由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

立憲君主の座について その16(公議輿論の変遷)

2019年01月31日 | 近現代史
「五箇条御誓文之圖」乾南陽画 大正6年

メインテキスト:榎本浩章「「公議輿論」と幕末維新の政治変革

 本シリーズその11で述べた小御所会議の、前の状況をおさらいしたくなった。御誓文の最初の、「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ」はどのように幕末の政治上に浮上し、どのような変遷をたどったのか。

 最初のきっかけはペリーが浦賀へやってきた嘉永6年(1853)、老中筆頭阿部正弘が、米大統領からの国書を翻訳文つきで公開し、幕府の役人や全国の諸大名に開国問題をいかにすべきか諮問したことであろう。これは徳川幕府二百年の歴史中、きわめて異例のことであった。
 ここに至るまでにはもちろんいろいろあったが、ただ一つだけ挙げる。四年前の嘉永2年(1849)、度重なる外国船の来航に悩んだ阿部は、改めて異国人の扱いについて注意を促す布告を全国の大名に出したが、そこに次のような内容の口達(こうだつ、または、くたつ。口頭命令の意味だが、略式で出された文書もこう呼ばれた)も付されていた。
 曰く、最近異人どもの不逞な振る舞いはますます目に余るようになった。異賊とは西洋諸国の意味だから、こちらも挙国一致で当たらなければ危うい。隣領とも力を合わせ、「貴賤上下となく」武士はもとより、「百姓は百姓だけ、町人は町人だけ」各々の持ち分で、国運に報じようとする心掛けこそ大事である。
 当たり前のことを言っているようだが、これは、身分の別なく日本で暮らす者全員を「国民」として、「国難」に当たるよう呼び掛けた、即ちナショナリズムの自覚を促した、おそらく日本最初の文書である。これが多くの国で、平等、即ち身分制度撤廃の原動力ともなるものだった。
 そこへ、アメリカの意志として、国交を強く要求する国書を持ってペリーがやってきた。向こう側の事情としては、主に、北太平洋で活動する捕鯨船のための、薪炭や食料の補給所として、理由もなく(としか思えなかった)他国との交流を極端に制限していた極東の島国の存在価値が、改めて注目されたのであった。
 そのことは約一年前には、オランダからの情報で、幕閣は知っていた。だからといってどういう手段も思いつかず、まあ古今未曽有の事態なのだから当然なのかも知れないが、「貴賤上下となく」広い範囲の意見を徴したのである。

 当然ながらその影響は大きかった。
 まず思想的に。いくら上下の別はない、と言っても、訊いたほうは武家しか予定していなかっただろうに、七百を越える回答者の中には、懇意の武家から伝え聞いたのであろう町人、遊郭の主人やら材木商もいた。それを含めて、相手の要求を容れて開国すべし、というものはほとんどなかった。国交は断固拒絶すべし、やむを得なければ戦争も辞さず、と勇ましい意見が大半を占めていた。これが当時の「輿論」であった。
 ナショナリズムの勃興期はえてしてこんなものだろう。それに相応しい高圧的なふるまいも、アメリカはしてくれた。米艦隊は引き上げる前に江戸湾に入って水深の測量までしている。日本側はそれを黙って見ているしかなかった。さらにペリーは国書と一緒に、来年再訪したときには(降伏のしるしとして)これを使えと白旗を渡したと言われ、これは伝説か曲解である可能性が高いのだが、そんな話が速やかに伝わるほど、当時の日本人のほとんどが初めて見る異国人(この場合は西欧人)に対する恐れと反発は強かったのである。
 意見書の中で、当時三十歳で小普請組に属していた勝麟太郎のものが出色であり、出世の糸口になった、と当人は言っている。6月に簡単なものを提出し、それについて諮問されたので、7月に改めて詳しく書いたものが、現在「海防意見書」として残っている。
