広瀬爽彩さんの描いた絵。Twitterより
メインテキスト:文春オンライン特集班(文中「特集班」と略記する)編著『娘の遺体は凍っていた 旭川女子中学生イジメ凍死事件』(文芸春秋社令和3年)
旭川の女子中学生いじめ凍死事件は、最近NHKの「クローズアップ現代」(令和3年11月9日)とTBSの「報道特集」(同27日)で採り上げられたが、他の地上波TVなどではほとんど見かけない。盛り上がっているのはYoutubeやTwitter、FacebookなどのいわゆるSNS上でだから、ネット世界に疎い人は、全く知らない場合もある。火をつけたのは「文春オンライン」(第一回は令和3年4月15日)だということもあるのかも知れない。
ただ、大手マスコミがこの件に及び腰である理由はほぼ見当がつく。北九州連続監禁殺人事件や尼崎連続殺人事件と同じくあまりにも陰惨だし、あからさまに下半身がらみ。それでいて関係者には小学生もいる。被害者側ではなく、加害者側に。ただその場にいて、見ていただけにしても。性的暴行の加害者として、小学生を描いたものは、小説でさえ、アガタ・クリストフ「悪童日記」に一応あるが、それ以外には私には思いつかない。まして、ノンフィクションとなると、顔を背けたくなる人が多いと予想される。ならば、商品としてのニュース・バリューには問題あり、ということになる。
逆に、噂話のレベルで盛り上がるネット上では、恰好のネタになる。中には、無関係な人間が加害者として実名や住所が晒されたり、反社会的団体の関与の疑いがあるなどと、陰謀論めいた書き込みもある。そういうのは別としても、現在進行中の不明なところもかなりあり、また、ある種の遠慮から、敢えて言わずにすましている部分もあるようだ。
遠慮とは、上に書いたような、「子ども」に関することである。子どもは純粋無垢な存在だと、何人の人が本気で思っているかは知らないが、その思いはあることにしようという合意は、どうもあるようなので、敢えて傷つける必要はあるまい。それに第一、なんといっても子どもには、大きな社会的影響力があるわけでもなし、黙っていた方がいいだろう、と。そこで、非難の言葉の八割方は、公的な立場にあるにもかかわらず、事態にちゃんと対処しなかった大人たち、つまり学校教師や教育委員会に向けられる。
私もそれに倣うべきなのかも知れない。しかし、「敢えて触れずにおく」領域に、いわゆる教育現場にいるか否かを問わず、我々が今後直面しなければならない現実があるようにも思える。そこで、文春オンラインの記事を加筆構成した『娘の遺体は凍っていた』に書かれている事実(これにもまちがいはない、とまでは断定できない)から、推測も交えて、事件ついて省察を試みる。固有名詞のアルファベット表記は、同書による。
令和元年4月、廣瀬爽彩さんが中学校に入学して間もなく、それは始まった。
きっかけは、放課後、塾へ行く前に過ごした児童公園で、同じ学校の中三のA子と知り合って、いっしょに過ごすようになってからだった。やがてA子の友だちのB男とC男がその場に加わる。
C男は他の三人とは別の中学だったが、6月3日、次のようなラインメールを爽彩さんに送ったことが分かっている。「裸の動画送って」「写真でもいい」「お願いお願い」「(送らないと)ゴムなしでやるから」。これで爽彩さんは結局、向こうが望むような画像を送っている。
C男の最後の言葉から、この時までに爽彩さんはレイプされていた、と考えてまずまちがいない。いや、それより前、ゴールデン・ウィークに、B男らから、夜中の4時にラインで呼び出され、行こうとするのを母親はなんとか止めたが、爽彩さんはひどく脅えた様子だったという。中学に入って1ヶ月経つか経たぬかのうちに、決定的なことが起きていたのだ。
それにしても、この脅え方はなんだろう。女子中学生とは言え、レイプを含めた暴力だけで、ここまで言いなりになるものだろうか。どうも、「弱味を握られていた」気配がする。それは何か。
