野村芳太郎監督「拝啓天皇陛下様」(昭和38年)
メインテキスト:戸部良一『日本の近代9 逆説の軍隊』(中央公論社平成10年)
サブテキスト:ロジェ・カイヨワ、秋枝茂夫訳『戦争論 われわれのうちにひそむ女神ベローナ』(原著の出版年は1963年、法政大学出版局昭和49年)
チャイナでの戦いから対米戦争に至る日本の歩みをいろいろな角度から見る前に、軍隊というものについてあらためておさらいしておこう。軍隊とは、近代の鬼っ子などではない。近代そのものなのだ。もちろん、近代的な軍隊は、だが。
ロジェ・カイヨワは、「国家の起源に戦争がある」という、多くの歴史家が容認している説は「早計」としながらも、そうなりがちな事情には理解を示している。暴力は権力を実際的にも理念的にも基礎づけるのは明らかだから。
私的な暴力の横行は人間社会を破壊する。そこで、ある強力な者・集団に暴力の管理を委ねる。つまり、彼が秩序を守るために揮う暴力を正当とし、それ以外はすべて不当として、禁ずる。有効に禁ずるためには、より強い暴力が必要になる。あらゆる労働がそうであるように、破壊のための労働力であっても、組織化されているほうがより効率的で強力になる。そして、言うまでもなく、暴力のために組織された集団、それこそが軍隊である。
マックス・ウェーバーの有名な定義「国家とは、ある一定の領域内部で、正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体」(「職業としての政治」)が思い出されるだろうし、カイヨワも明らかにこれを意識している。逆に言えば、ある者が「正当な物理的実力行使の独占」に成功したとき、その「領域」は国家と呼ばれ得るものになるのだし、失敗したら、それは国家とは別のアナーキー(無秩序)な状態となる。
現在でも南米などには、ギャングが私的に強力な戦力を備え、公的な正規の軍隊とガチンコでぶつかった場合、どちらが勝つかわからない、という状態の場合があるようだが、それでは少なくとも安定した国家とは呼べない。因みに、20世紀初頭の、初期の国民党政府下のチャイナでも、軍閥と呼ばれる私的武装集団が多数跋扈し、チャイナが近代的統一国家になることを妨げていた。
しかし上は必要条件ではあっても十分条件ではない。暴力の独占・正当化はできても、それだけでは国家ができるわけではない。何より、「宗教的信仰」は顧慮されなくてはならない、とカイヨワは言う。
この「信仰」は必ずしも超越的な絶対者についてのものではない。国民間の紐帯を、軍事的・経済的な必要性以上のものにする、たいていはある種の共通了解事項、「共通の過去」「共通の文化・文明(その中心は言葉)」を信頼する、これがなければ国家という巨大組織は保たれない。
「信仰」というのは、この了解事項が多くの場合中心に科学的には証明不可能な要素(「ゲルマン民族は偉大だ」など)を含んでいるし、従って他所からその価値が認められるとは限らないからだ。時代が経つにつれてこの信仰が薄れることはあるが、逆にそれへの反発から、積極的に保ち守らねばならないという姿勢も生じる。
先回りして結論的なことを言ってしまうと、後者もまた軍隊によって担われている・担われるべきだ、とされるようになるとき、往々にして非常にやっかいなことになる。
ヨーロッパに限定すると、5c~15c頃の中世期は比較的平和な時代だった、と言える。農耕が文明の中心で、人口増加がゆるやかな時期にあっては、さほど広い土地は必要ないので、領土拡張欲といういわゆる帝国主義時代の戦争の、実際的な最大の動機は弱かった(遊牧民によるモンゴル帝国は残虐行為を行いつつ領土を拡張していった)。軍事力の正当化に成功した王侯貴族は、むしろ名誉のために戦った。それはいわゆる決闘の拡大版であり、高い身分に必須とされる儀礼の下に、厳かに行われた。
一般庶民はといえば、支配されているから無理矢理駆り出されたか、金で雇われた傭兵が大部分で、命がけで戦う義理など感じていなかった。戦局が剣呑になれば、すぐに逃げ出した。マキャベリ「君主論」に記されている、合計二万の軍勢が四時間戦いながら、戦死者は一人だけ、それも落馬した時の怪我がもと、という例は有名である。
