成島出監督 「銀河鉄道の父」 令和5年
メインテキスト;菅原千恵子『宮沢賢治の青春 “ただ一人の友”保阪嘉内をめぐって』(宝島社平成6年、角川文庫平成9年)
今野勉『宮沢賢治の真実 修羅を生きた詩人』(新潮社平成29年、新潮文庫令和2年)
宮澤トシ(詩の中では「とし子」)と言えば、高村智恵子と並び、日本近代文芸上に清冽な刻印を残す女性である。そのため、聖女のようなイメージが持たれるからだろう、学生時代に恋愛事件を起こしていたことは、一般にはあまり知られていない。
大正3年、トシは十六歳で、花巻高等女学校の四年生だった。新任の音楽教師鈴木竹松が、希望者には放課後ヴァイオリンの個人指導をすると告げたのに応じることにした。何人かの受講者の中でトシは特に熱心で、鈴木の下宿にも折々訪れるようになった。
現在の高校でも、こういうことは噂にならずにはすまない。少し違うのは、噂の範囲で、卒業式の直前に、地元の新聞に醜聞として、それも三日に渡る連載記事で、書きたてられた。さすがに実名は伏せられていたが、少し事情を知る者にはすぐにわかる形で。これはこの地域の政治的な対立から、一方の代表格と見られていた宮澤家を陥れる目的からだったろうと思われる。
この時、女学校は公式な問題にしはしなかった。鈴木はその翌年まで奉職していたし、一年生の時から常に学年成績トップだったトシは、卒業式でも総代として答辞を書き、読んだ。そして、ただちに東京の伯父を頼って上京、従姉妹が在籍していた日本女子大に入った。世間体を憚った所為に見える。家族にとってはそうだったろう。
トシ自身にとっての内面の葛藤は、むしろこのときから始まった。トシは、兄・賢治と同じく、頭脳明晰で感受性豊かだったが、何より、自分自身を破壊しかねないほどに厳しい倫理観の持ち主だった。
大学では、牧師だったこともある成瀬仁蔵が、個々の宗教の枠にはとらわれずに総合して編み上げた実践道徳を伝えまた追求する場として創設したものだった。トシは「宇宙自我」を究極的な理想とする成瀬の講義を熱心に聴講し、一時は傾倒したが、最終的にそこに安住することはできなかった。
かなり後に、大正9年2月9日の日付のある、ノートに細かい字でびっしりと書かれた文書が宮澤家で見つかった。署名はないが、内容と筆跡から、それはトシの書いたものだとされた。発見者によって「自省録」と名付けられたこの文章が一般に公開されたのは平成元年のことになる(宮澤淳郎『伯父は賢治』八重岳書房所収)。ここでは、事件当時の自分は「彼女」と呼ばれている。多分、突き放して冷徹に分析しようとしたのだろう。文体も、若い女性が書いたものとは思えない硬質なものだ。
と言って、出来事の詳細が叙述されているわけではない。そもそも他人に読まれることを想定したものでもなく、自分に向かって自分の内面を語ったものだ(だから「自省録」)。
憧れの男性といっしょに過ごす時間は「彼女」にとって「享楽」であった。それが世間にはどう見られるかをあまり意識していなかったので、仲のいい三人の同級生には話してしまった。おかげで評判になり、当の相手からは疎まれるようになった。思えば、「彼女」は彼を理想化し過ぎていた、その上での恋愛もどきであり、それまではなんの落度もなく、人から賞賛されるばかりだった「彼女」の恥辱になった。
彼は彼女の「ある方面に於ける無智に乗ずる事なく彼女に不当な何ものも求めなかった」と言うのだから、そういう関係はなかった。若いうちにはありがちな浮ついた気持ちがあっただけ。それなのに、「彼女と彼との間の感情は排他的傾向を持ってゐた」と言う。確かに、悪評を立てられた家族には迷惑をかけた、と言えるかも知れないが、彼女の内省はずっと先まで行っている。
利己の狭苦しい陋屋から脱れて一歩人間が神に近づき得る唯一の路であるべき「愛情」が美しいままに終わる事が少なくて、往往罪悪と暗黒との手をひきあうて来る事は実にdelicateな問題である。愛の至難な醇化の試練に堪え得ぬものが愛を抱く時――それは個人に向けられたものであらうと家庭や国家にむけられたものであらうと――頑迷な痴愚な愛は、自他を傷つけずにはおかないであらう。
かくて、「凡ての人人に平等な無私な愛を持ちたい」というのが彼女の切なる願いとなった。「うまれでくるたて/こんどはこたにわりやのごとばかりで/くるしまなあよにうまれてくる」(「永訣の朝」)という末期の言葉の背景にも多分これがあった。また、賢治の言葉「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(「農民芸術概論綱要」)を思い浮かべる人もいるだろう。
