由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

福田恆存に関するいくつかの疑問 その11(入門になりそうな二冊)

2024年09月27日 | 文学

三百人劇場 「東京生活日和」より

◎『福田恆存の言葉 処世術から宗教まで』(文春新書令和6年)
 これは懐かしい。本書の元は昭和51年、現代演劇協会の今はない拠点三百人劇場で行われた「土曜講座」での連続講演。ほぼ月に一回で全八回、毎回登壇する福田先生に加えてゲストが各回一人づつする、それぞれ1時間半程度の講演で構成されていました。
 私は当時大学生で福田先生と少しつながりがあり、いや、正確に言うと先生とつながりのある人とつながりがあり、入場券のもぎりなど、雑用のお手伝いをした、いや、正確に言うと、ちょっとしたお手伝いをするという形で、タダで毎回の講演を聴いたのです。ありがたい話でした。第一回目のゲスト講師は小林秀雄(このときの講演の内容は以前紹介したものです)で、この人の人気で会場は大盛況、私は通路の階段に座って聴いたのも良い思い出です。
 以下、敬称は略します。

 この講演が今回活字になったわけですが、書籍化の話は福田の生前からあり、しかし彼は「話がまとまらなかったから」と断ったそうです。今回実現したのは、文藝春秋社と先生の御次男・逸氏の尽力によります。しかし、誰が最終的にまとめたかは知りませんが、たいしたものだと感心しました。思い返せば、と言っても今そんなにちゃんと覚えているわけではないですが、読んで改めて思い出したところでは、ご当人が認めるとおり、この連続講演は、後になるほど話題が多岐に渡り、本筋が見づらくなった、そこをたいへんうまくまとめています。
 そのうまくまとまっていることを短くうまくまとめて言うのは難しい。今回は紹介が目的なので、怪しいな、と思われたら現物にあたっていただけばいいので、怪しいままに書いていくと。
 「処世術から宗教まで」というタイトルは、この中間には人間世界のたいていのことが入るから、何を喋ってもいいようにつけたんだ、と福田は最初の講演で笑って言っていた。実際は処世術、いわゆる世渡りから始まって、それを宗教、つまり神様の話につなげていく、福田独自の論理展開の妙味、というよりは人間観を簡単に味わえる。
 私見によると、一番のキーワードは「主体(性)」です。こういうと、え? と言われるかも。それじゃ福田恆存って、進歩的文化人か、つまらぬ道徳家だってことか? と。これは完全な見当外れではないけれど、肝心なのはそこまでの道筋です。

 福田はまず、ゴマすりは悪くないんだ、と言います。自分の希望、この場合欲望のほうがいいか、を叶えようとしたら、それなりの手練手管、即ち術がいる。いわゆる処世術の一種。「至誠天に通ず」なんてことはないし、第一それはあなたまかせの、怠惰な態度だ、と。
 もちろんその前提として、エゴイズム(利己主義)、というか、余計な誤解を避けるためにエゴセントリズム(自己中心主義)とここでは呼ぶことにしますが、これは認められなくてはならない。それをいけないと言ったり、なくすことができると言うのは、非現実的だし、逆にそう言う人の身勝手さを隠している場合も多い。人は誰しも自分が可愛いし、現実に報いられることを願っている。

 念のために断っておきましょう。これは福田が直接言っておらず、私の推測になりますので、まちがっているかも知れないことは最初にお断りしておいて。
 エゴセントリズムはよいとしても、他人を陥れて自分が上へいこうとするのは良くありません。道徳的にではなく、利害の点で。つまり、そういうのは必ず他人の恨みを買いますので、自分もいつ陥れられないとは限らない。そのリスクだけでも、処世術としては得策ではないのです。そうでないとしても、人は必ず他人と一緒に暮らすので、憎まれていて幸せというわけにはいかない。だからこそまた、他人をいい気分にするゴマすりが有効になるわけでして。