現時点ではそれはやっぱり、恥ずかしい動画・画像であったろうと思える。たぶん、レイプ、その時の、あるいはその直後の、とか。ネット上で拡散されたりしたら、特に思春期の少女にとっては、この世に居場所がなくなるような、死ぬしかないような感じになるもの。
そこで一度言いなりになると、ドツボに嵌まることになる。加害者側は、より強い刺激を求めて、要求をエスカレートしていく。「裸の動画」を送れ、とは、以前に自分たちが撮ったのとは別の姿態の、という意味であったろう。やがて、オナニーの動画、さらに彼らが見ている前での実行、へと進む。
A子は、最初は爽彩さんに同情し、味方のような顔をしていたが、実はC男に、送られてきた画像を自分にも共有させることを要求し、受け取っている。現在、彼女こそ主犯だったろうと言われている。すべては最初から仕組まれた罠だったのか。そうかも知れない。それにしても、中学生が、と思う人も多いだろう。
上のようなストーリー、つまり、無理矢理かこっそりとか、恥ずかしい動画・画像を撮って、それをネタに脅して、支配して、ますます恥ずかしいことをさせる、という筋のDVDなどは、少しも珍しくない。それも、かなり前から、小中学生の手の届くところに、ある。郵便受けに入っている、その種の商品の宣伝ビラを見たことはありませんか? これはもう古いか。パソコンはなくてもスマホがあれば、ネットで、それこそいくらでも見つかるのだから。
それでも、さすがに、このストーリーを真似て、実践しよう、なんて者はごく少数である。しかし、ごく稀には、ある。それも、軽いノリで、悪意は、あっても、ニヤニヤ笑いに包んで、「悪ふざけ」の遊びとして。実はこれが、一番怖いところなのだ。
A子は、保護者同伴で、特集班のインタビューに応えている。爽彩さんとは「友達」だったと言うが、彼女が死んだことについては「正直、何も思ってなかった」。公園で、皆の前でオナニーをやらされたことは、イジメとは思わなかったか? 「うーん?」。その場のノリのようなものだった? 「うんうんうん」。
「死ぬから画像を消して下さい」と爽彩さんに哀願されて、「死ぬ気もねぇのに死にたいとかいうなよ」と言ったことは認めた。「周りに小学生いるのに死にたい死にたいとか、死ぬ死ぬとか言ってて、どうせ死なないのに次の日またあそこの公園に現れてたから、小学生にはそういうのはダメでしょ? と思って言ったんです」。教育的配慮(別に皮肉ではない)からの言葉だった、というわけだ。
もう一つ印象的だったのは、A子がこの一連の行為の首謀者だったのではないか、と問われたときの、母親とのやりとりだ。
「いやだって、そもそも、こんな子に命令されて誰が言うことを聞くのって話じゃないですか」
「おい!」(A子)
「うち同級生だったら別に(言うことを聞かない)……」(A子の母親)
ごまかそうとしているのか? そうであっても、TVで女芸人たちが毎日やっている軽いツッコミ。この雰囲気がすべてを支配していたろう。学校もまた。
爽彩さんの母からイジメの調査を依頼された当時の担任は(実名が出ている)、「あの子たち(A子ら)おバカだからイジメなどないですよ」「今日は彼氏とデートなので、相談は明日でもいいですか」などと応えた。デートは事実でも、もっともらしい口実をこしらえることもできたろうに。その程度の深刻さも感じていなかったということだ。後に、調査は、やるにはやったが、爽彩さんが、「A子には言わないでくれ」と頼んだのに、A子の担任教師に伝えたので、そこからA子にもすぐ伝わったという杜撰さ。
弁護するつもりはないが、A子たちを見ると、「おバカ」で、ヤンチャではあっても、イジメなんて大それたことがやれるか? 「悪ふざけ」がせいぜいじゃないか? と思えたのだろう。たぶらかされていた? いや、むしろ、確かにすべてが、「悪ふざけ」の「遊び」だったのだ。それで一人の少女が死ぬまで追い詰められたとしても。だって、そのほうが、スリリングで、面白い遊びになるじゃないか!
