University of Chicago
メインテキスト:宇沢弘文『社会的共通資本』(岩波新書平成12年、平成29年第22版)
教育とは、一人一人の子どもがもっている多様な先天的、後天的資質をできるだけ生かし、その能力をできるだけ伸ばし、発展させ、実り多い、幸福な人生をおくることができる一人の人間として成長することをたすけるものである。(P.125)
こういう断定にはうんざりする。たてまえの、挨拶みたいな言葉だとすれば、聞き流していればよいが、ここからして、今の教育はなんだ、と、批判・非難のために使われると、害になる。
第一、「教育」というと、学校教育のこと、と短絡的に結びつけるのがよくない。だから、教員以外の人は、自分には関係ない、と、「教育の責任者」即ち教師、を罵っていればいい、という感じになる。このような言説は、決して生産的なものにはならないのである。
実際は、教育は、社会に生きている以上誰もがするし、されるものだ。我が子を教育しない親なんていないし、職場の部下や後輩にも、教育は施されるであろう。人間同士の影響関係全般にまで拡げることもできるが、それでは話がまとまらなくなるので、他の人間に何かを教え込もうとする明確な意図をもって行われるものに限定しても、人間社会に非常に普遍的な、というよりはありふれた行為と言える。それがいつでも、教育される側によい結果をもたらすとは言えないことも、虚心に振り返ってみれば、誰もが認めざるを得ないであろう。
もちろん、「実り多い」ことだってある。いわゆる子どもについてみれば、学校での教師や他の生徒・学生との関わりや、家庭や社会での様々な出会いや、TVやネットからの情報からも、多くのものが得られるし、自分の特性や才能を発見して伸ばす契機になることも多い。それはもちろん、すばらしいことである。
しかし、では、そのことのために特化した機関・組織というのはあり得るのだろうか。学校がそうだし、そうでなければならない、というのが冒頭の断定の前提である。ところで一方、「一人一人の子ども」は「多様な先天的、後天的資質」を持っている、と言われる。多様どころか、人間は一人一人みんな違うと言ってよいし、現にそうも言われてもいる。そのすべての資質・才能を「できるだけ伸ばし、発展させ」る、なんてことが本当にできるのか、できたら虚心に(「べき論」の思い込みはなしで)考えていただきたい。
現実を見れば、そうでないことが多い、というか、統計などとれるようなことではないが、たぶん、割合としては、そうは思えない場合のほうが多いだろう。それは教員がちゃんとやらないからだ、というのが、上の非難の、まあ、内容で、決して終わることはない。なぜなら、原理的にできないことはいつまでたってもできないのだし、それでいて、「できない」と正直に言ったらそれもダメな証拠だとしか受け取られないようなのだから。
遺憾ながら人間社会では決して珍しくない、言論の罠の一典型である。不可能な、百歩譲っても非常に困難なことを、「当然」として押しつけておいて、できないのはダメなからだ、と裁断する。裁断したほうは、自分がいくらか偉くなったような、優位に立ったような気分になれる。そして、それで終わり。有害無益、としか言えない。
上記のような観点から宇沢弘文(以下、著者、と表記する)を批判するのは少しどうかと思われるかも知れない。
いくつかの留保つきながら、著者は経済学者と呼ばれるべきなのであろう。1970年代からこっち、新古典派経済学(市場原理主義、新自由主義)の牙城であり続けているシカゴ大学で教鞭を執った経歴もありながら、レーガノミックスやサッチャリズムの柱になったこの学説を痛烈に批判したことで知られる。
経済政策は、市場最優先の、経済合理性を主眼として行われてはならないものだ、と言う。特に、森林や農地、都市空間、医療や教育、環境、などは、人間が幸福で豊かな生活を送るためにはどのようなあり方が有益か、という発想から開発され、整備されるべきものだ。至極穏健妥当な主張で、現在ますます重要であろう。
それでもやっぱり経済学の範疇に入るのは、コストの問題としてこれを扱うからだ。コストとは、直接的な金の問題とは限らない、広い意味の労力なども含むのは旧来と同じだが、ただ、「合理的期待」などで、個々別の経済活動によってのみ市場のメカニズムは均衡する(需要と供給、生産と労働力が過不足なく一致する、つまり非自発的な失業者はいなくなる)、などという考え方はきっぱりと否定する。
