メインテキスト:小浜逸郎『倫理の起源』(ポット出版プラス、平成31年)
小浜ブログに断続的に掲載されてきた「倫理の起源」がこのほど一書にまとまった。現在のような出版事情でこのような書籍が出るのは、それだけで慶賀されるべきであろう。
以前からの読者として(と言って、よい読み手というわけではないが)感想、というより、心に浮かんだことを書きつけておきたい。それがつまり「一読三陳」の趣旨でもあるので。
この書は「倫理“学”」ではなく、「倫理学批判」を目指すものだ。つまり、主に西洋哲学によって、とんでもなく遠いところ(「善のイデア」とか「道徳律」とか)へ祭り上げられた倫理の根拠を、より身近な、人と人との関わりの場へもどす試みである。
まず、良心とは何か。著者はその淵源を、子どもが親に叱られた時の恐怖に見いだす。幼児は、親に見捨てられては生きていけない、そのことは本能的に察知する。長じても、人は他人との関わりの中でしか生きていけない。そもそも、共同性以前に「個人」なるものはない。共同性こそ、人間にとって「本源」(和辻哲郎の用語)なのだ。それが毀損される不安が、関わり合い=共同性をできるだけ良好に保とうとする心性を生む。それが即ち良心である。
これは多くの人の腑に落ちる言説であろう。発達心理学の本にも、似たようなことは書いてあったように思う。ここから一歩進めて、倫理とは何か、と問うならば、人間ができるだけ安定して、幸せに暮らすことができるために役立つ諸種の行為と禁止事項の総体である。
西洋思想の中では、功利主義と呼ばれているものがこの範囲に留まって思索を展開している。しかし、この思想はしばしば嘲笑の的にされ、代わって、あらゆる現象の背後にひそむ「本質」、その中の「善の本質」とか、経験以前に、即ち共同性以前に人間の内に存在する道徳律とか、まとめれば「絶対善」の観念を樹てようとする試みが、装いを変えて、繰り返し繰り返し西洋思想の中に現れ、重んじられてきた。
それはなぜか、私なりに考えると、たぶん、「自由で自律的な個人」というフィクションに内容を与えるためにである。非常に曖昧で抽象的なしろものではあるが、やはりそれはある、としたほうがいい。その指向ばかりは人間社会に偏在しているらしい。それはなぜか。
まず一番単純な話、抽象的なものほどカッコよくて、高揚感をもたらす、ということがある。
今もそうなのかどうか、私が若い頃には、「国家なんてものを越えて、人類全体を視野に収めて考えるべきだ」なる言論が盛んだった。「越えて」と言いさえすれば越えられるとは、なんともお気楽で、それだけにおよそ無意味な言説である。人類全体の共同性なんてものは、一番抽象性が高い。ということはつまり、人々の頭の中にしかない純粋な観念で、だからこそ現実の桎梏によって傷つけられることのない夢の美しさを保つ。
具体的に存在する共同体でも、家族、地域共同体、経済共同体(企業)、国家、といった具合に範囲が大きくなると、それだけ重要性が増すように思え、また個々人の目には容易に全体が見渡せない、という意味で抽象性が強まる。それならば、より大きな共同性のために生きることは、より正しい生き方だということになりはしないだろうか。
両性のなかでもより観念的な傾向の強い男性は、そう思いがちである。またもちろん、大きな共同体、たとえば国家は現にあり、それを保つためにやるべきこともある。
例えば、子どもに普通教育を受けさせることは、親の義務であると同時に、国家が取り組むべき事業とされる。全国に学校を作るなんてことは、個人や小さな共同体にできることではないのだから。これを承認する、ということは、個々人は、自分に子どもの有り無しにかかわらず、学校の設置・運営のために自分の税金が支払われることを承認したことになる。
以上は非常に具体的で、ささやかな話ではある。
そして、このようなささやかだがなくてはならない義務を果たすことが即ち善行であり、特別な行いは必要ないのだ、と著者は言う。もっともである。「特別な行い」は、共同体の実際の必要性よりは多く、「自分は特別だと思いたい」個人的な欲望から発しているのだから。ヒーロー(英雄)と麻薬のヘロインは同語源の言葉なのだ。
