メインテキスト:小林秀雄「私小説論」(昭和10年初出、新潮社昭和43年『小林秀雄全集 第三巻』より引用)
小林は日本近代文学を批判の対象にのみしているのではない。ある意味で最も日本的な、志賀直哉のことは尊敬している、と言う。このために「私小説論」の論旨はやや混乱しているように見えるのだ、と私には思える。
その第二回(初出時の題名は「續私小説論」)冒頭では、改造社『現代日本文學全集・志賀直哉集』に付けた自序の、以下の言葉が引用されている。
夢殿の救世(くぜ)観音を見てゐると、その作者といふやうなものは全く浮んで來ない。それは作者といふものから完全に遊離した存在となつてゐるからで、これは又格別な事である。文藝の上で若し私にそんな仕事でも出來ることがあったら、私は勿論それに自分の名などを冠せようなどとは思はないだらう。
これは昭和3年の文だが、その後昭和6年に同じ改造社から出た大版の『志賀直哉全集』序には次のようにある。「作者を離れ、一人歩きの出來る作品がこの中に幾つあるか知らない。然し若しあればそれらはそれら自身勝手に存在して貰ひたい、そんな気持ちだ。これは己惚れでもあり、冷淡でもある」。このような自惚れと冷淡さはカッコよくも見えるので、志賀を「小説の神様」にしたが、他面、傲慢さと見て、嫌う人も出てくる。
これと比較されるのはフロベールの潔癖である。彼も、芸術に作者名など不要、ということを理想とした人であった。小林の引用の出典を私は知らないのだが、モーパッサン「私生活のギュスターブ・フロベール」に同趣旨の次の言葉が見つかる。
「異人たる我々は」と、彼(フロベール)はよく言っていた。「我々は存在するべきではない。ただ我々の作品のみが存在するのだ」(足立和夫訳)
この言葉の裏には、志賀にも劣らぬ自負、あるいは倨傲がある。書簡中の以下の言葉が、『日本大百科全書』(小学館)の山田𣝣(じゃく)による解説に引用されている。「作家たるものは、自己の著作において、神が宇宙においてあるがごとく、いたるところに現前し、しかもいずこにも自らの姿を見せてはならぬ」。だから、「ボヴァリー夫人は私」なのであり、作品上の造形を通じて表現される以外の「私」を人目に曝すのはできるだけ避けるべき、ということになる。
これにさらに、かなり有名な「唯一の文体」の信念、「つまり一つの事物をその色合いとその強度の内に表現する唯一の仕方が存在する」(前出「私生活のギュスターブ・フロベール」)などの言葉を合わせて考えると、フロベールの抱く言葉への信頼の強さに圧倒される思いがする。言葉によって、自分のビジョンに映じた世界を完全に正確に表現できるはずだ、そうなれば言葉によって構築された世界はいわば小宇宙として、外界から独立して存在し得るはずだ。そう思えばこそ、実人生上の幸福を顧みず、創作に打ち込む日々を過ごすこともできたのだろう。
その確信には、宇宙の運動を単一の法則によって説明し得るとした実証科学の影響がありそうに思える。が、すべての前提として、言葉を操る主体たる「我」を建てようとする意欲の強さをここにはみるべきではないかと思う。綿密な取材と、殆ど偏執的とも言える推敲のため、作家生活の長さの割には少ないフロベールの作品は、眼前のブルジョワ社会だけでなく、古代史や、純然たる空想の世界まで取り扱っている。肝心なのは題材=外界ではなく、そこに文学としての秩序を与える作者の主観のほうなのである。創造がうまくいけば、その世界内の唯一絶対神として、もはや名を呼ばれる要もない主観が。
以上はもちろん一つの理想であって、フロベールの作品が高く評価されればそれだけ、「作者」もまた問題視されることになるのは避けられなかった。実際、サルトルの大著「家(うち)の馬鹿息子」などを含めて、彼は伝記的研究の対象にされることが最も多い作家の一人であろう。
それはともかく、我々日本人には、この理想自体がどうも理解し難いようだ。そこからすると、日本人は、「我」も「主体」もそれほど信頼するに足るものとはしていないことになる。もっとも、西洋でも、この信頼がそのままの強度で今日まで保たれているかと言えば、疑問の余地は多々ある。それでも日本人が、「自我を疑う」以前の段階に留まっているような観があることは、一応気にしてもよいことではないだろうか。
藝術が眞の意味で、別な人生の「創造」だとは、どうしても信じられない。そんな一時代前の、文學青年の誇張的至上感は、どうしても持てない。そして只私に取つては、藝術はたかが其人々の踏んで來た、一人生の「再現」としか考へられない。(「私小説と心境小説」)
「私小説論」の冒頭で、ルソー「コンフェッシオン」と並べて挙げられている久米正雄の一文である。それで久米は、「作り物」は、どんなにうまくできていても、「ほんもの」ではないから、信用がおけない。「戦争と平和」も「罪と罰」も「ボヴァリー夫人」も、「高級は高級だが、結局偉大なる通俗小説に過ぎない」と揚言する。
人の拵えたものは、究極的にはすべて「仮象」であり「偽物」であると見る心性。それは日本だけでなく、支那文藝まで含めた東洋の、伝統的なものなのかも知れない。しかし、それなら、「人々の踏んで來た、一人生」は確かにある、つまり「私」はある、そして、ある以上は表現し得る、と簡単に言えるのだろうか? それは人間の「創造力」への全き信頼と同程度のナイーブさではないだろうか?
