3 教育で天才は生み出せない(夏木智)
まさにそこが問題だ。「ゆとり教育」という言葉が一人歩きして「ゆとり」が問題であるように誤解されているのだけれど、問題の本質は別のところにある。
しかし、そのことを論じる前に、「教科内容の削減」の問題をはっきりさせておこう。数学が一番問題になっているし、わかりやすいだろう。数学は、由紀さんのいうように一本調子の削減とはいいにくい部分がある。しかし、スプートニクショック以降の「現代化」でひどく難しくなってからは、だいたいにおいて易しくなってきたことは間違いない。これには、やはり、高校の全入化が大きいのかもしれない。
ただ、「ゆとり教育」を、イコール教科内容の削減のことだと機械的に解釈するのは、誤解を招きやすい。いうまでなく、教科内容の削減が常に悪いものだというのは明らかに間違っているよね。限られた時間の中で、どれだけのものを勉強したらいいかという量には、おのずから適正なものがある。日本の学習指導要領というものは、その適正な量の基準を全国的に定めておこうというもので、なかなかよい制度だと私は思っている。もちろん、あとに述べるように、定める側がおろかだと逆効果ではあるがね。
学習指導要領に定められた「学ぶ量」は、数学の場合、削減傾向にあるといっても、実は、部分的に見れば増えたり減ったりしている。簡単にいえば、難しすぎたと感じられた時は次の改定で易しくするが、今度は易しすぎたということで難しくしてみたりという感じかな。
で、これはあくまでも私の印象なんだが、実は、ゆとりが問題になる前のさっき話に出ていた平成元年の改定で実施された内容が、とても内容が薄いもので、「これじゃ易しすぎる、これじゃ学力が落ち過ぎ」という感じを多くの人が持っていたように思う。そういう意味で不満がたまっていたところへ、あろうことか「三割削減」などというものを打ち出したので、一挙に不満が爆発したのだと、思っているんだ。
内容を削ったのが悪いのではなく、要するに適正と考える量からあまりにかけ離れてしまったという危機感が、子供達に近いサイドから噴出したものだと思う。彼らにしてみれば、文科省や中教審の委員たちがあまりに机上の空論をくり返しているように見えたのだね。危機感は正しかったのだが、それが「ゆとり」=「内容の削減」という単純な図式に結びついて議論されてしまったために、問題をこじらせてしまった。
さっきもいった通り、「学校で教えてくれないなら、宿題を出せ、放課後や土曜日も勉強させろ」という声になって、これまで学校の時間だけで学べていたことを、膨大な時間をかけて学ばなくてはいけないという、おかしなシステムが出来上がってしまったわけだ。ありもしない受験地獄を嘆いていた連中が、自ら勉強地獄を造り出しているのだからおかしな話だといったら、ちょっと図式的すぎるかな。
つまずきの石は、実は、ゆとり教育と呼ばれる前回の三割削減の指導要領ではなく、さらに一つ前の指導要領改訂(平成元年版)にある。そこで、由紀さんのいう「自ら学ぶ力」を、当時は「新学力観」という言葉を使っていたが、学力として想定することを、いわばこれまでの教育の一大転換として打ち出したんだ。
この「新学力観」こそ迷走のはじまりだった。ちなみに、学力低下が叫ばれるようになったころの大学生や高校生はこの新学力観の頃に小中学校の教育を受けた世代であることに注意する必要がある。
「新学力観」に基づく教育改革とは何か。それはこれまで学力と考えられていた、知識や技能ではなく、自ら進んで問題を解決しようとする関心や意欲や態度を「学力」とみなし、それを育てることを目標に教育しよう、というやり方だ。これは、実はあきれた、あきれただけならいいが、むしろ有害なやり方なのだが、そのことは、必ずしも理解されていないようだ。
まず、こういう話から始めてみよう。大学の先生なんかがよくこういうことを言う。