現在の需要、つまり、あるコストをかけて購う値打ちがある、と一般的に認識されているものの他に、長い目で見た効用も顧慮される必要がある。例えば、農地。水田は、一年の半分以上放置しておかねばならないので、経済合理性からすれば非効率なもの(おかげで、大企業の進出・買収は免れている)だが、国土の環境保全のためには不可欠だし、食糧自給は国家の安全保障上非常に重要な要素なのだから、無闇に減らすなんてことがあってはならない。
これを管理するためには、国家でも個人(経済人)でもない、ゆるやかな共同体があったほうがよいし、何より、社会全体の「共通資本」として保全しようという意識がなくてはならない。そのことがまた、本当に人間らしい豊かな生き方をもたらす。
このような視点に基づく著者の農業・農村論は本書の第2章に直接当ってもらうに如くはない。ただ一つ付け加えると、いわゆる成田闘争時に発表された著者の「三里塚農社」構想は、挫折した。著者の理想は、金銭的利害に無関心ではいられない農民や、反国家運動の機会になればよいと考える学生などとは、最後まで協調することはできなかったのである。
学校にはまた固有の、難しい問題がある。「第4章 学校教育を考える」が、他の章に比べて特徴的なのは、コストの問題が全く出てこないことだ。これにはがっかりした。
学校が重要な社会的共通資本であることには疑問の余地はないであろう。学校が完全になくなったとしたら、多くの人が困り、途方にくれるに決まっている。しかし、我々はどれくらいのコストをこれにかけるべきなのか。例えば、教員数を二倍にしたら、どの程度の効果が期待できるのか。逆に半分にしたら、どの程度に良くないことが起きるのか。完全な計算は、難しいというより不可能であろう。しかし、それをいいことに、コストを考えること自体を、「教育の理想」からみて不純なものであるとして忌避する風潮は、結局は社会的共通資本の毀損をもたらすだろう。
私が本書に期待したのはそういう視点なのだが、それはない。この発想がいかに一般に等閑視されているかの証左であろう。
これ以上の議論を進めるために、理想論ではなく、現実の浮世(憂き世)で学校が果たしている役割を考えておこう。脱学校論者として知られるエヴァレット・ライマー『学校は死んでいる』(松井弘道訳、晶文社昭和60年)中の規定がこの場合役に立つ。私はこのイデオロギーには同調しないが、学校の理想化は端から拒否している分、相当正確なことが言われていると思えるから。
ただし、私の言葉に翻訳して、学校は何をしているか、列挙すると、
① 子どもの囲い込み。
② 職業や社会的地位のための選抜。
③ あるイデオロギー的なものの刷り込み。
④ 知識の伝達。
このうち①は、一般社会の危険から子どもを隔離し、守っている、と言えるわけで、実際上一番有用性が認められている学校の機能ではないか? ただ、同質性が極めて高い集団になるので、いじめなど排除の構造を持ちやすい弱点はある。これについては、本書では触れられていないので、ここでは述べない。
②は一時は悪名高かったいわゆる学歴社会のことになる。「非人間的・非倫理的な受験地獄」(P.7)というような文言を見ると、ああ、またか、と思ってしまった。しかし著者は、学校による人的資源の配分自体を批判しているのではない。むしろ、そうなっていないことを問題視しているのだ。
アメリカでは、特に1960年代、貧困と社会的格差の解消のために、学校教育の平等化が叫ばれれた。しかし、調査に拠れば、「とくに学歴の高さと経済的成功の間の統計的相関はあまり高くないということがわかっている」(P.138)。日本もそうで、学歴格差は「職業達成の三割、経済的成功の二割程度を説明するに過ぎない」(麻生誠『学歴社会の読み方』筑摩書房昭和58年)。これは少々古いが、受験地獄、学歴社会の弊害が声高に叫ばれていた時代でこうであった、ということだ。
人々は、できるだけよい大学に入って、卒業することによって、社会でできるだけよいポジションを得ることを期待する。このシステム、のように見えるものは、非合理だとか、合理的すぎるとか、さまざまに批判されるのだが、そもそもシステムが本当に働いているのかというと、必ずしもそうなっていない。実に奇妙なねじれである。上で農地について述べたこととは位相は違うが、学校は重要な社会的共通資本であるところまでは同意できても、具体的に何を望むかは各自まちまちで、容易に合意点が見出せないところは似ている。
