メインテキスト:L・ザッヘル=マゾッホ、種村季弘訳『毛皮を着たヴィーナス』(原著の出版年は1871年、河出文庫昭和58年)
『谷崎潤一郎全集』第十、十一.十三巻(中央公論社昭和57年)
増村保造監督 「痴人の愛」 昭和42年
BDSM(bondage, discipline, sadism, masochism)は、LGBT(lesbian, gay, bisexual, transgender)と比べても厄介なところがある。暴力を伴うからであり、すると権力の問題に直結するからだ。私はそこに興味を惹かれている。
もっとも私にはこの心理全般を探求しようというような熱意も余裕も今のところない。個人的に、女を拘束したり虐待したりする系統の嗜好は、する側が男であっても女であっても、大嫌いである(本当ですよ)。多少とも理解と共感を持てるのは、女が男を支配する方向もので、この分野では日本には谷崎潤一郎という世界に誇るべきマゾ作家がいる(本気ですよ)。彼と、マゾヒズムの語源になった19世紀オーストリアの作家の作品から、思いついたことを並べることにする。
後にマゾヒズムと呼ばれることになる性癖は比較的古くから知られていた。世界初の性愛小説、ジョン・クレランド「ファニー・ヒル」(1748年)には、娼婦に鞭打たれることで性的興奮を覚える貴族が描写されているし、これより少し後に書かれたジャン=ジャック・ルソー「告白(第一部)」(1765頃)には、幼い頃に悪戯をして、三十代の叔母に罰として尻を撃たれたとき感じた秘かな快感が記されている。しかし18世紀のそれは、いわゆる本番に至る前の、前戯の一種とみられており、LGBTより問題視されてなかったと、ジョン・K・ノイズ『マゾヒズムの発明』(岸田秀、加藤建司訳、青土社平成14年)にある。
それとは別に、ある特定の女を神聖化して(「ドン・キホーテ」では「思い姫」と呼ばれている)忠誠を誓うことを悦ぶ嗜好は、中世の騎士物語には欠かせない要素である。東洋ではどうやら違う形を採るようだが、ともかく、西洋及び西洋化された社会では、男女関係中に相当深く埋め込まれた感性なのだろう。
これを変態性欲の一分野として独立(?)させたのは、なんといってもザッヘル=マゾッホの実践とそれに基づく小説があったからである。因みに変態とか性的倒錯(sexual paraphilia)という言葉は、マゾヒズムの命名者でもあるクラフト=エビングの著書から一般化したものだそうだ。
この心理の淵源は、あくまで男の側からすると、以下の二種が考えられる。
(1)母性への希求が転倒したもの。女に一方的に罰せられる立場になることは、一方的に庇護されるのと同じく、全く無力な存在と化すことである。そこで、母体回帰願望が近似的に満足される。
(2)女性美への憧憬が長く保存される。前回述べたhide and seekの関係で、hideの敷居が低くなれば、seekの念も弱くなる。平たく言えば、一度モノにした女には飽きがくる(女のほうもやっぱり、飽きる)。女が支配者となれば、その女体の「禁じられたもの」としての価値は保たれる。
「毛皮を着たヴィーナス」の場合、さらにその上の大前提がある。ゲーテの箴言「汝はすべからく槌となるか、それとも鉄床となるか」【ドイツ語の原文はわからないまま訳文だけで考えると、「すべからく」があるなら、末尾は「なるべし」としたほうが据わりもいいし意味の通りもいいと思います】がそれで、これを主人公は「何がぴったりといって男女の間柄ほどぴったりこれに当て嵌まるものはないのですよ」とする。個々の具体的な男女関係においては、彼/彼女は撃つ立場か撃たれる立場か、必ずどちらかになると言うのだ。もちろん自分がどちらかになった時には、相手はもう一つのほうになっているのである。
夫婦・恋人関係ほどintimate(親密、水入らず)なものはなく、閉ざされ、秘められているという意味で、外部からの独立性が最も高い。ならば、個人としての人間性の、いわば芯の部分が露出してくるはずであり、そこで支配―被支配の関係が不可避だとするなら、それこそが根源的な「権力」の問題ということになる。
文学作品で言われていることを文字通りに一般化して受け取る必要はない、というより、そうすべきではない。しかし、「一面の真実」として、思いあたるところがあるとすれば、多少は気にかけるべき値打ちもあるだろう。