「アーリア/大和民族の偉大性」などというと、具体的には何か、さっぱりわからないのだが、むしろそのほうがいい。「人類全体」と同じ、なんとなく高尚そうな純粋な観念のほうが、人を酔わせる力が強いのである。酔った挙句、自分がその化身のように思い込むと、自分を含めた個々人に犠牲を強いてでも、やるべきことをやっていい、いや、やるべきだ、などというところまで亢進する。そこまでいった人間が、過激な行動に走る心理過程を、このうえなく説得的な描いた小説に、大江健三郎「セブンティーン」がある。
また、過激な行動には走らないまでも、「普通の人間には見えないより正しい真実」の需要はある。何よりも、自分自身をより価値の高いものだと思いたいがために。「絶対善」をめぐる言説が今まで絶えなかった理由はこれで、たぶん今後も絶えることはない。
より深刻な問題もある。
著者は、和辻哲郎の倫理学に強く影響されていることは率直に認めながら、批判的な乗り越えを図っている。和辻は共同性を保つ原理を人間相互の「信頼」に置く。それはその通りに違いないが、どうもこの「信頼」は確固不動のものであるかのような書きぶりになっている。もちろん、そんなことはあり得ない。むしろ、それが失われるかもしれない不安こそ、倫理と呼ばれる価値観念と感覚を成立せしめるのである。
さて、それでは共同性が失われる契機はなんだろう。最初に戻って、幼児にとっては両親の怒り・叱責が直接そう見える。だから彼らは、懸命に親の信頼を得ようと努め、これを通じて最初の社会化を果たす。
それは最初の話。時が経てば、共同性・関係性自体が変化せざるを得ない。子どもは成長するし、親は年老いる。その時々で共同性を保ち、できればよりよいものにしていくための役割もまた、変わらざるを得ない。そして、このような役割を担うのは、個人である他はない。
つまり人は、共同体の名において、よき個人であることが求められる。そして何が「よき個人」であることの内容をみつけることもまた、個人に委ねられている。
例えば、今多くの人が現実に直面している問題に、年老いて介護が必要になった親を、自宅に置くべきか、施設に入れるべきか、の悩みがある。
入れようとしても施設が足りない、という話はひところよく聞いた。このような状況はできるだけ改善されるべきである。それは地域社会や国家など、より大きな共同体の責務であろう。これに限っても、100パーセント満足のいく状態は達成できないのではないか、という気はするが、とりあえず、努力の方向性は定まっている。そう言ってよい。
しかし、仮に、経済的社会的にはどちらでも自由に選べる立場であったとしても、どちらがよいのかは、容易にわからない。
こういうときあなたは、様々な実例を見て検討し、また他人のアドバイスを求めることもできる。いや、現にそうしているだろう。しかし結局、最終的な決定は、あなたがくださなければならない。
たぶん、一般的客観的に「正しい」道など、原理的にないのだろう。ある家庭は、それぞれの固有の歴史を背負い、具体的な現状の中で存在するのだから。その中で、現にいるあなた、あるいは(兄弟がいる場合には)あなたがたが、決断して実行する。
ところが人間は完全ではないのだから、決断が悪い結果を招く可能性はある。ずっと自宅で介護したら、介護される本人は幸せだったが、家族の他のメンバーに過剰な負担をかけてしまい、家庭が不幸になった、というような。
このような悪い結果の「責任」はどうなるか。もし、それがあり得る/なくてはならない、のだとしたら、それはあなたが負うしかない。あなたという個人が、ここで否応なく表に登場する。よき共同性を保つべきであったのに、結果としてそうしなかった罪責ある者として。
「あなたにはAができたが、Bもできた。そこで、人間社会で一般に悪とされ、法律でも明確に禁止されているAをしたのだから、その責任はあなたにある」なる理屈ができたのは近代のことであるしい。「自由で自律的な個人」の概念、それは今日ではかなり疑われている。というか、これもまた、「社会の都合上あることにしよう」として定められたフィクションなのであろう。