 とはいえ、もちろん、どれほどうまく立ち回っても、何でも思い通りになる人なんていません。それどころか、どう考えても周囲が悪いか、運が悪いかで、酷い目に合う場合も決して稀ではない。
 むしろそのときが肝心なのです。たとえそうでも、できるだけ、現実を思い通りにできない自分の力不足に思いを致すこと。これは道徳的な話であることは否定できませんが、まあ、こういう心がけのほうが個人は幸福になりやすいし、世の中もうまく回りそうだ、と言われている。

 世の中に関する最も大きなところは、大きいので最後のほうに出てきますが、日本の近代化の話です。
 日本のような後発国の場合、近代化とは即ち西洋化のことであった。西洋と東洋、あるいは西洋と日本では、人間観に違いがあり(実際には同じようなものなのに違うと思われることも多いのですが)、また後発ゆえのコンプレックスもあって、明治以来の日本は、西洋崇拝(日本はまだまだオクレている)と西洋排斥(本当は日本のほうがエライ)といった、現れ方としては二極端の傾向に陥ることがよくあった。
 これはもちろんあまり幸福な状態ではありません。それに、西洋の考え方は、あくまで傾向としては、人間の自己中心性を東洋より強く捉えるところがある。強い自己主張は認められるけれど、それだけに、個人の責任も強く求める。黒白をきっぱりはっきりさせたがるので、「程々が良い」と思いがちな日本人の肌には合わない場合がある。
 それで一番困るのは、議会制民主主義のような政治制度や資本主義のような経済制度も、そういう人間観から生まれて発達してきたので、これをうまく運用するためには、日本的微温的な態度では基本的にうまくいかない場合が多い。

 何より重大なのは、民主制も自由主義も、制度であって、それ自体は、便利か不便利かはあっても、良い・悪いはないところです。これを現にいる人間がどう扱うか、こそが問題なのであって。世の中をなるべく自分(たち)で作り上げようする意識及び意欲が乏しいのが、日本の近代化にとって一番大きな障害なのです。

 ここで終わらないのが福田の凄いところです。何事も、制度や他人など、外部の問題と考えず、自分で扱うべきことだ、と考える、そういう意味で主体的であることを勧める。しかし、前に言ったとおり、自分ではどうにもならないことが、実際、世の中には多い。それを骨身にしみて味わうためにも、主体的であることが必要、と言えば逆説が過ぎますが、ここに超越的な絶対者の必要性が出てくる。
 ここが福田の一番根本的な、そしてまた難解なところなので、詳細は当ブログの以前の記事を見ていただくとして、ここではあっさり述べておきます。福田は特定の宗派に帰依することはなく、「カトリックが一番論理的に筋が通っている」という理由で親近感は表明していました。それも、初期の、小鳥と話ができたという聖フランチェスカの時代のものが最良だ、と考えていたことを本書の元の講演で明らかにしています。
 ともかく、ついに相対的でしかない人間が、絶対的なものを、ああだこうだ一見具体的に語ろうとしてはならない。それでは、その絶対を相対にまで引きずり下ろそうとする企てと変わらなくなるから。何かははっきり言うことはできないが、目に見える世界を超えたところに、価値の根源はあって、そことの、これまたはっきりと目には見えないつながりを感じることができれば、我々が生きている意味も、なんとなくわかる。

 このようにして、処世術は宗教へと繋がるのです。この全体的な構図や、個々の道筋に、どれくらい説得力を感じたかで、その人にとっての福田恆存の価値は決まります。彼から何を学ぶかは、それからの話ですので、少しでも興味を惹かれたら、どうぞ読んでみて下さい。


