由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

文芸はいかに道徳的であるべきか その1(死体に花が咲くものか)

2016年08月31日 | 文学
メインテキスト:正宗白鳥『作家論(一)・(二)』(創元社。(一)は昭和16年、(二)は昭和17年)



 自我の問題とは少し別の角度から日本近代文学を考えたくなった。それで、倫理道徳、だが、これも固より広大無辺にして複雑微妙、とうてい満足のいく解答は示せない、どころか、自分一個の意を尽くす前に止まってしまうに違いないことは以前の通り。せいぜい、考えるためのとば口の一つを示すぐらいのことを期して、今後いくらか漫然と書きつけることにします。
 最初にご登場願う正宗白鳥は、現在、誰でも知っているというわけではないが、知る人ぞ知るというほどでもない地位にある。知っているのは、近代日本文学に関心のある人に決まっている。彼らの間では、小説家としてよりはむしろ批評家として優れていた、ということは定説と言ってよいだろう。
 主に同時代の日本文学について、小難しい文芸理論を誇示するでもなく、小林秀雄の如き妖しい論法を用いるでもなく、生来の文学好きとして、しかしあくまで理性的に、己の心に映じた文芸観を素直に淡々と綴っている。では、要するに時評家かと言われれば、そうとも言えるが、作家の側では、こういう読者をこそ期待しているのだろう。
 そして、文学作品がかく読まれた、という直近の声は、文芸作品が時代の中で占める位置を証言し、作品が書かれて現に世に「在る」意味に光を当てる。「批評とは己の夢を懐疑的に語ること」(小林秀雄)だなんて言う前に、そういうのが文芸批評の第一の役割であり、存在理由であるはずである。その役割を果たし得ている点で、正宗白鳥の文章は、一流の批評であることに疑いない。

 中で、芥川龍之介に関する評論をまず取り上げる。残念ながら、高橋英夫編『新編作家論』(岩波文庫)には入っていない。『作家論』は元来、日米戦争が始まった年に、それまでの批評文を、作家別に二巻にまとめて刊行されたものである。戦後、創元文庫に入り、さらに新潮文庫と角川文庫(以上すべて二巻本)で出た。もちろんすべて絶版。「芥川龍之介」が入っている現在の刊行本は全集以外にはない。
 と、思っていたら、今回、HNを「やぶちゃん」という人が、なるべく正字正かなのままで、電子書籍化してネット上にアップしてくださっていたのを発見した。貴重なお仕事あり、今後ともお世話になると思うので、それも含めて厚くお礼申し上げます。
 さっそくながら、以下の引用は、やぶちゃん氏のアップしたものをコピペにて使用させていただいている。
 白鳥が主に取り上げている芥川作品は二つ。「孤獨地獄」(大正5年作)と「往生繪卷」(大正10年作)。いずれも短編作家芥川龍之介の作品中でも特に短く、ともに青空文庫にも入っているので、すぐ読める。
 ここでは、「往生繪卷」について言われている箇所を、やぶちゃん氏の注を含めて、少し長く引用する。

(前略)「孤獨地獄」と對照すると、藝術としての巧拙は問題外として、私には作者の心境が面白かつた。孤獨地獄に苦しめられてゐるある人間が、全身の血を湧き立たせて阿彌陀佛を追掛けてゐると思ふと、そこに私の最も親しみを覺える人間が現出するのであつた。しかし、これ等を取扱つてゐる芥川氏の態度や筆致が、まだ微温的で徹底を缺き、机上の空影に類した感じがあつたので、私は龍之介禮讃の熱意を感じるほどには至らなかつた。
 私は、この小品の現はれた當時、その讀後感をある雜誌に寄稿した雜文の中に書き込んだ……五位の入道の屍骸の口に白蓮が咲いてゐたといふのは、小説の結末を面白くするための思附きであつて、本當の人生では阿彌陀佛を追掛けた信仰の人五位の入道の屍骸は、惡臭紛々として鴉の餌食になつてゐたのではあるまいか。古傳説の記者はかく信じてかく書きしるしてゐるのかも知らないが、現代の藝術家芥川氏が衷心からかく信じてかく書いたであらうかと私は疑つてゐた。藝術の上だけの面白づくの遊びではあるまいかと私は思つてゐた。
 かういふ私の批評を讀んだ芥川氏は、私に宛てて、自己の感想を述べた手紙を寄越した。私が氏の書信に接したのは、これが最初であり最後でもあつたが、私はその手跡の巧みなのと、内容に價値があるらしいのに惹かれて、この一通は、常例に反して保存することにした。今手許にはないので、直接に引用することは出來ないが、氏は白蓮華を期待し得られるらしく云つてゐた。「求めよ、さらば與へられん」と云つた西方の人の聖語を五位の入道が講師の言葉を信じて疑はなかつたと同樣に、氏は信じて疑はなかつたのであらうか。
 私はさうは思はない。氏は、あの頃「孤獨地獄」の苦をさほど痛切に感じてゐた人でなかつたと同樣に、專心阿彌陀佛を追掛けてゐる人でもなかつたらしい。芥川氏は生れながらに聽明な學者肌の人であつたに違ひない。禪超や五位の入道の心境に對して理解もあり、同情をも寄せてゐたのに關はらず、彼等ほどに一向きに徹する力は缺いてゐた。

 やぶちゃん注:ここに示された芥川龍之介の正宗白鳥宛書簡は、大正一三(一九二四)年二月十二日田端発信の岩波版旧全集書簡番号一一六二である。以下に全文を引用する。
冠省文藝春秋の御批評を拜見しました御厚意難有く存じました十年前夏目先生に褒められた時以來最も嬉しく感じましたそれから泉のほとりの中にある往生繪卷の御批評も拜見しましたあの話は今昔物語に出てゐる所によると五位の入道が枯木の梢から阿彌陀佛よやおういおういと呼ぶと海の中からも是に在りと云ふ聲の聞えるのですわたしはヒステリツクの尼か何かならば兎に角逞ましい五位の入道は到底現身に佛を拜することはなかつたらうと思ひますから(ヒステリイにさへかからなければ何びとも佛を見ないうちに枯木梢上の往生をすると思ひますから)この一段だけは省きましたしかし口裏の白蓮華は今でも後代の人の目には見えはしないかと思つてゐます 最後に國粹などに出た小品まで讀んで頂いたことを難有く存じます往生繪卷抔は雜誌に載つた時以來一度も云々されたことはありません 頓首
    二月十二日   芥川龍之介
   正宗白鳥樣 侍史