「日本の学生は、言われたことはできるんだが、自分で考えることができない。留学生などの方が知識はなくても問題解決能力に優れている。もっと、問題解決能力を身につける教育が必要だ」
これこそ新学力観を生んだ考え方だね。
だが、これは、おろかな言説だと思うよ。というのは、まず、ここにいう意味での問題解決能力というものは、おそらく、問題の本質を見抜く洞察力、解決のためのアイディアを生み出す創造力といったものなのだろうが、私の考えでは、こうしたものは教育によっては生み出せないからだ。いや、厳密に言えば生み出せないわけではないのだが、そのことはあとで説明する。
今は、仮に教育によって育てられるとしよう。まず私の言いたいことは、もし、そうだというなら、その大学教授は、高校までの教育に無い物ねだりの要求をするより、自分で教育したらいいじゃないか。あるいは、それができないと言うなら、問題解決能力のある学生を入学させたらいい。それをしないで、そういう生徒を作り上げて大学によこせというのはずいぶん身勝手な話だ。
問題解決能力というものがどういうものかしらないが、有名大学がそれを要求するような大学入試を作りさえすれば、少なくとも高校では、すぐにでもそういう訓練を始めるだろうよ。正解を出すことを要求するような入試を続けておいて、「与えられた問題は解けるんだが」はないだろうと思うよ。そんなありさまで、権力をふりかざして新学力観などと悦にいっているから、結果として「与えられた問題さえ解けない子ども」を生み出してしまって、今度は学力低下を嘆いているわけだ。それこそ問題解決能力のないのは一体誰なんだといいたくなる。
とはいえ、教育というより日本の風土が、「独創性」の芽を摘んでいることは、確かかも知れないとは思うよ。というのは、日本では人と同じであることこそ「美徳」であって、人と違うことは「悪徳」であると、親も学校も社会も信じていて、それを何とか子どもたちに教えようとするからね。その点、人と違うことを美徳でないにしても悪徳としない諸外国とは、感性が違うだろうね。人と違うことを言ってみようとか、やってみようとすることに、論理的以前に道徳的なブレーキがかかっている部分は確かにある。誰だって、変人と見られるのは嫌だものね。
実は、こういう思考傾向を疑えずに、独創だの自主性だのを論じているのでたいへんおかしなことになっている。独創というのは、誰も考えないことを考え出す力だけれど、日本では、考えて欲しいことを人に言われずに考え出すことという意味にしかならない。自主性というのは自分の考えで行動することだけど、日本では「人に言われずとも行動して欲しいように行動すること」という意味にしか使われない。そういう範囲で独創性を育てようと言うのは、それこそ自己矛盾というものだ。そういう部分をきっちり見据えた上で、「独創性を育てる教育」を口にするのならそれはそれで価値のあることだと思うよ。そういう意味では、日本の教育界はがちがちの石頭ばっかりだと常々思っているんでね。
まあいい。次に人々が望むような、新しい発見を生み出すような創造力や洞察力というものは教育によっては生み出せないという話をしよう。この話はちゃんと話すと相当に難しいのだが、要するに、そういうものは人に与えられた僥倖にすぎないからだと簡単に言っておこう。
我々はたくさんの天才を知っているが、それらの天才を生み出す共通項が何かあるだろうか? 要するにそういう人々は、天賦の才に恵まれるか、さもなくば、金鉱を掘り当てるという幸運によって、天才と呼ばれているだけのことなのだ。運がいいから宝くじに当たったのではなく、宝くじに当たったから運のいい人と呼ばれているだけなのだ。
そういう天才を生み出す教育があるなら、もうとっくの昔に全世界に普及しているだろう。そういうものがあるだろうと考えるのは、宝くじが当たる幸運の壺の話と大差ないと思うよ。むしろ、問題は天才がいてもその価値を見出せない頑迷で保守的な思考回路がこの国で支配的であることだろうと思う。まあ、この話は微妙だから今は深入りしない。