大人には何ができるだろうか。
同年6月22日、小学生を含めた十人ほどに囲まれた爽彩さんは、A子から「死ぬ気もないのに……」と言われ、ついに川に飛び込んだ。この時は事前に中学校に助けを求める連絡をしていたので、駆けつけた教師に救い出された。警察も来た。残っていた子ども達は、「この子はお母さんから虐待を受けて」いたから自殺を図ったのだと警官に言ったので、母親が病院へ付き添うことは拒否された。それは嘘だとわかるまでに、グループ内で共有していた証拠になるメッセージや、猥褻な画像は消去していたが、警察は復元できる。その場にいた全員が取り調べられた。爽彩さんに対する加害行為は、この時もうほぼ全容が明らかになっていたのである。
しかし、十四歳以下の者には刑事罰は問えない。家裁に送致することはできるが、例えばC男を児童ポルノを製造した廉で訴追しようとしても、販売したわけではなく、言わば中途半端だ。その他、暴行、脅迫、強制猥褻、どれをとっても立件するにはいまいち決め手に欠ける、と思われた。結果、全員が「厳重注意」の処分で済んだ。
被害者からすれば、これだけのことをやりながら、結局野放しにされたのと同じだと見えたろう。つまり、法律も自分を守ってくれないのだ、と絶望を深める要因になったろう。加害者たちはと言えば、もちろん反省などしなかった。猥褻動画・画像は、 グループの一人がバックアップをとっていて、また共有し、爽彩さんが転校してもなお、脅しの材料にし続けた。その挙句、爽彩さんはPTSDとなり、ほとんど登校できず、令和3年2月13日に突然家を出て、約1ヶ月後、雪の下で、凍った姿で発見された。
今、非難の的になっている学校は? 加害者の「処分」ということに関して、警察以上のことができるわけはない。学校は「指導」をする場所なのだ、と、A子たちの学校の元校長は、特集班によるインタビュー中で、何度も言っている。同校では令和元年9月11日に爽彩さん母娘と、加害者側の生徒と保護者を呼んで「謝罪の会」を開いているが、その場に弁護士が同席することは、校長は拒否する方針だった。「教育機関のあるべき姿じゃない」と。「弁護士がいるなんて子どもからしたらどれだけ厳しい状況だと思います?」とも。
爽彩さんが転校した先の学校での「謝罪の会」では、最初から弁護士同席を認めているし、こちらの学校も結局はそうしている。その後のことを考えたら、弁護士がいることなど、保護者はともかく、中学生には、「厳しい状況」と感じられたわけではないようだ。それにしても、なぜ「厳しい」のはいけない? 答えは決まっている。「学校は教育的指導の場だから」。
「10人の加害者の未来と、1人の被害者の未来、どっちが大切ですか。10人ですよ。1人のために10人の未来をつぶしていいんですか」という、多くの憤激を招いている同校教頭の言葉はどうだろう。けっこう「教育的」ではないだろうか? 「何人いようが、こんなひどいことをするやつらの未来なんて、考えていられるか」と言ったら、今なら共感してくれる人はいるだろうが、この事件が明らかになる前でも、あなたは認めますか? 考えてみていただきたい。
学校の事なかれ主義は否定しない。いじめ事件が起きたこと自体で、その学校の不名誉になるから、なるべく外部には隠したい心理は確かにある。上の校長と教頭の言葉は、そのための都合のいい隠れ蓑、口実になっているのはそうだ。つまり、子どもなら、たとえ何をしても守るべきだという「教育はかくあるべき論」は、抽象的なお題目なので、そんなふうにも使われ得る。教育に関心がある人なら、多少は心得ておいてもいいだろう。
だいたい、「教育」では、このような事件は解決できない。人格の力だけで子どもを正しく教え導ける偉大な教師は、絶対にいないとは言わないが、それをすべての教師に期待するなんて、およそ非現実的だ、ぐらいは、納得していただけませんか?
