由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

「火の鳥」 七つの謎 その2(フード付き鳥女とフードなし鳥女の違い)

2016年04月07日 | ビジュアル(映画・マンガ、など)
【手塚治虫は一度発表した作品でもしばしば後から描き直したことで有名で、「火の鳥」も細かいところまで含めると、掲載誌と刊本の数だけバリエーションがありますが、ここでは虫プロ商事などから出た最初の刊本(『COM』の別冊として、雑誌扱いですが)と角川文庫版のみを使用します。】

Ⅲ 罪とは何か、罰とは何か
 火の鳥のくだす罰はなぜこうまで不公平なのか。「火の鳥」全編を読んだ多くの人の頭に、この疑問が浮かぶであろう。
 「宇宙編」の猿田は一人を殺そうとしただけである。相手の牧村は、大量殺戮者だった。そんなことは関係ない、「罪は罪です」と未来永劫、現在の人類が死に絶えたさらにその先まで続く罰が宣告される。一方「太陽編」未来パートの主人公スグルは冷酷な殺し屋で、何十人か殺している。命乞いをする敵方の女を、「あんたを見逃すとすぐ通報するだろう」と躊躇なく光線銃で撃ち殺すところなど、牧村と同等の非情さが感じられる。しかるに、こちらは罰を受けるどころか、霊界で、千年前(正確には千三百年前)の恋人と改めて巡り合い、「自由な世界」へ行くことができる。
 このようなヒイキはどこから来るのか。私なりに考えついた結論を簡単に述べると、火の鳥は本来は罰を与える存在でない。ただ、何かの都合でそうすることはあり、さらに、どうもウソもつくようである。そこからすると彼女は、人間から見たら隔絶した強大な力を持つが、公平無私ではなく、まして全知全能でもない。人格というのか、「鳥格」を持ち、それに沿って行動している。もっとも、神話で語られる神は、煎じ詰めれば皆そういうところがある、と言えるのだが。
 以下、火の鳥の行動から逆にたどって、行動原理を探ってみよう。それには「宇宙編」を主に見なくてはならない。
 ここまでの「火の鳥」各編のテーマは、比較的明瞭で、
「黎明編」永遠の生命を求めて争う人間達を描く。
「未来編」生命観と時間観を明らかにした。
「ヤマト編」男女の愛を美しく謳い上げた(ので、手塚先生も照れたらしく、脱線ギャグが最も多い)。
 これに次ぐ「宇宙編」は、斬新なコマ割を駆使した緊密を極めた構成で重い内容を描き、強烈な印象を残す。今までのは長い導入部で、ここから「火の鳥」が本格的に始まるのだな、とさえ思えてくる名編である。