ここでの「一面の真実」は、おそらく、前述の(2)に関連する。愛は、冷める。人間関係を安定させ、長持ちさせようとしたら、もっと冷ややかで硬い秩序が必要である。支配―被支配の関係性が固定すれは、それが即ち秩序であり、関係は安定する。アナーキズムという極論を信奉するのでない限り、これは事実と認めざるを得ない。
もちろん、国家・社会のような巨大なところで働く権力と、男女関係という最も私的具体的なところで働くそれは様相が違うはずである。吉本隆明の有名な「共同幻想と対幻想は必ず逆立する」という言葉が思い出されるだろう。もっとも、「逆立」の意味が私にはよくわからないのだが、どちらかを大本(オリジナル)として見た場合、他方はそのパロディーのように見えることはあると思う。
普通の女を女帝として崇め奉り、いかなる命令にも従う。ここに滲み出てくるエロスは、「演ずる」ところに由来するのだろうか、それとも、権力と呼ばれる人間関係そのものに基づくのだろうか。私は後者だと思っている。と言うか、社会的な権力、支配―被支配関係もまた、結局のところ「演じられる」ものである。そこに秘められたエロスを使って遊ぶ、だからそれはグロテスクなまでに過剰になる。時には、死に至るまでに。これが、マゾッホ、谷崎、その他類似する作家たちの世界を形成する原動力であろう。
「毛皮を着たヴィーナス」の主人公は最初生身の女に興味を持たない。彼が恋するのはヴィーナスの石像であり、ヒロインはその化身として彼の眼前に現れた時、ファムファタル(femme fatale、悪しき運命の女)となる。つまりこの小説の枠は、本シリーズ「その3」で取り上げたピグマリオン物語なのである。男は女を、自分の理想に沿って教育し、生きた偶像に仕立て上げようとする。今回の教育は成功だったようだ。それはそのやり方がシンプルで、矛盾やごまかしのないものだったからだ。
バーナード・ショー「ピグマリオン」のヒロインは、「本当の意味でレディと花売り娘の違いは、どう振る舞うかではなく、どう扱われるかにあるのです」と言っていた。マゾッホの主人公は、女に、生殺与奪の権まで与えた奴隷となることを自ら申し出る。それに相応しい絶対権力者としての女主人を演じることは、けっこう難しいだろう。女は、男の望むような、無慈悲な暴君になれたかどうか不安だと、何度か口にしている。
二人は契約書を取り交わしている。男は身分をなげうち、名前まで変えて、女の忠実な下僕になる、それは、女の望む期間だけ続く、という内容の。これはサド侯爵などにはない特性で、よく言及される。いわゆる公的な権力関係のパロディであり、「演じる」意識が前面に出ていることは、これだけでも明らかである。
契約を申し出るのは女のほうで、男は、①女は男から離れないこと、②女が男を他人の暴力の犠牲に供したりはしないこと、の二つは条件にしたい、と最初に申し出るのだが、この時はうまく丸め込まれてしまう。実際にサインしたときの契約書に女側の義務として記された条項はただ一つ、虐待プレイの時にはできるだけ毛皮を着用すること、のみである(毛皮フェチについては、豪奢な感じがするのがいいんだろうな、以外には私はわからない)。契約書の他に、男は遺書にもサインさせられ、つまり文字通り自分を、自殺を装って殺してもいいのだとも同意させられる。
これで二人の間はうまくいく。主人公は女によって寒い地下室に閉じ込められて死にかかったりして、本気で憎むこともあるが、それが強烈なスパイスとなって、女の美しさへの讃嘆の念はますます高まる。「結婚が平衡の上に、完全な合意の上に築かれるのが不可能なら、逆に対立を通じてこよなく大きな情熱が生まれてくるのです」と、最初のうち彼が言った通りに。因みに、普通の性交渉の悦びそのものは、本作では二次的以下の扱いをされていることは、注目しておくべきだろう。
この仲が破局するのは、上述の、彼が女に約束させそこなった条件が破られたからである。女が、他の男に心を移したのだ。「ギリシャ人」と呼ばれる、非常に美しく、粗野で残忍な男。女は最初から「【結婚するなら】完璧な男でなくてはね。私に畏怖の念を起させ、彼という人の力で私を打ち負かすような男でなくてはね」と言っていた。つまり、彼女こそマゾヒストなのであり、その欲求は決して主人公には満たし得ないものだった。