にもかかわらず、私の知る限り、罪を犯した廉で罰せられる「罪人」は、古今東西の社会にいたようである。責任は原則として個人が負うものだ。この観念は、まさに、共同性を保つためにこそ必要なのであろう。ならば、個人にとっての「正しい生き方」は何か、絶えず問われねばならないのである。
まとめると、始まりには共同性への「不安」を感じる者として、終わりにはその不安を解消する「責任」を負う者として、「個人」はある。そして倫理は、個人にこそ関わる。
最後に改めて、家族(最小の、男女一対のものを含む)から国家にまで至る各共同体が、相互に齟齬をきたす場合について、考えてみたい。
前述の、「より大きな共同体こそより価値が高い」なる思い込みについて、著者は改めるように求めている。より大きな共同体は、より小さな共同体の安定と幸福を保つことを第一の役割として運営されるべきだ、というふうに。ならばまた、個々の共同体にとって必要であるとか、よいことであると納得される限りにおいて、個々人はより大きな共同体のために働くようにする、ことにもなる。
戦後日本では、すぐに受け入れられそうな提言ではある。しかし、当然ながら、「一人の人間の命は地球より重い」(福田赳夫以前からこの言葉はあった)なんて、歌を歌っていればすむほど、ことは簡単ではない。
仕事の都合と家庭の都合と、どちらを優先させるべきか、などは、程度の差こそあれ、普通の人間の生涯中に一度はふりかかる局面であろう。その場合には原則として仕事を優先させるべき、というのが従来の男性的価値観だとすれば、それは変更されたほうがよい。
そうは言っても、仕事も家庭も千差万別で、それぞれに固有な事情があるのだから、一般的客観的な解などないことは、上と同じであろう。それでも、いくらかでも気分が楽になる人がいるなら。それ以上は望まない方が、むしろよい。
最も苛烈なケースである、戦争に関する考察が、本書の掉尾を飾っている。
本ブログでも以前に取り上げたが、平成18年に刊行された百田尚樹「永遠の零」は、社会思想的に画期的な意味がある。
ここでは新たな、戦争のヒーロー像が語られている。国家のために一命を捧げる、遺される家族への哀惜はあっても、それに後ろ髪を引かれはしない男の中の男、ではなく、「家族のために、なんとしても生きて帰りたい」と公言する軍人が主人公なのだ。
彼は軍人としては不適格者なのか。そんなことはない。最もつづめて言えば、戦争は勝つためにやるものだ。そして、最後にこっちが生き残り、向こうが死んでいることが、つまり勝つということではないか。ならば、自分の命を大事にすることこそ、すぐれた戦争の専門家、即ち軍人の資質としてよい。
このように考えればまた、「国のため」と「家族のため」の二つの共同体への配慮も並び立つ。と、そう簡単にはいかないところまできちんと描いているのが、この小説の優れたところである。
主人公は戦闘機乗りで、超人の域にまで達した技能を持つ。そのため、航空隊の教官となるが、上の合理主義はここでも発揮される。訓練生たちを、なかなか合格させないのである。未熟な飛行・戦闘技術のまま戦争に出せば、無駄死にさせるばかりだ。これは忍びないだけでなく、戦争に勝つためにも有害である。
そんな思いと裏腹に、大東亜戦争の戦局は悪化の一途をたどる。追いつめられた日本軍は、合理性に欠けた無茶苦茶な作戦の挙句、特攻という、世界の戦史上類のない「統率の外道」(大西瀧治郎がそう言ったとされる)に踏み切る。
合理的な思考からすれば、満足に戦争を続けられるだけの兵器も兵力もほとんどなく、兵士の命と引き換えの攻撃しかやることがない、となれば、その時点で戦争は負けなのである。それを認めることができないほど、旧日本軍は「敗北よりは美しい死」なる美学に冒されていた。これもまた、前述の、人を酔わせる「美しい観念」の一つとしてよい。