そこで志賀直哉。彼もまた、作者名が不要となることをもって、芸術的完成の極致としたのだが、その行き方はフロベールとは全く違っている。そこに日本の私小説の特質を見ることができるはずだ。
大ざっぱに、自分の体験をかなり忠実に記したものを私小説と言うとすれば、志賀はたくさん書いているし、さらにある時の心境を主に述べた「心境小説」となると「城の崎にて」が代表作として挙げられる。私小説論では最も取り上げられるべき作家なのだが、面倒なことに、ふつう自然主義作家には分類されていない。白樺派なのだ。
面倒というのは、私小説とは自然主義文学のお家芸で、その自然主義は西洋の、特にフランスのnaturalismに範を仰いでいる、という近代日本文学史の常識があるからだ。それは小林秀雄も一応踏まえているが、さすがに賢くて、文学運動のレッテル貼りの問題なんぞには拘泥していない。愚かな私が、一瞥しておこう。
自然主義作家と志賀とは仲間になれない。第一に、前者の多くが貧乏で、それがウリの一つであったのに、彼は働かなくても食うに困らない名門の、資産家の出身だった。
さらに内容上の、決定的な違いがある。田山花袋を筆頭に、島崎藤村、岩野泡鳴、近松秋江など、自然主義作家の私小説及び私小説的な作品には、必ずくだくだしい詠嘆がある。それも、決まって女がらみで。志賀作品にはこれが、あってもごく少ない(「暗夜行路」前篇はやや例外)。もっと果断に行動している趣があって、そこが「男性的」な印象を与える。金に不自由しないことに加えて、けっこう女にモテたのではないかな。若い頃の写真を見ると、ちょっと内野聖陽に似た、男前だし。
最初に原稿料をもらった作品として知られている「大津順吉」は、仮名を使っているが、一人称で、私小説だと考えられる。主人公は、混血の娘の美しさに惹かれていたが、彼女は勝気な性格で、結婚相手とは考えられない。そのうち、女中(けっこう裕福な家の娘だが、庶民で、「行儀見習い」として大津=志賀家に奉公に来ていた。戦前にはよくあった例)の千代の存在が彼の中で大きくなる。気持ちを聞いてみると、向こうも順吉=直哉を想っているが、「身分違ひ」で、到底叶わぬ望みだから、諦めているとのこと。そんなことは問題ではないと、結婚の約束をして、一夜をともにする。彼の初体験だった。さて、家人に結婚のことを言い出すと、予想した通り、元々仲が悪かった父を初め、家中の反対に合う。
作中の事件は以上で終わりで、この恋の結末はなんら記されていない。しかし、非常に好評で、志賀の出世作になった。当時旧制中学生だった尾崎一雄は、『中央公論』誌でたまたま読んで、自分も父親と不仲だったので共感するとともに、「文章にも驚いた。かういふ文章には初めて出逢つた。描かれたことと、読む者との間に、邪魔ものが一つも無いと思つた」(阿川弘之『志賀直哉』上巻岩波書店平成6年刊より孫引き)。この評言は適切である。
志賀文学の魅力は、何よりもそのストレートさにある。余分なことはいっさい省いて、最小限の出来事と、それに対する作者=主人公の感情を、短い断定的な文章で綴っていく。感情は決して単純ではない。千代は、混血の娘などに比べれば大して美しくないことで、最初は逡巡されたことも書かれているし、終わり近く、家人との葛藤に苛立ち、物に当たりながら、なぜか可笑しくなって、哄笑するところなど、印象的だ。そこにも説明はなく、「そういうものだ」という感じで、ただ提出されている。おかげで読者は、余計なことを考えずに済む。
ここで敢えて余計なことを考えてみよう。この話の背景は、すぐわかるように、明治時代、タテマエ上は四民平等になっても、まだ残っていた「身分意識」である。これはなかなか強力で、ために頑迷な父はもちろん、平素は彼に同情的な祖母や母(継母であることはさりげなく触れられている)も、女中との結婚には結局は反対の立場になる。この大前提となる時代状況を、作者=主人公はどう思っているのか? 何も書かれていない。つまり、家人と現に衝突はしても、その根本まで目を届かせようとはしていない。
主人公が、つまり志賀が、キリスト者として有名なU先生(=内村鑑三)の講話を聴きに通っていたことは書かれている。入信するまでには至らなかったが、姦淫の戒めは覚えていて、従おうと思えばこそ、当人同士だけでも婚約してから情を通じたのだ。そのこだわりさえなければ、この時代、主人家の者が女中に手をつけるなど、珍しくもなかったろう。U先生の教えは大きかった、と一応言える。が、それ以上に、キリスト教は、彼の精神にとって何であり、何を与えたのか? などということにも、踏み込まれていない。
志賀や、志賀の愛読者に言わせれば、そんなのは観念的な話であって、地に足がつかないただの理屈なのだから、書いても面白くないし、「描かれたことと、読む者との間の、邪魔もの」にしかならない、ということだろうと思う。その通りではあるが、こちらもまた、地面にべっとりとくっついたつもりの、一つの理屈なのである。人間は理屈・観念なしで生きているわけではない。言葉の専門家である文学者には、言葉=観念によって、日常を超えた世界を切り開く、少なくともその可能性は垣間見せてもらいたいと思うのだが、日本文学でこの望みが満たされることはめったにない、というか、どうもお門違いであるようだ。
ところで上の事件の顛末は、ずっと後年の小説「過去」(大正15年、「大津順吉」は大正元年の作)に描かれている。「女と別れなければ、廃嫡(=勘当)する」と父が言うのに、それなら家を出る、と啖呵を切っても、自活する目途も決心もつかず、そのままずるずる家にいて、生活の面倒を見てもらうしかない。千代は実家にもどされる。手紙のやり取りは頻繁にして、時々は会いもするが、尋常小学校しか出ていない千代の無教養はやっぱり鼻につく。