ヨーロッパに近代が到来するとともに戦争の性格が変わった。いわゆる下部構造としては、工業化が進み産業も進展して、生産のためにも消費のためにも多くの土地と人間が必要と考えられた。兵器も進歩し、銃火器が一般的になると、軍は騎馬兵から歩兵が主力となり、戦争のためにさほど特殊な技能は必要とされなくなった。最後に上部構造の精神面で、ナショナリズムが前面に出て来て、戦争は膨大な犠牲を出す過酷なものになっていく。
徴兵制がフランス革命の産物であることはよく知られている。革命が自国に飛び火することを恐れたヨーロッパの諸王国は連合してフランスを攻撃した。フランスの国民公会は、これに対抗するために、様々な曲折の後、1793年に「国民総動員令(または、「国民総徴兵法」)」を成立させ、18歳から25歳までの国内青年男子全員を動員し、百万人規模の軍隊を作った。
この年には国王ルイ十四世と王妃マリー・アントワネットが処刑され、貴族階級は完全に無力になっていた。国を守る者は民衆しかいない。ここに、自国を防衛する権利と義務を背負った「国民」が誕生したのである。
しかし一方で、徴兵を訓練したり実戦時に指揮したりする、専門職としての軍人の必要も改めて感じられた。フランスを包囲した各国を、民兵を中心とした軍で打ち破り、革命を最終的に収束して、ついにはフランスの新たな皇帝にまでのぼりつめたのが軍人出身(家系は一応貴族)のナポレオン・ポナバルトである。そこで、徴兵を前提とした上での職業軍人による常備軍もできて、それは民主制の進展とともにヨーロッパ中に広がり、近代国家の中枢の一つと考えられるようになった。
日本は明治維新による開国時(明治元年、1868年)で、武士は士族と名前が変わったが、約百万人、全人口の三パーセント強を占めていたといわれる。戊辰戦争の時点で武器は皇軍・幕府軍とも、旧式の火縄銃から連発が可能で射程距離もずっと長いライフル銃になっており(もちろん欧米からの輸入品)、アームストロング砲などの大砲も威力を発揮していて、歩兵中心のものだった。
近代戦争と言ってもおかしくないのだが、兵士の精神が決定的に違っていた。彼らの脳裏には国家はなく、幕府や各藩主に仕える、言わば私兵であった。明治新政府は、まずここをなんとかしなければならなかった。
明治5年の徴兵令とそれに先立つ「徴兵告諭」については本ブログで以前に触れた。ここでは武士階級そのものが否定され、国民全体が等しく「皇国の民」として、一朝ことあらば等しく国のために尽くすべきことが謳われている。
この宣言が実のあるものになるためにはもちろん長い道のりを要した。とは言え、他のアジア・アフリカ諸国に比べたら驚異的なスピードで実現したと言える。兵器や輸送・通信手段の発達など、ハード面以外のことを述べると。
明治初めに激発した軍事事件・佐賀の乱に萩の乱、台湾出兵に各地の農民暴動などでは、まだ士族と名を変えた旧武士に頼るところが多く、最大の騒乱である西南戦争(明治10年)時で、徴兵による鎮台兵(各地方の軍事拠点である鎮台にいる兵士)と近衛兵(首都東京の兵士)だけでは足りず、五万数千の政府軍のうち半分近くが巡査として募集された者を含む士族兵だった。とは言えこの時の徴兵、ことに近衛砲兵の活躍は目覚ましく、民兵の力を広く知らしめる機会にはなった。
西南戦争鎮圧後の副産物とも言えそうなのが翌年の竹橋事件。近衛砲兵竹橋大隊を中心とした叛乱兵二百名余りが蜂起、途中で他の部隊に属する兵士の合流があり、東京市内の各所で小競り合いを繰り返し、最終的には三百人余りが当時仮御所のあった赤坂離宮で天皇に強訴しようとしたが、翌日には鎮圧された。動機は、西南戦争の論功行賞に関する不満だった。前述のように砲兵は最大の戦功を挙げたのに、行賞は将校クラスから順次なされていたので遅れたし、戦乱による財政難で兵士の給与は減額されていた(ただし最下級の歩兵は除外)。
これには逆の見方もできる。江戸時代の武士は、扶持米という給与をもらって生活しているという意味で、一種のサラリーマンではあったが、藩の財政逼迫によってそれが減らされたからという理由で叛乱を起こす、ということはまず考えられなかった。彼らはエリートだという意識が自他にあったからである。「武士は食わねど高楊枝」というわけで。
近衛兵は、鎮台兵に比べれば、「強壮にして行状正しき者」が選ばれる、という意味ではエリートだが、身分秩序そのものがなくなった社会では、特殊な公務員に過ぎない。それに、強訴というやり方そのものが、江戸時代からこの頃までずっと続いていた農民のものだった。新政府樹立から十年ほどで、日本の正規の戦闘集団に、このような意識変容が生じていたのである。
