由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

近代という隘路Ⅱ その6(「夜明け前」における革命の夢と挫折)

2022年08月27日 | 近現代史


メインテキスト:島崎藤村「夜明け前」(初出は『中央公論』、第一部昭和4年4月~昭和6年10月、第二部昭和7年4月~昭和10年10月。初版は第一部昭和7年、第二部昭和10年、新潮社刊) 

 FB上の読書会の課題図書になったので、久しぶりにこの大作を読み返し、かつて心に浮かんだある疑問、というにしては漠然としている、ある思いを思い出しました。
 革命の夢と挫折。と言うと、ありふれているような感じですが、では、それを正面から扱った文芸作品はとなると、私には、日本の小説中では「夜明け前」しか思い浮かびません。その意味で稀有な作品です。
 どの国でも、革命と言えるほど大きなレジーム・チェンジ(体制転換)を経ているなら、そこにはまず理想社会を実現しようとする、主に若者たちの、熱い思想と行動があって、たいていは志半ばにして斃れるんですが、いざ革命が実現してみると、そこに、どうも昔のほうがまだましだったんじゃないか、と思えるような現実が現出してくる。ほぼいつもそうなら、「理想」なるものにはなんの意味があるのか。
 この疑問に十分に答えるなんてことはとうていできませんが、せっかく日本の近代史に興味を惹かれているところなので、作品に即して言えそうなことだけ言っておきます。

 のっけに私自身も現に使っている「革命」という言葉について。作中に数回出て来くる。「革命は近い」(第一部第十二章)とか。
 しかし、この言葉がrevolutionの訳語として使われ出したのは明治以降のこと。江戸時代だと、専ら支那の王朝交代である「易姓革命」を指したので、特に国学者がいい意味で使うはずはない。ここは、新潮文庫の註で滝藤満義氏が言うように、執筆当時盛んだった左翼運動に、著者が煽られた結果があるのかも知れない。