【由紀草一による屋上屋の注。書簡中で芥川の言う「十年前夏目先生に褒められた時以來最も嬉しく感じ」た文藝春秋の批評とは、『文藝春秋』大正13年2月号に載った「故郷にて」という文章で、ここで白鳥は芥川「一塊の土」を絶賛している。
 『泉のほとり』は大正13年新潮社から「感想小品叢書 第2編」として出た白鳥の単行本。「往生繪卷」についての言及がある「ある日の感想」が収録されている。「ある日の感想」は「往生繪卷」が掲載された(4月号)のと同じ雑誌『國粹』大正10年6月号初出】

 順序として「孤獨地獄」について先に述べる。表題になっているこの言葉は由緒正しい仏語だそうで、何事にも持続した強い興味関心を抱き得ない、西洋語ではニヒルというのが一番近いであろう状態を指す。砕いて言えば、何をやってもすぐに飽きてつまらなくなる、無聊の状態がずっと続く、ということ。作中ではこれは「嫖客(ひょうきゃく)のかゝりやすい倦怠(アンニユイ)」であり、「酒色を恣(ほしいまま)にしてゐる人間がかゝつた倦怠は、酒色で癒る筈がない」と言われている。
 幕末の僧侶である禅超が、長年の放蕩の果てに(当時僧侶の酒色は公的には禁じられていたが、けっこう見過ごされていたらしい)、快楽の飽和状態に達し、生きながらこの地獄に堕ちた、と述懐するのが掌編「孤獨地獄」の要である。最後に、作者の生の言葉として、「或意味で自分もまた、孤獨地獄に苦しめられてゐる一人だ」云々と、記されている。
 この部分は、芥川作品に時折見られる、なくもながなリフレイン(三島由紀夫の評語)と言えると思うが、白鳥は「年少者が氣まぐれに口にする感傷語とばかりは思はれない。芥川氏の腦裡に嚴存してゐた感じであつたらしいが、その感じが歳を取るにつれてどう働いてゐたのであらうか。作品の上にどういふ風に現はれてゐたのであらうか」と問いを立てる。
 その答えが上の長い引用文中にある。「往生繪卷」となぜ繋がるかと言うと、この世のすべてに興味を失った人間が、この世ならぬ彼岸に憧れるとき、その渇望こそ最も激しいであろう、と白鳥は考えるらしい。それが「往生繪卷」の主人公五位の入道の場合である、と。それはそうかも知れない。
 で、白鳥は、芥川はどちらの心境も本当にはわかっていない、と断ずる。頭では理解していたろうし、同情もしたろうが、このような問題を芯から「自分のもの」にしていたわけではない。自分が安全な観察者の立場にいる限り、描かれた人間の苦悩もまた「机上の空影」つまり絵空事にしかならない、というわけ。
 おなじみの「実感第一」の文学論で、本ブログでも「こんなんでいいんですか、小林秀雄さん」で瞥見した。現在ではけっこうバカにされているようだが、まだ力を失ったわけではない。それはそうと、芥川の最期の頃を知っている私たちからすれば、このような感想は、また違った角度から眺められざるを得ない。
 「聽明な學者肌の人」というのは、芥川作品のいかにも知的に整えられた構成やら、驚くべき博学ぶりから、誰もが抱きがちな人物像であろう。しかし、人間はもっと複雑なものである。「赤い帽子の女」が事実彼の作であるかどうかは措いて、芥川のけっこう派手な女性遍歴は各種の伝記に触れられているし、かなり危ない遊びまでやっていたことは、宇野浩二『芥川龍之介』の最初に出ている。何より、自伝、というか自伝の断片集のような「或阿呆の一生」には、女性との次のような対話が記されている。

「死にたがつていらつしやるのですつてね。」
「ええ。――いえ、死にたがつてゐるよりも生きることに飽きてゐるのです。」


 松本清張「芥川龍之介の死」(『昭和史発掘』所収)などによって、この女性が誰かはほぼ特定されており、芥川が彼女と帝国ホテルで心中しようとして、女性の側の翻意によって果たせなかった事実も、現在では明らかであるらしい。つまり、「自分もまた、孤獨地獄に苦しめられてゐる」というのは、「氣まぐれに口にする感傷語」どころではなく、芥川の全き実感だったようなのである。どれほど痛切な、かと言うと、実際に死んでしまうほどの。
 白鳥の「芥川龍之介」は、『中央公論』昭和2年10月号初出(このときの題は「芥川龍之介氏の文学を論ず」)であり、同年7月の、芥川の自殺を機に書かれている。時間的に、作者の死後に発表された「或阿呆の一生」や「齒車」などの遺稿は読まずに書かれた可能性はある。後には読んだろうが、それでも白鳥は、自身の芥川論に何ものをも付け加えはしなかった。
 だいたい、「或阿呆の一生」を、清張その他による伝記的な考証抜きで、純粋に一個の作品として鑑賞しようとしても、まず無理である。その意味で、文芸作品として自立していない、と言い得る。「齒車」は、一種の奇妙なモダンホラーとして愛好する人もいるようだが、私などには、「わけがわからない」としか言いようがない。精神病理学の知識があればわかるのかも知れないが、それはつまり文学の外側から作品を「理解する」ことに他ならない。
 「かう云ふ氣もちの中に生きてゐるのは何とも言はれない苦痛である。誰か僕の眠つてゐるうちにそつと絞め殺してくれるものはないか?」(「齒車」の末尾)と言われても、それが作者の生の「実感」から出ていたとしても、否、いればいるほど、読者としてはどうしようもない、ということである。主観はどこまでも主観であって、その人だけのものだ。文学は、そこに一個のフォルムを与えて、そこから客観的に、読者に伝わるようにしたものであろう。
 しかし、「フォルムを与える」のは、反面から見ると、対象と距離を置き、ある枠の中に対象を閉じ込めることである。実感主義からすれば、あまりよいこととは言えなくなるのではないだろうか。そのうえ、さらにもっと大きな問題を、ここに見出すことができると思う。

