由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

悲劇論ノート 第1回(序)

2015年03月28日 | 
【「悲劇論ノート」は、6年前、佐藤通雅氏の個人誌『路上』114号~117号に連載させていただいたエッセイです。学生時代からこだわりのあったテーマですので、少しずつ手直ししながら採録し、さらに完成を目指したいと考えます】


The Deer Hunter, 1978, directed by Michael Cimino

 人間にはすべてを知りすべてを見通すことはできない。元来不完全な存在だからだ。だからこそ、生きていくためには何かしら行動する必要がある。そして行動するためには、自分は何かを知つてゐて、何かができると、あるいはしなければならないと、思ひ込む必要がある。その結果、露になるのは、人間の不完全さである。

 かくして、「お前は何者だ」といふ問ひは、常に最も呪はしいものとしてある。「お前は何を知つてゐるのか」「お前には何ができるのか」は、その変形である。この問ひの背景には、人間は何者でもないことは許されない、といふ含意があり、さらに、その含意は人間の世の中で広く受け入れられてゐるはずだといふ含意もある。しかし本当に共有されてゐるとしても、それはいつも、人の人に対する悪意とともにある。だいたい、好意を抱いてゐる相手に「お前は何者だ」などと問ふ者はゐない。
 含意の中身をもう少し詳しく尋ねてみよう。我々は本来何者でもない。だからこそ、後づけで、何者かにはなれるであらう。さうであれば、なるのがその者の責任である。お前はAになれたし、B・C・D……にもなれた。それなのにAになつたのは、あるいはならなかつたのは、お前の責任である、と。「責任」と、それを担ふべき「主体」の概念がここから発生する。主体はある、すべての人に備はつてゐる、いや、備はつてゐるべきだ、といふのが近代社会を成立させるために必須の含意だとすれば、なるほど近代人は「お前は何者だ」といふ問ひから自由ではあり得ないはずである。

 日本映画「トウキョウソナタ」(黒沢清監督)の主人公は、「あなたは会社のために何ができるのですか?」と問はれ、答へることができず、リストラされ、同じやうにして、別の会社への再就職も拒まれる。家では長男から、「あんたは俺たちを守つてゐると言ふが、毎日何をしてるんだ?」と問はれ、やはり答へられない。
 彼は「こつちはなんでも受け入れるつもりでゐるのに、誰も受け入れてくれない」と嘆きかつ怒るのだが、「すべてを受け入れる」などといふのは人間にはできないことの一つであらう。彼が言つてゐるのは、「自分は今は何者でもないから、何者かにしてくれ」といふことなのである。
 そんな者は、誰も受け入れはしない。現に「何者か」ではあつて、それが「何であるか」を他人に示すまでがその人間の責任とされるから。逆に言ふと、示せない人間は、「責任ある主体」とはみなされない。さういふ社会的な含意がある。あるいは、あるとみなされる局面はある。四十六歳までそれを知らずにきたのは、やはり彼の「責任」である。あるいは、さうみなされてもしかたがない。さういふ含意がある。

 アメリカ映画「ディア・ハンター」(マイケル・チミノ監督)の主人公は、逆に、何も受け入れられないといつた様子の友人に、一本のナイフを示しながらかう言ふ。「これを見ろ。これはこれだ。これはこれ以外の何者でもない。お前も今日からお前自身になるんだ」。
 もちろんさう言はれてなれるものではない。とりわけ、「自分自身」などといふ途方もないものには。
 しかし、「さうなる努力」ぐらゐならできるだらう。していけないはずはない。一本のナイフのやうに、一本の木のやうに、単純素朴に、明確に、隙間なく、「そこにあるもの」になりたいといふのは、多くの男性に共通した望みではないのか? 必ずしも「責任」のためばかりではなく、むしろ、そのやうに他から強いられる存在であることから逃れるためにも。
 しかしまた、そんな思ひこそが、罠なのかも知れない。一本のナイフは、「俺は一本のナイフにならう」などと努力することなどない。人間は努力ならできる、といふこと自体が、だから努力しなければならないと感じられること自体が、人間はただ「そこにあるもの」にはなれない何よりの証拠ではないのか。さうであるなら、どれほどの「努力」を積み上げた後でも、やはり、「お前は何者だ」と問はれる可能性は残る。呪ひは続くのである。