別れに当たって、女は、最後の大サーヴィスとばかりに、ひどく残酷な仕打ちを用意する。主人公は女の心変わりを見て、すべてを捨てて彼女と別れようと出奔するのだが、どうしても未練を断ち切れず、戻ってしまう。最初は冷たくあしらわれていたが、そのうち女は急に優しくなり、あんな粗暴な男はいやだったんだと言って、彼との結婚を約束する。その夜、彼に快感を与えるためにはやっぱりあの行為が必要なのだと、女は彼を縛り上げる。さて鞭打ち、というときになると、それまで隠れていたギリシャ人が飛び出してきて、いやがる彼に、本当の苦痛と屈辱とを与えたのだった。
契約書には書いてないのだが、これは裏切り行為であることは、男女双方に理解されている。即ち、男が女の奴隷となり、いかなる虐待も屈辱も耐え忍ぶのは、彼女が彼のものである限りにおいてなのである。彼女ではない者に加えられる暴行は、それが彼女の意志から出たものであれ、単なる苦痛と恥辱でしかなく、彼に怒りしかもたらさない。
マゾッホのマゾヒズムは、裏に強い独占欲が秘められている、ということだ。思うに、これが社会的な権力関係との最大の違いになる。支配されるべき顔のないモブ(群衆)の一人ではなく、固有の身体と精神を備えた者同士こそが問題になるからだ。
もう一度お断りすると、私は、BDSM全般はもちろん、マゾヒズムについても、本格的に考究しようという者ではない。だから、上に述べたことが、この傾向にとって本質的だとも一般的だとも主張するつもりはない。
一応、次のようなことは知っている。マゾヒズム文学中屈指の名作とされるポーリーヌ・レアージュ「O嬢の物語」(1954年)では、ヒロインは大勢の共有物になり、ついには人間性のすべてを剥奪されるに至る。谷崎初期の「饒太郎」(大正3年)だと、主人公はパートナーの女が情夫を作り、二人で彼を嘲り、暴行するのまで受け容れる。ここまでの被虐趣味は全くわからないし、前者など、私はごく臆病なタチなので、怖気を振るうまでになってしまう。
だから私は自分の嗜好と思考に合うものを取り上げて、好き勝手に言うだけである。そんなものには価値がないと言われるなら、いかにも。好き勝手に付き合ってあげようという人だけ、以下もお読みください。
「痴人の愛」(大正13年)が谷崎作品の中でもよく知られており、何度も映画化されているのは、シンデレラ物語の変形で、そこに華やかさがあるからだろう。ヒロインは陰気な造酒屋の娘から外人主催のパーティの常連にまで「出世」する。それは主人公の教育のおかげである。
男は女に英語を教え、賢い女にすべく努力するのだが、そちらの教育は完全に失敗する。英文法をどうしても理解できない女に向かって、「馬鹿! お前は何といふ馬鹿なんだ!」と怒鳴りつけるようなやり方では、それも不思議ではない。一方で男は女の肉体に強く魅かれており、そこからの無意識の教育は多大な成果をもたらす。つまり、女はその力を存分に使って、多くの男たちにかしずかれるまでになる。意識的な教育よりは無意識的な教育のほうが影響力は強い。これは世の常である。人があまり認めたがらないだけで。
ただ彼にとって幸い(なんだろう)なことに、彼女はこの面でもけっこうおバカで、「捨てられる迄」(大正3年)のファムファタルと違って、自分の力、女力とでもいうのか、を冷静に打算的に使うまでのことはなかった。また、「毛皮を着たヴィーナス」の場合のような、「完璧な男」も見つからなかった。すべての男がしまいには彼女の奔放さをもてあまして、離れてしまう。残るのは、その女力に完全に心を奪われ、引きずり回されること自体に悦びを覚える、元の男だけだった。
かくて彼らの間には共依存関係が出来上がったようである。谷崎はそこを明らかにしていないが、増村保造監督の映画では、「私にもあんたしかいない」というセリフを最後に女に言わせることで、はっきりさせている。
これはハッピーエンドなのだろうか。大きなお世話ながら、どうも不安である。すべての土台は、女の美貌であり、この威力(女力)はかなりの部分、男の主観に依る。もし、彼にとって、女が、さほど美しくなくなった、と感じられたらどうなるか。やっぱり、かなりやっかいなことになりそうでしょう?
