にも、似たようなことは書いてあったように思う。ここから一歩進めて、倫理とは何か、と問うならば、人間ができるだけ安定して、幸せに暮らすことができるために役立つ諸種の行為と禁止事項の総体である。
西洋思想の中では、功利主義と呼ばれているものがこの範囲に留まって思索を展開している。しかし、この思想はしばしば嘲笑の的にされ、代わって、あらゆる現象の背後にひそむ「本質」、その中の「善の本質」とか、経験以前に、即ち共同性以前に人間の内に存在する道徳律とか、まとめれば「絶対善」の観念を樹てようとする試みが、装いを変えて、繰り返し繰り返し西洋思想の中に現れ、重んじられてきた。
 それはなぜか、私なりに考えると、たぶん、「自由で自律的な個人」というフィクションに内容を与えるためにである。非常に曖昧で抽象的なしろものではあるが、やはりそれはある、としたほうがいい。その指向ばかりは人間社会に偏在しているらしい。それはなぜか。

 まず一番単純な話、抽象的なものほどカッコよくて、高揚感をもたらす、ということがある。
 今もそうなのかどうか、私が若い頃には、「国家なんてものを越えて、人類全体を視野に収めて考えるべきだ」なる言論が盛んだった。「越えて」と言いさえすれば越えられるとは、なんともお気楽で、それだけにおよそ無意味な言説である。人類全体の共同性なんてものは、一番抽象性が高い。ということはつまり、人々の頭の中にしかない純粋な観念で、だからこそ現実の桎梏によって傷つけられることのない夢の美しさを保つ。
 具体的に存在する共同体でも、家族、地域共同体、経済共同体(企業)、国家、といった具合に範囲が大きくなると、それだけ重要性が増すように思え、また個々人の目には容易に全体が見渡せない、という意味で抽象性が強まる。それならば、より大きな共同性のために生きることは、より正しい生き方だということになりはしないだろうか。
 両性のなかでもより観念的な傾向の強い男性は、そう思いがちである。またもちろん、大きな共同体、たとえば国家は現にあり、それを保つためにやるべきこともある。
 例えば、子どもに普通教育を受けさせることは、親の義務であると同時に、国家が取り組むべき事業とされる。全国に学校を作るなんてことは、個人や小さな共同体にできることではないのだから。これを承認する、ということは、個々人は、自分に子どもの有り無しにかかわらず、学校の設置・運営のために自分の税金が支払われることを承認したことになる。
 以上は非常に具体的で、ささやかな話ではある。
 そして、このようなささやかだがなくてはならない義務を果たすことが即ち善行であり、特別な行いは必要ないのだ、と著者は言う。もっともである。「特別な行い」は、共同体の実際の必要性よりは多く、「自分は特別だと思いたい」個人的な欲望から発しているのだから。ヒーロー(英雄)と麻薬のヘロインは同語源の言葉なのだ。
 「アーリア/大和民族の偉大性」などというと、具体的には何か、さっぱりわからないのだが、むしろそのほうがいい。「人類全体」と同じ、なんとなく高尚そうな純粋な観念のほうが、人を酔わせる力が強いのである。酔った挙句、自分がその化身のように思い込むと、自分を含めた個々人に犠牲を強いてでも、やるべきことをやっていい、いや、やるべきだ、などというところまで亢進する。そこまでいった人間が、過激な行動に走る心理過程を、このうえなく説得的な描いた小説に、大江健三郎「セブンティーン」がある。
 また、過激な行動には走らないまでも、「普通の人間には見えないより正しい真実」の需要はある。何よりも、自分自身をより価値の高いものだと思いたいがために。「絶対善」をめぐる言説が今まで絶えなかった理由はこれで、たぶん今後も絶えることはない。
 
 より深刻な問題もある。
 著者は、和辻哲郎の倫理学に強く影響されていることは率直に認めながら、批判的な乗り越えを図っている。和辻は共同性を保つ原理を人間相互の「信頼」に置く。それはその通りに違いないが、どうもこの「信頼」は確固不動のものであるかのような書きぶりになっている。もちろん、そんなことはあり得ない。むしろ、それが失われるかもしれない不安こそ、倫理と呼ばれる価値観念と感覚を成立せしめるのである。
 さて、それでは共同性が失われる契機はなんだろう。最初に戻って、幼児にとっては両親の怒り・叱責が直接そう見える。だから彼らは、懸命に親の信頼を得ようと努め、これを通じて最初の社会化を果たす。
 それは最初の話。時が経てば、共同性・関係性自体が変化せざるを得ない。子どもは成長するし、親は年老いる。その時々で共同性を保ち、できればよりよいものにしていくための役割もまた、変わらざるを得ない。そして、このような役割を担うのは、個人である他はない。
 つまり人は、共同体の名において、よき個人であることが求められる。そして何が「よき個人」であることの内容をみつけることもまた、個人に委ねられている。