 そこでようやく「往生繪卷」に移る。その結末の問題について、最も言いたかった。
 結末に至る道筋を改めて辿る。主人公の五位とは、五位の位にある武士ということだが、殺生を好む乱暴狼藉者であった。あるときたまたま講師(講堂内で説法する僧)が、「どのやうな破戒の罪人でも、阿彌陀佛に知遇し奉れば、浄土に往かれる」と言うのを聴いて、「體中の血が、一度に燃え立つたかと思ふ程、急に阿彌陀佛が戀しうなつた」。そこで講師を取り伏せ、刀で脅しつつ、阿彌陀佛のありかを問うと、「西方浄土」だからだろう、苦し紛れに「西、西」とのみ言う。それから五位は「阿彌陀佛よや。おおい。おおい」と呼ばわりつつ、ひたすら西を目指して走る。やがて海にぶつかり、それ以上進めなくなると、松の梢に上って「阿彌陀佛よや。おおい。おおい」と叫び続ける。七日目、絶命した彼の口からは、まっ白な蓮華が開いていた。
 以上を踏まえて白鳥と芥川の問答を、改めて見ていただきたい。白鳥は、死体の口から花が咲くなどということは現実にはなく、それをこう簡単に書いたのでは、「遊び」(=絵空事)にしかならないだろう、と言う。それに対する芥川の書簡中の答えは、少し話をそらしているようである。
 曰く、自分が題材にした「今昔物語」中の説話(巻十九「讃岐国多度郡五位聞法即出家語」第十四)では、五位の呼びかけに応じて、海中から阿彌陀佛(だろう)が「此に有り」と声に出して応えたことになっているが、それはヒステリックな尼(文字通りの尼僧ではなく、天理教の中山みきや大本教の出口なおのようなケースを言っていると思しい)にこそ相応しい。普通の人はヒステリーにならなくても、信仰心があれば木の上での往生はできると思うので、それは省いた。しかし、口から咲いた白蓮華は、今の人の眼にも見えるのではないだろうか。
 「声が聞こえる」のも「花が眼に見える」のも、もちろん物語のレベルでの話である。できたら、芥川「往生繪卷」でも、「今昔物語」でも、読んだ後で考えていただきたいのだが、この結末を、白鳥の言うように、「五位の入道の屍骸は、惡臭紛々として鴉の餌食になつてゐた」で終わりにしたらどうなるか。文字通り、「話にならない」、つまり、「なんだこの無意味な話は?」と思われてきて、とうてい物語になり得ない、と見えるのではないだろうか。
 いや実際は、そういう話も、「物語」が「小説」になった現代では、さほど珍しくない。芥川にもある。今後本シリーズでもいくつか取り上げるつもりだが、そこでの「語り」は、もっと別の面から人間を描出することを狙っている。対して今問題にしている説話風の物語は、清純な信仰が嘉される奇跡物語という、古今東西に偏在する物語のパターン(話型)、即ちフォルム・枠を使って、「絵巻物」を、言葉によって織り上げる作業、と言ってよい。
 白鳥にもそんなことはもちろんわかっていた。わかっていて敢えて、それを安易に用いていいのか、と問うのである。何より、芥川自身が、こんな奇跡が現に起こり得るとは信じていないし、起こってほしい、と痛烈に望む者でもないだろう。それでいて、お話をまとめるためだけに使った、そこが安易だ、と。
 安易ではない例としては、「ある日の感想」には、白鳥が若いころ師事した内村鑑三の例が出ている。「内村氏は一度信じたことを惰力で信じ續けるやうな無神經な人ではない。氏は自己の幻想を續けるためにいかばかり努力してゐるか」。芥川にはその努力が足りない、というわけだ。いやはやなんとも、厳しいと言うより、どうもお門違いな要求にも見える。芥川はもとより宗教者ではなく、作家である。文学者である。
 と、そう簡単には割り切れない。近代で宗教の代用にもなるのが文学の役割ではないか。少なくとも白鳥などは、自然にそう信じていた。彼方の、永遠なる存在、それのみがもたらすことのできる究極の救済。あるとき、不図(ふと)、そのようなものに憧れてしまうのは人間の、万古不易の心性であろう。それに応えるものとしては、信仰心が一般に薄れた現在、文学以外にあるべくもない。
 そして白鳥は、仮借無く現実を見つめる反面で、激しく救済を求める人でもあった。「孤獨地獄に苦しめられてゐる」からこそ、「全身の血を湧き立たせて阿彌陀佛を追掛けてゐる」人間に親しみを覚える所以である。そして、才気にまかせてそこに近いところを掠めて飛んで見せるような感じの芥川の芸当を、あきたらなく感じるのも、この性向がしからしめている。