 それで、国学。そのいわゆる四大人(しうし)のうちでも後の二人、本居宣長と平田篤胤が、庶民の若者たちに革命、がいけなかったら、やっぱり維新、かな、の理想を与えたのだった。
 その前に、徳川光圀(水戸黄門様ですね)が創始した水戸学というのがあって、実際の維新のイデオロギーとしてより有効だったのはこちらだった。これは作中にも短い説明があるが(第一部第七章)、国学とは似て非なるものだ。
 どこが違うのかと言うと、水戸学は儒教という、徳川幕府の支配構造の正当化に使われたイデオロギーを重んじている。ただ、その名分論からして、幕府は天皇から委託されて統治を行っているのだから、当然天皇のほうが上、それを蔑ろにするような幕府ならけしからん、ということで、倒幕の思潮も導いた。
 だから、水戸学は基本的に武士のものだ。明治維新の担い手は、下級ではあっても、やっぱり武士だった。
 それに対して本居・平田の国学は、仏教も儒教も日本に後から入って来た外来思想だ、と言う。それ以前の日本人は仮に古道と呼ぶべきものに拠って生きていた。道とは言っても道徳律でも観念でもなく、人間世界の自然(おのずから)に即したまことの道で、そこからみたら、仰々しい「人の道」=道徳、総じて漢(から)から入って来たので「漢心(からごころ)」と呼ぶべきもの、はむしろ小賢しい小理屈に過ぎない、ということになる。
 作中(第一部第十二章)短く取り上げられている「直毘霊」については以前も紹介したが、「自然に帰れ」が宣長の主張だとされている。え? ルソーか? 宣長は直接はそう言っていないし、だいたい「おのずから」とnatureは違うんでは? なんてやっぱり疑問が湧いてくる。もっともルソーにしたって、「自然に帰れ」という言葉は著作の中には出てこないようで、これはこれで面白いテーマになりそうだが、ここでは措いて、改めてごく簡単に主要な部分をまとめると。
 異国(あだしくに。支那のこと)は天照大御神の国ではないので、古来からずっと定まった主(きみ)もなく、世は乱れ、人心(ひとごころ)も悪くなる。だから易姓革命などということも起こるし、世を治めるための欺瞞的な徳目なんてものも必要になるのだ。
 どこそこへ帰れ、なんて短いスローガンはなくても、これで立派に日本主義のマニュフェストになる。日本の文明・文化の大元は支那からもたらされたもので、あちらの文物を学ぶことがつまり長い間知識人の仕事だった。明治以後はこれがヨーロッパに変り、英語の読み書きの能力が知識層には必須になったように、江戸時代までは漢文がそうだったのだ。現に青山半蔵も、漢文で「所感」を書いている。宣長自身ももちろん。だいたい、漢文が読めなかったら「古事記」の原文も読めない。
 それでもともかく、古の日本こそすばらしい、よそからきたなんとか教はいらんのだ、と高らかに宣言されるのは、コンプレックスが拭わるから、確かに爽快感がある。日本のナショナリズムはここで初めて出現したと言ってよい。
 ここにはまた、ただ幕府を倒すだけではない、それから先の見通しもあるように感じられる。建武の中興のように、朝廷を押し立てて武家支配の鎌倉幕府を倒したら、やっぱり武家支配である室町幕府の成立で終わった、ではダメなんで、神武の創業にまで遡らなければならない。そこでは一君万民の四民平等であるはず。このへんが富裕な農民・商人層にウケて、平田篤胤の門人(本人の死後の門人。篤胤自身が宣長の死後の門人で、国学ではこういうのはわりあいと普通らしい)は最盛期には全国で四千人を越えたと言われる。
 念の為に申し添えると、このような古代観は、マルクス主義の原始共産制と同じく、実際とはあまり関係のない思想家の観念であり、幻想である。だからこそ、現状に不満な若者の心を惹きつけるロマンチックな理想としての魅力を備えている。
 そのまま現実に適応しようとするのは……と言うと、今回の主題である、「革命の理想と現実」にもう半分答えが出てしまったような気になってしまう。が、短見は禁物。も少し詳細に、作品に即して見ていこう。

 その前にちょっと道草。たいていの宗教・道徳が、色恋沙汰を警戒するのに、国学はそうでないところはたいへんよい。宣長は「よい人は恋を許すが、さうでない人は恋をとがめる」と言っているそうで(第二部第十一章)。だいたい、この大人は、「源氏物語」から、日本人の心性としての「もののあはれ」を抽出してみせた(「紫文要領」など)のだから、当然なんではある。

 それにしても、島崎藤村が活写した木曽谷あたりの国学者は、政治的にはあまりにナイーブだったように見える。
 慶応3年10月14日(新暦だと1867年11月10日)、徳川慶喜は二条城で、朝廷に大政奉還を願う、と発表した。これによって幕臣のみならず、時勢に関心のある人々がたいへんな衝撃を与えられたのは当然だが、しかし、この一事をもって維新は既に成った、と思った人は何人いたか。

「(前略)ひどい血を流さずに復古を迎へられたといふ話さ。そこがわれわれの国柄をあらわしてゐやしませんか。なかなか外国ぢゃ、かうは行くまいと思ふ。」
「まあ、わたしは一晩寝て、目がさめて見たら、もうこんな王政復古が来てゐましたよ」

(第一部第十二章)

 そうはいかなかった。これはほんの序幕に過ぎない。このしばらく前から、西郷隆盛、大久保利通、岩倉具視らは、武力による倒幕を期して策動を続けていた。徳川家から政権がなくなったからと言って、それで矛を収めるなんてつもりには到底なれない。
 このへんの詳しい経緯も以前に書いたので、ここではもう一つだけ、上とは別の動きを指摘するに留める。
 勤王方でも大名クラスの松平春嶽や山内容堂らは、幕府がなくなった後は、諸侯会議によって国政を運営する、その議長は慶喜、といった構想を持っていた。一種の議会と考えると、ここから大きな騒擾はなく、日本は穏やかに民主化に向って進んでいける可能性はあったろうか?
 ……どうも、無理だろうなあ、と思える。何より、徳川を初めとする封建諸侯がそのまま存続していて、それで新時代だと、西郷隆盛たちも、青山半蔵たちも、納得できるものではない。もっと徹底した破壊がいる。結果、王政復古は、鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争へと、三千五百人以上の「ひどい血を流」すことになった。
 そしてその結果、復古の理想は叶えられたのか?