 「宇宙編」より、フードなし鳥女とフード付き鳥女

 ここではテーマを問題にしているので、いきなりネタバレする。
 牧村五郎は、地球のトーキョーで生まれたときから、宇宙飛行士となるべく定められていた(おそらく、「未来編」のロックのように、保存された精子と卵子から、コンピューターが才能ありと見込んだ二組を選んでできた試験管ベイビー)。他の惑星へ地球の雑菌をばらまかないようにと、無菌状態で育てられ、孤独だった。十八歳のとき、ある女と恋に落ちたが、女のほうはほんの遊びであったことがわかり、終生消えない心の傷を負う。
 この後「望郷篇」で描かれるエピソードを経験したはずである。惑星エデン17から地球へ向かう途中のロミとコムに出会い、彼らの手助けをしてやる。が、それは法律違反であり、この二人を殺さなければ「受刑星」へ送る、と政府首脳陣から申し渡される。刊本ではいずれも、牧村が撃つ前にロミの寿命が尽きて死ぬが、初出誌では命令通り彼が殺していた(コムのほうは片手をもがれ、水草に変身する)。「かんべんしてくれ。おれも…わが身大事の哀れな男さ」と言い訳しながら(このセリフは角川版では変更された)。ここでの彼はそれほど残忍ではないが、性格の弱さを抱えていることはうまく描かれている。
 さて、通常の時間だと、ここから何年か、何十年か経て、「宇宙編」のエピソードにつながる。牧村は調査のために鳥人(鳥から進化したと思しき形態の知的生物)の星フレミルを訪れる。フレミル人は穏やかな性格で、彼を暖かく迎えるのだが、牧村は、荒れていて、乱暴を繰り返す。初恋の相手に裏切られた痛みが、地球への望郷の念と重なって、激しくなったものらしい。
【これはちょっと……、そんなのは何人か女性体験を重ねれば消えてしまうじゃないか、と年配の男性は思うでしょう。手塚も多少は気にしていた証拠に、「望郷篇」で、いくらか後付けの伏線を張っています。
 第一に、「ウラシマ効果」というものがあって、彼のような宇宙連絡員には恋愛はタブーなのだ、と牧村自身が語ります。冷凍睡眠で肉体の老化を抑えながら、星から星へと巡るのが仕事なので、元の場所へ戻ってきたときには知り合いはみんな死んでいるか老人になってしまっているから、と。
 それでも、一夜限りの契りならできますし、牧村は、女にモテる男として描かれています。実際、そうでなければ後述の悲劇は起こらなかったのです。確かに、私が若い頃まで、不安定な感じの男は不思議に女性の関心を集めていました。「放っておけない感じの男」という感じで。
 と、いうような一般論より、「望郷篇」のヒロインのロミが、寿命と引き換えに若返えると、言葉ではなく行為で求愛し、同じく行為で(平手打ちで)拒絶されています。さらに、「あんたに百十三年前であってればまず第一におれは、あんたにプロポーズしただろうよ。そしたらおれの運命もかわってたかもしれない」というセリフを、角川版ではつけ加え、物語上の辻褄を合せています。そうなるとしかし、牧村の年齢はこの時で百十三歳以上か、という新たな疑問が生じますが。】
 そんな彼を慰めようと、ラダという鳥人の娘が、身辺の世話係として送り込まれる。献身的に尽くすラダに、牧村も心を許し、やがて惹かれ合うようになり、他の鳥人たちの反対を押し切って、彼らは結婚する。
 フレミル人の文明は高く、脳にある映像を可視化する装置「宇宙集像機」も発明していた。それを借りた彼はかつての地球の女を映し出し、会話を交わす。「本当は愛していた」「あなたを地球で待っている」などと女の映像は言うのだが、それは牧村が心底で望んでいることの反映に過ぎない。その挙げ句、この願望は、望みを妨げているようでもある周囲への憎しみに変って、爆発する。


 「宇宙編」より、現実のフレミル星の女と幻の地球の女
 
 私はこういうところに最も、手塚治虫の凄味を感じる。気弱な男が自分で自分を追いつめ、殺人鬼、正確には殺鳥鬼、へと変身する。これを三~四ページ足らずで見事に描出している。
 フレミル人は、これほど高い文明を持ち、人間の憎しみや悪意も知っているのに、戦う術はまるでなく、一方的に牧村に狩られてしまう。手塚も支持していた戦後平和主義の行く末を、皮肉にも暗示しているようだ。
 さて、牧村の前に最後のフレミル人と思しき女が現れ、「撃たないでください。私の生き血を飲めば、あなたは不老不死になれるのです」と告げる。言われるままに血を飲んだ牧村は、やがて異変に気づく。体が、だんだん若返っていくのだ。これがフレミル人の復讐であった。