なぜなら、これは「いじめ」なんてものではない。犯罪だ、それもかなり凶悪な。と言って、加害者たちが特に極悪人だと言いたいわけではない。すべての子どもが、大人もそうであるように、天使でも悪魔でもない、人間なのだ。人間は、ごく普通に育ちさえすれば、「これはやってはいけない」という最低の倫理観は身につくのだが、何かけのきっかけでそれがなかったり、無くしたりする場合がある。その人が一人で生きているなら、じっくり教え諭して、つまり教育しようとするのもよいが、他者に危害を加える場合には。罰で脅して、やめさせるしかない。それは大人でも子どもでも、基本的に変わらないのである。
以上は、大人なら心得ておくべき常識の一つだと思う。これを考慮に入れた上で、今後、子どもに関する社会制度をどうするか、考えていくべきだろう。少年法も義務教育の概念も変える。何より、「子ども」に対する一元的な思い込みを変える。その必要性は、見えてきている。
具体的に、早期に、今すぐにでもやらねばならないと思うのは、被害者救済である。ひどいいじめ・加害行為を受けている子どもは、できるだけ遠く、最低でも市外に、無料で、避難でき、また「教育を受ける権利」が保証される場所を作るべきだ。「被害者がなんで逃げなくては成らないんだ」という声はよく聞くし、もっともだとは思うが、理不尽な戦争にこそ、避難所は必要なのである。何しろ、逃げ場がない状態に被害者を置いたら、最悪の事態を招く、それが今回の事件から得られる最大の教訓なのである。児童相談所の機能を拡充するなどで、実行することはそんなに難しくないと思う。政治家にも国民の皆さんにも、是非御一考願いたい。
メインテキスト:文春オンライン特集班(文中「特集班」と略記する)編著『娘の遺体は凍っていた 旭川女子中学生イジメ凍死事件』(文芸春秋社令和3年)
旭川の女子中学生いじめ凍死事件は、最近NHKの「クローズアップ現代」(令和3年11月9日)とTBSの「報道特集」(同27日)で採り上げられたが、他の地上波TVなどではほとんど見かけない。盛り上がっているのはYoutubeやTwitter、FacebookなどのいわゆるSNS上でだから、ネット世界に疎い人は、全く知らない場合もある。火をつけたのは「文春オンライン」(第一回は令和3年4月15日)だということもあるのかも知れない。
ただ、大手マスコミがこの件に及び腰である理由はほぼ見当がつく。北九州連続監禁殺人事件や尼崎連続殺人事件と同じくあまりにも陰惨だし、あからさまに下半身がらみ。それでいて関係者には小学生もいる。被害者側ではなく、加害者側に。ただその場にいて、見ていただけにしても。性的暴行の加害者として、小学生を描いたものは、小説でさえ、アガタ・クリストフ「悪童日記」に一応あるが、それ以外には私には思いつかない。まして、ノンフィクションとなると、顔を背けたくなる人が多いと予想される。ならば、商品としてのニュース・バリューには問題あり、ということになる。
逆に、噂話のレベルで盛り上がるネット上では、恰好のネタになる。中には、無関係な人間が加害者として実名や住所が晒されたり、反社会的団体の関与の疑いがあるなどと、陰謀論めいた書き込みもある。そういうのは別としても、現在進行中の不明なところもかなりあり、また、ある種の遠慮から、敢えて言わずにすましている部分もあるようだ。
遠慮とは、上に書いたような、「子ども」に関することである。子どもは純粋無垢な存在だと、何人の人が本気で思っているかは知らないが、その思いはあることにしようという合意は、どうもあるようなので、敢えて傷つける必要はあるまい。それに第一、なんといっても子どもには、大きな社会的影響力があるわけでもなし、黙っていた方がいいだろう、と。そこで、非難の言葉の八割方は、公的な立場にあるにもかかわらず、事態にちゃんと対処しなかった大人たち、つまり学校教師や教育委員会に向けられる。
