【「悲劇論ノート」は、6年前、佐藤通雅氏の個人誌『路上』114号~117号に連載させていただいたエッセイです。学生時代からこだわりのあったテーマですので、少しずつ手直ししながら採録し、さらに完成を目指したいと考えます】
The Deer Hunter, 1978, directed by Michael Cimino
人間にはすべてを知りすべてを見通すことはできない。元来不完全な存在だからだ。だからこそ、生きていくためには何かしら行動する必要がある。そして行動するためには、自分は何かを知つてゐて、何かができると、あるいはしなければならないと、思ひ込む必要がある。その結果、露になるのは、人間の不完全さである。
かくして、「お前は何者だ」といふ問ひは、常に最も呪はしいものとしてある。「お前は何を知つてゐるのか」「お前には何ができるのか」は、その変形である。この問ひの背景には、人間は何者でもないことは許されない、といふ含意があり、さらに、その含意は人間の世の中で広く受け入れられてゐるはずだといふ含意もある。しかし本当に共有されてゐるとしても、それはいつも、人の人に対する悪意とともにある。だいたい、好意を抱いてゐる相手に「お前は何者だ」などと問ふ者はゐない。
含意の中身をもう少し詳しく尋ねてみよう。我々は本来何者でもない。だからこそ、後づけで、何者かにはなれるであらう。さうであれば、なるのがその者の責任である。お前はAになれたし、B・C・D……にもなれた。それなのにAになつたのは、あるいはならなかつたのは、お前の責任である、と。「責任」と、それを担ふべき「主体」の概念がここから発生する。主体はある、すべての人に備はつてゐる、いや、備はつてゐるべきだ、といふのが近代社会を成立させるために必須の含意だとすれば、なるほど近代人は「お前は何者だ」といふ問ひから自由ではあり得ないはずである。
日本映画「トウキョウソナタ」(黒沢清監督)の主人公は、「あなたは会社のために何ができるのですか?」と問はれ、答へることができず、リストラされ、同じやうにして、別の会社への再就職も拒まれる。家では長男から、「あんたは俺たちを守つてゐると言ふが、毎日何をしてるんだ?」と問はれ、やはり答へられない。
彼は「こつちはなんでも受け入れるつもりでゐるのに、誰も受け入れてくれない」と嘆きかつ怒るのだが、「すべてを受け入れる」などといふのは人間にはできないことの一つであらう。彼が言つてゐるのは、「自分は今は何者でもないから、何者かにしてくれ」といふことなのである。
そんな者は、誰も受け入れはしない。現に「何者か」ではあつて、それが「何であるか」を他人に示すまでがその人間の責任とされるから。逆に言ふと、示せない人間は、「責任ある主体」とはみなされない。さういふ社会的な含意がある。あるいは、あるとみなされる局面はある。四十六歳までそれを知らずにきたのは、やはり彼の「責任」である。あるいは、さうみなされてもしかたがない。さういふ含意がある。
アメリカ映画「ディア・ハンター」(マイケル・チミノ監督)の主人公は、逆に、何も受け入れられないといつた様子の友人に、一本のナイフを示しながらかう言ふ。「これを見ろ。これはこれだ。これはこれ以外の何者でもない。お前も今日からお前自身になるんだ」。
もちろんさう言はれてなれるものではない。とりわけ、「自分自身」などといふ途方もないものには。
しかし、「さうなる努力」ぐらゐならできるだらう。していけないはずはない。一本のナイフのやうに、一本の木のやうに、単純素朴に、明確に、隙間なく、「そこにあるもの」になりたいといふのは、多くの男性に共通した望みではないのか? 必ずしも「責任」のためばかりではなく、むしろ、そのやうに他から強いられる存在であることから逃れるためにも。
しかしまた、そんな思ひこそが、罠なのかも知れない。一本のナイフは、「俺は一本のナイフにならう」などと努力することなどない。人間は努力ならできる、といふこと自体が、だから努力しなければならないと感じられること自体が、人間はただ「そこにあるもの」にはなれない何よりの証拠ではないのか。さうであるなら、どれほどの「努力」を積み上げた後でも、やはり、「お前は何者だ」と問はれる可能性は残る。呪ひは続くのである。