 「宇宙編」の前半は、赤ん坊になった牧村が、手の込んだ仕掛けで「流刑星」へと送られる過程を描いている。五百光年離れた移民の星から、男四人女一人の連絡隊が地球へ向かう、そのうちの一人に彼がいる。亜光速で進む宇宙船の中では、一人づつ一年交代でブリッジに座り、あとは冷凍状態で眠る。牧村の番のとき事故が起こり、皆が目覚めると彼はミイラ状になっていた。宇宙船は航行不可能、四人は個人用の小型ロケットに乗り込み、脱出する。すると、死んだはずの牧村用ロケットが、彼らの跡からついてくるのが見える……。
 閉鎖空間もの(ヒッチコック「救命艇」、アガサ・クリスティ「そして誰もいなくなった」、など)の変形ではあるが、巧い。そして、凄い。無限の宇宙空間で、一人が横になれるだけのスペースしかない場所に閉じ込められて、音だけでコンタクトを取り合う、そこで牧村の「死」の真相(本当は死んでおらず、ミイラに見えたのは子どもになった彼が着ていた着ぐるみのようなスーツだった)をめぐる疑惑が膨らむ。この秀逸な設定と描写のために、他の無理矢理感は消えてしまう。火の鳥の力をもってすれば、牧村一人を流刑の島へ送ることなど簡単ではないかと思うのだが、なぜか関係のない四人を巻き添えにする、その理由は全く語られない。
 四人のうち二人とは途中ではぐれ、猿田と唯一の女性隊員ナナ、それに謎の牧村艇が酸素のある惑星に漂着する。そこは嵐や地震などの自然災害が年がら年中起きる苛酷な星だが、おさまると、洪水であふれた水も、崩れた岩も元に戻ってしまう。生き物を苦しめるだけ苦しめても、星そのものが壊れないように配慮された、悪意に満ちた環境。そこで牧村は永遠に生きねばならない。ある年齢に達すると若返り、赤ん坊からまた成長する、を繰り返して。
 シジフォスが運び上げては落下を繰り返す岩が、自分の体そのものになったようなもの、と言おうか。無意味な繰り返しによる永続。その恐怖をこの上なく説得的に可視化している。
 「宇宙編」は、このように、人間の根源的な孤独を描くのが主眼であって、「罪と罰」テーマは、物語をまとめるための枠、あるいはpretext(口実)に過ぎない、とも見える。作品評としてはそれで十分なのだが、敢えて、野暮を承知で、手塚が遺した細かい記号性にこだわってみる。
 牧村が赤ん坊になって流刑星に送られるまでの経緯は、火の鳥が変身した鳥女が猿田に説明することで読者にも伝わる。この鳥女は牧村を罠にかけたフレミル人の女にそっくりで、要するに両方とも火の鳥が化けているのだろう、と自然に思う。が、ちょっとした違いがある。前者は、顔の両側にフード状の布か毛が描かれているのに、後者にはない。そして、フード付きのほうは最後には火の鳥になって飛び去るのに、それがないほうは、光線銃で何度撃たれても死なないが、鳥に変身はしない。
 絵柄で類例を探すと、フード付き鳥女は「太陽編」で唐突に再登場し、異国の神々(仏教の守護神たち)との霊界戦争で傷ついた日本の産土神たちに、傷を治療してくれる女がいることを伝えて、ここでもまた火の鳥になって飛び去る。
 フードなし鳥女は、他では登場しないのだが、同じ「太陽編」未来パートのヒロイン・ヨドミが光線銃で撃たれるシーンは、「宇宙編」のそれに近い。灰状になってもまだ立ち上がる。彼女は火の鳥との直接の関係はなく、本性は産土神の狗族(くぞく)なので、最後には狼の姿になって、逃れる。
 これらからすると、フードなし鳥女は、火の鳥にたいへん近い存在だが、火の鳥そのものではない、という推定が成り立つ。あるいは、フレミル人と火の鳥の混血児なのかも知れない。