私もそれに倣うべきなのかも知れない。しかし、「敢えて触れずにおく」領域に、いわゆる教育現場にいるか否かを問わず、我々が今後直面しなければならない現実があるようにも思える。そこで、文春オンラインの記事を加筆構成した『娘の遺体は凍っていた』に書かれている事実(これにもまちがいはない、とまでは断定できない)から、推測も交えて、事件ついて省察を試みる。固有名詞のアルファベット表記は、同書による。
令和元年4月、廣瀬爽彩さんが中学校に入学して間もなく、それは始まった。
きっかけは、放課後、塾へ行く前に過ごした児童公園で、同じ学校の中三のA子と知り合って、いっしょに過ごすようになってからだった。やがてA子の友だちのB男とC男がその場に加わる。
C男は他の三人とは別の中学だったが、6月3日、次のようなラインメールを爽彩さんに送ったことが分かっている。「裸の動画送って」「写真でもいい」「お願いお願い」「(送らないと)ゴムなしでやるから」。これで爽彩さんは結局、向こうが望むような画像を送っている。
C男の最後の言葉から、この時までに爽彩さんはレイプされていた、と考えてまずまちがいない。いや、それより前、ゴールデン・ウィークに、B男らから、夜中の4時にラインで呼び出され、行こうとするのを母親はなんとか止めたが、爽彩さんはひどく脅えた様子だったという。中学に入って1ヶ月経つか経たぬかのうちに、決定的なことが起きていたのだ。
それにしても、この脅え方はなんだろう。女子中学生とは言え、レイプを含めた暴力だけで、ここまで言いなりになるものだろうか。どうも、「弱味を握られていた」気配がする。それは何か。
現時点ではそれはやっぱり、恥ずかしい動画・画像であったろうと思える。たぶん、レイプ、その時の、あるいはその直後の、とか。ネット上で拡散されたりしたら、特に思春期の少女にとっては、この世に居場所がなくなるような、死ぬしかないような感じになるもの。
そこで一度言いなりになると、ドツボに嵌まることになる。加害者側は、より強い刺激を求めて、要求をエスカレートしていく。「裸の動画」を送れ、とは、以前に自分たちが撮ったのとは別の姿態の、という意味であったろう。やがて、オナニーの動画、さらに彼らが見ている前での実行、へと進む。
A子は、最初は爽彩さんに同情し、味方のような顔をしていたが、実はC男に、送られてきた画像を自分にも共有させることを要求し、受け取っている。現在、彼女こそ主犯だったろうと言われている。すべては最初から仕組まれた罠だったのか。そうかも知れない。それにしても、中学生が、と思う人も多いだろう。
上のようなストーリー、つまり、無理矢理かこっそりとか、恥ずかしい動画・画像を撮って、それをネタに脅して、支配して、ますます恥ずかしいことをさせる、という筋のDVDなどは、少しも珍しくない。それも、かなり前から、小中学生の手の届くところに、ある。郵便受けに入っている、その種の商品の宣伝ビラを見たことはありませんか? これはもう古いか。パソコンはなくてもスマホがあれば、ネットで、それこそいくらでも見つかるのだから。
それでも、さすがに、このストーリーを真似て、実践しよう、なんて者はごく少数である。しかし、ごく稀には、ある。それも、軽いノリで、悪意は、あっても、ニヤニヤ笑いに包んで、「悪ふざけ」の遊びとして。実はこれが、一番怖いところなのだ。
A子は、保護者同伴で、特集班のインタビューに応えている。爽彩さんとは「友達」だったと言うが、彼女が死んだことについては「正直、何も思ってなかった」。公園で、皆の前でオナニーをやらされたことは、イジメとは思わなかったか? 「うーん?」。その場のノリのようなものだった? 「うんうんうん」。
