メインテキスト:小寺やす子文・野口よしみ絵『いじめ撃退マニュアル だれも書かなかった(学校交渉法)』(情報センター出版局平成6年)
報道によると、文科省がいじめ対策のための新組織を設置することに決めたそうだ。これまで文科省は、いじめ事件が大きく報道されると、「通達」という紙切れを学校に配布して終わりだったのだから、この点で一歩前進としてよいだろうか。平野文科大臣は、「報告を受け、『後は現場でやってください』という受け身ではなく、実働部隊、支援チームを文科省の中に作る」(『讀賣新聞』7月23日)と言っているそうだから、思わず期待しそうになるが、果たしてどうか。
記事には、この新組織は、「いじめに関する専門的な指導・助言を行う」ものだともある。文科省としては、これがせいぜいだろうと思えてしまう。だとすると、余計なものになる可能性が高い。
指導・助言もけっこうだが、「命の大切さ」だの「心のケア」なんて一般論をいくら言われたってしょうがない。今必要なのは、個々のいじめ事案に対して具体的に取り組むための人員なのだ。さらに言えば、彼らは、学校や各教育委員会の、この場合の問題解決能力なんてたかが知れていることはもうはっきりしたのだから、必要があるなら、いじめ当事者(加害者と被害者双方)と直接接触して、解決を図ることができたほうがよい。それを一省中の一部署にすべて集めるなんて、できない話だろう。最低限でも、都道府県毎に「新組織」が置かれねばならない、とまず思う。
それから、いじめの専門家、というものがこの世にいるのだろうか? いわゆる教育学の範囲では、この言葉さえ登場しない。発達心理学も同様。そんな「学」の範囲内にあることではないのである。ここを思い違いしてもらっては困る。
我々が今緊急に取り組まねばならないいじめ問題とは、加害者と被害者がいるれっきとした刑事事件なのだ。それに関して、学校一般の解決能力が乏しいのは、実は、単純に当たり前の話でしかない。「学校のリアルに応じて その4」で書いたように、日本で支配的な教育学では、子どもは「善なるもの」とみなされている。刑事事件の被疑者のように扱うことは、表向き許されていない、どころか、そういう事態は想定されてもない。だから、教師は、その手段を与えられてもいないし、そういう場合に必要な訓練を受けてもいない。
これまでよく出あった反論に答えよう。「でも、いじめを解決できる先生だっているんですよ」。はい、いるんでしょう。でも、百万人からいる教師の全員に出来るわけはないですよね? もしそうなら、今のような問題は起きていないんですから。
それは教師が手抜きをしているからだ、というのが一般の見方のようである。そういう場合もあるだろう。今後の話をすすめるためにも特筆大書きしておかねばならないのだが、教師は教室内の秩序を維持する第一の責任者なのであり、どういう場合でも責任を逃れられるはずはない。それは認めたうえで、しかし教師がどんなにがんばっても、限界はもう見えている、と言っているのだ。今なお、教師を非難して溜飲を下げるだけで能事足れり、とするのは、結局いじめには直接関係ない人であって、いじめの被害者にとっては、事態が少しもよくならないとしたら、なんにもならないのだから、他の手段が考えられるべきなのである。
「そんなことはないだろう」とおっしゃるなら、こちらからたずねよう。あなたの知人間で争いが生じたとする。あなたが仲介に入って、どんな時でも必ず解決できると言い切れますか? 言い切れる、という人でも、それができる人はそんなに多くはないことには同意していただけるんじゃないですか?
さらに、大人同士の争いなら仕方ないが、子ども同士ならなんとかやれるだろう、とおっしゃる方。あなたは結局子どもをナメてるんです。これ以上私から申し上げられる言葉はありません。
いや、もう一つあった。「教育」の範囲で、いじめをやめさせることが絶対不可能だとまでは申しません。でも、まさか、いじめている子を指導して、必ず、明日から、やめさせられるとまでは思わないでしょうね? ねばり強い説得が必要だ。それはどれくらいかかりますか? 1ヶ月? 半年? いくらかかろうと、やれ、それが教師の務めだろう、ということは甘受しましょう。でも、教師はいいとして、その1ヶ月だか半年の間、いじめられている子は我慢しなくちゃいけないんですか? そんな義理がどこにあります?