 火の鳥は子孫を作れる。その話は、「生命編」に出てくる。三千年前に空から舞い降りた鳥の姿の精霊が、ケチュア族(インカ帝国を築いた部族)の若者と結ばれ、娘を産み落とした。この娘は鳥のような顔をして、あらゆる生物を複製する薬の調合法を知っていた。食物も家畜も無限に作り出し、年老いると自分の複製も作って、何千年も生き延びている。
 それが、「人間狩り」を見世物にしようともくろむTVプロデューサー・青居邦彦の前に現れる。前述二種の鳥女は、フード付きもフードなしも、最低限の線で顔が描かれていたのに対して、こちらは劇画のように線が多く陰影の濃い絵で、不気味さが強調されている。彼女は青居の左手薬指を切り落とし、そこから多数の複製、即ちクローン人間を作り出す。
 この作品の発表当時(昭和55年)、クローンを使ったSFはもうそんなに珍しくはなかったが、ここでは、一般人がこの技術に対して漠然と抱く恐怖が最大限活用されている。無限の反復に換えるに、無限の増殖。生物の個体がいくつでもできるなら、もう「かけがえのいない生命」という概念は成り立たない。欠けた場合の「換え」はいくらでもいる、ということだから。人々に刺激と娯楽を与えるための、「人間狩り」の対象にしてもかまいはしない。青居は元々それを狙っていたのだが、自分及び自分の分身たちが狩られる獲物になり果てることで、この目論見の真の怖しさ罪深さを知る。
 ここでは罪と罰が正確に照応している。青居は自分がしようとしたことの結果を全身全霊で受け取るからだ。それは永久に続くわけではない。薬指を失くしたオリジナルの青居は、「できそこない」として最初に殺され、一体だけ逃げ延びたクローンは、最後に自分もろとも日本に出来たクローン工場を爆破する。こうして、彼自身も、彼の罪の結果も消えるのである。


    左:「生命編」より、アンデスの鳥女         右:「太陽編」より、再登場したフード付き鳥女

 改めて、火の鳥とその亜種たちの関係はどうなっているのか。鳥の形になるものと、姿かたちは鳥に似ているが、空を飛ばない者。後者に二種あって、アンデス山脈の奥に潜んでいる方は、自分は火の鳥の娘だと、来歴を語った。一方は、フレミル人に化けたまま。罪を犯した登場人物を罠にかけて、生きながら地獄へ突き落すところは共通する。
 彼女たちは完全に鳥の形になる原・火の鳥の、特性の一部を現しているが、より小さな存在である。だから、復讐と言うような、人間的な行為に及ぶのだ。原・火の鳥はどちらかというと救済をもたらす。猿田の前に現れた時にも、「あなたがたには罪は何もありません この星を出て地球へおいきなさい 私がはからってあげます」と告げるのだ。だったら、流刑星に辿りつく前にはぐれて、宇宙に消えた他の二人の宇宙飛行士のためにもはからってやれよ、と思うのだが、それにはなんの言及もない。
 もっとも、最後まで牧村とはぐれなかった猿田も、えらい目に合う。彼は女性宇宙飛行士・ナナに恋していたが、彼女は牧村が好きで、流刑星で、植物の姿になって、永遠の罰を受ける牧村を見守ろうと決心する。そこで、牧村には永遠の生命があることを火の鳥から聞かされていながら、「こいつさえいなければ」と愚かにも赤ん坊の彼を殺そうとするのである。それはやっぱり罪だ、と言われるのは、一見すると、「私が決めた罰を邪魔しようとしやがって」と怒った火の鳥の意趣返しのようだ。と、言うより、単なる嫌味だったのかも。