主人公は、これほど無駄に若者を死なせる作戦の片棒を担ぐことには耐えられない。懊悩の果てに、「必ず帰る」という家族との誓いは捨て、自らも特攻を志願する。同じ時に飛び立つことになった隊に、かつて一身の危険を顧みず、彼を救った若い兵士がいた。主人公は、自分の機のエンジンに不調があることを発見して、口実を設けて若者との機の変更を申し出る。
一度特攻で出撃したら、生きて帰ることは許されないが、機の故障で目指す戦場まで行けないことが明らかな場合には、例外だった。おかでげで若者は九死に一生を得て、戦後まで生き延び、主人公に代わって彼の家族を救うことになる。
ご都合主義てんこもりの結末、とは言えるが、だから文学作品として質が低いとは、著者同様、私も思わない。だいたい、全く欠点のない主人公の人物設定からして、まず現実にはないものだ。そこで綴られているのは、文学でのみ歌われる得る、美しい夢なのである。人を過激な行動へ誘うのではなく、深い鎮魂の念をもたらす類の。それだけに、現実にそのまま適用されるようなものではない。
現実に生きる人間とは、共同性を結んだ他者のために何事かをなそうとしても、なかなかできない程度の卑小な存在である。それでも、ではなくて、それだからこそ、「正しい道」は、今この場で求められなくてはならない。本書は、「今、この場」はどこにあるか、明らかにした。何よりそこで、貴重な仕事と呼ばれ得ると思う。
【「今、この場」から少し引いた視点から見ると、あらゆる共同性は、その外側に「異質なもの」を作り出し、それの排除を必然とするのは明らかだ。戦争に勝ち、家族の元へ帰るためには、敵方の多くの兵士を殺し、多くの家庭を破壊せねばならない。ここを強調すれば、すべての共同体に究極の価値はないし、中でも現在最大の共同体である国家は悪、なる感覚を呼ぶ。
EUは、国境を低くし、その分従来の共同性を弱める最近の試みだった。その結果何が生じたか、最近省察を述べた。こういう場合、どういう方向が好ましいか、まだ入口も見つかっていない、というのが正直なこところのようだ。今後取り組むべき課題はまことに大きい。それだけに、やり甲斐も大きい、と感じられるような強さだけは、なんとかかんとか持ち続けたいものです。】
小浜ブログに断続的に掲載されてきた「倫理の起源」がこのほど一書にまとまった。現在のような出版事情でこのような書籍が出るのは、それだけで慶賀されるべきであろう。
以前からの読者として(と言って、よい読み手というわけではないが)感想、というより、心に浮かんだことを書きつけておきたい。それがつまり「一読三陳」の趣旨でもあるので。
この書は「倫理“学”」ではなく、「倫理学批判」を目指すものだ。つまり、主に西洋哲学によって、とんでもなく遠いところ(「善のイデア」とか「道徳律」とか)へ祭り上げられた倫理の根拠を、より身近な、人と人との関わりの場へもどす試みである。
まず、良心とは何か。著者はその淵源を、子どもが親に叱られた時の恐怖に見いだす。幼児は、親に見捨てられては生きていけない、そのことは本能的に察知する。長じても、人は他人との関わりの中でしか生きていけない。そもそも、共同性以前に「個人」なるものはない。共同性こそ、人間にとって「本源」(和辻哲郎の用語)なのだ。それが毀損される不安が、関わり合い=共同性をできるだけ良好に保とうとする心性を生む。それが即ち良心である。
これは多くの人の腑に落ちる言説であろう。発達心理学の本にも、似たようなことは書いてあったように思う。ここから一歩進めて、倫理とは何か、と問うならば、人間ができるだけ安定して、幸せに暮らすことができるために役立つ諸種の行為と禁止事項の総体である。
西洋思想の中では、功利主義と呼ばれているものがこの範囲に留まって思索を展開している。しかし、この思想はしばしば嘲笑の的にされ、代わって、あらゆる現象の背後にひそむ「本質」、その中の「善の本質」とか、経験以前に、即ち共同性以前に人間の内に存在する道徳律とか、まとめれば「絶対善」の観念を樹てようとする試みが、装いを変えて、繰り返し繰り返し西洋思想の中に現れ、重んじられてきた。