私は千代から手紙を受け取ると、よく其返事で誤字や當字を直してゐたが、それと同じ子供らしい考から、機會があれば何でも教へようとした。
丁度日が沈みかけてゐたので、私は秋の日の早く入る事を、「秋の日は釣瓶落とし、といふ言葉がある」と云つた。すると千代は直ぐ、
「男心と秋の空つてね」と云つた。
私はがつかりした。自分でも不快(いや)な顔をしたのが分つた。(新書版『志賀直哉全集』第三巻岩波書店昭和30年刊より引用。下線部は原文では傍点。以下同じ)
「姦淫する勿れ」の戒律に従うことも次第に億劫になっていたことも正直に告白されている。その挙句の結末は、「結局私は、此時から一年程して、此女とはつきり別れた。私をがつかりさせた言葉は本統になつた」。
これはなかなか面白い。男のしょうもなさがよく出ていて、笑える。志賀作品に時折見えるたくまざるユーモアの一例である。巧まないように見せて、実は作者には見えていたのかどうか、わからない。確実なのは、そんなことを明瞭にわからせる要はない、と思っていたことで、それこそが志賀直哉なのである。自己批評は、なくはないが、そんなに重きを置かないところが。
自分で自分を批評するには、自分の中にもう一つの目を持つことが必要だ。その視線を大幅に持ち込めば、その分作品世界は複雑になる。そんなの無駄だ、とする感性は、たぶん志賀風の私小説が成立するための要件の一つなのだろう。私などからはそれは、自己が新たな段階へと至る道の一つを塞ぐことだと見えてしまう、ということである。
小林秀雄を忘れたわけではない。たぶん志賀直哉を褒めるために書かれた以下の部分を咀嚼するために、私には必要な前提だったのだ。
花袋が、モオパッサンに、日常實生活の尊嚴を學んで以来、志賀直哉氏ほど、強烈に且つ堂々と己れの日常生活の藝術化を實行した人はない。氏ほど日常生活の理論がそのまゝ創作上の理論である私小説の道を潔癖に一途に辿つた作家はゐなかつた。氏が夢殿観音を前にして感慨に耽る時、氏の仕事は行く處まで行きついたのである。純化された日常生活は、嘗て孕んでゐたその危機や問題を解消してしまつた。氏は自分の實生活を相手には、もはや爲す事はない、爲す必要がない。(後略)
いまいち腑に落ちない。特に、「純化された日常生活」とはなんのことか。ああいう純化された作品を産み出すからには、日常生活も純化する必要があった、と? 芸道修業は即ち人間修行? そういう考えは、この時代の小林以外の評論文にも散見する。ある面ではそうなのだろう。と言って、私小説作家が修道僧のような生活を送ったわけではない。それでは小説にならない。むしろ真逆に近いことは、作品上にちゃんとある。
志賀は封建的な父親の横暴を心から憎んだのだが、その父との和解を描いた「和解」では、神経衰弱に苦しむ妻(武者小路實篤の従妹だから、名門の出)に対して怒鳴ったり突き飛ばしたり、けっこう横暴だったことが描かれている。こういうところでは志賀は、ありふれた明治の男だったと言うしかない。そこを誤魔化したのでは、私小説とは自分を偽るための絵空事に過ぎないことになってしまう。だから、書く。その上の反省は、あったとしても、余計だから、書かない。そういうことができるための訓練を、日々積んでいたのだろうか?
【もっとも、例えば「転生」(大正13年)のような説話風の小説は、志賀の夫婦関係への自己諷刺になっていると見えないこともない。そうだとしても、決して明らかにしないのは、上の通り。】
また、描かれた事件に関連する重大事をすべて漏らさず書いたわけでもない。「はつきり別れた」はずの千代と、向こうも結婚しているのに、また会おうとして、断られていることは、日記に書いていて、弟子の阿川弘之に暴かれている。それは「過去」の執筆時点では、もうはるか昔のことだ。しかし、書かない。書かない方が、小説がすっきりとまとまるのは、本当だろう。結果、「はつきり別れた」ほうは、やや嘘になるが、誰も不満には思わないだろう。所詮、「事実」と書かれたものは別なのである。
志賀直哉は昭和に入ってからは、「暗夜行路」後篇を断続的に発表し、12年に最終的に完結させた以外、目立った創作活動をしていない。それは「實生活をしやぶり盡した」からだと小林は言うが、単純に書くことがなくなったからだと考えて悪くないと思う。「暗夜行路」の最後や「城の崎にて」に述べられている死生一如の境地に達すれば――本当に達したのだとすれば――作品に己の名を冠すかどうかより、創作そのものに意味がなくなるのはわかる。が、それは「生活の探求」とは別の、どこからか訪れた「悟り」である。
志賀の実生活を描いた一連の作品が、そこまでの道程を描いているとは私には思えない。ただ、時代の一典型を刻んだものではある。それが読者に充分納得されるなら、「志賀直哉」という固有名はもはや重要ではない。そういうことではなかったろうか。
そこで改めて、日常生活の芸術化、とは何か。要するに、実際の生活上の出来事を文学作品にする以上の意味はなさそうだ。ただ、花鳥風月ではなく、平凡人の日常生活なんぞという生々しいものを題材に、「芸術」を仕立てるには、新たな手法は必要だったろう。そのために西洋文芸は大きな手がかりを与えた。
その時に副産物として生まれたのが、平凡とはつまり大多数ということであって、ここにこそ普遍があるのではないかという思いつきである。その中の実感(久米正雄は前掲文中で「腰据はり」と名付けている)を、真実と名付け、文芸で伝えるべきものの核心としてよいのではないか、と。この思想は日本人の伝統的な倫理観や美意識と無理なく両立するのだろう、すぐに納得され、広まった。おかげで、西洋近代文芸が根底に抱えていた日常生活に対する、ひいてはその中の「私」に対する懐疑は、素通りできたのである。