そんな彼らを制御するにはどうしたらいいか。これが即ち軍の綱紀粛正、略して軍紀の問題であり、大東亜戦争の敗北に至るまで、日本の政治的・軍事的指導者たちを悩まし続けることになる。
ここで少し抽象的に、軍隊が日本の近代化に果たした効果をまとめておこう。それがざっと二つ考えられる。
(1)上に述べたところから具体的に窺える身分制度の撤廃。四民平等は明治の初めからのスローガンであったが、それを事実として確立し、世に知らしめるためには、国民皆兵が一番だったことは、フランス革命時と変わらない。
社会内での階級・階層に関わらず、戦場では、従ってそのための訓練の場でも、指揮官の命令一下、兵は兵として動くのでなければ、近代戦争はできない。このような実際上の必要は、常に、「平等が大切」だというような高尚な言説より、はるかに強力に社会を動かす。
(2)軍隊は、近代に必要な時間感覚を与えた。
農耕は明るいうちに働いて暗くなってから休むのが基本だから、その間の時を刻む必要はあまりない。もっとも、日の出・日の入りを基本にした不定時法は室町時代からあったらしい。これは昼と夜をそれぞれ六分割したもので、今風に言うと約二時間を一刻(いっこく・いっとき)と呼び、当然季節によってその長さは違ってくる。
時計は江戸時代半ば過ぎからごく少数の特権階級の持ち物になっただけで、それ以外の人が時刻を知るのは寺から聞こえてくる鐘の数だった。それも寺僧たちの感覚に応じて鳴らしていたのである。分刻みのスケジュールなどというものは、全くなかった。
それをもたらしたのが軍隊の、訓練なのである。何時に起床して何時に就寝、食事は何時何分から、射撃訓練は……という具合に一日の時間が人工的に配分され、訓練期間中はこれに従って生活せねばならない。
このようにして、「決められた時間に決められた場所で決められたことをやる」という産業社会の勤め人のエートスがそれこそ身体感覚として刻み込まれ、徴兵制を通じて、学校教育(時間の使い方の点では、軍隊によく似ている)以前に国民間に浸透していった。これこそ近代社会成立のための必須な要件であることは言うまでもない。
元にもどろう。上記は軍隊が近代化に果たした大きな貢献ではあるが、あまり意識されることはない。それは言わば副産物であって、軍隊の正面の役割はあくまでも暴力の管理であった。繰り返すと、国内の安寧秩序を保つためには、最強の暴力集団がいる。それができたとき、次に重くのしかかってくる課題は、この暴力集団をいかに管理していくか、である。
精神的な訓戒として、明治5年、軍人の日常の心得を示した陸軍読法、海軍読法が出、さらに竹橋事件直後に当時の陸軍卿山縣有朋から達せられた軍人訓誡(ぐんじんくんかい)があるが、決定版は明治15年の「軍人勅諭」(正式名称は「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」)であった。
その長い前文中にはこうある。
夫兵馬の大權は朕か統ふる所なれは其司々をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親之を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす(データベース「世界と日本」から引用)
つまり、軍はあくまで天皇に直属し、その命にだけ従うべきもので、その大枠の中にある限り、臣下(政治家や軍の司令官)の命令も有効になる、ということ。こういう文書にはありがちのように、卒読すれば、天皇が主権者である限り、当り前のことを言っているに過ぎないようであるが、改めてこれが出てくる背景があった。
明治十年代から盛んになった自由民権運動の高まりは、やがて、日本が憲法制定、国会開設、政党政治へと至ることを予想させた。いや、とっくに、明治維新のスローガンの一つとして「四民平等」を掲げたときからそうなることはわかっていたろうとは言えるが、それが具体的になってきたのである。
そうであっても、山縣たちの目から見れば政党とはあくまで私党であり、それが政権を担っても、司々(つかさつかさ。各省庁)の一つに過ぎない、いや、そうあるべきだった。であれば、そんな者が国内最強の暴力集団を自由に使ってよいわけはない。