 問題は幾重にも錯綜している。別の角度からこのすれ違いを眺めてみよう。
 近代は、宗教を筆頭とする、それまで人々の生活意識を組み立てていたものの土台を、完全に壊したわけではないが、少なくとも見かけ上、弱くした。昔の人は信仰による奇跡を素直に信じていた、というよりむしろ、素直に信じる心を否定しなかった、と言ったほうがおそらく事実に近い。
 近代人はそうはいかない。白鳥にしても、内村鑑三が信じる聖書の真実などは、幻想だ、と言い切っている。それでいてなお彼を尊敬するのは、前述の努力、即ち幻想であってもそれを信じきろうと努める意欲の強さがあるからだ。しかしそれも、おそらくだが、聖書という物語群が、揺るぎない規範(≒フォルム)として、いつも内村の前にあって、彼を支え、導いたからこそできたのではなかったろうか。そうでなければ、聖書にどれほど惑溺(白鳥の評語)しようと、他人を感動させる研究はできなかったのではないだろうか。
 芥川もまた、「西方の人」の著者であり、「永遠に超えんとする者」、即ち超越的なものに自身も憧れを抱いていた。しかし、流行作家として、娯楽としての奇跡物語を書く義務も感じていたようだ。その場合、海を割って道を作るような大掛かりな奇跡では、もう子どもをだますこともできないだろう。神の声を聴くのも、そこいらのヒステリー女が、聴いた聴いたと口走り、そのことが広く知られるようなご時世では、あんまり有効には使えそうにない。口から可憐な花が咲き出でた、ぐらいなら、切ない信仰心を伝えるものとして、許されるのではないか。白けさせないで、同情をよぶことができるのではないか。これでいこう、と、特に自覚はしなくても、自然に頭が働くのが練達した作家というものだろう。
 通俗的であさましい計算だ、と白鳥のような人に感じられるのに無理はない。しかし、それでさえも、土台、奇跡を信じたい、という気持ちが現代人の心の中になければ、成り立たない話ではある。つまりその心は、ある。
 これらをひっくるめると、こういうのが理想だということになりそうだ。奇跡そのものも、奇跡を信じる心も否定される現代で、超越者への渇望の果てに死んだ人の屍もまた腐敗していく、その生の現実からは目をそむけず、それでも究極的の救済をどこかで求めざるを得ない人の心に寄り添い、できるだけ掬い上げること。言い換えると、奇跡に依ってしか癒されない類の人間性の一面に、奇跡なしで関わること。それを客観的に語れるフォルムを作ること。新たな話型、それもできれば聖書のような普遍的な、とまで言えば、それこそ奇跡でも起きなければ無理な話ではあるが、その志は持ち続けること。
 「そんなの知らないよ」と、今の作家には軽く言われてしまいそうだが、人間に「内面」があり、「内面」には価値があるという信仰が完全に失われない限り、文学の名におけるこの志もなんとか続くだろう。
 いやまあ、未来のことは結局わからないので措くとして、昔の文学者たちがどのように、野暮に、こういう問題に取り組んだか、次回からもう少し見ておきたいと思う。
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反知性主義的教育改革を駁す・夏木智氏との対話 その6(最終回)

2016年08月20日 | 教育


6 ゆとり時代からこっち(由紀草一)
 さて、尽きない議論が尽くせないでいるうちに、平成14年度から、臨教審の個性化・自由化路線を過激に押し進めた「ゆとり教育」の実施となった。ところがこれは、教育再生会議よりもっと早く、翌年の15年、高校まで完全実施になった年に実質見直されることになった。
 こんなことでは子どもは勉強しなくなるんじゃないか、という可能性への憂慮が高まったからだ。この年に実施されたPISAのテストの結果は、詳細はほとんど誰も知らなくても、この可能性を裏付けるものだとされた。
 それで、この年の十月、中教審が文科大臣の諮問に答える形で「初等中等教育における当面の教育課程及び指導の充実・改善方策について」という答申を出している。その第二章は、「新学習指導要領のねらいの一層の実現を図るための具体的な課題等」と名づけられていて、あくまでも「ゆとり教育路線を変更するのではなく、その本当の意図を明確にする」んだというタテマエなんだが、ここで「学習指導要領の基準性の明確化」がうたわれている。
 指導要領は「最低基準」なんであって、これを越えたことを教師が教えることを妨げるものでないってこと。だから、円周率は必ずしも「およそ3」と教えなければならないわけではなくて、3・14と教えてもいい。数学に多いいわゆる「はどめ規定」、例えば「数学Ⅰでは二重根号をはず計算は扱わない」というやつにしても、

これら……は,学習指導要領に示された内容をすべての児童生徒に指導するに当たっての範囲や程度を明確にしたり,学習指導が網羅的・羅列的にならないようにしたりするための規定である。したがって,各学校において,必要に応じ児童生徒の実態等を踏まえて個性を生かす教育を行う場合には,この規定にかかわらず学習指導要領に示されていない内容を指導することも可能なものである。ところが,その趣旨についての周知が不十分であるため,適切な指導がなされていない状況も見られる。

のだそうだ。「おい、ちょっと待てよ」と言いたくならない? 周知が不十分も何も、そんな趣旨説明、いったいいつあったんだ?
 こんな三百代言ふうのやりかたではあったけれど、学習内容を減らす、という側面でのゆとり教育はこのときもう死んだんだ。ただ、授業時間数が増えるわけじゃないから、夏木さんの言うように、宿題などで補わなくちゃならなくなった状況が生じたがね。
 そればかりじゃない。「詰め込み教育」だって、決して否定されていたわけじゃないんだと言うんだから、驚くじゃないか。今次の指導要領改訂のために一月に出た中教審答申「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善について」は、右の十五年の答申をかなり忠実に踏襲しているんだが、こんな文章がある。

教育については、『ゆとり』か『詰め込み』かといった二項対立で議論がなされやすい。しかし、変化の激しい時代を担う子どもたちには、この二項対立を乗り越え、あえて、基礎的・基本的な知識・技能の習得とこれらを活用する思考力・判断力・表現力等をいわば車の両輪として相互に関連させながら伸ばしていくことが求められている。

 いやはや、すばらしい。基本的な知識はもちろん大事だ。それはしっかり教え込め。しかし、これからの時代ではそれだけでは不足だ(って、それだけで十分な時代って今まであったの?)、思考力も判断力も表現力も課題発見能力も問題解決能力も自ら学ぶ力も必要だ。これらすべてをひっくるめて、今後は「確かな学力」と呼ぶ。教師はこれを、子ども一人一人の「個性を生かす」形で、身につけさせるようにしなくちゃいけない……。
 正に、「言うだけなら簡単だよ」の見本だね。
 学校に期待されているのはまだこれで終わりではない。総合的学習の時間では何を狙うのかというと、指導要領では「各教科間にまたがった総合的な知見」「地域でのボランティア活動や勤労体験を通して主体的に学ぶ姿勢」「国際感覚」などが挙げられている。これらを通じて「生きる力」を獲得しろとね。
 まさにデパートなみになんでもあり、と言いたいが、もちろんそういうわけにはいかない。すばらしい総合的学習の時間の実践例というのは、すぐに有名になるくらい少ない、と考えた方がいい。たいていは芋掘りをやったり一日店員をやったり、ただ図書館から本を借りてきて生徒に読ませて終わり、なんだよね。
 それにしたって、それ相当の準備と後始末の手間がかかるから、同じ教師として、馬鹿にしたような口は決してきけない。「立派なお題目の割には、やることはいたって地味だなあ」と、生徒や親から思われるのはとても気の毒だ。現実は、誰でも、できることしかやれない、という平凡至極なところにいつも落ちつくものなんだ。
 これらすべてをひっくるめて、「ゆとり教育」というのは、本当に親からも生徒からも教師からもゆとりを奪うやり方だったんだよね。何よりも感情の分野で。
 「創造性」だの「国際性」だの、正体ははっきりしないがいかにもよさそうには見える言葉をチラつかせて、「これからの時代はこういうのが必要ですよ。これがないと遅れてしまいますよ」と、漠然とした希望と裏腹な不安を煽って、子ども、よりも実際は親を、駆り立てようとするところなんか、巷の能力開発なんとかセミナーとか教材屋そっくりのやり口だ。
 ゆとりというか、余裕というか、おおらかさか、そういったものが決定的に欠けている。もちろん文科省はありあまるほどの善意でそうしてるんだろう。しかし、結果は同じ事だ。