「しかし君、復古が復古であるといふのは、それの達成せられないところにあるのさ。さう無造作にできるものが、復古ぢやない。ところが世間の人はさうは思ひませんね。あの明治三年あたりまでの勢いと来たら、本居平田の学説も知らないものは人間ぢやないやうなことまで言ひ出した。それこそ、猫も、杓子もですよ。篤胤先生の著述なぞはずいぶん広く行はれましたね。ところが君、その結果は、といふと、何が『古事記伝』や『古史伝』を著した人たちの真意かもよくわからないうちに、みんな素通りだ。いくら、昨日の新は今日の旧だといふやうな、こんな潮流の急な時勢でも、これぢや――まつたく、ひどい」(第二部第九章)

 これは暮田正香の言葉。モデルは角田忠行。まず水戸学を学んでから平田銕胤の門人となった、文久3年(1863)の足利三代木像梟首事件の首謀者の一人で、この事件の関係者は多く捕まって処刑されたが、馬籠の島崎正樹(=青山半蔵)らに匿われて辛くも逃れ、維新後は皇学所監察、学制取調御用掛、大学出仕を歴任して、最後は熱田神宮大宮司となった。その前に賀茂神社の少宮司に任じられたところからして、中央から遠ざけられた、つまり左遷であったので、西へ下る途次、同門の青山の許を訪れた明治5年の慷慨が上。
 これに対して青山半蔵は「われわれはまだ、踏み出したばかりぢやありませんかね」と言う。本当の維新はこれからだ、と。そうはいかなかった。そこからくる痛ましい挫折を描くのが大作「夜明け前」の眼目なのだが、実際にその筋が動き出すのは、全体の四分の三を過ぎた当たり、新潮文庫では「第二部下」になってからになる。

 明治3年1月、大教宣布が出て、日本の国教は神道、国の根本方針は祭政一致と定められた。この時が国学の絶頂期だったろう。
 制度的には、慶応4年1月に古代律令制の神祇官が復活、明治2年には太政官より上の最高官庁とされた。実際の仕事は広い意味の教育で、後に皇国史観と呼ばれることになる歴史観・国家観を国民に浸透させることだった。
 これがうまくいかなかったことには、さまざまな理由が挙げられるが、今日の目から見ると、思想自体に無理が含まれていたのではないか、と思える。
 国学の国家観には独善的なところがある。日本は素晴らしい国だ、まではいいとして、他国はすべて劣っているとか、日本こそ世界の中心だ、までいったら行き過ぎだ。世界のナショナリズムの多くにこの弊害は見られ、是正するのはたいへん困難だった。江戸時代でも本居宣長より四歳年少の上田秋成が日本中心主義を冷静に批判したのはよく知られている。
 幕末にヨーロッパ諸国が具体的に姿を現すと、これがさらに過激化してショービズム(排外主義)となり、日本は神国であって、異国は穢れた夷狄だという信念、いわゆる攘夷思想を生んだ。
 これがそのまま、前述の名分論と相俟って、ヨーロッパと通商条約を結んだ幕府を倒すべきだという倒幕のイデオロギーになったのだが、諸外国を完全に排斥することなど到底できないことは、少なくとも薩英戦争(1862年)や馬関戦争(1863年)を経た後の薩長の指導者たちには、よく理解されていただろう。それでも表向き攘夷の看板を外すことはなかった、ということは、それは倒幕のための単なる口実になった。純粋な国学者たちと現実政治のくいちがいが、まずここから出てくる。

