由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

カネこそリアル、だろ?

2013年03月07日 | ビジュアル(映画・マンガ、など)
メインワーク:真鍋昌平『闇金ウシジマくん』(『週刊BIG COMIC スピリッツ』に連載中。単行本は小学館、2004年から現在まで既刊27巻)

 以前に「金色夜叉」を取り上げて、金貸しとは「近代資本主義が生みだした仇花なのだ。仇花であっても、それが出てくる必然性はあった」と書いた。資本主義が爛熟した今日では、この必然性はどういう形で現れているだろうか。
 「闇金ウシジマくん」を、青木雄二「ナニワ金融道」が切り開いた「金融もの」マンガというべきジャンルの一つとする見方もあるが、両者には明確な違いがある。
 「ナニ金」の帝国金融はいわゆる「街金(まちきん)」であって、顧客は原則として事業者。銀行では審査が通らず、融資が受けられない者たちが、商売のための金を借りに来るのだ。ウシジマ社長率いるカウカウファイナンスへ来るのは、生産者ではない。借りた金はその日のうちに、たいていは、パチンコや風俗などの、いわゆる遊興費にあてがう。その上大部分が、いろんなところから借りまくっている多重債務者で、ブラックリストに載ったから、やむを得ず非合法の闇金へ来るのだ。帝国金融でも、客を信用してはならないところが他の商売とは違うところだと言われているが、ウシジマの客は金が返せないのが当たり前。それをどうやって返金させるか、というより、金を貸したことをきっかけにして、どうやって彼らから搾り取るか、が眼目となる。
 本作品からは「ナニ金」にあったような、商法や民法の実際上の知識は学べない。その代わり、現代社会特有の「悲惨」はこの上なくリアルに描かれており、そのへんの評価はもう確立していると言ってよいだろう。ここから学べるものはなんだろうか。

 雑誌の読み切りか、連載でも前後二回の短いエピソードを集めた第1巻に、「ウシジマくん」のエキスはほぼ出そろっている。一つを除いた各エピソードの概要は、
 「奴隷くん」。金を返せないばかりに言いなりになるしかない客(もと客と言うべきか)はこう呼ばれる。話の中心になる主婦は、借りた金をすべてパチンコにつぎ込んでしまうので、ウシジマによって、売春を、それもパチンコ屋のトイレでのオーラル・セックスを強要される。なんでそうまでしてパチンコがやめられないかについては、後のエピソードに登場する同じくパチンコ依存症の中年女二人によってそれぞれ代弁される。「パチンコ辞めたら退屈で死んじゃうよォ!!」/「(パチンコをやっていると)何も考えないで済むから」と。このエピソードの主婦は、別居している夫と離婚調停中であり、近くまとまった慰謝料が入る見込みがある。それを知ったウシジマは、売春したことをネタに恐喝して、その金を巻き上げようともくろむ。
 「若い女くん」。主人公は(たぶん)一流企業のOLで、同僚たちとのつきあいに余計な金がかかる。つきあいというのも見栄の張り合いで、田舎出で一人暮らしの彼女は、部屋代を含めた生活費がかかる分、東京の実家から通勤しているOLより自分にかけるお金(お洒落、旅行、合コンなどの費用)に不自由しなくてはならない。ウシジマは、「若い女なら回収する方法はいくらでもある」と、初回から彼の所では破格の30万円を貸し付ける。この後ウシジマが彼女をはめて、心身ともに破滅させるまで奪い尽くす過程は、いわゆる恐怖マンガをはるかに超えた恐さにまで達している。クライマックスでは見開き二頁を真っ黒に塗りつぶして、左下近くに「ああああ…」という悲鳴だけが書かれている。この表現も決して手抜きとは思えない。
 「バイトくん」。小さい頃からまわりをバカにして、「俺はあんなつまらない人間にはならない」と思い込んでいる男。といって何もできず、何も始められない。何かをやり始めたら、自分もまた凡庸な人間であることがはっきりしてしまう、それに薄々気づいているからだ。なんだかんだと言い訳ばかり並べて、専門学校もやめ、バイトも続かず、三十になってもパチンコしかやることがない。ウシジマに二百万円(ものすごい高金利なので、実際に借りたのはいくらだかわからない)の返却を迫られ、百万は親に出してもらい、残りを支払うために、山の中の作業場(いわゆるタコ部屋)に送り込まれる。そこでの彼は以前より生き生きしているように描かれる。それをわずかな救いとみるか、どうしようもないほどのお人好しぶりは要するに意思の弱さの現れなんだとみるか、意見が分かれるところだろう。
 「闇金狩りくん」。昼間は旅行代理店の仕事でそれなりに評価されている男が、仲間をかたらって、闇金業者から金を奪う計画をたてる。最初はうまくいくが、結局はウシジマたちに捕まり、奴隷にされる。