「嘔吐」(J・P・サルトル作)の主人公は、自分の吐き気の原因を探つて、それは「ある(或る)モノがある(在る)」ことの知覚に由来することを発見する。河原の石はある。公園の木はある。自分の手さへ、ある。それが「在る」ことの意味はわからないが、「意味」などといふものとも関りなく、ただ、ある。「自分」はそのやうなものとしては、ない。強いて言へば、「或るもの」が「在る」と見て、感じる自分はある、それ以外にはない。では「自分」とは吐き気のことか。そのやうである。「本来の自分」とはつまり、そんなものだ。
では、後から「なる」はうはどうか。はつきりと言はれてゐるわけではないが、こんな例が出てくる。現存する知識をすべて我がものにしようとして、図書館に通ひ、タイトルのABC順に並んでゐる本を片端から読んでゐる男。自分を教育しようといふわけだ。しかしそれは、図書館の本の不完全なコピーが彼の頭の中に蓄へられていくといふだけのことである。もつと奇妙なことに、彼が詰め込んだ知識のために、かへつて彼が空つぽである感じは強まるやうだ。後に彼は、図書館内で少年に淫らな行為をしかけたとして、出入りを止められるのだが、「男色家」のはうが、「博識な男」といふよりまだしも彼に与へられる名として相応しいやうである。
「無常といふ事」で小林秀雄は、「生きてゐる人間とは、人間になりつつある一種の動物」ではないかと述べてゐる。「(生きてゐる人間は)何を考へてゐるのやら、何を言ひ出すのやら、仕出来すのやら、自分の事にせよ他人事にせよ、解つた例が」ないから。「はつきりとしつかりとして」ゐるのは死んだ人間だけだ、と。
さういへば、「嘔吐」の主人公ロカンタンも、ある歴史上の人物が、自分などよりずつと確かに存在してゐると感じて、伝記を書かうとしてゐる。なるほど、死んだ人間だけが「私は私だ。私は私以外の何者でもない」と断言できるのかも知れない。
それはなぜかと言へば、死といふ個体にとつての終末を迎えた人間は、もはや何かを新たに「言ひ出」したり「仕出来」す可能性はないからだ。可能性が消えたとき、彼が言つたこと・やつたことは、決して変更がきかないといふ意味で、正に彼自身のものであつて、それ以外のなにものでもない、と見えてくるのである。
小林秀雄は、それでも生きていかねばならない人間に、様々な意味がある「時間」の中でも、「過去から未来に向つて飴の様に延びた時間といふ蒼ざめた思想」を超克することを勧めてゐる。その内部にある限り、生きてゐる人間は「どうにも仕方のない代物」であることを免れない。彼が出した処方箋は「上手に思ひ出す」ことだ。過去も現在も関りなく、確かに「生きてゐる」ことの実感。それがあれば、「ある充ち足りた」「自分が生きてゐる証拠だけが充満し、その一つ一つがはつきりとわかつてゐる様な」時間がまざまざと現出する、と。
これとは少し違ふが、サルトルは、「完璧な瞬間」を求める女を描いてゐる。あるべきものだけがあり、なすべきことだけがなされてゐるやうな状態のことである。しかし女が語るのは、失敗例ばかりだ。それが訪れると思へた次の瞬間には、必ずあるべきでないものがあり、なすべきではないことがなされて、邪魔をするからだ。
例へば彼女が初めてロカンタンに抱擁されたときのこと。二人はいらくさの上に座つてゐた。いらくさは彼女の腿を刺し、痛かつた。ちよつと動くたびに、新たな痛みに襲はれた。女の願望では、このときは性的な恍惚感のためにすべてが存在してゐるべきだつた。いらくさの痛みに耐へるなどといふ余計なことがあるべきではなかつた。いや、その存在を感じてもいけなかつたのだ。けれど現実に、いらくさはそこにあり、痛覚といふ手段で、その存在を主張した。それですべては台無しになつた。
「思ひ出」のやうに純粋に内面的なものではなく、芸術作品のやうに一定の形式の枠内での完成が期されるものでもなく、現実を生きる人間の行為として完璧なものを作りださうとするなら、かうなるのが当然なのである。行為とは未来を作り出すことだが、さうであるなら、人間の内外にある可能性が、好ましいものも、さうでないものも、彼が企図したことといつしよに、ある場合には企図に反して、現出してくるのを完全に避けることなどできないから。
本稿では小林秀雄の示唆した方向に考へを進めることはしない。「人間になりつつある一種の動物」、それこそ「人間」に他ならないのだ、とサルトルなら言ふだらう。曖昧で、だらしないまま、覚束ない足取りで未来へ向かふ現実の中の人間、それがここでの主題である。