 維新後の具体例は、これまた以前に述べた新政府の軍隊に一番よく現われている。
 明治5年の徴兵令先立って出た「徴兵告諭」には大略こうある。これからは、武士などという厚かましいただめしぐらいはなくなり、太古の昔のように、平時には生業に従事し、一朝ことあれば大君(天皇)の下にはせ参じて兵士となって戦うことになるのだ、と。
 このように国学由来の思想を表看板にして、国民皆兵の制度が敷かれたのだが、兵士としての訓練は最初はフランス式、後にはドイツ式となった。そうせざるを得ない。銃も大砲も軍艦も、すべて洋式のものが使われたし、何より、武家支配以前の日本のやりかたなど誰にもわからなくなっていた時代で、民による歩兵というもの自体があちらに倣ったものにするしかなかった。
 なのにこの点で日本は、驚異的なスピードで進歩を遂げた。
 日本という国の特質は、日本精神とはいったい何か、などという抽象的で面倒な議論はあまりせず、実際の必要に応じてさっさと改革を進める現実主義にあると言えそうだ。結果、皇国史観も理屈として否定されたわけではなく、日本的愛国心の中核として大東亜戦争敗戦前までは残っていた。
 その一方、次のような現実もあった。神祇官が神祇省となる頃までは、半蔵の直接の師である平田銕胤が中心的な役割を占めていたと言ってもいいが、高齢のために引退し、直弟子の角田たちも中央から逐われてみると、神祇省は文部省といっしょになってさらに教部省と名が変り、抽象的で面倒な議論が好きな国学者などは頑迷固陋の代名詞として嘲弄されるようにさえなった。
 ここに明治五年頃臨時雇いとして出仕した半蔵は、その不遇感から、ますます思想が先鋭化されるようになる。その前に故郷の馬籠で、住民たちの生活のために、山林の自由な伐採を求める請願を筑摩県にしたが、かえって藩の時代より厳しく規制される羽目になり、自身は戸長、昔の庄屋の地位を失う経験をしていた。封建制より中央集権国家の方が、地域の必要より上からの要請が重んじられる結果、庶民にとってはより苛政になることも、世界的によくある現象だ。
 これを改善する方法としての、西洋由来の、民主主義的な発想は、自由民権運動としてそろそろ始まる頃だったが、半蔵の頭に浮かばないのはしかたない。すべては、復古の精神が不徹底だからとしか思いようがない。憂悶の情に駆られた半蔵は、ついに以下の自作の歌を書いた扇を、天皇の行列に投げ入れる挙に出る。

 蟹の穴ふせぎとめずは高堤やがてくゆべき時なからめや

 「蟻の一穴」の成句を蟹に変えているが、蟹は堤防にはそんなに穴は掘らないんでは? なんて疑問はともかく、穴から染み込んできてやがて決壊を起こしそうなのはとりあえず「西洋(的なもの)」ということになりそうだ。「どうしてもこれは一方に西洋を受けいれながら、一方には西洋と戦はねばならぬ」(第二部第十二章)。半蔵と雖も欧化を完全に否定できるものではないことぐらいは弁えていた。そうであればこそ、日本は日本としても理想を保つ努力が必要となるはずだ、と。
 思っても、ではどうすればいいのか? 熊本にでもいれば、神風連の乱に参加して、せめて、悲惨ではあっても思想に殉じた首尾一貫した生涯を遂げられたかも知れないが、彼の周囲にはそこまでの過激に走る人はなく、思いは徒に空転していくばかり。これが彼の悲劇であり、名もなく勢力もない一般人はだいたいそんなもんだ、という身も蓋もないリアリティが本作にはある。
 先の献扇事件は憂国の情から出たものだからと贖罪金(罰金)ですみ、その後飛騨水無神社の宮司として四年勤めてから帰国すると、彼はもはや厄介者扱いで、実質的に隠居所に押し込められるような境遇になる。明治13年、明治天皇の六大巡幸の一つとして東山道にお越しの時には、青山家は行在所(休憩所)を命じられる名誉に浴するが、半蔵にはいかなる役割も与えられず、庭先ですすり泣きをこらえるばかり。
 やがて彼は、得体の知れないものにつけ狙われる幻想に脅えるようになり、最後に地元の寺に火をつけてしまう。「あんな寺なぞは無用の物だ」(第二部第十四章)と言って。国学の原理から言えば、確かに仏教は無用なものだろうし、明治初期は廃仏毀釈という名の仏教弾圧が日本史上一番激しかった頃ではある。だとしても、長い間日本人の生活に溶け込んできたお寺をすべてなくすなんて、できない相談だった。それに第一、馬籠の万福時の松雲和尚は田舎にはもったいないほどの人物で、半蔵と個人的な交わりも深かったのにもかかわらず。
 これが彼の純粋性が最後にたどりついた一種の原理主義の帰結であると思うと、痛ましい、としか言葉はない。