要するに、不当にいじめられている子は、一刻も早く救済しなくてはならない。それがすべてに優先する。そのためには、「教育」では、少なくとも「教育」だけでは、ダメなのだ。そろそろこれぐらいは、この国に住むすべての人の共通認識にならなくちゃいけないんじゃないかなあ。
上のことを念頭に置いた場合、いじめについて本当に役に立つ本は、管見の限りでは小寺やす子のものしかない。とうに絶版だが、アマゾンなどで古本を注文すれば手に入る。我が子がいじめにあって苦しんでいる父母の方に勧めるものとしては、これ以上はない。
いじめにどう対処するか。これはもう戦いになる。どう戦うか? 日本は法治国家なのだから、法(的なものを含む)を使うに如くはない。そのためには、
(1)いじめの証拠になるものは、保存しておく。破られた衣服やノートなどの現物、怪我をさせられた場合には診断書、机や黒板に悪口を書かれたような場合には写真を撮っておく。言葉によるいじめの場合には、ICレコーダーに録音するのもよい。
(2)いじめに関する詳細な記録をつける。何月何日、何時頃に、どういういじめがあったか。日時は重要なポイントになるので、忘れずに。
記録について、もっと重要な注意もある。いじめられてどんなに悔しかったか、などのウラミツラミは書かないこと。そういうのは他人にとってはただの愚痴。うるさいだけ。必要なのはただ「事実」のみ。
要するに、裁判になっても十分に使えるものを用意しておけ、ということである。しかし小寺は、裁判にせよ、と言っているわけではない。よく知られているように、それには金も手間も膨大にかかる。これだけのものを用意して、まず交渉すべき相手は、学校の担任教師。それで埒が開かなければ学年主任。さらには教頭・校長などの管理職。さらには教育委員会、までは小寺の視野に入っている。それで、「学校交渉術」なのだ。もちろん、そこまでいってもまだダメなら、いよいよ出るところへ出るぞ、というカードを用意した上での交渉であり、そのためにも上記の二つが使える。ただ、出るところへ出ないですむなら、それにこしたことはない、とは明らかに考えられている。
やや私事に渉るが、私はほんの少し小寺さんと議論したことがある。『いじめ撃退マニュアル』が出た年だから、もう十八年前になる。小寺さんはその二年前に出た拙著『学校はいかに語られたか』を読んでくださっていて、また私が御著に好意を持っていることを聞き及んで、夜中に電話をくれたのだ。「あなた(由紀)はもうちょっと読みやすさと、読者サービスを考えたほうがいいわね。そうすればもっと本が売れるわよ」などのアドバイスをいただき、ありがたかったのだが、一時間近く話をしているうちに、「いじめに関して、教師に何ができるか」のポイントにさしかかったところで、対立が生じた。
私の意見は、その当時も上に述べたようなものだった。小寺さんは、「私の夫は博士です。教師にもプロの技(わざ)を見せてもらえなくちゃ困りますよ」。
う~ん、小寺さんのご夫君が何博士なのかは存じ上げないが、ある種のいじめを解決するってのは、ある種の博士になるよりずっと難しいんですが…。
ただ、小寺さんがこうおっしゃる気持ちもわからないではない。証拠がそろっていれば、侮辱罪、傷害罪、などで警察に訴えることはできる。しかし、相手が子どもなのでは、なまなかなことでは警察もはかばかしく動かないだろうと予想されるし、前に言ったように、裁判にするのはたいへんだ。現在大津市の事件で現にそうなっているように、加害者側の親と直接争うのも好ましくない。親ならば、子どものためにかなりのムチャクチャなことをやっても言っても、しかたないと同情される、あるいは、されるはずだという思い込みが、日本社会にあるから、泥沼のような争いが延々と続くことになりがちである。
この点、学校を相手にしたほうがずっとすっきりしている。何しろ、教師は、いかなる反論も許されない、あるいは、許されないはずだという思い込みもある。まず、いじめが生じたということ自体が教師の手落ちだ。そのいじめに気がつかなかったとすればするで、気がついていても解決できなかったとすればするで、やっぱり重大な手落ちとして非難される。そして、どういう非難でも、正当だと見なされがちなのだ。
敢えて言う。こんなことなら、いじめはできるだけないことにしたい、隠したい、という気持ちになるのは、平凡な人間としては無理からぬところではないだろうか。そういう同情もいっさいしてもらえない立場の者は、ひたすらいじけるしかないのではないか。そう、いじめられっ子がそうなりがちなように。このへんまで想像力を働かせてください、というのは、学校外の人には無理な注文だろうか?