谷崎自身が後に、実際の事件を叙したノンフィクション小説「日本に於けるクリツプン事件」(昭和2年)の中で、マゾヒストは「利己主義者」だと断定して、次のように言っている。
(前略)マゾヒストは女性に虐待されることを喜ぶけれども、その喜びは何處までも肉體的、官能的のものであつて、毫末も精神的の要素を含まない。人或は云はん、ではマゾヒストは單に心で輕蔑され、翻弄されただけでは快感を覺えないの乎。手を以て打たれ、足を以て蹴られなければ嬉しくないの乎と。それは勿論さうとは限らない。しかしながら、心で輕蔑されると云つても、實のところはさう云ふ關係を假りに拵へ、恰もそれを事實である如く空想して喜ぶのであつて、云ひ換へれば一種の芝居、狂言に過ぎない。
1910年、ロンドンで、クリップンというインチキ医師が女優の妻を殺害した、これがクリップン事件である。動機は、夫に愛人ができたからで、すると平凡な情痴殺人のようだが、この女房はかなりとんでもない女で、浪費はするわ浮気はするわ、夫はそれを知っていて十年近くの間黙認していたのだから、これはもうマゾヒストだったのだろうと、谷崎以外も認めている。
類似した事件として本作で取り上げられている日本のでは、プレイの時の悲鳴が近所にも聞こえていた正真正銘のマゾヒストが、やはり新たな玩具=女ができたので、けっこう巧妙で陰惨なやり方で女房を殺している。こういう女は果たしてファムファタルと呼べるかどうかも怪しい。徹底して主観的な、独りよがりの世界、それが(全部とは言わないが、谷崎の捉えた)マゾヒズムの世界であり、それはまた純粋理念としての権力のある面を伝えているように感じられる。
稠密な文体の力が遺憾なく発揮されているという意味で、谷崎潤一郎の最高傑作と称すべき「春琴抄」(昭和8年)では、男は、火傷で醜くなった女主人(この場合は、文字通り。主人公はヒロインの家の使用人であると同時に、芸道上の弟子でもある)の顔を見なくても済むように、自ら目を潰す。この一見自己犠牲的な行為のために、本作はマゾヒズムを超えた至高の愛を描いたもの、などとも言われるのだが、これは非常に疑わしい。
こう言えばいいのかも知れない。至高の愛とは、最大のエゴイズムと表裏一体になって初めてこの世に所を得るのだ、と。
このカップルは、三男一女を儲けている。うち女児は生後間もなく亡くなっている。
最初の男児は、女が十六歳のとき身籠った。普通なら奉公人と情を通じるなどけしからん、となるところを、何しろ盲目なので、きちんとした結婚は望めないのだから、かえって好都合、と親から縁組を勧められたのを、女のほうが峻拒する。「いかに不自由な體なればとて奉公人を婿に持たうと迄は思ひませぬ」と。親はよんどころなく、生まれた子が可愛くないのか、父(てて)なし子を育てるわけにはいかないから、お前がどうしても強情を張るなら、どこかよそへ遣るより他にしかたないが、と詰め寄るのに、「なにとぞどこへなとお遣りなされて下さりませ一生獨り身で暮らす私に足手まといでござりますと涼しい顔つきで云ふのである」。
この子はどこへ貰われたか行き方知れずとなり、後に生まれた男児二人も幼児の時に里子に出されて、終生親子の縁を結び直すことはなった。子どもにしてみれば、これほどエゴイスティックな親はいないであろう。母はプライドが高く、人から同情されるような体であることから余計にそれが昂進し、父はそんな母の気持ちを傷つけず、また生活上の不自由もかけないように仕えることにのみ専心している。こんな関係は余人にはとうてい窺い知れず、また当人たちの側もそれを望まないのだから、孤立の度合いは最高にまで高まる。それでいい、いや、そのほうがいい。彼ら二人にとって、この関係以外にこの世に重大なものなどないのだから。
だからこそ、女の美貌が損なわれた時には、男は視力を捨てることで、彼らにとって都合の悪い現実のほうを消去するのである。さらに、この究極の、二人だけの世界は、女の死をも超えて持続する。
人は記憶を失はぬ限り故人を夢に見ることが出來るが生きてゐる相手を夢でのみ見てゐた佐助のやうな場合にはいつ死別れたともはつきりした時は指せないかも知れない。(中略)察する所二十一年も孤獨で生きてゐた間に在りし日の春琴とは全く違つた春琴を作り上げ愈々鮮かにその姿を見てゐたであらう