兄の影響をここに見るべきだろうか。いや、賢治のほうが妹の影響を受けていたのかも知れない。
いずれにしても、このような幸福観は、一回りした倨傲にさえ見えてこないだろうか。それが個人的なものである限り、普通の意味の幸福を求める思いと行いさえ、「痴愚な愛」と呼ばれ、否定されているようだから。そこまでは言わずとも、相対的で猥雑な人間世界でこんな純粋な希求を保ち続けているとしたら、行く末は悲劇しかない。
もちろんこの兄妹にも家族はあった以上、普通の生活はあった。トシは大正9年には病を得て花巻に帰省し、半年だけだが、辛い思い出のある高等女学校で英語と家事を教えた。前記「自省録」は、それに先立って、改めてあの事件を見直すために書かれたと思しい。以後は病状が悪化し、11年に逝去するまで、療養生活を続けた。
他の家人といっしょに賢治も彼女の看病をしている。「自省録」を読み、女学校時代の妹の恋を知ったのはこの時期だったろうと推定される。
トシが音楽教師との交情に胸を焦がしていた大正3年、賢治は盛岡中学校の最上級生で、島地大等編著『漢和対照妙法蓮華経』に出会って、家の宗派には背くことになる信仰の方向を決めた。また、家業の質屋兼古着屋を継げと言う祖父と父をなんとか説得し、トシが日本女子大へ進学したのと同じ4年4月に、盛岡高等農林学校を受験、入学することができた。
そして5年には、大きな出会いがあった。それは男性で、保阪嘉内という。父は山梨県の役場の職員だったが、トルストイに傾倒して百姓の仕事は崇高だと考え、まず東北帝大札幌農科大学を受験して失敗、そのため、賢治と同年だが、一年遅れて農林学校に入って来た。
二人の接点はまず文学で、他の学友とともに、謄写版刷りの同人誌『アザリア』を創刊、短歌を中心にした創作を発表し、批評し合った。6年には第二号が出て、深夜まで続いた熱気溢れる合評会後、その余勢を駆って夜通し歩こうと言い出す者がいて、主要メンバー四人が秋田街道を約17キロ歩き通した。嘉内はこれを「馬鹿旅行」と読んでいる。
その一週間後、今度は賢治と嘉内の二人で、岩手山に登っている。このとき二人で交わした「誓い」があったことが、後に賢治が嘉内に送った手紙で言われている。彼らには文学以外に、宗教に関心が深く、「絶対真理」を見出して、それに帰依したいと望む、求道者的性格でも共通していた。それも自分だけではない、万人にとってのパラダイス、「まことの国」への道を、ともに進もう、と山上で、満天の星の下で誓いを交わしたものらしい。
理想の具体的な中身は、このときはあまり問題にされなかったようだ。彼らは二十一歳の学生で、これらの観念的で大仰な言葉のみで酔える年代だった。
しかし、この夜の感激については、賢治と嘉内とではけっこう温度差があったかも知れない。よくわからないのは、賢治の嘉内宛の書簡七二通は、昭和43年に公表されたが、嘉内から賢治へのものは一つも見つかっていないからだ。ただ、後の友情の成り行きからは、そういう疑念も出てくる。
翌7年3月、嘉内は突然退学になる。『アザリア』第五号に出した彼の文章「社会と自分」中の「おい今だ、今だ、帝室をくつがえすの時は。ナイヒリズム」なる文言が問題にされたらしい。嘉内は共産主義者でもアナーキストでもなく、たぶん青年客気に浮かされて、ツルゲーネフなどのロシア文学から得た思いつきを書きつけた、そんなところだろう。それでも、賢治や嘉内父の嘆願もむなしく処分は実行され、嘉内は農学校を辞めて故郷へ帰る。
このとき賢治は前記島地大等の編著を送っている。またこの頃の手紙に、「どうか諸共に私共丈ども、暫くの間は深く無上の法を得る為に一心に旅をして行かうではありませんか」「南無妙法蓮華経どうかどうか保阪さんすぐに唱へて下さいとは願へないかも知れません。先づあの赤い経巻(引用者註、前掲書)は一切衆生の帰趣である事を幾分なりとも御信じ下され(下略)」などとある。