 全部で五箇条から成るうちの第二は、軍艦がなければ国防は不可能であることを訴えている。それに積む武器弾薬も含めて、用意するには当然費用がかかる。その金は、交易をもって稼ぐのがよい。ただし、向こうから来るのは止め、こちらから清・露西亜・朝鮮など近隣諸国へ出かけて行って雑穀・雑貨を有益な品と交換するようにすれば、国益を損じないですむ、と、これは誠にムシのいい考えと言うべきであろう。それでも、これはこれで、開国に違いない。実際、そうしなければ日本を防衛しようがないことは、この後次第に多くの知識人の共通認識になっていった。
 次に、二百年以上続いた幕府の、行政組織上の慣例が変化した。
 幕府のトップと言えばもちろん将軍だが、これが実際に何かを決めることは例外的にしかなかった。その後の天皇制にまで引き継がれる、日本型、あるいは支那まで含めた東洋型大組織の特徴をここに見ることができるも知れない。
 幕府最高の行政官は老中で(その上に、臨時の役職として大老が置かれることもあった)、これには、阿部もそうであるような譜代大名(関ヶ原以前から徳川家に臣従していた家)が就くのが通例だった。しかし、彼らの家柄も禄(収入)も必ずしも高くなかった。血筋からして将軍家に最も近い徳川姓の御三家・御三卿は、将軍の直系が絶えた時のいわばスペアであって、高き所へ祭り上げられていた。その次の、松平姓の親藩(家康の男系男子の家柄)も、伊豆守信綱や白川侯定信のような例外はあっても、ほぼ同様。
 関ヶ原以降に幕藩体制に加わった外様大名は、禄は高い場合があった。徳川将軍家を除く大藩を石高順に記すと、加賀藩前田百万石、薩摩藩島津七十万石、仙台藩伊達六十万石、と、トップ3を外様が占めている。それでも、むしろ取り締まられる対象であって、多少とも国政に参与することなどあり得なかった。【このように、名誉と権力と収入をできる限りバランスよく配分して、不満を抑えたのは、なかなかの知恵だと言えるだろう。】
 これが実質的に変化した。阿部との人間関係もあって、御三家の徳川斉昭、親藩の松平慶永(春嶽。御三卿の一つ田安家の生まれ)、外様の島津斉彬らが発言力を持ち、政治に関与するようになってくる。
 このうち斉昭は、この時は既に家督を嫡子の慶篤に譲っていたが(直接には実弾を使った大規模な軍事訓練を無断で行ったことが幕府の忌避に触れて、強制的に隠居させられた)、水戸学を代表する人物として声望を集めていた。その主張は、うんと単純化すれば「日本は神聖な天皇陛下がおわす神国だ」で、だから「穢れた異人が入ってくるのを許してはならない」と結びつく。少なくとも、ナショナリズムに燃える、後に志士などと呼ばれる人たちからはそうみなされ、時代の有力なイデオロギーになったのである。ここから出た「攘夷」という言葉はすぐに広まり、一般化した。
 この思想、というか流行は、二重の意味で幕府に不利に働いた。まず、強硬に外人を追い払うなどできない幕府の「弱腰」が批判された。次に、偉大なのは天皇陛下なのであって、幕府はただ政権をお預かりしているだけだ、なる形式論が思い出され、幕府の権威は低下した。いわゆる尊王攘夷。
 阿部は政権担当者として、単純な攘夷思想にはまっているはずはなかったが、おそらく前述した「挙国一致」のためには影響力の強い人物を取り込んだほうがよいと考えたからであろう、斉昭をまず海防参与とし、安政2年(1855年)には軍制改革参与とした。現実に責任のある立場になれば、すぐに異人を追い払え、なんぞとは言っていられなくなるはずだ、という目論見もあったかも知れない。
 実際斉昭は、大砲七十四門を鋳造して幕府に献上したり、幕府の命を受けて最初期の洋式軍艦「旭日丸」を建造したりしている。前述の鉄砲の一斉射撃訓練などと合わせて、島津斉彬と並んで、勝の意見書にもあった軍政改革に、最も早く実際に取り組んだ一人であって、その意味では頑迷固陋な日本主義者などではなかった。しかし、こと「尊王」に関しては絶対に譲らなかった。何しろ水戸藩は、二代藩主で水戸学の祖である光圀の「いざというときは(幕府より)朝廷にお味方せよ」という遺訓があった、とされる(たぶん伝説だが)ぐらいだ。これは日本と言うより水戸藩にとって悲劇のもとになった。