それは自然主義や志賀のような作家だけではなく、大正時代に従来の私小説に対して反抗の声を挙げた、白樺派や新感覚派なども同様であった。小林は言う。「これらの人々の反抗に共通した性格は、依然として創作行為の根底に日常經験に對する信頼があつた事だ。日常生活が創作に夢を供給する最大のものであつた事だ」。
大正末から昭和初期、このような日本の文学界を強烈な病原菌が襲った。マルクス主義である。白樺派の有島武郎など、これに感染する文人は多かった。「私小説論」は、それに対する処方箋の性格もある。
少し遡って見ておこう。西欧の文芸思潮の移入が前述のようなものであったのは、日本の現実にそれを容れる余地がなかったからだ。「思想が或る時は物質の樣に硬く、或る時は人間の様に柔らかく、時代の現實のうちに生きてゐる時、作家にとつて思想とは正當な敵でもあり友でもあるのだ」が、「文學自體に外から生き物の樣に働きかける社會化され組織化された思想の力といふ樣なものは當時【明治期】の作家等が夢にも考へなかつたものである」。しかし、マルクス主義は、
マルキシズム文學が輸入されるに至つて、作家等の日常生活に對する反抗ははじめて決定的なものとなつた。輸入されたのは文學的技法ではなく、社會的思想であつたといふ事は、言つて見れば當り前の事の樣だが、作家の個人的技法のうちに解消し難い絶對的な普遍的な姿で、思想といふものが文壇に輸入されたといふ事は、わが國近代小説が遭遇した新事件だつた(後略)
明治期に多くの文人が一度は通過したキリスト教にも、もちろん絶対の観念はあるが、決定的な影響はもたらさなかった。マルクス主義がそれより強力だったのは、彼岸の審判や救済ではなく、今・ここの現実中での善悪正邪の価値基準と、行動の指針を与えたからである。それによれば、志賀家のような資産家は、本人たちがどのようにふるまい、どう思っても、打倒されるべき悪なのだった。このような苛烈さは、古今東西、多くの人を、特に若者を、惹きつける。
これが文学にそのまま持ち込まれるとどういうことになるか、以前美津島ブログに掲載させていただいた「極私的福田恆存入門 その1(一匹にこだわる心)」に略記したので、そちらを見ていただきたい。ここでは、志賀直哉関連で、小林秀雄が直接触れていない事実を瞥見しておきたい。
上述の理想からすれば、ブルジョワの生活をして生活意識もブルジョワとしか言いようのない志賀などは、唾棄すべき者としか見えないはずだ。が、代表的なプロレタリア作家である小林多喜二は、志賀を崇拝していた。どうやら、プロレタリアートの目で現代社会とそれへの反抗を描こうした小林からして、描かれたもの(≒シニフィエ)と描いたもの(≒シニフィアン)が最も緊密に結びついているような志賀の文章は、理想だと思えたらしい。主題と手法の乖離が既にここに見られることは措く。
昭和6年、小林多喜二は奈良にいた志賀直哉を訪ね、一泊している。その時、「蟹工船」など既成の作品を三つばかり置いて、批評を請うたらしい。同年8月7日付の志賀から小林への手紙は、「主人持ちの文学」という言葉によって有名になっている。
それは要するに、イデオロギーや思想を前面に出した小説はつまらない、それが「主人」になり、文学的には不純になるから、というものだ。社会運動なり、できごとを描きたいなら、直接、記事(今なら、ルポ、だろう)でやればいいので、小説という形を取ったら、作者の血肉になったものが現れていないと、薄っぺらで弱くなる、と。前述した実感をこそ尊ぶ態度(丸山真男のいわゆる「実感信仰」)がここにも出ていることは見やすいだろう。
しかしプロレタリア文学は、「作者の血肉」=私、というのも、旧来のイデオロギーの産物に過ぎず、新たな、しかも正しい世界観を抱く「私」によって超克されるべきものだ、とするころに真骨頂があるはずだ。小林多喜二はそこのところで、あまり腰が据わっていなかったのかも知れない。もっとも、だからこそ彼の小説は、プロレタリア文学の中で唯一、今日でも読むに堪えるものになっている可能性もあるのだが。
いずれにしろ、ここでも結局「私」問題は棚上げにされてしまっている。いかなる「主人」も持たない、独立独歩の「私」がある根拠は、そう実感されるから、というところにしかない。しかも、社会的属性から離れた「私」は、儚いものであり、やがて消えゆく必然をも実感する、というような結末までつきまとう。一方、社会に絶対の正義があるとするなら、そこに仕えるだけが唯一の正しい道なのだから、それ以外の「私」は問題にならないことになってしまう。
ここはやっぱり「私」より「個人」という言葉を使ったほうがいいようだ。個人とは社会の産物であり、小林秀雄も使っているマルクス主義風の用語だと、歴史的な存在である。しかしその個人がまた、歴史を作る。そのダイナミズムの中の個人に焦点を当てるべきものが、近代文学だったはずなのだ。
問題は幾重にも錯綜している。個人の稀薄化は、何も文学だけの問題ではない。社会の平準化は、かつてはあると信じられていた性格やマナー(行動様式)の一貫性をどんどん曖昧なものにしていった。そのような人間は、「板に乗らない」、つまり文学で再現する手がかりも稀薄なのである。
「私小説論」の最後は、このような時代に創作することの困難をも作品化しようとしたジッドや横光利一の「純粋小説」論(もちろん両者は全く違っている)について述べているが、この実験は既に過去のものとなり、そうでなくても私自身が今興味がもてないので、それについては割愛する。