 次の「鳳凰編」の主人公・我王は、猿田の転生の中でもとりわけ印象深い人物である。幼い頃事故で片腕を失くし、ために差別と迫害を受けた彼は、長じて盗賊となり、何人も人を殺めた。僧・良弁と知りあい、ある悟りに達してからは、在野の仏師として、仏像や鬼瓦を製作し、人々の尊敬を集める。しかし、心の奥底の恨み・憎しみの炎がすっかり消えたわけではない。
 この作品のクライマックスで、火の鳥(だろう)が彼に語りかける。「おまえだけではない 一千年前一万年後の人間も すべていかりにつつまれた人生をおくったのです」と。それはなぜか? 「なぜ人間はいつもいかりに苦しまねばならんのか?」と我王が問うのには直接答えず、三つのビジョンを見せる。それは未来の彼の子孫、というかやはり転生した姿であろう。その中には、「未来編」の猿田博士のもある。「宇宙編」の猿田としか思えないものもある(が、そうだとすると、「ある星の世界で彼は永遠の苦しみをうけているのですよ」とこの時火の鳥が言うのはウソなわけだ)。要するに、皆苦しみ、報われない生涯を送っている。
 「人間はいつまでこの苦しみといかりがつづく?」と、再び我王が問う。「永久にです そして我王 おまえはその人間の苦しみを永久にうけて立つ人間なのです
 これが正解だろう。多にして一の存在である彼は、苦しみ、苦しむがゆえに罪を犯し、その罪のためにまた苦しむ。あるときたまたま何をしたか・何をしようとしたかには関わらず、人間存在のもっとも深い宿業を生きる者なのだ。それに対してどんな罰を与えようと、それもまた「たまたま」以上ではなく、いかなる解決も導かない。生きることそれ自体が罪責であり、劫罰なのだから。
 火の鳥はこの宿命に寄り添う存在である。少なくとも「鳳凰編」ではそうだ。仏師として我王のライバルである茜丸が焼け死ぬ時、もう一度人間に生まれ変わりたいと望む彼に向って、冷たくこう言い放つ。「おまえにはもう永久に…この世がなくなるまで 人間に生まれるチャンスはないの!」と。それは茜丸が何をしたか、どういう人間かには依らない。ただ、そう決まっている、というだけなのだ。
 キリスト教だと、ジャンセニズムやカルヴァンの「予定説」が思い出される。誰が救われるか救われないか、それは神のみが決められる。人間が、これこれをすれば恩寵が得られる、なんぞと慮ること自体が不遜なのだ。そもそも人間は、永遠の相の下ではチリにも等しいちっぽけな存在でしかない。まずそれを得心することが、信仰の第一歩になる。
 それでも、短いスパンでは、やったことの結果の一部か全部が報いとして降りかかってくることはある。それ以前に、感情はあり、欲望もあり、その揺れ動き自体が人間にとって重大事であるに違いはない。ただ、憎悪や悲哀などに、あまりに強く拘泥し、挙句に罪を犯すのは馬鹿げきっている。前述した我王の悟りの内容は、これであった。
 では窮極のところ、罰はなんのためにあるのか。ある世界を世界たらしめている秩序を守るために。たぶん、フレミル星やアンデスは、火の鳥には縁の深い場所なのであろう。そこでの罪は見過ごされず、全面的に罪人に返される。火の鳥の亜種たちが関わるのはそこで、結局は自分の都合と感情で動くのだから、その分セコく見えてしまうのである。