「死ぬから画像を消して下さい」と爽彩さんに哀願されて、「死ぬ気もねぇのに死にたいとかいうなよ」と言ったことは認めた。「周りに小学生いるのに死にたい死にたいとか、死ぬ死ぬとか言ってて、どうせ死なないのに次の日またあそこの公園に現れてたから、小学生にはそういうのはダメでしょ? と思って言ったんです」。教育的配慮(別に皮肉ではない)からの言葉だった、というわけだ。
もう一つ印象的だったのは、A子がこの一連の行為の首謀者だったのではないか、と問われたときの、母親とのやりとりだ。
「いやだって、そもそも、こんな子に命令されて誰が言うことを聞くのって話じゃないですか」
「おい!」(A子)
「うち同級生だったら別に(言うことを聞かない)……」(A子の母親)
ごまかそうとしているのか? そうであっても、TVで女芸人たちが毎日やっている軽いツッコミ。この雰囲気がすべてを支配していたろう。学校もまた。
爽彩さんの母からイジメの調査を依頼された当時の担任は(実名が出ている)、「あの子たち(A子ら)おバカだからイジメなどないですよ」「今日は彼氏とデートなので、相談は明日でもいいですか」などと応えた。デートは事実でも、もっともらしい口実をこしらえることもできたろうに。その程度の深刻さも感じていなかったということだ。後に、調査は、やるにはやったが、爽彩さんが、「A子には言わないでくれ」と頼んだのに、A子の担任教師に伝えたので、そこからA子にもすぐ伝わったという杜撰さ。
弁護するつもりはないが、A子たちを見ると、「おバカ」で、ヤンチャではあっても、イジメなんて大それたことがやれるか? 「悪ふざけ」がせいぜいじゃないか? と思えたのだろう。たぶらかされていた? いや、むしろ、確かにすべてが、「悪ふざけ」の「遊び」だったのだ。それで一人の少女が死ぬまで追い詰められたとしても。だって、そのほうが、スリリングで、面白い遊びになるじゃないか!
大人には何ができるだろうか。
同年6月22日、小学生を含めた十人ほどに囲まれた爽彩さんは、A子から「死ぬ気もないのに……」と言われ、ついに川に飛び込んだ。この時は事前に中学校に助けを求める連絡をしていたので、駆けつけた教師に救い出された。警察も来た。残っていた子ども達は、「この子はお母さんから虐待を受けて」いたから自殺を図ったのだと警官に言ったので、母親が病院へ付き添うことは拒否された。それは嘘だとわかるまでに、グループ内で共有していた証拠になるメッセージや、猥褻な画像は消去していたが、警察は復元できる。その場にいた全員が取り調べられた。爽彩さんに対する加害行為は、この時もうほぼ全容が明らかになっていたのである。
しかし、十四歳以下の者には刑事罰は問えない。家裁に送致することはできるが、例えばC男を児童ポルノを製造した廉で訴追しようとしても、販売したわけではなく、言わば中途半端だ。その他、暴行、脅迫、強制猥褻、どれをとっても立件するにはいまいち決め手に欠ける、と思われた。結果、全員が「厳重注意」の処分で済んだ。
被害者からすれば、これだけのことをやりながら、結局野放しにされたのと同じだと見えたろう。つまり、法律も自分を守ってくれないのだ、と絶望を深める要因になったろう。加害者たちはと言えば、もちろん反省などしなかった。猥褻動画・画像は、 グループの一人がバックアップをとっていて、また共有し、爽彩さんが転校してもなお、脅しの材料にし続けた。その挙句、爽彩さんはPTSDとなり、ほとんど登校できず、令和3年2月13日に突然家を出て、約1ヶ月後、雪の下で、凍った姿で発見された。