 阿部正弘が死に、後任の老中筆頭堀田正睦が失脚した後、大老となった井伊直弼が強力に開国を推し進めたのは、一面幕府の権威失地回復政策であり、明治維新を革命とすれば反革命運動だった。安政5年(1858)、先に堀田が勅許を求めて拒否された日米修好通商条約を、井伊は独断で調印した。井伊も最初から朝廷を無視するつもりはなかったようだが、結果からするとそうなった。と言うか、土台、しばらく前ならこんなことは問題にもならなかったろう。しかしこれは幕府の専横であり、許すべからざる暴挙だとする見解は、斉昭などの考えだけでなく、輿論、と言ってもいいものなっていた。
 言い換えると、「公議」の内容が変わった。「公儀隠密」の公儀とは字も意味も違うけれど、それまでは幕府の決めたことは即ち「公」、でよかった。その「公」の出所がいつのまにか他所に移り、幕府が幕府だけで判断して実行することは「私議」である、とされるようになったのである。
 斉昭は松平慶永、尾張藩主徳川慶勝、実子の一橋慶喜らと江戸城に不意に登城し、幕閣を問責した。この時は老中たちに軽くあしらわれた感じであったが、後日、禁じられていた予定外の登城を強行した廉で、謹慎に追い込まれる。名高い安政の大獄の始まりである。
 その二年後、水戸藩士(薩摩藩士も一名加わっている)によって井伊直弼が斃されると、幕府の権威が旧に復することはなかった。同年、奇しくも斉昭も亡くなっている。

 安政7年は桜田門外の変や江戸城火災など変事の続いたため万延と改元された。その万延は1年も続かず、文久となった頃から、島津久光が政治の表舞台で活躍するようになる。
 私も時々まちがえそうになるのだが、久光が薩摩藩主になったことは一度もない。異母兄の斉彬の死後に、実子の忠義が藩主となったために、藩内では「国父」と呼ばれ、実権を掌握した。しかし藩の外では無位無官のただの人だった。
 それが文久2年(1862年)、挙兵上洛した。これには次の背景がある。幕末きっての賢侯とされる島津斉彬は、井伊の専横を怒り、抗議のために軍勢を率いて京から江戸にまで赴く計画を立て、その実行の直前に急死した(安政5年)。亡兄の遺志を引き継ぐ、ということだったが、情勢は変わっていた。時の孝明天皇は、大の外国嫌いではあったが、幕府をつぶす気はなく、討幕に傾いていた攘夷派にはむしろ嫌悪感を抱いていた。要は幕府が朝廷の意に服するようになればいいので、ここから出た路線は公武合体と呼ばれた。久光はその推進のために働くのだ、と標榜した。
 具体的には幕政改革を促す勅使として大原重富が下向するのに護衛として同行、実質的に幕閣と交渉し、一橋慶喜の将軍後見職、松平慶永の政事総裁職就任を実現させた。この帰途、現在は横浜に編入されている生麦で英国人と遭遇、行列を乱したので藩士二人が彼らを殺傷する事件が起きたのは、暗に開国を含む公武合体には、かなりの困難があったことを如実に示している。
 それとは別に、幕閣としては強い不快感が残った。公武合体といい、その徴として将軍家茂(いえもち)は皇女和宮を御台所にしていたが(文久元年)、朝廷との結びつきが強くなったからといって、その分幕府の権威が回復したというより、そうでもしなければ権威を保てない幕府の弱体化のほうが強く印象付けられる。
 それに、幕府に代わって朝廷が日本の中心になったと言っても、全公家を含めた朝廷になんらの軍事力も政治力もないことは、一定以上の身分の者なら誰でも知っている。その朝廷の意向とは、畢竟うまくとりいった誰かの意志に他ならない。今回の改革案にしても、元来久光が発案したか、少なくとも取りまとめて、提示してきたものであろう。その久光とは、外様の一大名、ですらないのだ。久光がたとえ心底から幕府のためを思って改革案を出したのだとしても、幕府側から見たら、下克上とも言いたくなる無秩序であり、屈辱であった。
 久光に対する反感はその後長く尾を引く。
 幕府が単独で国政を行ってはならない、としたら、幕府も含む有力諸侯の合議に依るものにしようという案が出てくる。これが「公議政体論」である。一応実現したのは文久3年(1863)の参預会議。薩摩と京都守護職になった会津によって、京から長州藩を筆頭とした攘夷派を一掃された後に発足した。この時も久光の働きが最も大きかった。メンバーは久光(この時初めて官位をもらった)の他、一橋慶喜、松平慶永、前土佐藩主山内豊信(容堂)、前宇和島藩主伊達宗城(むねなり)、会津藩主で京都守護職松平容保(かたもり)の六名。主な議題は、この年の5月、下関で外国商船に砲撃していた長州の処分問題と、横浜鎖港問題だった。