それはなぜか、私なりに考えると、たぶん、「自由で自律的な個人」というフィクションに内容を与えるためにである。非常に曖昧で抽象的なしろものではあるが、やはりそれはある、としたほうがいい。その指向ばかりは人間社会に偏在しているらしい。それはなぜか。
まず一番単純な話、抽象的なものほどカッコよくて、高揚感をもたらす、ということがある。
今もそうなのかどうか、私が若い頃には、「国家なんてものを越えて、人類全体を視野に収めて考えるべきだ」なる言論が盛んだった。「越えて」と言いさえすれば越えられるとは、なんともお気楽で、それだけにおよそ無意味な言説である。人類全体の共同性なんてものは、一番抽象性が高い。ということはつまり、人々の頭の中にしかない純粋な観念で、だからこそ現実の桎梏によって傷つけられることのない夢の美しさを保つ。
具体的に存在する共同体でも、家族、地域共同体、経済共同体(企業)、国家、といった具合に範囲が大きくなると、それだけ重要性が増すように思え、また個々人の目には容易に全体が見渡せない、という意味で抽象性が強まる。それならば、より大きな共同性のために生きることは、より正しい生き方だということになりはしないだろうか。
両性のなかでもより観念的な傾向の強い男性は、そう思いがちである。またもちろん、大きな共同体、たとえば国家は現にあり、それを保つためにやるべきこともある。
例えば、子どもに普通教育を受けさせることは、親の義務であると同時に、国家が取り組むべき事業とされる。全国に学校を作るなんてことは、個人や小さな共同体にできることではないのだから。これを承認する、ということは、個々人は、自分に子どもの有り無しにかかわらず、学校の設置・運営のために自分の税金が支払われることを承認したことになる。
以上は非常に具体的で、ささやかな話ではある。
そして、このようなささやかだがなくてはならない義務を果たすことが即ち善行であり、特別な行いは必要ないのだ、と著者は言う。もっともである。「特別な行い」は、共同体の実際の必要性よりは多く、「自分は特別だと思いたい」個人的な欲望から発しているのだから。ヒーロー(英雄)と麻薬のヘロインは同語源の言葉なのだ。
「アーリア/大和民族の偉大性」などというと、具体的には何か、さっぱりわからないのだが、むしろそのほうがいい。「人類全体」と同じ、なんとなく高尚そうな純粋な観念のほうが、人を酔わせる力が強いのである。酔った挙句、自分がその化身のように思い込むと、自分を含めた個々人に犠牲を強いてでも、やるべきことをやっていい、いや、やるべきだ、などというところまで亢進する。そこまでいった人間が、過激な行動に走る心理過程を、このうえなく説得的な描いた小説に、大江健三郎「セブンティーン」がある。
また、過激な行動には走らないまでも、「普通の人間には見えないより正しい真実」の需要はある。何よりも、自分自身をより価値の高いものだと思いたいがために。「絶対善」をめぐる言説が今まで絶えなかった理由はこれで、たぶん今後も絶えることはない。
より深刻な問題もある。
著者は、和辻哲郎の倫理学に強く影響されていることは率直に認めながら、批判的な乗り越えを図っている。和辻は共同性を保つ原理を人間相互の「信頼」に置く。それはその通りに違いないが、どうもこの「信頼」は確固不動のものであるかのような書きぶりになっている。もちろん、そんなことはあり得ない。むしろ、それが失われるかもしれない不安こそ、倫理と呼ばれる価値観念と感覚を成立せしめるのである。
さて、それでは共同性が失われる契機はなんだろう。最初に戻って、幼児にとっては両親の怒り・叱責が直接そう見える。だから彼らは、懸命に親の信頼を得ようと努め、これを通じて最初の社会化を果たす。
それは最初の話。時が経てば、共同性・関係性自体が変化せざるを得ない。子どもは成長するし、親は年老いる。その時々で共同性を保ち、できればよりよいものにしていくための役割もまた、変わらざるを得ない。そして、このような役割を担うのは、個人である他はない。
つまり人は、共同体の名において、よき個人であることが求められる。そして何が「よき個人」であることの内容をみつけることもまた、個人に委ねられている。