◎『私の幸福論』(初出は「幸福への手帳」の題で講談社の雑誌『若い女性』昭和30年~31年連載。単行本は『幸福への手帳』新潮社昭和31年→『私の幸福論』高木書房昭和54年→ちくま文庫平成10年)
 『福田恆存の言葉』を読んで、本書を思い出した。それというのも、高木書房版の「あとがき」で、「処世術から宗教まで」の講演が終わった後で、その書籍化を同社から打診されたが、特に最後の当たりがまとまらないからと断ったら、その代り、というわけでもないだろうが、本書の復刊を申し込まれた、とあったからだ。
 だから、前掲書と似通ったところはある。まず、両方とも福田にしては優しく語りかけるスタイルが共通する。そして、内容も、だが、それはどういうところか、と言うと、少し難しい。

 だいたい『幸福への手帳』→『私の幸福論』は、女性雑誌に連載されたのだが、一班女性向けの話としては非常に高度な内容である。
 別に女性を馬鹿にしているわけではなく、男にとっても、福田の思考のスタイルに慣れていない場合には、理解するのはたいへんだろう。そういう私自身の読解も、どれほど彼の真意に沿うものか、心許ないのだが、この機会に自分なりの見解を記しておきたい(理解というのは、自分自身の理解力の中に対称を閉じ込めてしまうことだ、と本書にある。だからこの試みは、誰よりも自分自身のためにするものです)。

 以下の文中の引用文はすべてちくま文庫版の『私の幸福論』から、その後の(  )内は章題です。

 のっけの章題が「美醜について」で、容貌の話。女性にとって、のみならず男性にとっても、社会で、つまり他者との関わりの中で、見た目がどれほど重要か、誰でも知っている。それだけに、公然と云々するのは控えるべきだ、という常識(でしょう)がある。それをあっさりと破った。
 なんでこういう常識があるのか? それは多分、見かけの良し悪しは、本人の努力では変えられないからだろう。
 いや、変えられる、現に多くの人が、特に女性が、改善すべく、化粧やエステやらで、努力している、と仰いますか。それはそう。でも所詮は、「ある程度」でしかない。
 それなら、見かけの美醜はその人の責任とは言い難いのだから、それを、また、それで人を評価するのは心ない技ではないか。そうれはそうです。でも、口に出して言われないだけで、評価は現になされている。

 どうするか? 低く評価されても、どうにもならないのだから、あまり過剰に気にしないことだ。これはけっこうよく聞く慰め(でもないか…)だ。福田もまず、そう言う。
 問題はその先だ。顔が良くても性格が悪くてはダメなんだから、とか、フォローになっていない、まるで美人であることが悪いような言論は、昔よく見かけたが、それはルサンチマン(嫉妬・怨恨。復讐感情)を煽り、温存させるだけのことだ。
 だいたい、ここを逆にして、不美人であれば性格がいいんだから、いいんだ、などとは言えない(ほぼそう言っているのと同じ発言を聞くことはあるが、誰でも知っているようにそれは嘘だ)のだから。

 福田はそんなことは言わない。観点を一段上げて、こう言ったのだ。自分ではどうにもならない現実は、多かれ少なかれ誰にでも必ずあり、誰もが時にいやな思いをして、苦しむ。しかし、どうにもならない現実があることは、むしろいいことなのだ、と。
 欲望が実現されたら、それはもう欲望ではない、と言ったのはマズローだったか。すべての欲望が叶うとなったら、すべての欲望は消えるだろう、というのも聞いたことがある。これは端的に、事実であろうと思う。果たしてそうなら、その結果は、生きる意欲そのものがなくなってしまうだろう。
 同じく、理想もまた、実現されることはないし、また実現されてはならない。理想というのは人間の最も高く、深いところにある欲望・希望であり、漠然としていたとしても、その人の生きる意味そのものに直接関わるもの、とまずは漠然としか言えない。