 ここにも奇妙なねじれがあった。この年、やはり久光の改革案に従って、将軍家茂が三代将軍家光以来実に229年ぶりに上洛した。その家茂に、孝明天皇は20日後の攘夷の実行を約束させている。上述の長州による外国船攻撃は、この約定に依るものだ、と長州は主張している。一方幕府は、できぬことは承知の上で、江戸に近い横浜の閉港とこの地に住む外国人の立ち退きを約束し、12月、参預会議発足の直前にその談判のためにフランスへ使節を派遣している(向こうには全く相手にされなかった)。これは天皇を誑かそうとしたものであるとして、後に薩摩に攻撃される理由の一つになった。
 参預会議の時点では、参加者はすべて攘夷など不可能であることを認識しており、横浜鎖港を取りやめる方向で話し合いをまとめようとした。幕府にとって好都合のはずなのに、久光に対する反発と猜疑のほうが勝った。慶喜は本心とは裏腹に、あくまで大御心通り横浜港を閉ざすと言って譲らず、話し合いは膠着した。そのうえ、酒席で、酔った勢いで、あるいは酔ったふりをして、久光・慶永・宗城を「この三人は天下の大愚物、大奸物」であるなどと暴言を吐き、参預会議を崩壊に導いた。この制度は全部で3ヶ月しかもたなかった。
 その焼き直しが慶応3年(1867)の四侯会議で、十五代将軍となった慶喜と、上記から松平容保を除いた四人で、第二次長州征伐以後の長州藩の処遇と兵庫開港問題(朝廷は慶応元年に、兵庫沖に艦船を率いてきた英仏蘭三カ国の脅しに屈する形で通商条約を認める勅許は出していたが、京に近い兵庫の開港だけは認めていなかった)が話し合われた。このときもまた、慶喜は久光の反対にまわり、具体的には久光が兵庫港問題をまず話し合おうというのに長州問題が先だと言って譲らず、またも会議は破綻してしまった。この後慶喜は単独で粘り強く朝廷と交渉し、前年に急死した孝明天皇に代わって即位したばかりの明治天皇から兵庫開港の勅許を得ている。
 ここに至って久光も幕府を見限り、敵対していた長州と組んで、討幕へと路線変更した。
 さてそこで、歴史のif。もし慶喜がもっと柔軟で謙虚になって、合議に依る政治を実のあるものにしていたら、戊辰戦争もなく、日本はゆるやかに平和の裡に近代国家へと移行していたろうか。可能性はなくはないが、私はそれは難しかろうと考える。上で登場した諸侯とは、当然みな大名かそれに準ずるものであって、所領と家臣団を抱え、そこからくる利害関係から自由ではあり得ない。日本の、だけではなく朝鮮・支那まで含めた東洋の有力者とは、だいたいそんなものだ。彼らだけの話し合いで、廃藩置県のような大改革が実現できたとは思えない。
 それに、会議参加者の人選は、結局、恣意的だった、と言われても仕方がないであろう。幕末の四賢侯(松平慶永、山内豊信、 島津斉彬、伊達宗城)などと称されるが、彼らは元来慶永のお友達集団の傾向があり、この時代彼らより賢明な者がいなかったかどうかはわからない。彼らの決めたことが本当に日本の「公議」と言えるのか、たった四、五人の「私議」と呼ぶのが相応しいのではないか、と言われたら、ちゃんと反論するのは難しいだろう。慶喜もまた、つまりはこの論理で彼らに対抗したのであって、正当性の問題からすれば、一理あると言わねばならない。
 慶永の人柄のよさは抜群であったろう。慶喜に何度も煮え湯を飲まされていながら、徳川氏の領地返納まで決まった小御所会議の後でさえ、慶喜を盟主とした諸侯(大名)連合を唱え、ひたすら討幕の道を突き進む薩長を敵視した。実際、身分制度を撤廃するのでない限り、国内最大勢力である徳川氏を除いて政治を行うのは、非現実的だし、また誰をも納得させる理由は見当たらない。もし鳥羽伏見の戦いが起こらなかったとしたら、西郷・大久保・岩倉たちのほうこそ、政局の中心から逐われていたかも知れないのである。