本シリーズ「その1」で私は、権力の理想形は、支配される側が常に「見られる自分」として自己を律するようになること、言い換えると、支配者が実際はどうかとは別の「内部の目」を被支配者が持つことである、と述べた。すると、関係性が閉ざされて完成された場合には、支配する側はいなくてもよい、いやむしろいないほうがよいことになる。生きて動き回るなら、いつか、どう見ても支配者には相応しくないふるまいをしでかさないとも限らないのだから。ここからユダヤ民族が、彼岸の唯一絶対神と、それに拠る「良心」という心理機制を発明した、と言えるのではないだろうか。
常に変化してやまないのが生命の実相なので、そこに箍をはめて安定させようとする動機が、権力を根拠づけるのだが、過ぎれば生命を否定するまでに至る。これは、とてもエロチックだと私には感じられる。この方向で、今後できるだけ考えを進めたい。
『谷崎潤一郎全集』第十、十一.十三巻(中央公論社昭和57年)
増村保造監督 「痴人の愛」 昭和42年
BDSM(bondage, discipline, sadism, masochism)は、LGBT(lesbian, gay, bisexual, transgender)と比べても厄介なところがある。暴力を伴うからであり、すると権力の問題に直結するからだ。私はそこに興味を惹かれている。
もっとも私にはこの心理全般を探求しようというような熱意も余裕も今のところない。個人的に、女を拘束したり虐待したりする系統の嗜好は、する側が男であっても女であっても、大嫌いである(本当ですよ)。多少とも理解と共感を持てるのは、女が男を支配する方向もので、この分野では日本には谷崎潤一郎という世界に誇るべきマゾ作家がいる(本気ですよ)。彼と、マゾヒズムの語源になった19世紀オーストリアの作家の作品から、思いついたことを並べることにする。
後にマゾヒズムと呼ばれることになる性癖は比較的古くから知られていた。世界初の性愛小説、ジョン・クレランド「ファニー・ヒル」(1748年)には、娼婦に鞭打たれることで性的興奮を覚える貴族が描写されているし、これより少し後に書かれたジャン=ジャック・ルソー「告白(第一部)」(1765頃)には、幼い頃に悪戯をして、三十代の叔母に罰として尻を撃たれたとき感じた秘かな快感が記されている。しかし18世紀のそれは、いわゆる本番に至る前の、前戯の一種とみられており、LGBTより問題視されてなかったと、ジョン・K・ノイズ『マゾヒズムの発明』(岸田秀、加藤建司訳、青土社平成14年)にある。
それとは別に、ある特定の女を神聖化して(「ドン・キホーテ」では「思い姫」と呼ばれている)忠誠を誓うことを悦ぶ嗜好は、中世の騎士物語には欠かせない要素である。東洋ではどうやら違う形を採るようだが、ともかく、西洋及び西洋化された社会では、男女関係中に相当深く埋め込まれた感性なのだろう。
これを変態性欲の一分野として独立(?)させたのは、なんといってもザッヘル=マゾッホの実践とそれに基づく小説があったからである。因みに変態とか性的倒錯(sexual paraphilia)という言葉は、マゾヒズムの命名者でもあるクラフト=エビングの著書から一般化したものだそうだ。
この心理の淵源は、あくまで男の側からすると、以下の二種が考えられる。
(1)母性への希求が転倒したもの。女に一方的に罰せられる立場になることは、一方的に庇護されるのと同じく、全く無力な存在と化すことである。そこで、母体回帰願望が近似的に満足される。
(2)女性美への憧憬が長く保存される。前回述べたhide and seekの関係で、hideの敷居が低くなれば、seekの念も弱くなる。平たく言えば、一度モノにした女には飽きがくる(女のほうもやっぱり、飽きる)。女が支配者となれば、その女体の「禁じられたもの」としての価値は保たれる。
「毛皮を着たヴィーナス」の場合、さらにその上の大前提がある。ゲーテの箴言「汝はすべからく槌となるか、それとも鉄床となるか」【ドイツ語の原文はわからないまま訳文だけで考えると、「すべからく」があるなら、末尾は「なるべし」としたほうが据わりもいいし意味の通りもいいと思います】がそれで、これを主人公は「何がぴったりといって男女の間柄ほどぴったりこれに当て嵌まるものはないのですよ」とする。個々の具体的な男女関係においては、彼/彼女は撃つ立場か撃たれる立場か、必ずどちらかになると言うのだ。もちろん自分がどちらかになった時には、相手はもう一つのほうになっているのである。