 もっとも、漠然と一人で考えているうちには、理想は夢想に過ぎない。例えば、純愛が大切だと思い定めようと、そんなものは無意味だとせせら笑おうと、それは頭の中で観念を弄ぶ、オナニーのようなものだ。いわゆる自己実現は、他者との間でなされなければならないのだ。
 しかし、オナニーにはけっこう快感がある。セックスだと相手を楽しませねばならないから、自慰(自分で自分を慰めるんですな)のほうがましだ、と言った男も知り合いの中にいた。
 だけではない。「(前略)快楽というものをつきつめていくと、どうしてもその極限には、相手を自己の欲望充足手段としか見なさぬ生き方に辿りつくのです」(「十七 快楽と幸福」)。これが現在広範囲に見られる風潮である。
 そして、この流れに身を任せたりしたら、人は決して幸福になれない。なぜなら、他人を手段・道具としか見ないなら、自分も他人からそう看做されることを避けられないからだ。
 だから人は、誰よりも自分自身のために、できるだけ幸福な人間関係を築いていかなくてはならない。そのことは、『福田恆存の言葉』では「処世術」、『私の幸福論』では「うまを合わせていく方法」と呼ばれている。
 まるで道具を扱う方法のような、軽い表現を敢えて使っているが、これは人間共同体の中に長年伝わってきた方法であり、個人はそれを受け継ぎつつまた、新たな共同性の中で新たに創り上げるべきもので、福田はこれを文化・教養(culture)と呼ぶ(「七 教養について」)。

 そしてそれこそが、すべての始まりなのである。他人とうまくやっていこうとして初めて、それはなかなかの難事であって、いつもうまくいくわけではないことがはっきりする。
 いや、そういう自分自身こそ、最も分かりづらく、思うようにならないことも分かるはずだ。この過程を経て初めて、本当に問題にすべき「自分」が出てくる。
 その意味で最も貴重な場所は家庭である。「私は理想的な家庭生活の実践者ではないが、家庭の観念については理想家であります」(「十六 家庭の意義」)。理想の家庭、また家庭の理想とは、夫と妻、また親と子の間にかけがえのない信頼関係を結べる、ということである。「私たちは家庭においてはじめて、完全な生のありかたを実現できるのです」(同前)。

 例えば、夫婦二人きりの家庭であったとしても、片方が幸福で、もう一方が不幸、なんてことがあるだろうか。もしそうなら、離婚はしていなくても、その夫婦関係は、即ち家庭は実質的に崩壊している。
 そういう意味で、この中でこそ我々は、本当にかけがえのない、全人的な関係を生きることができる。この関係性は自己完結して排他的なので、反社会的にさえなり得るが、それでも人間にとってあるべき生の形であることには変わらない。

 とは言え、福田も暗に認めているように、そのような理想を完全に実現・実践するのは、誰にとっても容易ではない。それでも、理想には意味がある。そことの距離感によって、例えば、自分はどういう意味で良き夫・良き親ではないのか、考えることで、現にある自分の姿を明確に見ることができるからだ。
 そしてさらに、自分はそうでしかあり得なかったのだ、と納得できるなら、それが即ち本当に本当の意味で「自分」である。我々は実際には、そういう「自分」見出すことをこそ求めている。快楽だけが問題なら、それを得られれば即ち勝利、得られなければ即ち敗北で、負けた場合にはただ不幸でしかない。
 しかし、本当の自分を知った者は、たとえ敗北したとしても、なお幸福であり得る。
 以上が私から見た福田恆存の人間観の核心です。
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SNSの快楽と危険