「私小説は亡びたが、人々は『私』を征服したらうか。私小説は又新しい形で現れて來るだらう。フロオベルの『マダム・ボヴァリイは私だ』といふ有名な圖式が亡びないかぎりは」というのが小林秀雄の最後のご託宣である。この真偽を判定する能力は私にはない。ただ、思うのは、文学が不要なぐらい人々が幸福になったなら、けっこうなことだが、どうもそうではない、ということだ。それなら現在の「私」のための新たな文学の需要はある。どこかからきっと現れるだろう、と期待はしている。
小林は日本近代文学を批判の対象にのみしているのではない。ある意味で最も日本的な、志賀直哉のことは尊敬している、と言う。このために「私小説論」の論旨はやや混乱しているように見えるのだ、と私には思える。
その第二回(初出時の題名は「續私小説論」)冒頭では、改造社『現代日本文學全集・志賀直哉集』に付けた自序の、以下の言葉が引用されている。
夢殿の救世(くぜ)観音を見てゐると、その作者といふやうなものは全く浮んで來ない。それは作者といふものから完全に遊離した存在となつてゐるからで、これは又格別な事である。文藝の上で若し私にそんな仕事でも出來ることがあったら、私は勿論それに自分の名などを冠せようなどとは思はないだらう。
これは昭和3年の文だが、その後昭和6年に同じ改造社から出た大版の『志賀直哉全集』序には次のようにある。「作者を離れ、一人歩きの出來る作品がこの中に幾つあるか知らない。然し若しあればそれらはそれら自身勝手に存在して貰ひたい、そんな気持ちだ。これは己惚れでもあり、冷淡でもある」。このような自惚れと冷淡さはカッコよくも見えるので、志賀を「小説の神様」にしたが、他面、傲慢さと見て、嫌う人も出てくる。
これと比較されるのはフロベールの潔癖である。彼も、芸術に作者名など不要、ということを理想とした人であった。小林の引用の出典を私は知らないのだが、モーパッサン「私生活のギュスターブ・フロベール」に同趣旨の次の言葉が見つかる。
「異人たる我々は」と、彼(フロベール)はよく言っていた。「我々は存在するべきではない。ただ我々の作品のみが存在するのだ」(足立和夫訳)
この言葉の裏には、志賀にも劣らぬ自負、あるいは倨傲がある。書簡中の以下の言葉が、『日本大百科全書』(小学館)の山田𣝣(じゃく)による解説に引用されている。「作家たるものは、自己の著作において、神が宇宙においてあるがごとく、いたるところに現前し、しかもいずこにも自らの姿を見せてはならぬ」。だから、「ボヴァリー夫人は私」なのであり、作品上の造形を通じて表現される以外の「私」を人目に曝すのはできるだけ避けるべき、ということになる。
これにさらに、かなり有名な「唯一の文体」の信念、「つまり一つの事物をその色合いとその強度の内に表現する唯一の仕方が存在する」(前出「私生活のギュスターブ・フロベール」)などの言葉を合わせて考えると、フロベールの抱く言葉への信頼の強さに圧倒される思いがする。言葉によって、自分のビジョンに映じた世界を完全に正確に表現できるはずだ、そうなれば言葉によって構築された世界はいわば小宇宙として、外界から独立して存在し得るはずだ。そう思えばこそ、実人生上の幸福を顧みず、創作に打ち込む日々を過ごすこともできたのだろう。
その確信には、宇宙の運動を単一の法則によって説明し得るとした実証科学の影響がありそうに思える。が、すべての前提として、言葉を操る主体たる「我」を建てようとする意欲の強さをここにはみるべきではないかと思う。綿密な取材と、殆ど偏執的とも言える推敲のため、作家生活の長さの割には少ないフロベールの作品は、眼前のブルジョワ社会だけでなく、古代史や、純然たる空想の世界まで取り扱っている。肝心なのは題材=外界ではなく、そこに文学としての秩序を与える作者の主観のほうなのである。創造がうまくいけば、その世界内の唯一絶対神として、もはや名を呼ばれる要もない主観が。
以上はもちろん一つの理想であって、フロベールの作品が高く評価されればそれだけ、「作者」もまた問題視されることになるのは避けられなかった。実際、サルトルの大著「家(うち)の馬鹿息子」などを含めて、彼は伝記的研究の対象にされることが最も多い作家の一人であろう。
それはともかく、我々日本人には、この理想自体がどうも理解し難いようだ。そこからすると、日本人は、「我」も「主体」もそれほど信頼するに足るものとはしていないことになる。もっとも、西洋でも、この信頼がそのままの強度で今日まで保たれているかと言えば、疑問の余地は多々ある。それでも日本人が、「自我を疑う」以前の段階に留まっているような観があることは、一応気にしてもよいことではないだろうか。
藝術が眞の意味で、別な人生の「創造」だとは、どうしても信じられない。そんな一時代前の、文學青年の誇張的至上感は、どうしても持てない。そして只私に取つては、藝術はたかが其人々の踏んで來た、一人生の「再現」としか考へられない。(「私小説と心境小説」)
「私小説論」の冒頭で、ルソー「コンフェッシオン」と並べて挙げられている久米正雄の一文である。それで久米は、「作り物」は、どんなにうまくできていても、「ほんもの」ではないから、信用がおけない。「戦争と平和」も「罪と罰」も「ボヴァリー夫人」も、「高級は高級だが、結局偉大なる通俗小説に過ぎない」と揚言する。
人の拵えたものは、究極的にはすべて「仮象」であり「偽物」であると見る心性。それは日本だけでなく、支那文藝まで含めた東洋の、伝統的なものなのかも知れない。しかし、それなら、「人々の踏んで來た、一人生」は確かにある、つまり「私」はある、そして、ある以上は表現し得る、と簡単に言えるのだろうか? それは人間の「創造力」への全き信頼と同程度のナイーブさではないだろうか?