 さてそこで、このような「ゆとり教育」が見直されるということで、指導要領も改訂されたんだが、それでどうなったかな?
 多くの小中高で、早い段階で、先取りで授業時間は増やした。ただし、原則土曜日休業は崩さないという上の方針だから(なぜかはわからない)、夏休みなど長期休業日のうち何日かを授業日にしたり、それでも足りないと思えるから、ふだんの日の授業時間が延びている。七時間目を週に二~三日設定したりしてね。その分明らかに週日は大変なわけだが、ただ授業時間はもどってきた分だけ、宿題などは軽減されるだろうか?
 そうはならなかった場合のほうが多いようだ。だって、教師にしてみりゃこわいもの。前の年より宿題を減らして、テストの平均点が落ちたりしてごらんよ。それは宿題を減らしたせいかどうかはわからないとしても、校長や親からはきっとそう見られて、自分は不熱心な教師というレッテルを貼られるんじゃないか? そう思ったら、よほどの自信家か鈍感な教師じゃなかったら、宿題を減らすことなんてできなくなるよ。まして今は単年度で、デジタルに教員が評価される時代だからね。
 それは要するに教師が臆病なだけで、政府とは関係ないんじゃないか、と言われれば、そうかも知れない。しかし「あんたに言われたくないよ」ってかね、少なくとも教育行政担当者には、そんなふうに教師を非難する資格はないと思うよ。ゆとり教育を完全に否定するでもなく、そのうえにどんどんやることを重ねてきたんだから。これから先は夏木さんが言ったことの繰り返しになるが、せめて、
「ゆとり教育路線や新学力観は全くまちがいでした。だから総合的学習の時間も観点別評価も廃止して、ついでに教員の評価も廃止して、一から出直します」
と言ってくれてからなら、そういうお小言も聞くけどね。
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反知性主義的教育改革を駁す・夏木智氏との対話 その5

2016年08月12日 | 教育

5 やる気を出させる可能性(夏木・由紀)
由紀 今の話はたいへん説得力があって、すぐに賛成したいところだ。ところが、教育言説の世界ではこれが当たり前になっていない。
 夏木さんの教育観はとてもオーソドックスなものと言っていいと思うが、それをなんとか転換させようとする勢力も昔からあってね。古くはルソーまで遡るだろう。教育学という学問は、「既存の知識を、説明と訓練によって次代に伝える」のが教育だという考えを、一変させるまではできなくても、少なくとも修正を加えるためにある、と言ってもいいくらいだ。
 つまり、上から押さえつけて勉強させるんじゃなくて、子どもの自発性を引き出して自ら学ぶように導こう、とか、型にはめるんじゃなくて、その子の個性を伸ばすようにしてやろう、云々ね。今でも「理想の教育」と言えば、だいたいはそういうイメージになるんじゃないかな。
 実際、夏木さんが挙げた二つの授業例のどっちでも、生徒が自発的に参加してくれるなら、それに越したことはないよね。最初のほうだったら、二次方程式を使った練習問題に嬉々として取り組むとか、二番目のほうだったら、二次方程式の原理に関することに、どんどん意見を出すとかね。教師として、そういうのに憧れない人はいない。
 反対に、生徒たちの大半か全員が、授業にいっさい興味を示さないとしたら、どういう授業をしようと問題じゃない。彼らは、二次方程式の解法も学ばなけりゃ、それを導き出すためのプロセスから思考訓練をするわけでもない。自分とは全く無関係と思える話がされているのを、じっと耐えて終業ベルが鳴るのを待っているか、終わる前に耐え切れなくなって授業を乱すか、どっちかになる。
 ところで、だいたいにおいて、前の状態は正に理想であって、教師の憧れの中にしかなくて、後のほうは現実に、かなり多くの学校でざらに見られることだ。すると、すべての前提は生徒たちの勉強への興味であり、「やる気」ではないか? そう思えてくるよね。また、それが間違いであるはずはない。
 問題は、生徒の「やる気」を引き出すことは絶望的に難しい、いつでも、どこでも、どんな生徒にも、「やる気」を持たせようというのは、おそらく不可能だというところだ。

夏木 「やる気が問題」という視点を打ち出したのが、まさしく「新学力観」の意味するところだね。私が言いたいことは、やる気が問題なのではなく、(たとえば、テストの)結果を問題にすべきだと言うことだ。
 そして、この場合、結果というのは、方程式が正確に素早く解けることを優先してかまわない。解き方を理解することはあったほうがよいが、それを自分で見つける必要はない、ということだ。もちろん限られた時間内でどちらかを選ぶしかないという前提のもとだが。
 肝心なことは、子どもにとって学校における勉強というのは、大人にとっての仕事のようなものだということだ。大人が仕事をするとき、誰もがやる気満々で取り組んではいないだろう。むしろ、つらいなあ、できれば別のことをしたいなあと思いながら、仕方なく取り組んでいるものが多いんじゃないかな。
 嫌々ながらも仕事に取り組む、それはなぜかと言えば、そうしないと給料がもらえないからだ。この場合、やるべき事をきちんとやってくれれば、給料は払われる。やる気があったかどうかというのは大して問題ではない。
 子どもにとっては、勉強それ自体にやる気を見いだすのは、多くの大人と同様難しい場合が多いだろうね。しかし、それでもいやいやながらも学校に来て授業に取り組む。それはなぜかと言えば、その仕事によって、学力という給料が支払われるからだ。それが短期的には、親からの賞賛、長期的には有名大学合格、いい職業という未来へつながると考えているからだ。
 勉強なんて、大人にとっての仕事と同様、その活動自体がおもしろいなんて事は滅多にないことだと思うよ。そういう意味ではやる気を引きだそうなんて発想自体が間違ってる。