例えば、今多くの人が現実に直面している問題に、年老いて介護が必要になった親を、自宅に置くべきか、施設に入れるべきか、の悩みがある。
入れようとしても施設が足りない、という話はひところよく聞いた。このような状況はできるだけ改善されるべきである。それは地域社会や国家など、より大きな共同体の責務であろう。これに限っても、100パーセント満足のいく状態は達成できないのではないか、という気はするが、とりあえず、努力の方向性は定まっている。そう言ってよい。
しかし、仮に、経済的社会的にはどちらでも自由に選べる立場であったとしても、どちらがよいのかは、容易にわからない。
こういうときあなたは、様々な実例を見て検討し、また他人のアドバイスを求めることもできる。いや、現にそうしているだろう。しかし結局、最終的な決定は、あなたがくださなければならない。
たぶん、一般的客観的に「正しい」道など、原理的にないのだろう。ある家庭は、それぞれの固有の歴史を背負い、具体的な現状の中で存在するのだから。その中で、現にいるあなた、あるいは(兄弟がいる場合には)あなたがたが、決断して実行する。
ところが人間は完全ではないのだから、決断が悪い結果を招く可能性はある。ずっと自宅で介護したら、介護される本人は幸せだったが、家族の他のメンバーに過剰な負担をかけてしまい、家庭が不幸になった、というような。
このような悪い結果の「責任」はどうなるか。もし、それがあり得る/なくてはならない、のだとしたら、それはあなたが負うしかない。あなたという個人が、ここで否応なく表に登場する。よき共同性を保つべきであったのに、結果としてそうしなかった罪責ある者として。
「あなたにはAができたが、Bもできた。そこで、人間社会で一般に悪とされ、法律でも明確に禁止されているAをしたのだから、その責任はあなたにある」なる理屈ができたのは近代のことであるしい。「自由で自律的な個人」の概念、それは今日ではかなり疑われている。というか、これもまた、「社会の都合上あることにしよう」として定められたフィクションなのであろう。
にもかかわらず、私の知る限り、罪を犯した廉で罰せられる「罪人」は、古今東西の社会にいたようである。責任は原則として個人が負うものだ。この観念は、まさに、共同性を保つためにこそ必要なのであろう。ならば、個人にとっての「正しい生き方」は何か、絶えず問われねばならないのである。
まとめると、始まりには共同性への「不安」を感じる者として、終わりにはその不安を解消する「責任」を負う者として、「個人」はある。そして倫理は、個人にこそ関わる。
最後に改めて、家族(最小の、男女一対のものを含む)から国家にまで至る各共同体が、相互に齟齬をきたす場合について、考えてみたい。
前述の、「より大きな共同体こそより価値が高い」なる思い込みについて、著者は改めるように求めている。より大きな共同体は、より小さな共同体の安定と幸福を保つことを第一の役割として運営されるべきだ、というふうに。ならばまた、個々の共同体にとって必要であるとか、よいことであると納得される限りにおいて、個々人はより大きな共同体のために働くようにする、ことにもなる。
戦後日本では、すぐに受け入れられそうな提言ではある。しかし、当然ながら、「一人の人間の命は地球より重い」(福田赳夫以前からこの言葉はあった)なんて、歌を歌っていればすむほど、ことは簡単ではない。
仕事の都合と家庭の都合と、どちらを優先させるべきか、などは、程度の差こそあれ、普通の人間の生涯中に一度はふりかかる局面であろう。その場合には原則として仕事を優先させるべき、というのが従来の男性的価値観だとすれば、それは変更されたほうがよい。
そうは言っても、仕事も家庭も千差万別で、それぞれに固有な事情があるのだから、一般的客観的な解などないことは、上と同じであろう。それでも、いくらかでも気分が楽になる人がいるなら。それ以上は望まない方が、むしろよい。
最も苛烈なケースである、戦争に関する考察が、本書の掉尾を飾っている。