 「嘔吐」(J・P・サルトル作)の主人公は、自分の吐き気の原因を探つて、それは「ある(或る)モノがある(在る)」ことの知覚に由来することを発見する。河原の石はある。公園の木はある。自分の手さへ、ある。それが「在る」ことの意味はわからないが、「意味」などといふものとも関りなく、ただ、ある。「自分」はそのやうなものとしては、ない。強いて言へば、「或るもの」が「在る」と見て、感じる自分はある、それ以外にはない。では「自分」とは吐き気のことか。そのやうである。「本来の自分」とはつまり、そんなものだ。
 では、後から「なる」はうはどうか。はつきりと言はれてゐるわけではないが、こんな例が出てくる。現存する知識をすべて我がものにしようとして、図書館に通ひ、タイトルのABC順に並んでゐる本を片端から読んでゐる男。自分を教育しようといふわけだ。しかしそれは、図書館の本の不完全なコピーが彼の頭の中に蓄へられていくといふだけのことである。もつと奇妙なことに、彼が詰め込んだ知識のために、かへつて彼が空つぽである感じは強まるやうだ。後に彼は、図書館内で少年に淫らな行為をしかけたとして、出入りを止められるのだが、「男色家」のはうが、「博識な男」といふよりまだしも彼に与へられる名として相応しいやうである。

 「無常といふ事」で小林秀雄は、「生きてゐる人間とは、人間になりつつある一種の動物」ではないかと述べてゐる。「(生きてゐる人間は)何を考へてゐるのやら、何を言ひ出すのやら、仕出来すのやら、自分の事にせよ他人事にせよ、解つた例が」ないから。「はつきりとしつかりとして」ゐるのは死んだ人間だけだ、と。
 さういへば、「嘔吐」の主人公ロカンタンも、ある歴史上の人物が、自分などよりずつと確かに存在してゐると感じて、伝記を書かうとしてゐる。なるほど、死んだ人間だけが「私は私だ。私は私以外の何者でもない」と断言できるのかも知れない。
 それはなぜかと言へば、死といふ個体にとつての終末を迎えた人間は、もはや何かを新たに「言ひ出」したり「仕出来」す可能性はないからだ。可能性が消えたとき、彼が言つたこと・やつたことは、決して変更がきかないといふ意味で、正に彼自身のものであつて、それ以外のなにものでもない、と見えてくるのである。
 小林秀雄は、それでも生きていかねばならない人間に、様々な意味がある「時間」の中でも、「過去から未来に向つて飴の様に延びた時間といふ蒼ざめた思想」を超克することを勧めてゐる。その内部にある限り、生きてゐる人間は「どうにも仕方のない代物」であることを免れない。彼が出した処方箋は「上手に思ひ出す」ことだ。過去も現在も関りなく、確かに「生きてゐる」ことの実感。それがあれば、「ある充ち足りた」「自分が生きてゐる証拠だけが充満し、その一つ一つがはつきりとわかつてゐる様な」時間がまざまざと現出する、と。
 これとは少し違ふが、サルトルは、「完璧な瞬間」を求める女を描いてゐる。あるべきものだけがあり、なすべきことだけがなされてゐるやうな状態のことである。しかし女が語るのは、失敗例ばかりだ。それが訪れると思へた次の瞬間には、必ずあるべきでないものがあり、なすべきではないことがなされて、邪魔をするからだ。
 例へば彼女が初めてロカンタンに抱擁されたときのこと。二人はいらくさの上に座つてゐた。いらくさは彼女の腿を刺し、痛かつた。ちよつと動くたびに、新たな痛みに襲はれた。女の願望では、このときは性的な恍惚感のためにすべてが存在してゐるべきだつた。いらくさの痛みに耐へるなどといふ余計なことがあるべきではなかつた。いや、その存在を感じてもいけなかつたのだ。けれど現実に、いらくさはそこにあり、痛覚といふ手段で、その存在を主張した。それですべては台無しになつた。
 「思ひ出」のやうに純粋に内面的なものではなく、芸術作品のやうに一定の形式の枠内での完成が期されるものでもなく、現実を生きる人間の行為として完璧なものを作りださうとするなら、かうなるのが当然なのである。行為とは未来を作り出すことだが、さうであるなら、人間の内外にある可能性が、好ましいものも、さうでないものも、彼が企図したことといつしよに、ある場合には企図に反して、現出してくるのを完全に避けることなどできないから。
 本稿では小林秀雄の示唆した方向に考へを進めることはしない。「人間になりつつある一種の動物」、それこそ「人間」に他ならないのだ、とサルトルなら言ふだらう。曖昧で、だらしないまま、覚束ない足取りで未来へ向かふ現実の中の人間、それがここでの主題である。
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教育的に正しいお伽噺集 第二回