The Deer Hunter, 1978, directed by Michael Cimino
人間にはすべてを知りすべてを見通すことはできない。元来不完全な存在だからだ。だからこそ、生きていくためには何かしら行動する必要がある。そして行動するためには、自分は何かを知つてゐて、何かができると、あるいはしなければならないと、思ひ込む必要がある。その結果、露になるのは、人間の不完全さである。
かくして、「お前は何者だ」といふ問ひは、常に最も呪はしいものとしてある。「お前は何を知つてゐるのか」「お前には何ができるのか」は、その変形である。この問ひの背景には、人間は何者でもないことは許されない、といふ含意があり、さらに、その含意は人間の世の中で広く受け入れられてゐるはずだといふ含意もある。しかし本当に共有されてゐるとしても、それはいつも、人の人に対する悪意とともにある。だいたい、好意を抱いてゐる相手に「お前は何者だ」などと問ふ者はゐない。
含意の中身をもう少し詳しく尋ねてみよう。我々は本来何者でもない。だからこそ、後づけで、何者かにはなれるであらう。さうであれば、なるのがその者の責任である。お前はAになれたし、B・C・D……にもなれた。それなのにAになつたのは、あるいはならなかつたのは、お前の責任である、と。「責任」と、それを担ふべき「主体」の概念がここから発生する。主体はある、すべての人に備はつてゐる、いや、備はつてゐるべきだ、といふのが近代社会を成立させるために必須の含意だとすれば、なるほど近代人は「お前は何者だ」といふ問ひから自由ではあり得ないはずである。
日本映画「トウキョウソナタ」(黒沢清監督)の主人公は、「あなたは会社のために何ができるのですか?」と問はれ、答へることができず、リストラされ、同じやうにして、別の会社への再就職も拒まれる。家では長男から、「あんたは俺たちを守つてゐると言ふが、毎日何をしてるんだ?」と問はれ、やはり答へられない。
彼は「こつちはなんでも受け入れるつもりでゐるのに、誰も受け入れてくれない」と嘆きかつ怒るのだが、「すべてを受け入れる」などといふのは人間にはできないことの一つであらう。彼が言つてゐるのは、「自分は今は何者でもないから、何者かにしてくれ」といふことなのである。
そんな者は、誰も受け入れはしない。現に「何者か」ではあつて、それが「何であるか」を他人に示すまでがその人間の責任とされるから。逆に言ふと、示せない人間は、「責任ある主体」とはみなされない。さういふ社会的な含意がある。あるいは、あるとみなされる局面はある。四十六歳までそれを知らずにきたのは、やはり彼の「責任」である。あるいは、さうみなされてもしかたがない。さういふ含意がある。
アメリカ映画「ディア・ハンター」(マイケル・チミノ監督)の主人公は、逆に、何も受け入れられないといつた様子の友人に、一本のナイフを示しながらかう言ふ。「これを見ろ。これはこれだ。これはこれ以外の何者でもない。お前も今日からお前自身になるんだ」。
もちろんさう言はれてなれるものではない。とりわけ、「自分自身」などといふ途方もないものには。
しかし、「さうなる努力」ぐらゐならできるだらう。していけないはずはない。一本のナイフのやうに、一本の木のやうに、単純素朴に、明確に、隙間なく、「そこにあるもの」になりたいといふのは、多くの男性に共通した望みではないのか? 必ずしも「責任」のためばかりではなく、むしろ、そのやうに他から強いられる存在であることから逃れるためにも。
しかしまた、そんな思ひこそが、罠なのかも知れない。一本のナイフは、「俺は一本のナイフにならう」などと努力することなどない。人間は努力ならできる、といふこと自体が、だから努力しなければならないと感じられること自体が、人間はただ「そこにあるもの」にはなれない何よりの証拠ではないのか。さうであるなら、どれほどの「努力」を積み上げた後でも、やはり、「お前は何者だ」と問はれる可能性は残る。呪ひは続くのである。