2024年09月13日 | 近現代史


 インターネットの発達と普及がもたらしたものは、IT(Information Technology「情報技術」)革命と言われた。情報ツール及びメディアとしては印刷物、初期の電波媒体(電話、ラジオ、TV)に次ぐものであり、実効性は前二者に勝るかも知れない。それでも人間世界を変えた実感はさほどないのは、情報伝達の量と速度がどれほど増大しようと、それを受け取る人間の能力(受容力)はそんなに簡単に伸びたりはしないからだ。
 大きな変化は、受け取る側ではなく、発信側にある。SNS(Social Networking Service)によって、誰もが、世界中に情報を発信できるようになった。元祖格である電子掲示板は、ネットに接続しさえすれば誰もが読めるし、書き込みも可能だった。一方、ネット上のコミュニティ形成を目指すサーヴィスもあり、日本での代表はmixiで、最初は既に会員である人に招待されなければ、言わば身元保証人がいなければ中に入れなかった。それが、平成22年から自分でアカウントを作って登録すればいいようになったものが、現在の基本形になっている。
 相互通信用のLINEに、記事投稿用のブログ、フェイスブックやX(旧ツイッター)、画像投稿用のインスタグラム、それに動画サイトであるYouTubeやTik Tokなど。先進国ではこれらを全く見たことがない人のほうが少数かも知れない。何しろ、パソコンはなくても、スマートフォンがあれば利用できるのだ。

 この新式のメディアの危険性と言えば、詐欺と流言飛語の拡散が第一に挙げられる。つい最近、有名人を装って投資詐欺に誘う手口が話題になったばかりだ。後者の代表は、アメリカのQANON(ANONはanonymous「匿名」の略語。訳せば「名無しのQさん」)だろう。Qというハンドル・ネーム(ネット上の名前)の者による謎めいた予断・予言の連続投稿から始まり、やがて国外にまで広まったものだ。
 よく知られた主張は、民主党の有力な議員や支持者は、悪魔崇拝者で幼児性愛者であって、彼らはDS(Deep State「深層国家」)を形成して裏からアメリカのみならず世界の政治経済を操っている、そしてドナルド・トランプは彼らと戦う光の戦士だ……。できの悪いSFかゲームかと思えるものが多くの賛同者、いや、信者を集め、2020年の大統領選挙には不正があったとして、それへの抗議行動である米議事堂襲撃事件の中核になった。
 これらの直接・間接の被害者の方々はお気の毒である。ただ、詐欺も流言飛語もずっと前からあった。SNSがそのために都合のいいツールかと言えば、それは両面ある。情報伝達の速さと広さはかつてないレベルだが、この種の犯罪の前提にはつきものの閉鎖性は失われるのだ。人を操ろうと思ったら、広い意味の洗脳が必要になる。それにはサティアンとかアジトとか、もっとセコければ事務所の一室とか、他所からは遮断された場所があったほうがいい。一対一の説得の他に、宗教やマルチ商法の集会で複数の人数が集まった場合、そこで仮初めにもせよ生まれる同志的紐帯の感情も絶大な効果を発揮する。
 ネット上の情報拡散は、時も場所も選ばないので、これが生じる余地は少ない。洗脳者たちにとっては都合の悪いものを含む情報の洪水に絶えず晒されているからだ。私も時折、有名人と同名の人から、「この情報はあなたにだけ教えるものです」という書き出しのネット上のお便りをもらうのだが、同じ名前で他の人にも「あなたにだけ」の話をしているのを見てしまうので、信じることはできなくなってしまう。
 Qアノンの信者たちは、教祖や同志の言うこと以外は、DSやそれに騙された者たちが流すフェイク(偽情報)だとして、自ら遮断して信仰の世界にとどまるのだろう。私のようないいかげんな者には思いも及ばない志操堅固さである。それでも、歴史に残る大きな騒擾を惹き起こしたのだから、侮ることはできない。