賢治にとって「絶対真理」とは即ち法華経のことになっていたのだ。しかし、嘉内にとってはそうではない。彼は退学直後に母親を亡くし、他学への進学を断念、志願して一年間軍隊に入った。賢治はそんな嘉内にもちろん同情しながら、それにかぶせて、信心の勧誘ともとれる言葉を並べる。好意から、というより、農学校卒業前後に、職も決まらず、家業を継ぐ気にもならず、従って家族との軋轢も強くなっていた賢治にとって、信仰そのものと同様、その道を伴に歩んでくれそうな友の存在は、何よりも貴重だったからだ。
「(前略)夏に岩手山に行く途中誓われた心が今荒び給ふならば私は一人の友もなく自らと人とにかよわな戦を続けなければなりません」「私が友保阪嘉内、私が友保阪嘉内、我を棄てるな」などとも手紙中にある。このような必死な呼びかけも、少し距離を置いて見れば、独りよがりの押しつけがましさと変わらないものになる。
大正10年7月、賢治と嘉内は、上野の図書館で再会した。賢治は前年、家出同然に上京し、日蓮宗の教団で国粋主義の色彩の強い國柱會に入り、印刷工の傍ら布教活動をしていた。このとき嘉内は法華経への入信も國柱會への入会も、冷ややかに(と、賢治には見えた)断ったものらしい。やがてトシの病状が悪化して、看病のために賢治は帰省し、12月には花巻農学校の教諭となった。嘉内は山梨で農業と青年教育に従事した。この後も手紙のやりとりは続いたが、二人が会うことは二度となかった。
賢治の生前慣行された唯一の詩集『心象スケッチ 春と修羅』には、大正11~12年に書かれた詩が納められている。中でトシの死の前後を歌った「無声慟哭」シリーズは現在最も有名であり、宮澤賢治といえば「雨ニモ負ケズ」よりこちらを思い浮かべる人が多いだろう。
トシは家族中で賢治の法華経信仰に最もよく理解を示した者だった。彼女から大きな勇気をもらっていた。(あめゆじゆとてちてけんじや)という願いは「死ぬといふいまごろになつて/わたしをいつしやうあかるくするために/こんなさつぱりした雪のひとわんを/おまへはわたくしにたのんだのだ」ものだと思えた。「ありがたうわたくしのけなげないもうとよ/わたくしもまつすぐにすすんでいくから」(以上「永訣の朝」)。
しかし話はここでは終わらない。このシリーズの最後の詩「白い鳥」には「どうしてそれらの鳥は二羽/そんなにかなしく聞こえるか/それはじぶんにすくふちからをうしなつたとき/わたくしのいもうとをうしなつた/そのかなしみによるのだが」とある。この鳥は「死んだわたくしのいもうとだ」とはっきり言われているのだが、それならどうして二羽なのか。いろいろ考えられるのだが、私は単純に、もう一羽はトシに寄り添おうとする賢治自身のことだと思っている。それを見て悲しい声を聴いている賢治も他方にいるが、する自分とそれを見て記述する自分の分裂は、文学作品では珍しくない。
そこで鳥に仮託された賢治は、「すくふちから」が失われていることを悲しんでいる。彼にとって法華経は、この頃から終生、「絶対真理」ではあったが、それがそのまま人を救う力になるとは限らない。そうであるためには、やはり人間は、体も心も、弱すぎる。。
大正12年、賢治は青森から北海道・樺太まで汽車で旅行した。花巻農学校教諭になっていたので、生徒の就職先への挨拶回りのためだったが、内面ではトシの魂の行方を求める彷徨となった。こちらは、「春と修羅」中では「無声慟哭」シリーズの後の「オホーツク挽歌」シリーズとして歌われている。
「とし子はみんなが死ぬとなづける/そのやりかたを通つて行き/それからさきどこへ行つたかわからない/それはおれたちの空間の方向ではかられない」輪廻を信じてはいても、なお死は厳しい断絶であった。かけがえのない存在を失った寂しさは埋めようがない。
絶対真理に帰依した以上、「あいつはどこへ堕ちようと/もう無上道に属してゐる/力にみちてそこを進むものは/どの空間にでも勇んでとびこんで行く」ことになるが、そこから来る厳しすぎる要請にはやはり苛まれる。「みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない」と。そこで言い訳がましくこう付け加えねばならなかった。「あいつがなくなつてからあとのよるひる/わたくしはただの一どたりと/あいつだけがいいとこに行けばいいと/さういのりはしなかつたとおもひます」(以上「青森挽歌」)。
大正13年、賢治は「銀河鉄道の夜」の初期稿を書いている。前年の汽車の旅を、純粋な想像のレベルでもう一度たどる趣があるが、トシの面影はここには直接登場しない。それは男性である主人公・ジョバンニの哀しみの中に溶かし込まれているようだ。