そこで志賀直哉。彼もまた、作者名が不要となることをもって、芸術的完成の極致としたのだが、その行き方はフロベールとは全く違っている。そこに日本の私小説の特質を見ることができるはずだ。
大ざっぱに、自分の体験をかなり忠実に記したものを私小説と言うとすれば、志賀はたくさん書いているし、さらにある時の心境を主に述べた「心境小説」となると「城の崎にて」が代表作として挙げられる。私小説論では最も取り上げられるべき作家なのだが、面倒なことに、ふつう自然主義作家には分類されていない。白樺派なのだ。
面倒というのは、私小説とは自然主義文学のお家芸で、その自然主義は西洋の、特にフランスのnaturalismに範を仰いでいる、という近代日本文学史の常識があるからだ。それは小林秀雄も一応踏まえているが、さすがに賢くて、文学運動のレッテル貼りの問題なんぞには拘泥していない。愚かな私が、一瞥しておこう。
自然主義作家と志賀とは仲間になれない。第一に、前者の多くが貧乏で、それがウリの一つであったのに、彼は働かなくても食うに困らない名門の、資産家の出身だった。
さらに内容上の、決定的な違いがある。田山花袋を筆頭に、島崎藤村、岩野泡鳴、近松秋江など、自然主義作家の私小説及び私小説的な作品には、必ずくだくだしい詠嘆がある。それも、決まって女がらみで。志賀作品にはこれが、あってもごく少ない(「暗夜行路」前篇はやや例外)。もっと果断に行動している趣があって、そこが「男性的」な印象を与える。金に不自由しないことに加えて、けっこう女にモテたのではないかな。若い頃の写真を見ると、ちょっと内野聖陽に似た、男前だし。
最初に原稿料をもらった作品として知られている「大津順吉」は、仮名を使っているが、一人称で、私小説だと考えられる。主人公は、混血の娘の美しさに惹かれていたが、彼女は勝気な性格で、結婚相手とは考えられない。そのうち、女中(けっこう裕福な家の娘だが、庶民で、「行儀見習い」として大津=志賀家に奉公に来ていた。戦前にはよくあった例)の千代の存在が彼の中で大きくなる。気持ちを聞いてみると、向こうも順吉=直哉を想っているが、「身分違ひ」で、到底叶わぬ望みだから、諦めているとのこと。そんなことは問題ではないと、結婚の約束をして、一夜をともにする。彼の初体験だった。さて、家人に結婚のことを言い出すと、予想した通り、元々仲が悪かった父を初め、家中の反対に合う。
作中の事件は以上で終わりで、この恋の結末はなんら記されていない。しかし、非常に好評で、志賀の出世作になった。当時旧制中学生だった尾崎一雄は、『中央公論』誌でたまたま読んで、自分も父親と不仲だったので共感するとともに、「文章にも驚いた。かういふ文章には初めて出逢つた。描かれたことと、読む者との間に、邪魔ものが一つも無いと思つた」(阿川弘之『志賀直哉』上巻岩波書店平成6年刊より孫引き)。この評言は適切である。
志賀文学の魅力は、何よりもそのストレートさにある。余分なことはいっさい省いて、最小限の出来事と、それに対する作者=主人公の感情を、短い断定的な文章で綴っていく。感情は決して単純ではない。千代は、混血の娘などに比べれば大して美しくないことで、最初は逡巡されたことも書かれているし、終わり近く、家人との葛藤に苛立ち、物に当たりながら、なぜか可笑しくなって、哄笑するところなど、印象的だ。そこにも説明はなく、「そういうものだ」という感じで、ただ提出されている。おかげで読者は、余計なことを考えずに済む。
ここで敢えて余計なことを考えてみよう。この話の背景は、すぐわかるように、明治時代、タテマエ上は四民平等になっても、まだ残っていた「身分意識」である。これはなかなか強力で、ために頑迷な父はもちろん、平素は彼に同情的な祖母や母(継母であることはさりげなく触れられている)も、女中との結婚には結局は反対の立場になる。この大前提となる時代状況を、作者=主人公はどう思っているのか? 何も書かれていない。つまり、家人と現に衝突はしても、その根本まで目を届かせようとはしていない。
主人公が、つまり志賀が、キリスト者として有名なU先生(=内村鑑三)の講話を聴きに通っていたことは書かれている。入信するまでには至らなかったが、姦淫の戒めは覚えていて、従おうと思えばこそ、当人同士だけでも婚約してから情を通じたのだ。そのこだわりさえなければ、この時代、主人家の者が女中に手をつけるなど、珍しくもなかったろう。U先生の教えは大きかった、と一応言える。が、それ以上に、キリスト教は、彼の精神にとって何であり、何を与えたのか? などということにも、踏み込まれていない。
志賀や、志賀の愛読者に言わせれば、そんなのは観念的な話であって、地に足がつかないただの理屈なのだから、書いても面白くないし、「描かれたことと、読む者との間の、邪魔もの」にしかならない、ということだろうと思う。その通りではあるが、こちらもまた、地面にべっとりとくっついたつもりの、一つの理屈なのである。人間は理屈・観念なしで生きているわけではない。言葉の専門家である文学者には、言葉=観念によって、日常を超えた世界を切り開く、少なくともその可能性は垣間見せてもらいたいと思うのだが、日本文学でこの望みが満たされることはめったにない、というか、どうもお門違いであるようだ。
ところで上の事件の顛末は、ずっと後年の小説「過去」(大正15年、「大津順吉」は大正元年の作)に描かれている。「女と別れなければ、廃嫡(=勘当)する」と父が言うのに、それなら家を出る、と啖呵を切っても、自活する目途も決心もつかず、そのままずるずる家にいて、生活の面倒を見てもらうしかない。千代は実家にもどされる。手紙のやり取りは頻繁にして、時々は会いもするが、尋常小学校しか出ていない千代の無教養はやっぱり鼻につく。