 例えば、今多くの人が現実に直面している問題に、年老いて介護が必要になった親を、自宅に置くべきか、施設に入れるべきか、の悩みがある。
 入れようとしても施設が足りない、という話はひところよく聞いた。このような状況はできるだけ改善されるべきである。それは地域社会や国家など、より大きな共同体の責務であろう。これに限っても、100パーセント満足のいく状態は達成できないのではないか、という気はするが、とりあえず、努力の方向性は定まっている。そう言ってよい。
 しかし、仮に、経済的社会的にはどちらでも自由に選べる立場であったとしても、どちらがよいのかは、容易にわからない。
 こういうときあなたは、様々な実例を見て検討し、また他人のアドバイスを求めることもできる。いや、現にそうしているだろう。しかし結局、最終的な決定は、あなたがくださなければならない。
 たぶん、一般的客観的に「正しい」道など、原理的にないのだろう。ある家庭は、それぞれの固有の歴史を背負い、具体的な現状の中で存在するのだから。その中で、現にいるあなた、あるいは(兄弟がいる場合には)あなたがたが、決断して実行する。
 ところが人間は完全ではないのだから、決断が悪い結果を招く可能性はある。ずっと自宅で介護したら、介護される本人は幸せだったが、家族の他のメンバーに過剰な負担をかけてしまい、家庭が不幸になった、というような。
 このような悪い結果の「責任」はどうなるか。もし、それがあり得る/なくてはならない、のだとしたら、それはあなたが負うしかない。あなたという個人が、ここで否応なく表に登場する。よき共同性を保つべきであったのに、結果としてそうしなかった罪責ある者として。
 「あなたにはAができたが、Bもできた。そこで、人間社会で一般に悪とされ、法律でも明確に禁止されているAをしたのだから、その責任はあなたにある」なる理屈ができたのは近代のことであるしい。「自由で自律的な個人」の概念、それは今日ではかなり疑われている。というか、これもまた、「社会の都合上あることにしよう」として定められたフィクションなのであろう。
 にもかかわらず、私の知る限り、罪を犯した廉で罰せられる「罪人」は、古今東西の社会にいたようである。責任は原則として個人が負うものだ。この観念は、まさに、共同性を保つためにこそ必要なのであろう。ならば、個人にとっての「正しい生き方」は何か、絶えず問われねばならないのである。
 まとめると、始まりには共同性への「不安」を感じる者として、終わりにはその不安を解消する「責任」を負う者として、「個人」はある。そして倫理は、個人にこそ関わる。

 最後に改めて、家族(最小の、男女一対のものを含む)から国家にまで至る各共同体が、相互に齟齬をきたす場合について、考えてみたい。
 前述の、「より大きな共同体こそより価値が高い」なる思い込みについて、著者は改めるように求めている。より大きな共同体は、より小さな共同体の安定と幸福を保つことを第一の役割として運営されるべきだ、というふうに。ならばまた、個々の共同体にとって必要であるとか、よいことであると納得される限りにおいて、個々人はより大きな共同体のために働くようにする、ことにもなる。
 戦後日本では、すぐに受け入れられそうな提言ではある。しかし、当然ながら、「一人の人間の命は地球より重い」(福田赳夫以前からこの言葉はあった)なんて、歌を歌っていればすむほど、ことは簡単ではない。
 仕事の都合と家庭の都合と、どちらを優先させるべきか、などは、程度の差こそあれ、普通の人間の生涯中に一度はふりかかる局面であろう。その場合には原則として仕事を優先させるべき、というのが従来の男性的価値観だとすれば、それは変更されたほうがよい。
 そうは言っても、仕事も家庭も千差万別で、それぞれに固有な事情があるのだから、一般的客観的な解などないことは、上と同じであろう。それでも、いくらかでも気分が楽になる人がいるなら。それ以上は望まない方が、むしろよい。