まあ、いい。小寺さんは御自身の体験から本を書いたので、学校と交渉するだけで、なんとかいじめを解消できた、そういう実績はある。校長以下の教師集団が本気になって取り組めば、かなりのことができる。再び言うが、それは否定しない。しかし、百パーセントと思ってはならない、と申し上げている。
いじめをやめさせるために、学校はいったいどれくらいのことができるのか。教師には懲戒権はある。具体的な内容はどんなものか、文科省が出したガイドライン中最新のものとしては平成十九年の「問題行動を起こす児童生徒に対する指導について(通知)」があるので、ご覧いただきたい。
体罰に関しては、従来よりはやや緩やかになり、有形力(暴力及びそれに近い行為を指す法律用語)はどんなものでも許されない、とはされないが、殴るなど、生徒に明白な肉体的な苦痛を与えるものはダメ、というのは変わらない。それ以外だと、別紙の(5)に書いてあるもの。これを見て、どう思いますか?
例えば、「放課後等に教室に残留させる」。いわゆる居残りですな。学生時分、これをくらった、という人は多いだろう。それで、尋ねたいのですが、先生から、「今日の放課後、教室へ残りなさい」と言われても、「塾がありますから」とかなんとか言って、あるいは、何も言わないで、帰ってしまった場合、どうなると思いますか?
どうにもなりはしない。本当ですよ。教師にできることは、せいぜい、親に電話して、「こういうことでは困りますから、ちゃんと言われたとおりにするように、~君に言っていただけませんか」などと告げるぐらい。その時、親から、「居残りなんて、なんでさせるんですか。必要ないじゃないですか」とか、「すみません、私が言ってもあの子はききませんから」とか言われたら、もう手段はない。これは、話のうえのことではない。今の学校で実際に起こっていることなのです。これが最前から申し上げている、「学校の限界」なんです。
関連して申し上げておく。以前にも言及した「少年犯罪データベース」などを見れば明らかなように、昔に比べて今のほうが、いじめの件数が増えたとか、手口が陰湿化している、というようなことは特にない。時代による変化は、「いじめをちゃんと解決しろ」と公然と要求する人が増えたことと、しかし特に義務教育段階の学校は、児童に対する権力はほとんどない、その認識が、直接的間接的に世間に広まり、やがて児童にも広まったところこそ、最も大きいのである。
こんなていたらくで、いじめを必ず解決できる、なんてわけないでしょう? さればとて、実際的な権力、例えば、こんな生徒にはすぐに出席停止を命じることができるまでの権限を、教師に持たせてもいいでしょうか? 私の感じでは、それに賛成する人はそんなに多くはないようだ。それなら、残る手段は、いじめなどについては専一に取り扱うための機関を、学校外に設けることしかない。
それについて、ヒントは夏木智からもらったのだが、その後私が考えてきた具体案を略述しよう。この機関は、捜査の権限は持たなければならない。が、もちろん警察とは違う。いじめに限定して言えば、学校だけで解決できるのと、司法に訴えるのと、その中間の役割を果たす。被害者から訴えがあり、学校だけではどうにもならないと判断されたときには、事実関係をできるだけ詳細に調べて、教育委員会へ報告する。報告を見て、必要なら、実際に処分をくだすのは、現行では教育委員会しかない。早い話が、義務教育年限中の児童生徒への処分として最高のものは、上に述べた出席停止がある(高等学校の謹慎処分だと考えてよい)が、これを申し渡せるのは、学校長ではなく(高校の謹慎処分は学校長が決定できる)教育委員会である。これについては「学校のリアルに応じて その5」で詳述した。
つけ加えると、これも最近のニュースで、大阪府教育委員会が「いじめを繰り返す児童・生徒に対し、出席停止制度の積極適用を検討していることが19日、分かった」(『MSN産経ニュース』7月20日)というのがあった。わざわざ検討しなければならないぐらい、この適応例は、少なくとも公にされているものは、全国的に少ない。「文部科学省によると、平成22年度は、小学校での適用例はなく、中学校は51件。教師への暴力や授業妨害への適用が大半で、いじめが理由だったのは6件」。因みに、大阪府では近年一例もない。
前述の「問題行動を起こす児童生徒に対する指導について(通知)」には、「いじめや暴力行為など問題行動を繰り返す児童生徒に対し、正常な教育環境を回復するため必要と認める場合には、市町村教育委員会は、出席停止制度の措置を採ることをためらわずに検討する」とあるのだが、しかし、実際に検討して、実行して、それが問題にされたら、文科省が味方してくれるかどうか、極めて怪しい。だから、ためらう教育委員会が多いとしても、文科省にはこの点では責める資格はない。