 しかし目下のところ私は、危険性は低いが、それだけによく見かける、SNSが開いた新たな言語作法のほうが気に掛かっている。言葉には公的なものと私的なもの、改まったものと日常会話の別が自ずからあって、誰もが特に意識しなくても使い分けて口にしたり書いたりしている。これが曖昧になったか、いっそ第三の領域が生まれたと思えることがけっこうあるのだ。
 詐欺師ではない発信者でも、自分の言うことが注目され、できれば賛同してもらうのを願っているのだろう。そこで前述の受容力が改めて問題になる。発信した情報が、誰に、どの程度に受け取られるかという。
 有名人の投稿なら、最初からそれなりの注目を集めるけれど、一般人の場合、Xの表示回数やらYouTubeの再生回数は、百もいかないのがむしろ普通だ。逆にこれらの投稿から有名になる人もいるにはいる。投稿画像や動画で多数のフォロワー(投稿があったら通知をもらって見落とさないようにしている人)を集める、通称インフルエンサーは少なくないようだが、あくまで例外的な存在。自己顕示欲・承認欲求を満たすためには、さまざまな工夫が必要となる。

 工夫の中には騒動のタネになるものもある。SNS上でよい評判を取ることをバズる、悪いのを炎上する、と言うようになっているが、無視されるなら顰蹙をかってそれが評判になったほうがいい、と思う者はけっこういる。その評判自体が、SNS上の各投稿や記事のコメント欄などで広まる。そしてこの戦略(すこし前には、炎上商法、などと言われた)のためには、文だけより動画があったほうがインパクトが強いので、主にYouTubeが使われる。
 そのうち、常に需要がある高名な人や団体のスキャンダルを流す者は、通称暴露系ユーチューバーと言われる。議員にまでなってしまったガーシーこと東谷義和がその代表。
 一方、通称迷惑系ユーチューバーも目につくようになっている。渋谷のスクランブル交差点に蒲団を敷いて寝る、など。バイト・テロ(アルバイトをしているレストランの、調理台のシンクにお湯をためて入浴する、など)や、すし・テロ(回転寿司店で備え付けの醤油差しに口をつける、など)もその延長。現場の顔出し動画をアップするんだから、捕まるに決まっている。彼らはまたバカッターとも呼ばれる。それなのに、なぜやるのか?
 ここでは現象面から少し詳しく考えていきたい。迷惑系とは、仲間同士の悪ふざけを拡大し、公表する者だ。私のような陰キャでも、知り合い何人かと焼き肉を食っていて、焼き上がる前のコンロ上の肉を、「取られないおまじないをしま~す」とか言って、一舐めした箸でつつく、なんてことはやった。「バカ、何やってんだ」と笑ってもらえたら成功、怒られたら失敗、でなかなかスリリングだが、逮捕されることはない。また、我々と全くかほとんど関係ない人がたまたまこれを見ても、文字通り面白くもおかしくもないし、その他どんな思いも持たないだろう。
 思いを持って注目されるためには、もっと過激なことをやるしかない。過激が嵩じて、犯罪の段階にまで至れば、いかにも注目される。顰蹙の形で。そんなことぐらいは予想しているだろうが、半面、退屈な日常をほんの少し揺さぶるパフォーマンスとして楽しんでもらえるんではないか、なんぞと安易に期待しているところに、バカッターのバカの所以がある。
 悪ふざけをギャグとして、赤の他人が楽しんでくれるものにするのは、練達の芸人でも難しい技だ。それよりは、非常識で迷惑な行為を良識に基づいて非難しつつ、馬鹿にして笑うほうがいつでも簡単明瞭である。かくて迷惑系は、自分たちの思惑とは別のところで、ネットユーザーに娯楽を与えることになった。

 このように、人を非難すること、馬鹿にすること、罵ること、が今やSNSの提供する最大の娯楽になっている。前出の暴露系は、犯罪ではないにしろ、一般に恥ずべき言動とされているものを暴き、非難する体裁で行われる。むしろこちら側が名誉毀損罪に当る可能性大で、現にガーシーは逮捕された。
 しかし、同じくSNS上で、一応は良識という「社会的正義」に則っている体裁で暴露されたことを拡散するのは、拡散できたらなおさら、一人ではなく大勢で言っていることになるので、完全に安全な楽しみだと思える。暴露の対象は有名人や有名企業がよいが、一般人でもわかりやすく恥をさらした迷惑系などは、餌食になる。それ以外の批判や誹謗中傷もネット上に溢れかえっており、いつ誰がやり玉に挙げられるかわからない。その意味では、今非難攻撃を楽しんでいる者だって、いつか楽しまれる側に転ずる危険はあると言える。