 最も苛烈なケースである、戦争に関する考察が、本書の掉尾を飾っている。
 本ブログでも以前に取り上げたが、平成18年に刊行された百田尚樹「永遠の零」は、社会思想的に画期的な意味がある。
 ここでは新たな、戦争のヒーロー像が語られている。国家のために一命を捧げる、遺される家族への哀惜はあっても、それに後ろ髪を引かれはしない男の中の男、ではなく、「家族のために、なんとしても生きて帰りたい」と公言する軍人が主人公なのだ。
 彼は軍人としては不適格者なのか。そんなことはない。最もつづめて言えば、戦争は勝つためにやるものだ。そして、最後にこっちが生き残り、向こうが死んでいることが、つまり勝つということではないか。ならば、自分の命を大事にすることこそ、すぐれた戦争の専門家、即ち軍人の資質としてよい。
 このように考えればまた、「国のため」と「家族のため」の二つの共同体への配慮も並び立つ。と、そう簡単にはいかないところまできちんと描いているのが、この小説の優れたところである。

 主人公は戦闘機乗りで、超人の域にまで達した技能を持つ。そのため、航空隊の教官となるが、上の合理主義はここでも発揮される。訓練生たちを、なかなか合格させないのである。未熟な飛行・戦闘技術のまま戦争に出せば、無駄死にさせるばかりだ。これは忍びないだけでなく、戦争に勝つためにも有害である。
 そんな思いと裏腹に、大東亜戦争の戦局は悪化の一途をたどる。追いつめられた日本軍は、合理性に欠けた無茶苦茶な作戦の挙句、特攻という、世界の戦史上類のない「統率の外道」(大西瀧治郎がそう言ったとされる)に踏み切る。
 合理的な思考からすれば、満足に戦争を続けられるだけの兵器も兵力もほとんどなく、兵士の命と引き換えの攻撃しかやることがない、となれば、その時点で戦争は負けなのである。それを認めることができないほど、旧日本軍は「敗北よりは美しい死」なる美学に冒されていた。これもまた、前述の、人を酔わせる「美しい観念」の一つとしてよい。
 主人公は、これほど無駄に若者を死なせる作戦の片棒を担ぐことには耐えられない。懊悩の果てに、「必ず帰る」という家族との誓いは捨て、自らも特攻を志願する。同じ時に飛び立つことになった隊に、かつて一身の危険を顧みず、彼を救った若い兵士がいた。主人公は、自分の機のエンジンに不調があることを発見して、口実を設けて若者との機の変更を申し出る。
 一度特攻で出撃したら、生きて帰ることは許されないが、機の故障で目指す戦場まで行けないことが明らかな場合には、例外だった。おかでげで若者は九死に一生を得て、戦後まで生き延び、主人公に代わって彼の家族を救うことになる。
 ご都合主義てんこもりの結末、とは言えるが、だから文学作品として質が低いとは、著者同様、私も思わない。だいたい、全く欠点のない主人公の人物設定からして、まず現実にはないものだ。そこで綴られているのは、文学でのみ歌われる得る、美しい夢なのである。人を過激な行動へ誘うのではなく、深い鎮魂の念をもたらす類の。それだけに、現実にそのまま適用されるようなものではない。
 現実に生きる人間とは、共同性を結んだ他者のために何事かをなそうとしても、なかなかできない程度の卑小な存在である。それでも、ではなくて、それだからこそ、「正しい道」は、今この場で求められなくてはならない。本書は、「今、この場」はどこにあるか、明らかにした。何よりそこで、貴重な仕事と呼ばれ得ると思う。

【「今、この場」から少し引いた視点から見ると、あらゆる共同性は、その外側に「異質なもの」を作り出し、それの排除を必然とするのは明らかだ。戦争に勝ち、家族の元へ帰るためには、敵方の多くの兵士を殺し、多くの家庭を破壊せねばならない。ここを強調すれば、すべての共同体に究極の価値はないし、中でも現在最大の共同体である国家は悪、なる感覚を呼ぶ。
 EUは、国境を低くし、その分従来の共同性を弱める最近の試みだった。その結果何が生じたか、最近省察を述べた。こういう場合、どういう方向が好ましいか、まだ入口も見つかっていない、というのが正直なこところのようだ。今後取り組むべき課題はまことに大きい。それだけに、やり甲斐も大きい、と感じられるような強さだけは、なんとかかんとか持ち続けたいものです。】
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