思い切ってこれをやれば、いじめが根絶できるとまでは言わない。しかし、「いじめではなく、ただのふざけっこ」と加害者側の親が言うのが珍しくない事態では、ものものしく調べるだけでも、いかに重大な問題であるか、内外に知らせる効果はある。また、加害者側にとっても、裁判になって、マスコミに騒がれ、家族ぐるみ実名・住所・写真までネット上に公開されるような最近の「制裁」を受けるよりはまだマシだろうと考えられる。
今まで教育委員会がなかなか出席停止処分にまで踏み切れなかったもう一つの理由は、事実関係の調査が、学校だけでは難しかったこともある。だからこそ、調査のための専門機関が必要なのである。調査対象は生徒だけではなく、問題のある教師も入る(その処分もまた、教育委員会の管轄)としたら、より広い支持を得られるのではないだろうか。
ただし、そもそもの大前提として、こういうことがうまく運ぶためには、現行の教育委員会ではとうていダメじゃないか、何しろ、通常は月に二、三度集まるぐらいの、教育行政のお飾りである場合が大半なのだから、と、事情に通じている人ならすぐに思いつくだろう。さよう、まず、教育委員会の改革から始めなければならないので、実現までにかなりの手間だが、考えるべき値打ちはある。
いじめがマスコミで話題になっているときに限ってもの申すのは、教師としてはむしろ謹むべきかとも思ったが、言論を出すタイミングは確かにある。微力はもとより承知の上で、一人でも多くの人に読んでもらい、考えてもらうほうがいいに決まっているのだから。
今後は、文科省内の「新組織」の具体案が八月には出る予定らしいので、それを見て、言うべきことがあったら、申します。
報道によると、文科省がいじめ対策のための新組織を設置することに決めたそうだ。これまで文科省は、いじめ事件が大きく報道されると、「通達」という紙切れを学校に配布して終わりだったのだから、この点で一歩前進としてよいだろうか。平野文科大臣は、「報告を受け、『後は現場でやってください』という受け身ではなく、実働部隊、支援チームを文科省の中に作る」(『讀賣新聞』7月23日)と言っているそうだから、思わず期待しそうになるが、果たしてどうか。
記事には、この新組織は、「いじめに関する専門的な指導・助言を行う」ものだともある。文科省としては、これがせいぜいだろうと思えてしまう。だとすると、余計なものになる可能性が高い。
指導・助言もけっこうだが、「命の大切さ」だの「心のケア」なんて一般論をいくら言われたってしょうがない。今必要なのは、個々のいじめ事案に対して具体的に取り組むための人員なのだ。さらに言えば、彼らは、学校や各教育委員会の、この場合の問題解決能力なんてたかが知れていることはもうはっきりしたのだから、必要があるなら、いじめ当事者(加害者と被害者双方)と直接接触して、解決を図ることができたほうがよい。それを一省中の一部署にすべて集めるなんて、できない話だろう。最低限でも、都道府県毎に「新組織」が置かれねばならない、とまず思う。
それから、いじめの専門家、というものがこの世にいるのだろうか? いわゆる教育学の範囲では、この言葉さえ登場しない。発達心理学も同様。そんな「学」の範囲内にあることではないのである。ここを思い違いしてもらっては困る。
我々が今緊急に取り組まねばならないいじめ問題とは、加害者と被害者がいるれっきとした刑事事件なのだ。それに関して、学校一般の解決能力が乏しいのは、実は、単純に当たり前の話でしかない。「学校のリアルに応じて その4」で書いたように、日本で支配的な教育学では、子どもは「善なるもの」とみなされている。刑事事件の被疑者のように扱うことは、表向き許されていない、どころか、そういう事態は想定されてもない。だから、教師は、その手段を与えられてもいないし、そういう場合に必要な訓練を受けてもいない。
これまでよく出あった反論に答えよう。「でも、いじめを解決できる先生だっているんですよ」。はい、いるんでしょう。でも、百万人からいる教師の全員に出来るわけはないですよね? もしそうなら、今のような問題は起きていないんですから。
それは教師が手抜きをしているからだ、というのが一般の見方のようである。そういう場合もあるだろう。今後の話をすすめるためにも特筆大書きしておかねばならないのだが、教師は教室内の秩序を維持する第一の責任者なのであり、どういう場合でも責任を逃れられるはずはない。それは認めたうえで、しかし教師がどんなにがんばっても、限界はもう見えている、と言っているのだ。今なお、教師を非難して溜飲を下げるだけで能事足れり、とするのは、結局いじめには直接関係ない人であって、いじめの被害者にとっては、事態が少しもよくならないとしたら、なんにもならないのだから、他の手段が考えられるべきなのである。
「そんなことはないだろう」とおっしゃるなら、こちらからたずねよう。あなたの知人間で争いが生じたとする。あなたが仲介に入って、どんな時でも必ず解決できると言い切れますか? 言い切れる、という人でも、それができる人はそんなに多くはないことには同意していただけるんじゃないですか?