 国民全体の信託を問う形式を踏まえたうえでの国政会議といえば、即ち議会ということになる。ここまで踏み込んだ幕末から明治初めの言説を瞥見しておく。
 知識としては、清末に魏源が著した世界各国の紹介書『海国図志』の抄本などから、西欧諸国には議会というものがあることは早くから少数者には知られていた。日本人では福澤諭吉が慶応2年(1866)『西洋事情』第一篇三巻を出版して、より広い範囲の啓蒙を果たした。
 慶永のブレーンだった横井小楠は、公議政体論の代表的な論客として知られているが、大政奉還の知らせ聞いて、慶永に宛てた書簡に「一大変革の御時節なれば議事院被建候筋尤至当也。上院は公武御一席、下院は広く天下の人才御挙用」と記した。上院と下院の構想である。ただ、小楠は儒者で、「堯舜三代の道」を理想とする。「公共」の語も言われているが、それは厳然としてある/あらねばならぬ「天理」に適うことを言う。だから、上院下院と言っても、有為にして有徳の人材をできるだけ広い範囲から集める、ということ以上の意味はない。
 この時代ではたいていそうであった。「御誓文」の筆者の一人である由利公正は小楠に師事していたのだから、「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ」にも小楠の考えが反映していると考えられる。短文なので解釈の紛れは出てくると思うが、前半が「できるだけ広い範囲の参加者から成る会議」の意味だとして、そこから出てきたものをただちに「公論」とは呼べないと思う。
 他に、坂本竜馬は小楠と親しく、「船中八策」はその影響を受けて書かれた可能性が高いと言う。その「船中八策」に基づいて後藤象二郎らが書いた「大政奉還建白書」から引くと、「議政所は上下に分け、議員は、上は公卿から下は官吏、庶民まで、正明純良の士を選ぶ」。この場合「選ぶ」主体は誰なのか、がつまり肝心な点である。朝廷、という答えは予想されるけれど、それでは形式論にしかならないことは前述の通り。
 これらより僅かに早い慶応3年5月、赤松小三郎は「御改正之一二端奉申上候口上書」を慶永、島津久光、幕府に建白している。注目すべきなのは、「議事局」に関するところで、
(1)上下二局に分ける。下局は国の大小に応じて諸国より数人ずつを自国及隣国の入札によって、上局は、公家・大名・旗本よりこれまた入札で選ぶ。
(2)国事はすべてこの両局で決議の上、天朝へ建白し、許可を得たら、天朝より国中に布告する。もし許可が得られなかったら、議政局にて改めて議論し、再び決議されたら、もはや天朝も覆すことはできない決議となる。
 つまり、国の重要事を評議し決定するのは選挙によって選ばれた者たちであること、そしてその決議には、最終的には天皇も従わざるを得ないという意味で、議事局は「国権の最高機関」になることが唱えられている。これでも現在から見ればいろいろ足りないところがある。選挙権はどの範囲に与えるのか、上局と下局はどちらが優先されるのか、局内での議決の方法は、たぶん多数決だろうと予想されるが、それは明記されていないこと、など。
 それでもこれがいかに破天荒な議論であったかは、最近まで赤松がほとんど忘れられた存在であった事実に現れている。当時としてはおよそ非現実的で、むしろ空想に近い、と慶永や久光を初めとして、誰しもが思ったからだろう。
 一方、旧幕府でも、大政奉還後に西周らが中心になって、徳川家主導の「公議所」を作る構想があったが、もちろん実現する暇はなかった。
 新政府は明治2年から4年にかけて、御誓文の精神を生かすとして、「公議所」後に「集議院」を開設しており、会議が持たれた。これは、まだ「藩」が存続していたこともあって、旧幕時代の各藩江戸留守居役による藩同士及び幕府との連絡調整機関の役割も引き継いでおり、決議には公的な威力はなかった。
 本格的な議会の開設は、それからさらに二十年を待たなければならなかった。ただ、議会制民主主義は、日本では現在に至るまでいまいち正当に機能していないような気もする。それについては、天皇とのかかわりを通じて、また何度も考えてみたい。
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