今、非難の的になっている学校は? 加害者の「処分」ということに関して、警察以上のことができるわけはない。学校は「指導」をする場所なのだ、と、A子たちの学校の元校長は、特集班によるインタビュー中で、何度も言っている。同校では令和元年9月11日に爽彩さん母娘と、加害者側の生徒と保護者を呼んで「謝罪の会」を開いているが、その場に弁護士が同席することは、校長は拒否する方針だった。「教育機関のあるべき姿じゃない」と。「弁護士がいるなんて子どもからしたらどれだけ厳しい状況だと思います?」とも。
爽彩さんが転校した先の学校での「謝罪の会」では、最初から弁護士同席を認めているし、こちらの学校も結局はそうしている。その後のことを考えたら、弁護士がいることなど、保護者はともかく、中学生には、「厳しい状況」と感じられたわけではないようだ。それにしても、なぜ「厳しい」のはいけない? 答えは決まっている。「学校は教育的指導の場だから」。
「10人の加害者の未来と、1人の被害者の未来、どっちが大切ですか。10人ですよ。1人のために10人の未来をつぶしていいんですか」という、多くの憤激を招いている同校教頭の言葉はどうだろう。けっこう「教育的」ではないだろうか? 「何人いようが、こんなひどいことをするやつらの未来なんて、考えていられるか」と言ったら、今なら共感してくれる人はいるだろうが、この事件が明らかになる前でも、あなたは認めますか? 考えてみていただきたい。
学校の事なかれ主義は否定しない。いじめ事件が起きたこと自体で、その学校の不名誉になるから、なるべく外部には隠したい心理は確かにある。上の校長と教頭の言葉は、そのための都合のいい隠れ蓑、口実になっているのはそうだ。つまり、子どもなら、たとえ何をしても守るべきだという「教育はかくあるべき論」は、抽象的なお題目なので、そんなふうにも使われ得る。教育に関心がある人なら、多少は心得ておいてもいいだろう。
だいたい、「教育」では、このような事件は解決できない。人格の力だけで子どもを正しく教え導ける偉大な教師は、絶対にいないとは言わないが、それをすべての教師に期待するなんて、およそ非現実的だ、ぐらいは、納得していただけませんか?
なぜなら、これは「いじめ」なんてものではない。犯罪だ、それもかなり凶悪な。と言って、加害者たちが特に極悪人だと言いたいわけではない。すべての子どもが、大人もそうであるように、天使でも悪魔でもない、人間なのだ。人間は、ごく普通に育ちさえすれば、「これはやってはいけない」という最低の倫理観は身につくのだが、何かけのきっかけでそれがなかったり、無くしたりする場合がある。その人が一人で生きているなら、じっくり教え諭して、つまり教育しようとするのもよいが、他者に危害を加える場合には。罰で脅して、やめさせるしかない。それは大人でも子どもでも、基本的に変わらないのである。
以上は、大人なら心得ておくべき常識の一つだと思う。これを考慮に入れた上で、今後、子どもに関する社会制度をどうするか、考えていくべきだろう。少年法も義務教育の概念も変える。何より、「子ども」に対する一元的な思い込みを変える。その必要性は、見えてきている。
具体的に、早期に、今すぐにでもやらねばならないと思うのは、被害者救済である。ひどいいじめ・加害行為を受けている子どもは、できるだけ遠く、最低でも市外に、無料で、避難でき、また「教育を受ける権利」が保証される場所を作るべきだ。「被害者がなんで逃げなくては成らないんだ」という声はよく聞くし、もっともだとは思うが、理不尽な戦争にこそ、避難所は必要なのである。何しろ、逃げ場がない状態に被害者を置いたら、最悪の事態を招く、それが今回の事件から得られる最大の教訓なのである。児童相談所の機能を拡充するなどで、実行することはそんなに難しくないと思う。政治家にも国民の皆さんにも、是非御一考願いたい。