これは政府の高官だけの心配ではなかった。「軍人勅諭」と同じ明治15年に出た「帝室論」で、福澤諭吉は以下のように論じている。
爰(ここ)に恐る可きは、政黨の一方が兵力に依頼して兵士が之に左袒するの一事なり。國會の政黨に兵力を貸すときは其危害實に言ふ可らず。假令(たと)ひ全國人心の多數を得たる政黨にても、其議員が議場に在るときに一小隊の兵を以て之を解散し又捕縛すること甚だ易し。(中略)斯る事の次第なれば、今この軍人の心を收攬して其運動を制せんとするには、必ずしも帝室に依頼せざるを得ざるなり。帝室は遙に政治社會の外に在り。軍人は唯この帝室を目的にして運動するのみ。帝室は偏なく黨なく、政黨の孰(いず)れを捨てず又孰れをも援(たす)けず。軍人も亦これに同じ。固(もと)より今の軍人なれば陸海軍卿の命に從て進退す可きは無論なれども、卿は唯其形體を支配して其外面の進退を司るのみ。内部の精神を制して其心を收攬するの引力は、獨り帝室の中心に在て存するものと知る可し。(青空文庫より引用。( )内の読み仮名は引用者)
これは即ち、期せずして、だと思うが、軍人勅諭の精神を敷衍したものと見られるだろう。軍事力は個々の政事政略から切り離されたより高い段階で行使されねばならない、ということだが、それはつまり、軍は時の政府を超えた存在なのだから、常に必ずしもその命令に服さなくてもよい、という論理を呼び込む。「統帥権(軍を指揮する権限)の独立」というやつで、現実に、昭和期になってから大きな問題になっていったことはよく知られている。
これをさらに徹底し、またそこからくる弊害を防止するために、軍人の政治不関与が考えられた。制度としては、普通選挙実施後も、軍人には、応集で 兵役についいる場合も含めて、選挙権も被選挙権も与えられていないところに現れている。
また、これは現在悪名のほうが高いが、大日本帝國憲法(明治23年施行)の第十一条から十三条まで、軍事に関しては「陸海軍ノ編制及常備兵額」(第十二条)から「戦ヲ宣シ和ヲ講」(第十三条)ずる、つまり戦争を始めるのも終えるのも、すべて天皇がやることになっていて、他の公的機関との関係が記されておらず、したがって軍は政府から独立した機関だと読めてしまうのも、もともとはこの配慮からだったのである。
心得としては、「軍人勅諭」には、五箇条にわたって述べられている徳目の第一「忠節(軍人は忠節を盡すを本分とすへし)の中に、ごく簡単に、軍人は「世論に惑はす政治に拘らす」とあるだけである。
これについては明治11年の「軍人訓誡」のほうがやや詳しい。そこには「朝政を是非し、憲法を私議し、官省等の布告諸規を譏刺(きし。批判すること)する等の挙動は軍人の本文と相背馳する事」(戸部著から孫引き)だと言われている。ただこれも、「喋喋論弁を逞うし、動(やや)もすれば時事に慷慨し、民権などと唱え」ることはいけない、とも言われているところからすると、直接警戒していたのは自由民権運動であることがわかる。
だとしても、軍が政治に容喙することは禁じられていたには違いないではないか、と思われる。しかしこの禁則はしばしば、簡単に破られた。その時の論理は上に述べた通り、時々の政策(ただし、軍縮については、政府がそれを決めるのは憲法十二条違反だと言われた)はともかく、大日本帝国の根幹に関するところは、「訓誡」や「勅諭」が言う「政治」とは違い、天皇と直接繋がっている軍が積極的に関与してもよいことだ、ということ。
そんなふうに思って実際に過激な行動に走るのはやはり若者たちではあった。竹橋事件以来だと、五・一五事件はやや近いが、完全に軍の叛乱と言っていいのは二・二六事件(昭和11年)で、その実行者の青年将校たちは、自分たちこそ天皇の真意に即したことをしているのだから、正しい、と思い込んでいた。
これを直ちに討伐すべし、とした昭和天皇は正しい。動機はなんであれ、軍は統制違反こそ最も恐れなければならない。なんの規範も枷もなく、自分勝手に動き回る暴力装置ほど怖い物はこの世にない。帝國陸海軍の大元帥として、綱紀の粛正こそ第一、と考えるのは当然のことであった。
さらにこの後の、日本軍の暴走と呼ばれるものは、また少し様相が違ってくる。今後このシリーズで、この検証も一つの大きな柱として、個々の歴史を振り返ってみよう。