夫婦・恋人関係ほどintimate(親密、水入らず)なものはなく、閉ざされ、秘められているという意味で、外部からの独立性が最も高い。ならば、個人としての人間性の、いわば芯の部分が露出してくるはずであり、そこで支配―被支配の関係が不可避だとするなら、それこそが根源的な「権力」の問題ということになる。
文学作品で言われていることを文字通りに一般化して受け取る必要はない、というより、そうすべきではない。しかし、「一面の真実」として、思いあたるところがあるとすれば、多少は気にかけるべき値打ちもあるだろう。
ここでの「一面の真実」は、おそらく、前述の(2)に関連する。愛は、冷める。人間関係を安定させ、長持ちさせようとしたら、もっと冷ややかで硬い秩序が必要である。支配―被支配の関係性が固定すれは、それが即ち秩序であり、関係は安定する。アナーキズムという極論を信奉するのでない限り、これは事実と認めざるを得ない。
もちろん、国家・社会のような巨大なところで働く権力と、男女関係という最も私的具体的なところで働くそれは様相が違うはずである。吉本隆明の有名な「共同幻想と対幻想は必ず逆立する」という言葉が思い出されるだろう。もっとも、「逆立」の意味が私にはよくわからないのだが、どちらかを大本(オリジナル)として見た場合、他方はそのパロディーのように見えることはあると思う。
普通の女を女帝として崇め奉り、いかなる命令にも従う。ここに滲み出てくるエロスは、「演ずる」ところに由来するのだろうか、それとも、権力と呼ばれる人間関係そのものに基づくのだろうか。私は後者だと思っている。と言うか、社会的な権力、支配―被支配関係もまた、結局のところ「演じられる」ものである。そこに秘められたエロスを使って遊ぶ、だからそれはグロテスクなまでに過剰になる。時には、死に至るまでに。これが、マゾッホ、谷崎、その他類似する作家たちの世界を形成する原動力であろう。
「毛皮を着たヴィーナス」の主人公は最初生身の女に興味を持たない。彼が恋するのはヴィーナスの石像であり、ヒロインはその化身として彼の眼前に現れた時、ファムファタル(femme fatale、悪しき運命の女)となる。つまりこの小説の枠は、本シリーズ「その3」で取り上げたピグマリオン物語なのである。男は女を、自分の理想に沿って教育し、生きた偶像に仕立て上げようとする。今回の教育は成功だったようだ。それはそのやり方がシンプルで、矛盾やごまかしのないものだったからだ。
バーナード・ショー「ピグマリオン」のヒロインは、「本当の意味でレディと花売り娘の違いは、どう振る舞うかではなく、どう扱われるかにあるのです」と言っていた。マゾッホの主人公は、女に、生殺与奪の権まで与えた奴隷となることを自ら申し出る。それに相応しい絶対権力者としての女主人を演じることは、けっこう難しいだろう。女は、男の望むような、無慈悲な暴君になれたかどうか不安だと、何度か口にしている。
二人は契約書を取り交わしている。男は身分をなげうち、名前まで変えて、女の忠実な下僕になる、それは、女の望む期間だけ続く、という内容の。これはサド侯爵などにはない特性で、よく言及される。いわゆる公的な権力関係のパロディであり、「演じる」意識が前面に出ていることは、これだけでも明らかである。
契約を申し出るのは女のほうで、男は、①女は男から離れないこと、②女が男を他人の暴力の犠牲に供したりはしないこと、の二つは条件にしたい、と最初に申し出るのだが、この時はうまく丸め込まれてしまう。実際にサインしたときの契約書に女側の義務として記された条項はただ一つ、虐待プレイの時にはできるだけ毛皮を着用すること、のみである(毛皮フェチについては、豪奢な感じがするのがいいんだろうな、以外には私はわからない)。契約書の他に、男は遺書にもサインさせられ、つまり文字通り自分を、自殺を装って殺してもいいのだとも同意させられる。
これで二人の間はうまくいく。主人公は女によって寒い地下室に閉じ込められて死にかかったりして、本気で憎むこともあるが、それが強烈なスパイスとなって、女の美しさへの讃嘆の念はますます高まる。「結婚が平衡の上に、完全な合意の上に築かれるのが不可能なら、逆に対立を通じてこよなく大きな情熱が生まれてくるのです」と、最初のうち彼が言った通りに。因みに、普通の性交渉の悦びそのものは、本作では二次的以下の扱いをされていることは、注目しておくべきだろう。