さらに、大人同士の争いなら仕方ないが、子ども同士ならなんとかやれるだろう、とおっしゃる方。あなたは結局子どもをナメてるんです。これ以上私から申し上げられる言葉はありません。
いや、もう一つあった。「教育」の範囲で、いじめをやめさせることが絶対不可能だとまでは申しません。でも、まさか、いじめている子を指導して、必ず、明日から、やめさせられるとまでは思わないでしょうね? ねばり強い説得が必要だ。それはどれくらいかかりますか? 1ヶ月? 半年? いくらかかろうと、やれ、それが教師の務めだろう、ということは甘受しましょう。でも、教師はいいとして、その1ヶ月だか半年の間、いじめられている子は我慢しなくちゃいけないんですか? そんな義理がどこにあります?
要するに、不当にいじめられている子は、一刻も早く救済しなくてはならない。それがすべてに優先する。そのためには、「教育」では、少なくとも「教育」だけでは、ダメなのだ。そろそろこれぐらいは、この国に住むすべての人の共通認識にならなくちゃいけないんじゃないかなあ。
上のことを念頭に置いた場合、いじめについて本当に役に立つ本は、管見の限りでは小寺やす子のものしかない。とうに絶版だが、アマゾンなどで古本を注文すれば手に入る。我が子がいじめにあって苦しんでいる父母の方に勧めるものとしては、これ以上はない。
いじめにどう対処するか。これはもう戦いになる。どう戦うか? 日本は法治国家なのだから、法(的なものを含む)を使うに如くはない。そのためには、
(1)いじめの証拠になるものは、保存しておく。破られた衣服やノートなどの現物、怪我をさせられた場合には診断書、机や黒板に悪口を書かれたような場合には写真を撮っておく。言葉によるいじめの場合には、ICレコーダーに録音するのもよい。
(2)いじめに関する詳細な記録をつける。何月何日、何時頃に、どういういじめがあったか。日時は重要なポイントになるので、忘れずに。
記録について、もっと重要な注意もある。いじめられてどんなに悔しかったか、などのウラミツラミは書かないこと。そういうのは他人にとってはただの愚痴。うるさいだけ。必要なのはただ「事実」のみ。
要するに、裁判になっても十分に使えるものを用意しておけ、ということである。しかし小寺は、裁判にせよ、と言っているわけではない。よく知られているように、それには金も手間も膨大にかかる。これだけのものを用意して、まず交渉すべき相手は、学校の担任教師。それで埒が開かなければ学年主任。さらには教頭・校長などの管理職。さらには教育委員会、までは小寺の視野に入っている。それで、「学校交渉術」なのだ。もちろん、そこまでいってもまだダメなら、いよいよ出るところへ出るぞ、というカードを用意した上での交渉であり、そのためにも上記の二つが使える。ただ、出るところへ出ないですむなら、それにこしたことはない、とは明らかに考えられている。
やや私事に渉るが、私はほんの少し小寺さんと議論したことがある。『いじめ撃退マニュアル』が出た年だから、もう十八年前になる。小寺さんはその二年前に出た拙著『学校はいかに語られたか』を読んでくださっていて、また私が御著に好意を持っていることを聞き及んで、夜中に電話をくれたのだ。「あなた(由紀)はもうちょっと読みやすさと、読者サービスを考えたほうがいいわね。そうすればもっと本が売れるわよ」などのアドバイスをいただき、ありがたかったのだが、一時間近く話をしているうちに、「いじめに関して、教師に何ができるか」のポイントにさしかかったところで、対立が生じた。