 文字によるSNSの代表である旧称twitterに目を向けると、大元の意味は「小鳥が囀る」で、そこから「ぺちゃくちゃ喋る」などの意味に転じた。綴りが似ているtwitは「なじる、からかう」で、twitterとは関係ないとされるが、2006年創設時の命名者たちはこの近似は意識していたろうという疑念は拭えない。twitter上の投稿はtweetと呼ばれ、これは同じく「小鳥の囀り」また「呟き」の意味もあり、現在でも見かけるが、Xになった今は、「ポスト」のほうが正式(か?)なようだ。
 日本でもサーヴィスが開始された当初は、文字通りの呟きで、「今、昼休憩中」だの。「トイレ、ナウ」だの、投稿者自身と身近でなければいかなる興味の持ちようもないものが多かったようだ。こういうのは今もあるのかも知れないが、運営側の自称ではあくまで情報ツール(ウィキペディアによる)だ。
 それでも、日本語で一投稿原則一四〇字以内の制限があると、詳しい情況まではとても伝えられない。連続投稿などで実質長く書く方法もあるが、それより、ある出来事についての感想や意見を断定的に書くのが、Xと名前が変った現在までの標準的な語法になっている。
 すると、誰かを、あるいは何かを批判するとなると、「頭がおかしい」だの「恥を知れ」だのという、悪罵と言うべき形になることも多い。かくて、ホンネが前面に出てきてタテマエが崩れた、とみなすのは早計で、こういうのがよく見受けられるようになったことへの不安や反発から、心や神経を傷つける言葉・言い方への忌避感は強くなる。「セクハラ」から始まって、「パワハラ」「モラハラ」「アカハラ」「カスハラ」、最近では「ハラハラ」(それは「~ハラ」だと言って攻撃されること)なんて言葉が飛び交うのが何よりの証拠だ。どちらも多すぎるので、批判・再批判の応酬はあったとしても、たいていはSNSの言葉の海に飲まれて、すぐに見えなくなるのである。

 飲まれる前にしばらく浮かんでいた実例として、今年(令和6年)8月にXへの投稿から起きた炎上を二つ見ておこう。投稿者はどちらも有名人だが、そうでなかったら私などの目に触れることはないのだから、そこは仕方ない。
 一つ目はフリーアナウンサー・川口ゆりの、8日のポスト。「ご事情あるなら本当にごめんなさいなんだけど、夏場の男性の匂いや不摂生してる方特有の体臭が苦手すぎる。常に清潔な状態でいたいので1日数回シャワー、汗拭きシート、制汗剤においては一年中使うのだけど、多くの男性がそれくらいであってほしい…
 この川口という人を、私は知らなかったのだが、まあ有名なのだろう。三万近くの「いいね」がついた。半面、批判も多く、現在ではこのポストは削除されている。「男性差別」だと言われて。この言葉を見聞きするのは、今回が初めてではないけれど、「女性差別」に比べればずっと少ないし、これによって発言者の社会的立場がどうにかなった例は寡聞にして知らなかった(川口は所属していた事務所の契約を解除されたそうだ)。それだけ女性の社会的な立場が上がったしるしかも知れない。
 匂いについては、おっさんには清潔感がないとか、加齢臭がどうたらいう言葉はけっこう聞いた。あくまで感覚的なものだから、TVやラジオのインタヴューの答えとして言われても、個人の感想と受け取られ、流された。川口もそのつもりでポストしたのかも知れない。いわゆる私語であり、私語(ささや)きであると。それが大勢に伝わるとは、何しろその大勢は目の前にいるわけではないので、つい忘れがちになるのかも。
 だいたい、彼女が男性の匂いをどれほど嫌いでも、会うこともない男には関係ない話ではある。が、X上で独立した記事として出てくると、意見に見えてしまい、毀誉褒貶の対象になる。「あってほしい…」と願望の形で終わっていても、「そうすべきだ」と言っているのと同じだと受け取られ、「一日に数回シャワーを浴びられる人が何人いると思っているんだ」というような反応を引き出す。このようにして、SNSは、私的な呟きをするりと公的な次元に移すのである。