彼は、どうやら原則として死者しか乗れない「不完全な幻想第四次の銀河鉄道」を進む。いつのまにか、「どこでも勝手にあるける通行券」を持っているのだが、そのため、さしあたりどこへ行けばわからず、途方に暮れているようだ。
同行者として、ジョバンニが現実世界で唯一心を許した友・カムパネルラがいる。このモデルは保阪嘉内だろう、というのは、菅原千恵子以来有力になっている。なるほど、そう言われればいくつか腑に落ちるところがある。
そのうち最も大きなものは、途中で「おつかさんは、ぼくをゆるして下さるだらうか」と言い出すこと。カムパネルラの母の話は、ここまで全く出てこないにもかかわらず。前述のように、嘉内は盛岡高等農林学校を退学直後に、母を亡くしている。その理由はどうあれ、死期の迫った母に悲しい思いをさせたことに変わりはない。嘉内は罪の意識を持ったろう。
しかし、このへんの話の運びは、少し混乱している。カムパネルラの言葉に応じて、ジョバンニは、「ああ、さうだ、ぼくのおつかさんは、あの遠い一つのちりのやうに見える橙いろの三角標のあたりにゐらつしやつて、いまぼくのことを考へてゐるんだった」などと考えるのだが、ジョバンニの母なら現実世界で、彼が牛乳を持って帰るのを待っている。ここはカムパネルラの思いが乗り移ってきたとでも考えるしかない。
それはそうと、ここからお馴染みの、倫理的な問題がカムパネルラの口から出てくる。
「ぼくはおつかさんが、ほんたうに幸になるなら、どんなことでもする。けれども、いつたいどんなことが、おつかさんのいちばんの幸なんだらう。」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえてゐるやうでした。
「きみのおつかさんは、なんにもひどいことないぢやないの。」ジョバンニはびつくりして叫びました。
「ぼくわからない。けれども、誰だつて、ほんたうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。だから、おつかさんは、ぼくをゆるして下さると思ふ。」カムパネルラは、なにかほんたうに決心してゐるやうに見えました。
カムパネルラは意地悪でジョバンニをいじめていた同級生が川で溺れたのを救って、自分は犠牲になっていたのだった。この全き無償の自己犠牲こそ、「ほんたうにいいこと」なのだろうか。そのために大切な誰かを悲しませることになったとしても?
この大問題に対する回答はない。元来、人間に答えられるようなものではない。
そして「母」は、物語の旅を終わらせるトリガーにもなっている。
「僕もうあんな大きな暗やみの中だってこわくない。きつとみんなのほんたうのさいはひをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行かう」とジョバンニが言うのに、「ああきつと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだらう。みんな集つてるねえ。あすこがほんたうの天上なんだ。あつあすこにゐるのぼくのお母さんだよ」と答える。ジョバンニがそちらを見ても、そんなものは何も見えない。「二本の電信ばしらが丁度両方から腕を組んだやうに赤い腕木をつらねて立つて」いるばかり。「何とも云へずさびしい気がして」振り返ると、カムパネルラはもういなくなっていた。
なぜカムパネルラと別れねばならないか。それはこの作品中最大の謎である。嘉内との訣別が表現されているのだろう、というのは一つの解ではある。しかし、では賢治と嘉内が味わったであろう思想信仰上の齟齬は、「おつかさん」というキーワードだけで伝わってくるとは思えない。もっとも、大きいところだけでも全部で三回書き直された「銀河鉄道の夜」は、現行の第四次稿(昭和6年頃書かれた)が決定稿というわけではない可能性も高いのだが。
その段階で確実なのは、「一人の友もなく自らと人とにかよわな戦を続けなければな」い決意と、その裏腹な孤独感だ。第三次稿まではジョバンニを教え導いたブルカニロ博士も姿を消し、かつて妹が呟いた「Ora Orade Shitori egumo」(「永訣の朝」)の決意を胸に秘めて、現実と幻想の世界を行かねばならない者の。
(『宮沢賢治の真実』をご紹介してくださり、また宮澤トシ「自省録」のコピーをくださった濱田玲央氏に心からお礼申し上げます)