この仲が破局するのは、上述の、彼が女に約束させそこなった条件が破られたからである。女が、他の男に心を移したのだ。「ギリシャ人」と呼ばれる、非常に美しく、粗野で残忍な男。女は最初から「【結婚するなら】完璧な男でなくてはね。私に畏怖の念を起させ、彼という人の力で私を打ち負かすような男でなくてはね」と言っていた。つまり、彼女こそマゾヒストなのであり、その欲求は決して主人公には満たし得ないものだった。
別れに当たって、女は、最後の大サーヴィスとばかりに、ひどく残酷な仕打ちを用意する。主人公は女の心変わりを見て、すべてを捨てて彼女と別れようと出奔するのだが、どうしても未練を断ち切れず、戻ってしまう。最初は冷たくあしらわれていたが、そのうち女は急に優しくなり、あんな粗暴な男はいやだったんだと言って、彼との結婚を約束する。その夜、彼に快感を与えるためにはやっぱりあの行為が必要なのだと、女は彼を縛り上げる。さて鞭打ち、というときになると、それまで隠れていたギリシャ人が飛び出してきて、いやがる彼に、本当の苦痛と屈辱とを与えたのだった。
契約書には書いてないのだが、これは裏切り行為であることは、男女双方に理解されている。即ち、男が女の奴隷となり、いかなる虐待も屈辱も耐え忍ぶのは、彼女が彼のものである限りにおいてなのである。彼女ではない者に加えられる暴行は、それが彼女の意志から出たものであれ、単なる苦痛と恥辱でしかなく、彼に怒りしかもたらさない。
マゾッホのマゾヒズムは、裏に強い独占欲が秘められている、ということだ。思うに、これが社会的な権力関係との最大の違いになる。支配されるべき顔のないモブ(群衆)の一人ではなく、固有の身体と精神を備えた者同士こそが問題になるからだ。
もう一度お断りすると、私は、BDSM全般はもちろん、マゾヒズムについても、本格的に考究しようという者ではない。だから、上に述べたことが、この傾向にとって本質的だとも一般的だとも主張するつもりはない。
一応、次のようなことは知っている。マゾヒズム文学中屈指の名作とされるポーリーヌ・レアージュ「O嬢の物語」(1954年)では、ヒロインは大勢の共有物になり、ついには人間性のすべてを剥奪されるに至る。谷崎初期の「饒太郎」(大正3年)だと、主人公はパートナーの女が情夫を作り、二人で彼を嘲り、暴行するのまで受け容れる。ここまでの被虐趣味は全くわからないし、前者など、私はごく臆病なタチなので、怖気を振るうまでになってしまう。
だから私は自分の嗜好と思考に合うものを取り上げて、好き勝手に言うだけである。そんなものには価値がないと言われるなら、いかにも。好き勝手に付き合ってあげようという人だけ、以下もお読みください。
「痴人の愛」(大正13年)が谷崎作品の中でもよく知られており、何度も映画化されているのは、シンデレラ物語の変形で、そこに華やかさがあるからだろう。ヒロインは陰気な造酒屋の娘から外人主催のパーティの常連にまで「出世」する。それは主人公の教育のおかげである。
男は女に英語を教え、賢い女にすべく努力するのだが、そちらの教育は完全に失敗する。英文法をどうしても理解できない女に向かって、「馬鹿! お前は何といふ馬鹿なんだ!」と怒鳴りつけるようなやり方では、それも不思議ではない。一方で男は女の肉体に強く魅かれており、そこからの無意識の教育は多大な成果をもたらす。つまり、女はその力を存分に使って、多くの男たちにかしずかれるまでになる。意識的な教育よりは無意識的な教育のほうが影響力は強い。これは世の常である。人があまり認めたがらないだけで。
ただ彼にとって幸い(なんだろう)なことに、彼女はこの面でもけっこうおバカで、「捨てられる迄」(大正3年)のファムファタルと違って、自分の力、女力とでもいうのか、を冷静に打算的に使うまでのことはなかった。また、「毛皮を着たヴィーナス」の場合のような、「完璧な男」も見つからなかった。すべての男がしまいには彼女の奔放さをもてあまして、離れてしまう。残るのは、その女力に完全に心を奪われ、引きずり回されること自体に悦びを覚える、元の男だけだった。
かくて彼らの間には共依存関係が出来上がったようである。谷崎はそこを明らかにしていないが、増村保造監督の映画では、「私にもあんたしかいない」というセリフを最後に女に言わせることで、はっきりさせている。
これはハッピーエンドなのだろうか。大きなお世話ながら、どうも不安である。すべての土台は、女の美貌であり、この威力(女力)はかなりの部分、男の主観に依る。もし、彼にとって、女が、さほど美しくなくなった、と感じられたらどうなるか。やっぱり、かなりやっかいなことになりそうでしょう?