私は千代から手紙を受け取ると、よく其返事で誤字や當字を直してゐたが、それと同じ子供らしい考から、機會があれば何でも教へようとした。
丁度日が沈みかけてゐたので、私は秋の日の早く入る事を、「秋の日は釣瓶落とし、といふ言葉がある」と云つた。すると千代は直ぐ、
「男心と秋の空つてね」と云つた。
私はがつかりした。自分でも不快(いや)な顔をしたのが分つた。(新書版『志賀直哉全集』第三巻岩波書店昭和30年刊より引用。下線部は原文では傍点。以下同じ)
「姦淫する勿れ」の戒律に従うことも次第に億劫になっていたことも正直に告白されている。その挙句の結末は、「結局私は、此時から一年程して、此女とはつきり別れた。私をがつかりさせた言葉は本統になつた」。
これはなかなか面白い。男のしょうもなさがよく出ていて、笑える。志賀作品に時折見えるたくまざるユーモアの一例である。巧まないように見せて、実は作者には見えていたのかどうか、わからない。確実なのは、そんなことを明瞭にわからせる要はない、と思っていたことで、それこそが志賀直哉なのである。自己批評は、なくはないが、そんなに重きを置かないところが。
自分で自分を批評するには、自分の中にもう一つの目を持つことが必要だ。その視線を大幅に持ち込めば、その分作品世界は複雑になる。そんなの無駄だ、とする感性は、たぶん志賀風の私小説が成立するための要件の一つなのだろう。私などからはそれは、自己が新たな段階へと至る道の一つを塞ぐことだと見えてしまう、ということである。
小林秀雄を忘れたわけではない。たぶん志賀直哉を褒めるために書かれた以下の部分を咀嚼するために、私には必要な前提だったのだ。
花袋が、モオパッサンに、日常實生活の尊嚴を學んで以来、志賀直哉氏ほど、強烈に且つ堂々と己れの日常生活の藝術化を實行した人はない。氏ほど日常生活の理論がそのまゝ創作上の理論である私小説の道を潔癖に一途に辿つた作家はゐなかつた。氏が夢殿観音を前にして感慨に耽る時、氏の仕事は行く處まで行きついたのである。純化された日常生活は、嘗て孕んでゐたその危機や問題を解消してしまつた。氏は自分の實生活を相手には、もはや爲す事はない、爲す必要がない。(後略)
いまいち腑に落ちない。特に、「純化された日常生活」とはなんのことか。ああいう純化された作品を産み出すからには、日常生活も純化する必要があった、と? 芸道修業は即ち人間修行? そういう考えは、この時代の小林以外の評論文にも散見する。ある面ではそうなのだろう。と言って、私小説作家が修道僧のような生活を送ったわけではない。それでは小説にならない。むしろ真逆に近いことは、作品上にちゃんとある。
志賀は封建的な父親の横暴を心から憎んだのだが、その父との和解を描いた「和解」では、神経衰弱に苦しむ妻(武者小路實篤の従妹だから、名門の出)に対して怒鳴ったり突き飛ばしたり、けっこう横暴だったことが描かれている。こういうところでは志賀は、ありふれた明治の男だったと言うしかない。そこを誤魔化したのでは、私小説とは自分を偽るための絵空事に過ぎないことになってしまう。だから、書く。その上の反省は、あったとしても、余計だから、書かない。そういうことができるための訓練を、日々積んでいたのだろうか?
【もっとも、例えば「転生」(大正13年)のような説話風の小説は、志賀の夫婦関係への自己諷刺になっていると見えないこともない。そうだとしても、決して明らかにしないのは、上の通り。】
また、描かれた事件に関連する重大事をすべて漏らさず書いたわけでもない。「はつきり別れた」はずの千代と、向こうも結婚しているのに、また会おうとして、断られていることは、日記に書いていて、弟子の阿川弘之に暴かれている。それは「過去」の執筆時点では、もうはるか昔のことだ。しかし、書かない。書かない方が、小説がすっきりとまとまるのは、本当だろう。結果、「はつきり別れた」ほうは、やや嘘になるが、誰も不満には思わないだろう。所詮、「事実」と書かれたものは別なのである。
志賀直哉は昭和に入ってからは、「暗夜行路」後篇を断続的に発表し、12年に最終的に完結させた以外、目立った創作活動をしていない。それは「實生活をしやぶり盡した」からだと小林は言うが、単純に書くことがなくなったからだと考えて悪くないと思う。「暗夜行路」の最後や「城の崎にて」に述べられている死生一如の境地に達すれば――本当に達したのだとすれば――作品に己の名を冠すかどうかより、創作そのものに意味がなくなるのはわかる。が、それは「生活の探求」とは別の、どこからか訪れた「悟り」である。
志賀の実生活を描いた一連の作品が、そこまでの道程を描いているとは私には思えない。ただ、時代の一典型を刻んだものではある。それが読者に充分納得されるなら、「志賀直哉」という固有名はもはや重要ではない。そういうことではなかったろうか。
そこで改めて、日常生活の芸術化、とは何か。要するに、実際の生活上の出来事を文学作品にする以上の意味はなさそうだ。ただ、花鳥風月ではなく、平凡人の日常生活なんぞという生々しいものを題材に、「芸術」を仕立てるには、新たな手法は必要だったろう。そのために西洋文芸は大きな手がかりを与えた。
その時に副産物として生まれたのが、平凡とはつまり大多数ということであって、ここにこそ普遍があるのではないかという思いつきである。その中の実感(久米正雄は前掲文中で「腰据はり」と名付けている)を、真実と名付け、文芸で伝えるべきものの核心としてよいのではないか、と。この思想は日本人の伝統的な倫理観や美意識と無理なく両立するのだろう、すぐに納得され、広まった。おかげで、西洋近代文芸が根底に抱えていた日常生活に対する、ひいてはその中の「私」に対する懐疑は、素通りできたのである。
それは自然主義や志賀のような作家だけではなく、大正時代に従来の私小説に対して反抗の声を挙げた、白樺派や新感覚派なども同様であった。小林は言う。「これらの人々の反抗に共通した性格は、依然として創作行為の根底に日常經験に對する信頼があつた事だ。日常生活が創作に夢を供給する最大のものであつた事だ」。