私の意見は、その当時も上に述べたようなものだった。小寺さんは、「私の夫は博士です。教師にもプロの技(わざ)を見せてもらえなくちゃ困りますよ」。
う~ん、小寺さんのご夫君が何博士なのかは存じ上げないが、ある種のいじめを解決するってのは、ある種の博士になるよりずっと難しいんですが…。
ただ、小寺さんがこうおっしゃる気持ちもわからないではない。証拠がそろっていれば、侮辱罪、傷害罪、などで警察に訴えることはできる。しかし、相手が子どもなのでは、なまなかなことでは警察もはかばかしく動かないだろうと予想されるし、前に言ったように、裁判にするのはたいへんだ。現在大津市の事件で現にそうなっているように、加害者側の親と直接争うのも好ましくない。親ならば、子どものためにかなりのムチャクチャなことをやっても言っても、しかたないと同情される、あるいは、されるはずだという思い込みが、日本社会にあるから、泥沼のような争いが延々と続くことになりがちである。
この点、学校を相手にしたほうがずっとすっきりしている。何しろ、教師は、いかなる反論も許されない、あるいは、許されないはずだという思い込みもある。まず、いじめが生じたということ自体が教師の手落ちだ。そのいじめに気がつかなかったとすればするで、気がついていても解決できなかったとすればするで、やっぱり重大な手落ちとして非難される。そして、どういう非難でも、正当だと見なされがちなのだ。
敢えて言う。こんなことなら、いじめはできるだけないことにしたい、隠したい、という気持ちになるのは、平凡な人間としては無理からぬところではないだろうか。そういう同情もいっさいしてもらえない立場の者は、ひたすらいじけるしかないのではないか。そう、いじめられっ子がそうなりがちなように。このへんまで想像力を働かせてください、というのは、学校外の人には無理な注文だろうか?
まあ、いい。小寺さんは御自身の体験から本を書いたので、学校と交渉するだけで、なんとかいじめを解消できた、そういう実績はある。校長以下の教師集団が本気になって取り組めば、かなりのことができる。再び言うが、それは否定しない。しかし、百パーセントと思ってはならない、と申し上げている。
いじめをやめさせるために、学校はいったいどれくらいのことができるのか。教師には懲戒権はある。具体的な内容はどんなものか、文科省が出したガイドライン中最新のものとしては平成十九年の「問題行動を起こす児童生徒に対する指導について(通知)」があるので、ご覧いただきたい。
体罰に関しては、従来よりはやや緩やかになり、有形力(暴力及びそれに近い行為を指す法律用語)はどんなものでも許されない、とはされないが、殴るなど、生徒に明白な肉体的な苦痛を与えるものはダメ、というのは変わらない。それ以外だと、別紙の(5)に書いてあるもの。これを見て、どう思いますか?
例えば、「放課後等に教室に残留させる」。いわゆる居残りですな。学生時分、これをくらった、という人は多いだろう。それで、尋ねたいのですが、先生から、「今日の放課後、教室へ残りなさい」と言われても、「塾がありますから」とかなんとか言って、あるいは、何も言わないで、帰ってしまった場合、どうなると思いますか?