谷崎自身が後に、実際の事件を叙したノンフィクション小説「日本に於けるクリツプン事件」(昭和2年)の中で、マゾヒストは「利己主義者」だと断定して、次のように言っている。
(前略)マゾヒストは女性に虐待されることを喜ぶけれども、その喜びは何處までも肉體的、官能的のものであつて、毫末も精神的の要素を含まない。人或は云はん、ではマゾヒストは單に心で輕蔑され、翻弄されただけでは快感を覺えないの乎。手を以て打たれ、足を以て蹴られなければ嬉しくないの乎と。それは勿論さうとは限らない。しかしながら、心で輕蔑されると云つても、實のところはさう云ふ關係を假りに拵へ、恰もそれを事實である如く空想して喜ぶのであつて、云ひ換へれば一種の芝居、狂言に過ぎない。
1910年、ロンドンで、クリップンというインチキ医師が女優の妻を殺害した、これがクリップン事件である。動機は、夫に愛人ができたからで、すると平凡な情痴殺人のようだが、この女房はかなりとんでもない女で、浪費はするわ浮気はするわ、夫はそれを知っていて十年近くの間黙認していたのだから、これはもうマゾヒストだったのだろうと、谷崎以外も認めている。
類似した事件として本作で取り上げられている日本のでは、プレイの時の悲鳴が近所にも聞こえていた正真正銘のマゾヒストが、やはり新たな玩具=女ができたので、けっこう巧妙で陰惨なやり方で女房を殺している。こういう女は果たしてファムファタルと呼べるかどうかも怪しい。徹底して主観的な、独りよがりの世界、それが(全部とは言わないが、谷崎の捉えた)マゾヒズムの世界であり、それはまた純粋理念としての権力のある面を伝えているように感じられる。
稠密な文体の力が遺憾なく発揮されているという意味で、谷崎潤一郎の最高傑作と称すべき「春琴抄」(昭和8年)では、男は、火傷で醜くなった女主人(この場合は、文字通り。主人公はヒロインの家の使用人であると同時に、芸道上の弟子でもある)の顔を見なくても済むように、自ら目を潰す。この一見自己犠牲的な行為のために、本作はマゾヒズムを超えた至高の愛を描いたもの、などとも言われるのだが、これは非常に疑わしい。
こう言えばいいのかも知れない。至高の愛とは、最大のエゴイズムと表裏一体になって初めてこの世に所を得るのだ、と。
このカップルは、三男一女を儲けている。うち女児は生後間もなく亡くなっている。
最初の男児は、女が十六歳のとき身籠った。普通なら奉公人と情を通じるなどけしからん、となるところを、何しろ盲目なので、きちんとした結婚は望めないのだから、かえって好都合、と親から縁組を勧められたのを、女のほうが峻拒する。「いかに不自由な體なればとて奉公人を婿に持たうと迄は思ひませぬ」と。親はよんどころなく、生まれた子が可愛くないのか、父(てて)なし子を育てるわけにはいかないから、お前がどうしても強情を張るなら、どこかよそへ遣るより他にしかたないが、と詰め寄るのに、「なにとぞどこへなとお遣りなされて下さりませ一生獨り身で暮らす私に足手まといでござりますと涼しい顔つきで云ふのである」。
この子はどこへ貰われたか行き方知れずとなり、後に生まれた男児二人も幼児の時に里子に出されて、終生親子の縁を結び直すことはなった。子どもにしてみれば、これほどエゴイスティックな親はいないであろう。母はプライドが高く、人から同情されるような体であることから余計にそれが昂進し、父はそんな母の気持ちを傷つけず、また生活上の不自由もかけないように仕えることにのみ専心している。こんな関係は余人にはとうてい窺い知れず、また当人たちの側もそれを望まないのだから、孤立の度合いは最高にまで高まる。それでいい、いや、そのほうがいい。彼ら二人にとって、この関係以外にこの世に重大なものなどないのだから。
だからこそ、女の美貌が損なわれた時には、男は視力を捨てることで、彼らにとって都合の悪い現実のほうを消去するのである。さらに、この究極の、二人だけの世界は、女の死をも超えて持続する。
人は記憶を失はぬ限り故人を夢に見ることが出來るが生きてゐる相手を夢でのみ見てゐた佐助のやうな場合にはいつ死別れたともはつきりした時は指せないかも知れない。(中略)察する所二十一年も孤獨で生きてゐた間に在りし日の春琴とは全く違つた春琴を作り上げ愈々鮮かにその姿を見てゐたであらう
本シリーズ「その1」で私は、権力の理想形は、支配される側が常に「見られる自分」として自己を律するようになること、言い換えると、支配者が実際はどうかとは別の「内部の目」を被支配者が持つことである、と述べた。すると、関係性が閉ざされて完成された場合には、支配する側はいなくてもよい、いやむしろいないほうがよいことになる。生きて動き回るなら、いつか、どう見ても支配者には相応しくないふるまいをしでかさないとも限らないのだから。ここからユダヤ民族が、彼岸の唯一絶対神と、それに拠る「良心」という心理機制を発明した、と言えるのではないだろうか。
常に変化してやまないのが生命の実相なので、そこに箍をはめて安定させようとする動機が、権力を根拠づけるのだが、過ぎれば生命を否定するまでに至る。これは、とてもエロチックだと私には感じられる。この方向で、今後できるだけ考えを進めたい。