 最後に我が国の宗教事情について、改めて少し愚見を述べます。
 作中聖徳太子の言葉として「神道はわが国の根本である、儒仏はその枝葉である」というのが何度か出てくるが、この出典は「先代旧事本紀」で、元は「神道は根本なり、儒道は枝葉なり、仏法は花果なり」。太子が幼い頃、用明天皇の質問に答えた言葉とされる太子伝説の一つで、「旧事本紀」自体が偽書の疑いがあることを除いても、そのまま事実とすることはもちろんできない。
 それにしても、聖徳太子が我が国に仏教を広めた第一人者であることは明かだし、「十七条の憲法」には「篤く三宝を敬へ。三宝は仏法僧なり」とあって、仏法こそ「万国の極宗」と言われる一方、神道については全く触れられていない。
 思うに、太子は神道を等閑にした、というより、当時は神道なんて言葉自体がなくて、自覚的な宗教(だからそれを信じないこともあり得る)とは感じていなかったのではないだろうか。作中一度だけ名前が出てくる歴史家・久米邦武が、「神道ハ祭天ノ古俗」(明治25年)であって、宗教ではない、としたのはその意味では当っている。おかげで我が国は、仏教でも儒教でも、排斥することは例外的にしかおこらず、アジア・ヨーロッパ諸国を長年苦しめた宗教戦争ともほぼ無縁だった。
 平安時代以降に出て来たいわゆる神仏習合思想、日本の神々は仏の仮の姿だという本地垂迹説やら両部神道なんていうのも、一部の知識人が考えたことで、一般庶民にすれば、村にはお寺もあれば神社もあるのが当り前。他方、宣長以下の国学者にとっては、ここでの、仏を主、神を従とする宗教観は決して認められないだろう。
 それに宣長の描く古代像は、前述のように、道徳のいらない世界なので、すると制度もいらないし、政治もいらないことになる。つまり、一種のアナーキズムであり、統治のためのイデオロギーとしては元来使えない、ということ。あるいは聖徳太子もそれを理解していて、天皇中心の国家を運営するために、仏教を取り入れる必要を感じたのかも知れない。
 この種のユートピア思想は、危機の時代には先鋭化して排他的になりがちになる。いや、宣長が大和心に対立する概念として漢心を言挙げしたときに、それは既に始まっていたと言えるでしょう。
 「復古が復古であるといふのは、それの達成せられないところにある」という上の暮田正香の言葉は、本人が思っている以上に痛烈な意味があるように思う。達成不可能なほど煌びやかな理想だからこそ人を強く動かして革命を推進するが、結果明らかになるのがまた理想の達成不可能性。規模の大小はあっても、こういうことを繰り返しながら人間の歴史は進んできた。この種の悲劇は絶えることはないが、それでも人間社会は少しづつよくなっているのだろう。それだけは信じていきたい。
コメント (2)
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