由紀 もう少し考えを進めると、「やる気=自発性」を「引き出す」ということ自体パラドクシカルだよね。外からの働きかけによって心の中に湧いてくる自発性っていったい何? それ以前に、「自発的に、あることを学ぶ」こと、「知識欲」と言っていいものは、すべての人間に生まれたときから普遍的に備わっているものなのか、それとも社会が個人に押しつけることによって初めて出てくるものなのか。これに完全に答えることなど絶対にできないだろう。
 もちろん教師はそんなものに抽象的に悩んでいる暇はない。毎日の授業の中で、「今日も生徒たちは授業中退屈しきっていたな。どうすればいいかなあ」と悩んだり、「今日の授業はみんな食いつきがよかったな。この調子を持続できたらなあ」と前向きな気持ちになったり、の繰り返しだ。ここに「やる気」をめぐるアポリアが現実的にかつ鮮明に現れているわけだが、教師にできるのは、迷いながらルーティーンワークとしての授業をこなしていくことだけだ。

夏木 その通り。実は、さっき例にあげた結果とプロセスは必ずしも二律背反ではない。問題によって、与えられた時間によって、生徒のレベルによって、教員側が可能な範囲で両立を図ってきたものなのだ。
 これは、さっき言ったようにいわば教育の職人技のようなもので、長年の蓄積によって磨かれてきたものだ。にもかかわらず、そういうものにいっさいの尊敬を払わずに、何も知らないくせに自分たちは正しいと思っている連中が見事に破壊しようとしているわけだ。

由紀 それも不思議はない。昔から教育学の世界で議論されていることも、政府の教育政策も、こういうこととはなんの関係もない。現実になされている教育より、「可能性としての教育」を美しく歌うことを第一の使命としている。そんなの絵に描いた餅に過ぎないのだけれど、なんといっても政府の施策は、学者の意見とは違って、現実に学校や授業のあり方を変えようとする構えのものだから、こちらにはいくらか興味を持たざるを得ないし、また興味を惹くような装いをしている。
 我が国で、現在まで続く教育改革の理念の大本を公的に打ち出したのは臨教審(昭和五十九~六十二)だと言っていいだろう。教育の個性化・自由化がここで声高に叫ばれた。その背景には、公共事業の民営化やら規制緩和をよしとするいわゆる新自由主義の政治・経済思想がある、とも言われるが、ここではそんなに話を広げる必要はない。
 とりあえず、教育では子どもの個性を伸ばすことが大事だとか、学校の枠組みはもっと自由なものであってもいいはずだ、と言われると、なんとなく、とてもいいことが提唱されたような気になった人もいたんだ。自分の子どもの成績が悪いのは、これまでの学校の教え方が悪いからであって、もっと子どもの個性にあった教え方をしてくれたら、もっと学力が伸びるんじゃないか、とか。選択教科が増えれば、いやな教科を学ばなくてすんで、もっと学校が楽しくなるんじゃなかろうか、とかね。
 こういうのはただの幻想だったことは、ほとんどの場合すぐに明らかになったと思うんだが、ただ、可能性までは否定しきれないからねえ。一方、教師の中でも特に良心的な人は、生徒が興味をもってくれないのは、自分の授業の工夫が足りないせいだろう、と考えて悩んだりする。その可能性も、そりゃ、否定できない。そのうちに、こういう工夫で生徒たちの興味をひいてすばらしい成果を挙げることができました、という実践報告も多数出てくるから、可能性は単なる可能性ではなくなったような気にもなる。
 ただ、それならいっそのこと、その実践報告がかなりの部分、あるいは完全に、インチキである可能性も考慮に入れておいたほうがいいと思うんだが。可能性の議論って、こんなふうに、きりがないんだよ。

夏木 教育実践のことについては「誰が学校を殺したか」で詳しく議論したから、繰り返さないけど、一言で言えば、よくて自己満足、悪ければ自己中心のなんの意味もないあだ花にすぎないよね。


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反知性主義的教育改革を駁す・夏木智氏との対話 その4

2016年08月05日 | 教育


4 新学力観こそ元凶だ(夏木智)
 問題は、これまでの教育に比べてもっとよい教育があるかということだからね。つまり、これまでの「詰め込み教育」より、「新学力観に基づく教育」の方がいいかという話だ。これは肝心の所だから、少し詳しく論じよう。下の例を見てくれ。格好の例とは言えないが、それぞれのことについていくつかのことは分かる。

 それぞれの方針を、私なりに解釈して、2通りの指導を考えよう。【以下の式で2は2乗を示します】
2次方程式、x2+4x-3=0をとけという問題にしてみよう。

①「詰め込み教育」だとこうなる。
「解の公式というものがあって
 
からa=1、b=4、c=-3
だから代入してx=-2±√7となる。
わかったかな。では、いくつか練習問題を解いてみよう」 

②次は「新学力観教育」だ。
「さあどうやったら、この方程式は解けるだろうか、はい、○○君、順に数を当てはめてみる? なるほど、いい考えだね、やってみようか。まず1はどうかな、だめか、-1は、うまくいかないねえ。どうしてかな、そうだね、解が整数とは限らないものね、じゃあ、どうしたらいいだろうか。因数分解? そう、前はそれでうまくいったけど、解が整数でないと因数分解はどうかな、手が上がらないね。じゃあ、少しグループに分かれて研究してみよう(教員ここで見回る)。
はい、それじゃ、みんな注目して、**グループが面白い考え方をしているので、聞いてみよう。
なるほどxのかわりにX-pを代入したんだ。
するとXの係数は-2p+4になる。
そこで、p=2とおくと、
方程式はX2+4-8-3=0で、X2=7。
これを解いてX=±√7、x=X-2だから x=±√7-2と分かるというわけだ。
なーるほど、みんなの意見はどうだい。そうだね、いつでもX-pを代入すればいいのかという疑問があるね。他の方程式を試してみようか。もちろん他のやり方でも、試してみる人はやってみて」
解の公式の証明