2015年03月13日 | 創作

Echo and Narcissus, 1903, by John William Waterhouse

4 ナルシスとエコー
ぐらい奇妙なカップルは珍しいでしょう。しょっちゅう一緒でしたから、恋人同士に見えましたし、たぶんそう呼ばれてもいいのでしょうが、この二人の会話は、次に見るような具合でした。
「風が肌を刺さないようになった。もう春なんだね」
「もう春ね」
「オキザリスはもう咲いた。オオイヌフグリの花はまだかな」
「まだかしらね」
「山へ行こうかな。花もきれいだが、オオアゲハとかサンジュウロクホシテントウムシなんかが飛んでいるのを見られるかも知れないぞ」
「見られるかも知れないわね」
「いや、やっぱりよそう。アナコンダやホラアナグマが目を覚ましたのに出くわすのはいやだ」
「いやあね」
 こんなふうに、エコーはいつも、ナルシスの言葉の、最後のあたりをただくりかえすだけでした。
 それはこういう理由からです。ナルシスは、質問されたり、反対意見を言われたりするのが何よりも嫌いでした。それなのに、今まで彼と仲良くなろうとした若者や娘達は皆、話をしているうちに、軽い気持ちで、例えばこんなふうに言ってしまうのです。
「まだ春というにはちょっと早いんじゃないかなあ」
「山には行かない、とすると、あなたはどうなさるおつもり?」
 そんなときナルシスは、たちまち機嫌を悪くして、もうその人たちとは口を利かないどころか、目を合わせることすらなくなってしまうのです。
 エコーは、元々はとても活発でおしゃべりな娘でしたが、ナルシスに恋をしてから変わりました。できるだけ長く彼と一緒にいるにはどうしたらいいか一所懸命に考えて、とうとう、自分の頭から言葉を出すのではなく、ナルシスの言ったことを言った通りに口にすればいいのだ、と気がついたのです。そうすれば、ナルシスは、エコーを見つめることはありませんでしたが、邪魔にもしなかったからです。世界一気難しい若者を愛する身としては、とりあえずそれで満足するしかないようでした。
 しかしここにはまた、エコーも知らない深い事情があったのです。
 ナルシスの母親はレイリオペという名の水の妖精でした。彼が生まれて言葉を話し始めてから間もないある日、名高い予言者のテレンシアスに出会って、こう尋ねてみる気になったのでした。
「この子は長生きできますでしょうか」
「ああ。自分自身を知らないでいればな」
 と、予言者はいつものように謎めいた言い方で答えました。
 レイリオペにはその意味がなんとなくわかるように思えました。「自分を知る」、いやむしろ「自分を見つける」、それはたぶん恐ろしい試みに違いないだろう、と。
 レイリオペも、一日に一時間以上は鏡の前で過ごしはしましたが、それはむしろ、誰もがうっとりするほど美しくなって、「私って、結局、何?」なんて疑問が他人の頭に、そして自分の頭にも、浮かばないようにするためでした。あまりに純朴な我が子には、どうもそういうことはできそうにありません。すると、どういうことになるのでしょう?
 また、我が子がしたことの理由を尋ねたりするのも、どうかと思われました。結局のところ、親は、幼子に「それをしてはいけない」と教えるために訊くのでしょう。でも、「なぜやってはいけないのか」まではいいとして、またそれは理解されたとして、次に来るのは、「ではなぜ僕はやってしまったのか」、それから「それをやってしまった僕って何なのか」という問いではないでしょうか。
 たいていの人は、そんな問いに長く関わっていたくないからこそ、余計なおしゃべりをして時を過ごすのですが、ナルシスは、一度こんな疑問に取り憑かれたら最後、どこまでも一途に考え込まなくてはすまない、そういう性格ではないか、と、母親の直感でわかっていたのです。
 そこでナルシスは、鏡を見ることもなく、「なんでそんなことをするの」と尋ねられることもなく、「いけません」とさえ滅多に言われずに、子どもから青年へと成長しました。おかげで、よそからはひどく傲慢でいやな男だと思われるようになりましたが、実際には、自分でも知らないうちに(それが大事なのです)、母親の望み通りになった、非常によい子だったわけです。
 だけでなく、彼は誰よりも、この世で生きていくための重荷を感じず、毎日愉快に暮らしていたのです。この日突然悲劇がやって来るまでは。