例えば、社会的な選別はちゃんとやり、同時に、その選別にもれた人の救済もちゃんとやれ、などと言われ、驚くべきことに、けっこうやっている。しかし、本当に「ちゃんと」と言えるかとなると、常に疑問の余地はあるので(それが当り前だ)、常に批判され非難される。このへんをできるだけ整理し、学校に是非やらせたいことは何か、それをちゃんとやらせるためには何を諦めねばならないか、共通認識が持てたほうが、生産的な議論ができやすいと思うのだが、なかなかそうはならない。これは、合理性を括弧に入れて考える社会的共通資本の議論にありがちな通弊と言えると思う。
なぜ学校は選抜機関としてもさほど有効には働かなかないのか。サミュエル・ボウルズとハーバート・ギンタスの研究『アメリカ資本主義と学校教育』によると、その主要な原因は、「社会的統合、平等化、人格的発達という学校教育の機能が、法人資本主義という経済的、社会的体制のもとでは整合的な形で働くことができない」(P.143)からだという。ここで著者は、ボウルズ=ギンダスと同様、まちがっているのは社会のほうだ、と考えている。法人資本主義とは、企業中心社会ということで、そこで人間は、組織内のヒエラルキーの、歯車として働くことが求められる。個人が内発的な動機に基づいて活動する、なんぞというのは、害でしかない。
社会がそうである以上、平等や人格的発達を目指すリベラリズムの教育が失敗するのは必然である。結果として現実の学校教育は、会社組織に都合のいい人間を創り出すことに貢献するようになる。現在のハーバード大などのビジネススクールの隆盛は、その具体的な現れであろうか。
問題はもちろん社会の側にある、ということで、著者は教師の批判はしていない。そこは正当だが、どうだろうか。上記③に関して、学校は「(前略)ある特定の国家的、宗教的、人種的、階級的、ないしは経済的イデオロギーにもとづいて子どもを教育するようなことがあってはならない」(P.125)とも言われている。しかし、宗教の教義のようなはっきりしたものなら、学校で教えることは現に禁じられているが、今の社会でうまくやっていけるようなものの考え方や口の利き方などの日常的行動様式(ピエール・ブルデューの言うハビトゥス)は、無意識のうちにでも伝えているのではないか。
私は、これこそ、実際上④より強力な、根源的な教育だと思っている。そしてこの領域でも、教師は、「世間知らず」で、つまり世間一般に通用するハビトゥスを身につけておらず、役立たずだ、とも非難されている。
このように、知識以外に、教師が生徒に伝えるよう期待されているものの中身は、往々にして著者たちリベラル派が言っているのとは真逆なのである。それも無理はない、でしょうね。「幸福な人生をおくることができる……ことをたすける」なんて言うけれど、社会でよいポジションについたほうが普通に言って幸福じゃないか? それ以外に何があるの?
シカゴ大学の有名教授ソースティン・ヴェブレンは「真理」の保持者たる知識人を組織して研究に従事させるのが大学だ、という意味のことを言っているそうだ。「この「真理」としての知識は、物質的ないしは現実的にはなんらの価値をもたらさないのが一般的であって、それ自体として固有の価値をもつ」(P.148)文化・文明の精髄なのだそうだが、大学に限って考えても、今の大衆化されたありさまでは、なんとも場違いに大仰に聞こえるしかないだろう。
高校以下の学校について、もう少し和らげた表現にしてみよう。物質的・現実的な価値には直接結びつかないが、「人間として本当に大切なもの」はあるのかどうか、それを学校で伝えるべきなのかどうか。言い換えると、そういうのを社会的共通資本の一部とみなすべきかどうかは、それこそ社会全体で決めるべきことだろう。教師如きが、世間一般からは離れた高みから勝手に考えて、実行したりしていいことではない。みなさん、そんなこと、許す気はないでしょう?
最後に、本書では触れられていない学校教育のコストに関連して、簡単に言っておこう。
医療については、こう言われている。医師の報酬は、その医療行為がどれくらいの利益を生むか、などの観点から決められてはならない。「(前略)医師はさまざまな職業のなかでももっとも神聖なものの一つであって、医師という職業にふさわしいと社会的に考えられる所得水準もまたそれに応じて高いものでなければならない」(P.179)。
教員もそうではありませんか? いや、別に神聖なものだなんて思っていないよ、と言われるならそれまで。それなら、そうはっきり言って欲しいもんです。
そして、学校にはまだまだできることがあるはず、と、コストは極力増やさず、教員だけをこき使おうとして、結果、仕事をやった証拠を残す仕事を膨大に増やすようなことは、是非やめていただきたい。これだけでも、考慮してもらえないものでしょうか?