「嘔吐」(J・P・サルトル作)の主人公は、自分の吐き気の原因を探つて、それは「ある(或る)モノがある(在る)」ことの知覚に由来することを発見する。河原の石はある。公園の木はある。自分の手さへ、ある。それが「在る」ことの意味はわからないが、「意味」などといふものとも関りなく、ただ、ある。「自分」はそのやうなものとしては、ない。強いて言へば、「或るもの」が「在る」と見て、感じる自分はある、それ以外にはない。では「自分」とは吐き気のことか。そのやうである。「本来の自分」とはつまり、そんなものだ。
では、後から「なる」はうはどうか。はつきりと言はれてゐるわけではないが、こんな例が出てくる。現存する知識をすべて我がものにしようとして、図書館に通ひ、タイトルのABC順に並んでゐる本を片端から読んでゐる男。自分を教育しようといふわけだ。しかしそれは、図書館の本の不完全なコピーが彼の頭の中に蓄へられていくといふだけのことである。もつと奇妙なことに、彼が詰め込んだ知識のために、かへつて彼が空つぽである感じは強まるやうだ。後に彼は、図書館内で少年に淫らな行為をしかけたとして、出入りを止められるのだが、「男色家」のはうが、「博識な男」といふよりまだしも彼に与へられる名として相応しいやうである。
「無常といふ事」で小林秀雄は、「生きてゐる人間とは、人間になりつつある一種の動物」ではないかと述べてゐる。「(生きてゐる人間は)何を考へてゐるのやら、何を言ひ出すのやら、仕出来すのやら、自分の事にせよ他人事にせよ、解つた例が」ないから。「はつきりとしつかりとして」ゐるのは死んだ人間だけだ、と。
さういへば、「嘔吐」の主人公ロカンタンも、ある歴史上の人物が、自分などよりずつと確かに存在してゐると感じて、伝記を書かうとしてゐる。なるほど、死んだ人間だけが「私は私だ。私は私以外の何者でもない」と断言できるのかも知れない。
それはなぜかと言へば、死といふ個体にとつての終末を迎えた人間は、もはや何かを新たに「言ひ出」したり「仕出来」す可能性はないからだ。可能性が消えたとき、彼が言つたこと・やつたことは、決して変更がきかないといふ意味で、正に彼自身のものであつて、それ以外のなにものでもない、と見えてくるのである。
小林秀雄は、それでも生きていかねばならない人間に、様々な意味がある「時間」の中でも、「過去から未来に向つて飴の様に延びた時間といふ蒼ざめた思想」を超克することを勧めてゐる。その内部にある限り、生きてゐる人間は「どうにも仕方のない代物」であることを免れない。彼が出した処方箋は「上手に思ひ出す」ことだ。過去も現在も関りなく、確かに「生きてゐる」ことの実感。それがあれば、「ある充ち足りた」「自分が生きてゐる証拠だけが充満し、その一つ一つがはつきりとわかつてゐる様な」時間がまざまざと現出する、と。
これとは少し違ふが、サルトルは、「完璧な瞬間」を求める女を描いてゐる。あるべきものだけがあり、なすべきことだけがなされてゐるやうな状態のことである。しかし女が語るのは、失敗例ばかりだ。それが訪れると思へた次の瞬間には、必ずあるべきでないものがあり、なすべきではないことがなされて、邪魔をするからだ。
例へば彼女が初めてロカンタンに抱擁されたときのこと。二人はいらくさの上に座つてゐた。いらくさは彼女の腿を刺し、痛かつた。ちよつと動くたびに、新たな痛みに襲はれた。女の願望では、このときは性的な恍惚感のためにすべてが存在してゐるべきだつた。いらくさの痛みに耐へるなどといふ余計なことがあるべきではなかつた。いや、その存在を感じてもいけなかつたのだ。けれど現実に、いらくさはそこにあり、痛覚といふ手段で、その存在を主張した。それですべては台無しになつた。
「思ひ出」のやうに純粋に内面的なものではなく、芸術作品のやうに一定の形式の枠内での完成が期されるものでもなく、現実を生きる人間の行為として完璧なものを作りださうとするなら、かうなるのが当然なのである。行為とは未来を作り出すことだが、さうであるなら、人間の内外にある可能性が、好ましいものも、さうでないものも、彼が企図したことといつしよに、ある場合には企図に反して、現出してくるのを完全に避けることなどできないから。
本稿では小林秀雄の示唆した方向に考へを進めることはしない。「人間になりつつある一種の動物」、それこそ「人間」に他ならないのだ、とサルトルなら言ふだらう。曖昧で、だらしないまま、覚束ない足取りで未来へ向かふ現実の中の人間、それがここでの主題である。