 まず、「詰め込み教育」だが、ここでは、生徒の考える部分はあまりない。もちろん、解の公式の成り立ちについて教員は説明するのだが、なるほどと感心することはあっても、それ以上のことは考えないだろう。その代わり、説明は短時間で済み、しかも、とても分かりやすい。だれでも、どんな問題にも直ぐに取り組めて、短時間で答を出せるようになるだろう。「画一的」だ。だれもが同じ作業に取り組むことになる。
 では、「新学力観教育」ではどうか。ここでは、生徒が自分の頭で考えることが要求されている。そこには、意外な発見というおもしろさもあるかも知れない。だが、その一方で失うものも多い。
 まず、「詰め込み」と比べて、とても時間がかかると言うことだ。これだけの言葉を使って、まだ、解の公式にさえたどり着いていない。この分では一〇倍くらいの時間がかかるだろう。
 さらに大きい問題は、このやり方では,授業は優秀な一部の生徒だけを相手にすることになってしまうだろう。いろいろな解法の発見から、この後期待される「解の公式」という「一般化」まで、優秀な頭脳であれば興味深くたどってくれるかも知れないが、凡庸な頭の持ち主には、結局「見ているだけ」で終わってしまう公算が強い。彼らにまで参加させるとしたら、さらに膨大な時間が必要だ。
 で、どうなるかといえば、普通の頭の持ち主は、このあと、二次方程式が出てきたときには、常に「解の公式」を使うことになるのだが、詰め込み教育でなら可能だった練習の時間がなくなっているぶん、スムーズにも正確にも解けない可能性が高い。このやりかたは、確かに「画一的」でないが、それは、実は格差を生み出すということに他ならないのだ。
 つまり、平凡な才能にとっては「つめこみ」は、つまらなくて機械的だが、問題を解く力を与えてくれる。「新学力観教育」は、おぼろげながら解の公式の生まれる筋道を教えてくれるが、それを使いこなすことができないということになる。

 さて、われわれは、どちらに価値を見いだすか。ここで、もう一度、学校教育の意義を考えてみて欲しい。子どもたちはなんのために学校へ通っているのか。それは、授業を楽しむためではない。大人になったとき、学んだことがその人の人生に役に立つ、そういうことを学ぶために来ているのだ。
 それでは、「新学力観教育」は何を与えてくれるだろう。「自ら学ぶ力」? ナンセンスだ。少なくとも普通の頭の持ち主にとって、二次方程式の解の求めかたを工夫してうまくいかなかったという体験をしたからって、いったいどういう風に自ら学ぶ力がついたと言うんだい。そういう経験を持てば、いろんな場面でどういう知恵が出てくるというのだ。
 失うものがないならそれでもいい。しかし、その代わり解の公式がうまく使えないとしたらどうなる? 数学は積み重ねだ。次の問題の授業では、二次方程式の解を求めるのに解の公式を使う。解の公式がうまく使えないものが、次の問題を考えるときに、どうやって自ら工夫できるというのだ? 子どもたちの能力も時間も限られている。

 我々は、何もかも手に入れることはできないのだ。我々は選ばなくてはいけないのだ。自ら学ぶ力などという当てにならないものか、それとも、形式的であっても実際に問題を解き、そして次の問題に取り組める力か。
 答は、明らかなように思う。そもそも、我々は、数学のような「学問」とは何かと言うことをもう一度思い出さなくてはならないと思うよ。
 学問とは、これまで積み重ねてきた、問題をとく知恵を体系化して分かり易く、次世代に伝え、またそこから新しいものを生み出すものなのだ。先人が苦労して時間をかけて考えてきたものを、後生は学ぶことで短時間で身につけることができるわけだ。だからこそ学ぶ価値があるんだろう。

 たとえば「解の公式」というのはまさにその学なんだ。それは、ただの知識ではない。意味を知って、使って、問題を解いてこそ価値のあるものなんだ。それができることを「学力」と呼ぶべきだと私は思うよ。
 もちろん、丸暗記ではない方がいい。しかし、自分で発見しなければなんて、ナンセンスだ。そんなことは、ある程度一通り「学問」を学び終わって、一通り平凡な問題が解けるようになってからでいい。何度も言うが、そうやって時間を節約することこそ学ぶ価値なんだから。
  別の言い方をすれば、昔の限られたすぐれた者達だけが解けた問題を、公式のおかげで凡庸な頭の持ち主でも解けてしまうことこそ、数学の価値だと言ってもいい。そう考えれば、「新学力観教育」よりも「詰め込み教育」のほうが、大多数の子どもたちにとってまだはるかに価値があるのは明らかだと思うよ。まして、小学校や中学校ではね。
 
 それなのに、強引に新学力観教育を始めてしまったことが、最大の失敗だった。聞いた話では、始まったばかりの頃、小学校では、これからはドリルのような反復練習はしてはいけないという時代があったらしい(学校にもよるとは思うけど)。二,三年して、テスト的な学力ががた落ちして、これはたいへんだとドリルが始まったり宿題を出し始まったりしたという話だ。