 繰り返しによる罰、ということなら、もう一つ、中篇「異形編」に触れないわけにはいかないだろう。しかしこの作は、お話としての集中度は高いが、辻褄合わせの点で突っ込みどころがまことに多い。手塚先生に直接それを言えば、「そんなことにこだわるから、お前は到底大作家になれないんだよ」と返されるかも知れず、それはまことにそのとおりなんですが……。
 題材は八百比丘尼(やおびくに/はっぴゃくびくに)伝説である。八百年生きているとも、どんな病気でも治すことができるとも言われている。
 戦乱の世。八儀家正はしがない下人の身から、非道を重ねることによって、地方の領主にまで成り上がった。悪行の報いか、鼻が大きく腫上がる病気になって、猿田の転生であることがはっきりするのだが、このたびは些かも同情の余地がない。実の娘にも憎まれている。世継ぎがほしいので、左近介(さこんのすけ)と名付けて男として厳しく武芸を仕込み、初めて恋した家老の息子は、いくさ場で置き去りにして、間接的に殺してしまったのだ。
 この家正、鼻の病気のために命も危ない、と言われたので、霊験あらたかと評判の八百比丘尼を呼び寄せ、治療させようとする。現れた尼は左近介にそっくりなので、皆驚く。それはそうと、自分の鼻の病を治すことはできるのか、できなければお前をこの場で殺す、と家正が迫るのに、尼は、七日の猶予をもらえれば特効薬を作ろうと答える。
 それは困る、と左近介。父のような人でなしは業病で死ねばいい。それで初めて自分も女として生きられる。治そう、などと言う者は、先に殺してしまおう。と、尼の住む蓬莱寺に忍び込み、首尾よく凶行を成し遂げた。が、城に戻ろうとすると、不思議な力に押し返され、寺の付近から先に進むことができない。何日か後、病や怪我を治してもらいたいと、人々が寺へやって来る。やむなく尼に扮し、仏像の中に隠されていた光る羽で治療を行う。人間のみならず、妖怪(もののけ)たちも、怪我をしたものが現れる。左近介は哀れに感じて、それも治してやる。そうこうするうちに、海岸に流れ着いた漂流物から、外の世界は三十年時間がもどったことがわかる。さらに十年経つと、領主八儀家正に、左近介という名の世継ぎが生まれたという報せがもたらされる……。
 やがては二十年前の自分に殺されるのだろう。それに気づいたとき夢に火の鳥が現れ、これが十年前に彼女が人を殺した報いであり、この場所には特別な時間が流れているので、三十年ごとに新しい左近介が来て尼を斬り、新たな尼に成り代わる、それが無限に繰り返されるのだ、と告げる。
 ひとつだけ突っ込ませてください。新・左近介が前の尼を殺すと同時に、蓬莱寺を中心とした場が三十年前の時に戻る、ということだろうが、そうすると、尼の治療を受けられるのはこの三十年間の人や妖怪だけ、ということになる。八百年生きている、という伝説はどこから生まれたのか? 
 やっぱり「多次元宇宙」なのかなあ。火の鳥は、別の世界にいる人間以外の異類もここへ送り込む、と言う。そこは、左近介が元いた場所とも蓬莱寺付近とも別の時間が流れている、とすれば、別にいいわけか。
 もっと深い企みがあるような気がする。「太陽編」では、フード付き鳥女=火の鳥が、産土神を治す女は八百比丘尼だと明言していた。尼のいる場所には無限の時間が流れている、とも。しかし、このときは壬申の乱で、左近介は応仁の乱の時代の人だから、ちょうど八百年の開きがある。たぶん、普通の時間概念から言っても、献身的な治療者たる尼は八百年前からいたのである。それは左近介とは別で、これが、罪障が消えたか何かで引退(?)したとき、新たにリクルートされたのが左近介だったのだ。
 最初の尼を殺したとき、それは自分自身を殺したのだという思い込みは、火の鳥によって与えられた幻覚だったのだろう。あとはループ構造の時間場を作り、実際に自分殺しを延々と続けさせる。なんのために? この世界と他の世界の生き物を多少なりとも慰める仕事をさせるために。それには、殺す-殺される、の両方の立場から罪の恐ろしさをよく知っている者こそ相応しい、と考えられたのだろう。
 そう、これは仕事なのだ。宇宙のさいはての星でただ苦しむためにだけ無限に生きるのと比べれば、違いはすぐにわかる。どんな生き物でも分け隔てなく治療することで、深い尊敬を得るのだから。
 のみならず、こうなるのは半分以上左近介自身の意思である。三十年前の「あの日」が来ると、彼女は城まで行ける。よそへも行けるかも知れない。そうでなくとも、家正の治療を断りさえすれば、その場で殺されるから、新しい左近介が新しい尼になる契機は失われる。が、どちらもしない。「鳥との約束だから」と。ここには一身を他者への救済に捧げた、紛うことなき聖女がいる。彼女の、あくまで自らの罪を引き受けようとする意志が、無限の時間が流れる小世界を維持するのである。
 思うに、日本のような宗教風土では、罪とその贖いの物語を語るのは難しいのだ。下手をすれば、御利益を餌に善男善女を釣ろうとする、生臭坊主の説教程度になってしまう。そこを巨大な構成力にものを言わせて、人間存在の根源までうかがわせるダイナミズムを獲得している。話の進行上の、多少の強引さには目を瞑るべきなのであろう。
コメント (2)
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