 もう一つ、時間的には前例より少し早い、フワちゃんとやす子の件。彼女らは私も知っていたから、かなり売れている芸人なんだろう。
 まず2日の、やす子のXポスト。「やす子オリンピック/生きてるだけで偉いので皆/優勝でーす」。
 これに対する4日のフワちゃんのリツイート(引用して反応するポスト)。「おまえは偉くないので、死んでくださーい/予選敗退でーす」【/は原文の改行部を示します】
 後者の投稿はすぐに削除されたが、スクリーンショットによって記録されたものが拡散した。このように、記録も拡散も簡単なのもSNSの特性であり、そこでの言葉が公的なもののように見える要因の一つになっている。
 フワちゃんは自分のポストを削除しただけ(それだと、証拠隠滅だという非難を浴びたろう)ではなく、同じ4日のうちに「(前略)言っちゃいけないこと言って、傷つけてしまいました/ご本人に直接謝ります」とポストしたが、それで収まることはなかった。彼女はタレント活動休止にまで追い込まれた。
 結局何が起きたのだろう? 背後の事情についてもいろいろ言われているようだが、あくまで言葉のやり取りのみに着目する。フワちゃんは、やす子のポストを漫才のボケとみなして、ツッコミを入れようとしたのではないだろうか。
 最初のポストで、やす子は何が言いたかったのか? 「みんな違って、みんないい」とでも? そうだとして、この言葉に感動したり、慰められたりする人がいるだろうか? 何かに失敗してがっかりしている人に言ってあげれば、そういうことにもなるかも知れないが、具体的な状況抜きで言葉だけ投げ出されても、「やす子って、性格いいんだな」以外にはなんとも思いようがない。この騒ぎがなかったら、このポストは彼女のファン以外の人の記憶に残ることもなかったろう。
 お笑い芸人がこんなことではいかん、とフワちゃんが、先輩として、義憤にかられて(もちろん冗談ですよ)、少しは面白くなるように転がしてやるか、と余計なことを考えてやってしまったのが「予選敗退」のリツイートだったのではないだろうか。それにしてもうまくないので、笑えないが。「お前、オリンピックでなに金子みすゞやってんねん。違うやろ」とでも言えば。……やっぱり、面白くないですか? フワちゃんは関西人じゃないですし。まあ、これなら、ボケーツッコミとして辛うじて成り立つのではないか、と思って作った例ですので。
 そう、フワちゃんのリツィートは、やす子の言葉をひっくり返しただけで、ツッコミにもなっていない。それで、「死んでくださーい」の部分だけ浮き上がったものを掬い取られれば、これは明らかに、社会的に言ってはいけない言葉だ、ということになる。フワちゃんもそれに気がついたからこそすぐに削除したのだろうが、時既に遅し、いわゆるデジタル・タトゥーとして残され、多くの人の目にとまることになってしまった。
 フワちゃんという人は、元来ユーチューバーの出身で、権威にも常識にも靡かない無邪気で破天荒な言動がウリだった。そうであればこそ、言葉には、言葉がどんな場を創り、どんなふうに行き渡るかについては、もっと自覚的であるべきだったのだ。
……と、エラソーに言ってみて、いや、そうではなくて、SNSという新たな言葉の場が開示した言葉という道具の持つ恐ろしい面には、現代人は畏敬の念を持つべきなのだろう、と思いついた。
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