 最初に述べたようなことを言いながら、ナルシスは春先の野に出ました。後にはエコーが影のように寄り添っていたのですが、彼はいつものように彼女を意識することもほとんどありませんでした。ふと、泉のせせらぎが聞こえてくると、急に喉の渇きを覚えた彼は、そちらへ行って、一口飲もうとしました。
 その時です、ナルシスは水底に、非常に美しい若者がいて、こちらを見つめているのに気がついたのです。息も詰まる思いがして、自分でも知らないうちに、こう言っていました。
「君は誰?」
 これは彼の口から出るには全く相応しくない言葉でした。質問されることが嫌いなので、質問することもなかったからです。
 その上、この質問はそのまま彼に返されました。声は聞こえませんでしたが、泉の中にいる若者の赤く優雅な唇も、「君は誰?」と動きましたので。そして、エコーが心底から驚いたことに、ナルシスが答えたのです。
「僕はナルシスだ。君は誰なんだい?」
 同じ答えと、質問とが返ってきます。ナルシスはこれまで一度も味わったことのない激しい感情に襲われて、大声で叫びました。
「どうして答えてくれないんだ。僕は本当に君のことが知りたいんだ」
 そばで見ていたエコーには、彼の言葉を繰り返すことはもうできませんでした。こんなに心乱れたナルシスは初めて見たからです。
 とてもよくないことが起ころうとしている、いえ、もう起きてしまったことはエコーにもわかりました。たぶんもう手遅れなのです。それでも彼女は、それまでの習わしを破り、自分は知っているのにナルシスは知らないことを、口から出さずにはいられませんでした。
「無駄よ、ナルシス。あなたが話しかけているのは、水に映ったあなたの像なんですもの。答えてくれるはずはないわ」
「そうだったのか。僕はこんなに綺麗だったんだな。
 それだけじゃない。あの褐色の、大きな目は何を見ているのだろう。僕か? そりゃそうだ、これが僕だとしたら、僕以上に見る値うちのあるものがどこにあると言うんだ。
 栗色の艶やかな巻毛に半分隠れているあの耳は、何を聞いているのだろう。僕の声だけ、に決まっている。それ以外の何かを聞いたとしても、それが何になるだろう。
 この世に僕以上に、僕以外に、見たり聞いたりして、知らなくちゃならないものなんて何もなかったんだ。どうして僕は今までそれに気づかず、どうでもいいつまらないことばかりにかまけて、生きてきてしまったろう」
「しっかりしてよ、ナルシス」
 とエコーが必死に叫びました。
「そこにあるのはあなたじゃないわ。とても綺麗だけど、ただの影に過ぎないのよ。そんなの、あなたが泉の傍を離れたら、たちまち消えてしまうのよ。
 あなたが本当にいる場所は、あたしたちの間なのよ。お母様やあたしのようにあなたを愛していたり、他のたくさんの若者たちのようにあなたを嫌っている人たちの中で、怒ったり笑ったり泣いたりしているのがあなたなのよ。つまらなくても、くだらなくても、それが生きるということなのよ。
 ねえ、戻ってきてよ、お願いだから」
 しかしこの言葉はもうナルシスには届かないようでした。彼はいつまでも水の中の彼自身を眺めていようと決心したのです。
 すると、母親譲りの、妖精の力が働き出しました。彼の体はするすると縮こまり、小さな玉のようになったかと思うと、緑と白と黄色いものが音もなくそこから生えてきて、気がつくと、ナルシスがいたところには、可憐な水仙の花が一輪、そよ風に揺られておりました。
 エコーは長い悲鳴を上げました。花になったナルシスに触れることも、彼が魅入られた泉の中を覗き込むことも恐ろしく、他にどうしようもありませんでしたから、泣きながらその場を離れました。
 以下は後日談です。この水仙は、たまたま通りかかった裕福な商人の娘の目にとまり、抜かれて、彼女の家の花瓶に移されました。それから、ともかくそれまで誰も見たことがないほど美しい花ではありましたから、枯らすのは惜しいと、天井から吊り下げられて、ドライフラワーになりました。
 こうしてナルシスは、ガラスケースの中に入れられて、ただ見られるだけの存在となって、長くこの世にとどまりました。テレンシアスの予言は、このようにして成就されたのです。
 エコーのほうは、あまりにも悲しかったので、ナルシス抜きの、人と人の間の世界に完全に戻る気にはなれず、姿を隠しました。でも、声だけはときどき現れます。山の中で大きな声でしゃべると、自分で言った話の最後のところがどこからか聞こえてくるでしょう。あれが、今もまだナルシスの面影を慕い続けている、エコーの声なのです。
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