本ブログでも以前に取り上げたが、平成18年に刊行された百田尚樹「永遠の零」は、社会思想的に画期的な意味がある。
ここでは新たな、戦争のヒーロー像が語られている。国家のために一命を捧げる、遺される家族への哀惜はあっても、それに後ろ髪を引かれはしない男の中の男、ではなく、「家族のために、なんとしても生きて帰りたい」と公言する軍人が主人公なのだ。
彼は軍人としては不適格者なのか。そんなことはない。最もつづめて言えば、戦争は勝つためにやるものだ。そして、最後にこっちが生き残り、向こうが死んでいることが、つまり勝つということではないか。ならば、自分の命を大事にすることこそ、すぐれた戦争の専門家、即ち軍人の資質としてよい。
このように考えればまた、「国のため」と「家族のため」の二つの共同体への配慮も並び立つ。と、そう簡単にはいかないところまできちんと描いているのが、この小説の優れたところである。
主人公は戦闘機乗りで、超人の域にまで達した技能を持つ。そのため、航空隊の教官となるが、上の合理主義はここでも発揮される。訓練生たちを、なかなか合格させないのである。未熟な飛行・戦闘技術のまま戦争に出せば、無駄死にさせるばかりだ。これは忍びないだけでなく、戦争に勝つためにも有害である。
そんな思いと裏腹に、大東亜戦争の戦局は悪化の一途をたどる。追いつめられた日本軍は、合理性に欠けた無茶苦茶な作戦の挙句、特攻という、世界の戦史上類のない「統率の外道」(大西瀧治郎がそう言ったとされる)に踏み切る。
合理的な思考からすれば、満足に戦争を続けられるだけの兵器も兵力もほとんどなく、兵士の命と引き換えの攻撃しかやることがない、となれば、その時点で戦争は負けなのである。それを認めることができないほど、旧日本軍は「敗北よりは美しい死」なる美学に冒されていた。これもまた、前述の、人を酔わせる「美しい観念」の一つとしてよい。
主人公は、これほど無駄に若者を死なせる作戦の片棒を担ぐことには耐えられない。懊悩の果てに、「必ず帰る」という家族との誓いは捨て、自らも特攻を志願する。同じ時に飛び立つことになった隊に、かつて一身の危険を顧みず、彼を救った若い兵士がいた。主人公は、自分の機のエンジンに不調があることを発見して、口実を設けて若者との機の変更を申し出る。
一度特攻で出撃したら、生きて帰ることは許されないが、機の故障で目指す戦場まで行けないことが明らかな場合には、例外だった。おかでげで若者は九死に一生を得て、戦後まで生き延び、主人公に代わって彼の家族を救うことになる。
ご都合主義てんこもりの結末、とは言えるが、だから文学作品として質が低いとは、著者同様、私も思わない。だいたい、全く欠点のない主人公の人物設定からして、まず現実にはないものだ。そこで綴られているのは、文学でのみ歌われる得る、美しい夢なのである。人を過激な行動へ誘うのではなく、深い鎮魂の念をもたらす類の。それだけに、現実にそのまま適用されるようなものではない。
現実に生きる人間とは、共同性を結んだ他者のために何事かをなそうとしても、なかなかできない程度の卑小な存在である。それでも、ではなくて、それだからこそ、「正しい道」は、今この場で求められなくてはならない。本書は、「今、この場」はどこにあるか、明らかにした。何よりそこで、貴重な仕事と呼ばれ得ると思う。
【「今、この場」から少し引いた視点から見ると、あらゆる共同性は、その外側に「異質なもの」を作り出し、それの排除を必然とするのは明らかだ。戦争に勝ち、家族の元へ帰るためには、敵方の多くの兵士を殺し、多くの家庭を破壊せねばならない。ここを強調すれば、すべての共同体に究極の価値はないし、中でも現在最大の共同体である国家は悪、なる感覚を呼ぶ。
EUは、国境を低くし、その分従来の共同性を弱める最近の試みだった。その結果何が生じたか、最近省察を述べた。こういう場合、どういう方向が好ましいか、まだ入口も見つかっていない、というのが正直なこところのようだ。今後取り組むべき課題はまことに大きい。それだけに、やり甲斐も大きい、と感じられるような強さだけは、なんとかかんとか持ち続けたいものです。】