大正末から昭和初期、このような日本の文学界を強烈な病原菌が襲った。マルクス主義である。白樺派の有島武郎など、これに感染する文人は多かった。「私小説論」は、それに対する処方箋の性格もある。
少し遡って見ておこう。西欧の文芸思潮の移入が前述のようなものであったのは、日本の現実にそれを容れる余地がなかったからだ。「思想が或る時は物質の樣に硬く、或る時は人間の様に柔らかく、時代の現實のうちに生きてゐる時、作家にとつて思想とは正當な敵でもあり友でもあるのだ」が、「文學自體に外から生き物の樣に働きかける社會化され組織化された思想の力といふ樣なものは當時【明治期】の作家等が夢にも考へなかつたものである」。しかし、マルクス主義は、
マルキシズム文學が輸入されるに至つて、作家等の日常生活に對する反抗ははじめて決定的なものとなつた。輸入されたのは文學的技法ではなく、社會的思想であつたといふ事は、言つて見れば當り前の事の樣だが、作家の個人的技法のうちに解消し難い絶對的な普遍的な姿で、思想といふものが文壇に輸入されたといふ事は、わが國近代小説が遭遇した新事件だつた(後略)
明治期に多くの文人が一度は通過したキリスト教にも、もちろん絶対の観念はあるが、決定的な影響はもたらさなかった。マルクス主義がそれより強力だったのは、彼岸の審判や救済ではなく、今・ここの現実中での善悪正邪の価値基準と、行動の指針を与えたからである。それによれば、志賀家のような資産家は、本人たちがどのようにふるまい、どう思っても、打倒されるべき悪なのだった。このような苛烈さは、古今東西、多くの人を、特に若者を、惹きつける。
これが文学にそのまま持ち込まれるとどういうことになるか、以前美津島ブログに掲載させていただいた「極私的福田恆存入門 その1(一匹にこだわる心)」に略記したので、そちらを見ていただきたい。ここでは、志賀直哉関連で、小林秀雄が直接触れていない事実を瞥見しておきたい。
上述の理想からすれば、ブルジョワの生活をして生活意識もブルジョワとしか言いようのない志賀などは、唾棄すべき者としか見えないはずだ。が、代表的なプロレタリア作家である小林多喜二は、志賀を崇拝していた。どうやら、プロレタリアートの目で現代社会とそれへの反抗を描こうした小林からして、描かれたもの(≒シニフィエ)と描いたもの(≒シニフィアン)が最も緊密に結びついているような志賀の文章は、理想だと思えたらしい。主題と手法の乖離が既にここに見られることは措く。
昭和6年、小林多喜二は奈良にいた志賀直哉を訪ね、一泊している。その時、「蟹工船」など既成の作品を三つばかり置いて、批評を請うたらしい。同年8月7日付の志賀から小林への手紙は、「主人持ちの文学」という言葉によって有名になっている。
それは要するに、イデオロギーや思想を前面に出した小説はつまらない、それが「主人」になり、文学的には不純になるから、というものだ。社会運動なり、できごとを描きたいなら、直接、記事(今なら、ルポ、だろう)でやればいいので、小説という形を取ったら、作者の血肉になったものが現れていないと、薄っぺらで弱くなる、と。前述した実感をこそ尊ぶ態度(丸山真男のいわゆる「実感信仰」)がここにも出ていることは見やすいだろう。
しかしプロレタリア文学は、「作者の血肉」=私、というのも、旧来のイデオロギーの産物に過ぎず、新たな、しかも正しい世界観を抱く「私」によって超克されるべきものだ、とするころに真骨頂があるはずだ。小林多喜二はそこのところで、あまり腰が据わっていなかったのかも知れない。もっとも、だからこそ彼の小説は、プロレタリア文学の中で唯一、今日でも読むに堪えるものになっている可能性もあるのだが。
いずれにしろ、ここでも結局「私」問題は棚上げにされてしまっている。いかなる「主人」も持たない、独立独歩の「私」がある根拠は、そう実感されるから、というところにしかない。しかも、社会的属性から離れた「私」は、儚いものであり、やがて消えゆく必然をも実感する、というような結末までつきまとう。一方、社会に絶対の正義があるとするなら、そこに仕えるだけが唯一の正しい道なのだから、それ以外の「私」は問題にならないことになってしまう。
ここはやっぱり「私」より「個人」という言葉を使ったほうがいいようだ。個人とは社会の産物であり、小林秀雄も使っているマルクス主義風の用語だと、歴史的な存在である。しかしその個人がまた、歴史を作る。そのダイナミズムの中の個人に焦点を当てるべきものが、近代文学だったはずなのだ。
問題は幾重にも錯綜している。個人の稀薄化は、何も文学だけの問題ではない。社会の平準化は、かつてはあると信じられていた性格やマナー(行動様式)の一貫性をどんどん曖昧なものにしていった。そのような人間は、「板に乗らない」、つまり文学で再現する手がかりも稀薄なのである。
「私小説論」の最後は、このような時代に創作することの困難をも作品化しようとしたジッドや横光利一の「純粋小説」論(もちろん両者は全く違っている)について述べているが、この実験は既に過去のものとなり、そうでなくても私自身が今興味がもてないので、それについては割愛する。
「私小説は亡びたが、人々は『私』を征服したらうか。私小説は又新しい形で現れて來るだらう。フロオベルの『マダム・ボヴァリイは私だ』といふ有名な圖式が亡びないかぎりは」というのが小林秀雄の最後のご託宣である。この真偽を判定する能力は私にはない。ただ、思うのは、文学が不要なぐらい人々が幸福になったなら、けっこうなことだが、どうもそうではない、ということだ。それなら現在の「私」のための新たな文学の需要はある。どこかからきっと現れるだろう、と期待はしている。