 要するに、授業では問題解決、学力は宿題と塾でという非効率教育はそのころ始まったのだ。こうして不満がたまっていたところへ、さらに「ゆとり」がとどめを刺したと言うところだね。「総合学習の時間」は、まさしくこの新学力観の延長上にあるものだ。
 高校の数学教師の立場から言うと、ゆとりの新学習指導要領(平成十一年版)は、実は、前の指導要領よりいい部分がたくさんあるんだ。新学力観が始まってすぐの頃の教科書は、問題解決的なことを重視するもので、「現地調達式」という方法でつくられていた。本来は、数学は積み重ね方式といって、やさしいことから難しいことへという順で教えた方が、わかりやすい。しかし、この方式では、やさしいことを学んでいる間は、それになんの意味があるのかわかりにくい。
 そこで文科省は、まず目標の問題を提示して、その問題を解くために必要なものは何かを考え、その必要なものを学ぶという形で教科書を作った。学ぶ意味が分かるようにという意図だ。
 だが、これは、ひどく分かりにくいものだった。なぜなら、数学で学んでいるのは単に「知識」ではなく、「考え方」「概念」「技能」といったものだからだ。解の公式を学ぶことは、二次方程式の問題が出たら答を出すやり方を学んだのではない。そうではなく、二次方程式という概念を学び、もし、ある種の問題が、二次方程式に帰着されるならば、そこから答を出せるということを学んだのだ。
 それが、心にすんなりしまわれ、いつでも引き出せるようになるまでには、時間と訓練がいる。その状況があれば、二次方程式を使う応用問題は簡単に感じられるだろう。しかし、まず、応用問題があって、それを定式化すると、こういう方程式ができるね、こういう方程式はどうやって解いたらいいだろう、などという順序でやっていたら、最初の問題はとても深遠で難しく感じられてしまう。順序よく学んでいれば学べたものが、逆順にされたためにとうとう分からないと言うことにもなる。
 なにしろ、数学Ⅰの教科書が確か2次関数から始まっていたんだ。関数はもっとも苦手な分野なのにね。もちろん、そのまま正直に教えたところは少ないと思うけど。とても評判の悪い教科書で、この前の改訂で三割削減されたのはひどいけど、教える中身はまた元に戻って、前よりはずっと分かりやすくなったんだ。少しは反省したんだなと思ったけど。
【平成26年度の改定で中学に解の公式が復活した。しかし、その定着度はゆとりの前とは桁違いだ。今の学校はやっぱりドリルということを嫌っているようだ。】

 余談が長くなりすぎたかもしれないけど、要するに、「学力低下」の引き金を弾いたのは「新学力観」という一種の妄想だということはわかったと思う。この時は同時にいくつかの評価に関する妄想も導入された。
一つは絶対評価だ。これについては説明の必要はないと思う。観点別評価というものも導入された。これはたとえば、授業に対する「関心・意欲・態度」を評価しようというもので、つまらない授業でも面白いフリをして参加できるかということを評価の対象としようというナンセンスだ。
 こうしたやり方が、それまで現場で積み重ねてきた、「学力をつけるための指導」のノウハウをいわば破壊した。少なくとも数学についてはそうだ。
 私の考えではそれまで国際学力調査で好成績をとっていたのは、現場の教育が世界的に見て優れていたものだったからだ。それは一朝にしてなったものではなく、職人の技術のように、努力の積み重ねによって出来上がってきたものなのだ。
 ここでいう学力は「知識量」のことじゃないよ。英語だってそうだろうけど、知識があれば問題が解けるわけじゃない。公式を教えれば、公式が使えるようになるだろうというのは大きな間違いだ。公式を使いこなすには、それなりの「理解」が必要だ。そういう「理解」を引き出すためには証明が必要なこともあるし、適切な説明、うまい例が必要なこともある。そういうことを含めて何をどのくらいどのように教えるかという点で、技術だといっているんだ。

 時代といえば時代なんだろうけれども、昔は教員の自主的な研究会などというものがけっこうあった。しかし、今は、官製研修ばかりだ。教育書が全く売れなくなったという話も聞く。これまで「わかる」ことを目標に授業をしてきたのに、これからは「わからないことを考える」ことを目標に授業をやれといわれるのだもの。おろかな管理職に「とにかくおれのいうことを聞け」とゴリ押しされたら、とにかく従う以外の方法はないよね。意欲などうまれるはずもない。そもそも、以前よりはるかに無駄な仕事が増えて、暇がないしね。
 こうしてせっかくのノウハウを新学力観が台無しにした。フィンランドが教員を大事にして一位をとったのと対照的に、教員を虐めて順位を下げた理由といったら図式的すぎるかな。
 いずれにしても、学力(というのは、さっきいった意味で、問題を解く力のことだけど)をつけるのはそんなに簡単なことではないということをきちんと理解せずに、「学力は世界トップクラスだけど」なんて当たり前に得られているものと勘違いして、「もっと応用力を」なんて、まるで教員たちが何もしていないかのように、「教育改革」を強引に押し進めた結果が、今の非効率な「ゆとり無し教育」につながってしまっているんだ。
 学力というのは、知識量でもなければ、その反対にあるように思える「考える力」でもない。その中間にある「ある程度既知の問題を解く力」のことだ。易しい問題が解けるようになることで、難しい問題も解けるようになる、その場合の「易しい問題を解ける力」が学力で、それこそ、社会が求めているものだ。
 少なくとも、「考える力」などというものは、その学力の延長にあるもので、「考える力」だけをまず育てようなんておかしな話なのだ。
問題を解く力という意味での学力が落ちたかといえば、解ける問題の範囲は狭まったが、ある範囲に限っては落ちてはいないだろうと思う。
 落ちてはいないが、前より多くの労働を払って少ない学力を得ると言う貧乏な状態におかれていることが不幸だと思うし、そこをこそ改革すべきだ。再生会議の案は「解ける問題の範囲を広げるよう労働を増やせ」というものだから、この点から言うと「言語道断」だということはわかるだろう。
 
 やるべきことははっきりしている。「新学力観」の排除だ。「総合学習」をただちにやめ、観点別評価もやめる。
「授業時間を確保します、宿題も出さなくて結構です。免許の更新もしなくていいです。なるだけ負担は減らしますから、その代わり、教員のみなさんは授業を充実させて、受験に対応できるような学力をつけてあげてください」
と、宣言するのが最善の方法だと思うよ。
 教員の私がこんなことを言うと、我田引水のようにとる人が多いんだろうね。結局、現場のことを知らないで、けしからんといばりちらす、そういう経営者が、教育を滅ぼしているんだと言うことがわからないんだね。悲しいことに。
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