どうにもなりはしない。本当ですよ。教師にできることは、せいぜい、親に電話して、「こういうことでは困りますから、ちゃんと言われたとおりにするように、~君に言っていただけませんか」などと告げるぐらい。その時、親から、「居残りなんて、なんでさせるんですか。必要ないじゃないですか」とか、「すみません、私が言ってもあの子はききませんから」とか言われたら、もう手段はない。これは、話のうえのことではない。今の学校で実際に起こっていることなのです。これが最前から申し上げている、「学校の限界」なんです。
関連して申し上げておく。以前にも言及した「少年犯罪データベース」などを見れば明らかなように、昔に比べて今のほうが、いじめの件数が増えたとか、手口が陰湿化している、というようなことは特にない。時代による変化は、「いじめをちゃんと解決しろ」と公然と要求する人が増えたことと、しかし特に義務教育段階の学校は、児童に対する権力はほとんどない、その認識が、直接的間接的に世間に広まり、やがて児童にも広まったところこそ、最も大きいのである。
こんなていたらくで、いじめを必ず解決できる、なんてわけないでしょう? さればとて、実際的な権力、例えば、こんな生徒にはすぐに出席停止を命じることができるまでの権限を、教師に持たせてもいいでしょうか? 私の感じでは、それに賛成する人はそんなに多くはないようだ。それなら、残る手段は、いじめなどについては専一に取り扱うための機関を、学校外に設けることしかない。
それについて、ヒントは夏木智からもらったのだが、その後私が考えてきた具体案を略述しよう。この機関は、捜査の権限は持たなければならない。が、もちろん警察とは違う。いじめに限定して言えば、学校だけで解決できるのと、司法に訴えるのと、その中間の役割を果たす。被害者から訴えがあり、学校だけではどうにもならないと判断されたときには、事実関係をできるだけ詳細に調べて、教育委員会へ報告する。報告を見て、必要なら、実際に処分をくだすのは、現行では教育委員会しかない。早い話が、義務教育年限中の児童生徒への処分として最高のものは、上に述べた出席停止がある(高等学校の謹慎処分だと考えてよい)が、これを申し渡せるのは、学校長ではなく(高校の謹慎処分は学校長が決定できる)教育委員会である。これについては「学校のリアルに応じて その5」で詳述した。
つけ加えると、これも最近のニュースで、大阪府教育委員会が「いじめを繰り返す児童・生徒に対し、出席停止制度の積極適用を検討していることが19日、分かった」(『MSN産経ニュース』7月20日)というのがあった。わざわざ検討しなければならないぐらい、この適応例は、少なくとも公にされているものは、全国的に少ない。「文部科学省によると、平成22年度は、小学校での適用例はなく、中学校は51件。教師への暴力や授業妨害への適用が大半で、いじめが理由だったのは6件」。因みに、大阪府では近年一例もない。
前述の「問題行動を起こす児童生徒に対する指導について(通知)」には、「いじめや暴力行為など問題行動を繰り返す児童生徒に対し、正常な教育環境を回復するため必要と認める場合には、市町村教育委員会は、出席停止制度の措置を採ることをためらわずに検討する」とあるのだが、しかし、実際に検討して、実行して、それが問題にされたら、文科省が味方してくれるかどうか、極めて怪しい。だから、ためらう教育委員会が多いとしても、文科省にはこの点では責める資格はない。
思い切ってこれをやれば、いじめが根絶できるとまでは言わない。しかし、「いじめではなく、ただのふざけっこ」と加害者側の親が言うのが珍しくない事態では、ものものしく調べるだけでも、いかに重大な問題であるか、内外に知らせる効果はある。また、加害者側にとっても、裁判になって、マスコミに騒がれ、家族ぐるみ実名・住所・写真までネット上に公開されるような最近の「制裁」を受けるよりはまだマシだろうと考えられる。
今まで教育委員会がなかなか出席停止処分にまで踏み切れなかったもう一つの理由は、事実関係の調査が、学校だけでは難しかったこともある。だからこそ、調査のための専門機関が必要なのである。調査対象は生徒だけではなく、問題のある教師も入る(その処分もまた、教育委員会の管轄)としたら、より広い支持を得られるのではないだろうか。
ただし、そもそもの大前提として、こういうことがうまく運ぶためには、現行の教育委員会ではとうていダメじゃないか、何しろ、通常は月に二、三度集まるぐらいの、教育行政のお飾りである場合が大半なのだから、と、事情に通じている人ならすぐに思いつくだろう。さよう、まず、教育委員会の改革から始めなければならないので、実現までにかなりの手間だが、考えるべき値打ちはある。
いじめがマスコミで話題になっているときに限ってもの申すのは、教師としてはむしろ謹むべきかとも思ったが、言論を出すタイミングは確かにある。微力はもとより承知の上で、一人でも多くの人に読んでもらい、考えてもらうほうがいいに決まっているのだから。
今後は、文科省内の「新組織」の具体案が八月には出る予定らしいので、それを見て、言うべきことがあったら、申します。