 二巻目以降は、これらの人物像を核としながら、もっと細かく丁寧に、人間関係や内面が描かれるようになる。風俗店で生きる女たちは「フーゾクくん」「出会いカフェくん」「テレクラくん」に、無気力な若者は「フリーターくん」「生活保護くん」に、ウシジマたちに対抗する悪どい者たちは「ヤンキーくん」「ヤミ金くん」「元ホストくん」に、それぞれ文学的にも絵的にも進化した形で登場する。
 これらから派生したキャラクターもある。自分の才覚でなんとかのし上がろうとして失敗する「ギャル汚(お)くん」「楽園くん」「ホストくん」の若者たち、大人としては、「サラリーマンくん」「トレンディくん」の転落していくサラリーマンがいる。「ゲイくん」「スーパータクシーくん」ではより特異なキャラが扱われ、それは現在進行中の「洗脳くん」で最もスリリングな展開を見せているが、ここでは考察外とする。
 では、何を考察内にしようか。ひところ話題になった階層社会か。それは大きな要素のようだが、この切り口では見過ごしてしまうものがある。ウシジマにひっかかるのは、最下層の無気力な者たちばかりではない。そこそこの大学を出て、そこそこの会社で働くいわゆる中流も、ちょっとしたことで網にかかる。その「ちょっとしたこと」は現代社会の何に由来しているのか、そこに目をつけよう。

 一つのポイントは、このマンガが、いわゆる「失われた二十年」の後期、つまり新たな「失われた十年」に登場し、書き継がれているということである。ポスト・バブル期のマンガと言ってもよい。二十年以上過ぎたのだから、実際にバブルの世の中を見ていない子どものうち何人かは、もう成人している。しかし、この時生まれた消費社会の、生活のモードは、そう簡単には消えない。

「消費だけで世界が成り立っていると教えられ続け、金がないのに物を買わされ続ける」(「出会いカフェくん」より。未成年者と淫行する教師の言葉)。

 ウシジマの客に共通する特徴をまとめると、上の言葉が一番相応しい。
 「消費が美徳」の時代には、消費物のスムースな流通のためには都合の悪いものは隠されがちになる。と言うか、本当は誰でも知っているが、否むしろ、知っているからこそ、なるべく目立たないようにしていることがある。

 「今の生活では負担を感じないようにできてるから人間は鈍感になる」/「強い国は弱い国から奪い、資本家は労働者から奪い、政治家は国家から奪う。世の中は奪い合いだ。ちょっとずつ気付かねェようにしているだけで、俺が『奴隷くん』から奪うのとなンも変わらねェ」

 人物紹介の意味もあって、最初のエピソードにたくさんあるウシジマ語録の一部である。とうてい自己正当化にはなり得ない下手な言い訳だが、ウシジマから切り離して言葉だけ考えると、一理はある。「世の中=奪い合い」と言えば言い過ぎだが、その側面は確かにある。そしていかにも我々は、のほほんと生きていられる限り、その事実には鈍感だ。ウシジマから金を借りるということは、剥き出しの、奪い合いの世界に入るということである。しかし、それにちゃんと気づかないので、一方的に奪われるだけの餌食になってしまう。
 もっと基本的な、「モノは生産されなければ消費されることはできない」という事実さえ、特に大消費地帯である都市部にいると、忘れ勝ちになる。いやむしろ、みんな忘れたがっている。生産なんて、ダサくてウザい。少なくとも最下層にいる人間の、手の届くところにある仕事はそうだ。スーパーやコンビニの店員とか、工場や工事現場の単純肉体労働。バイトならまだしも、一生の仕事にして、その立場を皮膚のような永続的な自己イメージにするなんて、むしろ厭わしい。
 念のために言葉を重ねる。上に挙げたような仕事がもともとつまらないとか、昔と比べてつまらなくなった、などと言いたいのではない。つまらないと、より正確に言えば、つまらないんじゃないかなあと事前に感じてしまう意識が発達した、ということである。そこをちょっと乗り越えれば、ちゃんとやれる者のほうが今も多いだろう。
 フリーター(←フリー・アルバイター)なる言葉が登場したときには、敢えて乗り越えずに、自らの意思でいつまでも非正規雇用者であり続ける若者という意味だった。現在では、迷うまでもなく、前述の仕事のかなりの部分が、パートによってまかなわれるようになってきている。それもキツく感じられて続かない者は、とりあえず手元に残った金で、それがなくなれば借りて、パチンコやテレクラ、女ならホストクラブなど、手軽な娯楽で、空虚な自分の空虚な時間を埋めるしかない。
 しかし、これもまた、現代では立派な消費の一形態なのである。罪悪感を持つ必要などない。だから、とめどなく続けられる。ウシジマが借りた金の回収に来るまでは。

 ダサくもウザくもない職業と言えば、女なら風俗がすぐに思いつく。もっとも、気に入らない客の相手をしなくてはならない部分は相当にウザいだろうが、バイトとは一桁か二桁違う収入のおかげで、それは我慢できる。ここで一番問題になるのはプライドだが、もともと大切にしたい自分なんてないと思えば、その自分を売って金に換えても問題ない。「どーせヒマな時間なら、お金に換えたほうがイイっしょ?」と、「出会いカフェくん」に登場するデブス(←デブ+ブス)女は言う。
 ここには罠がある。自分で自分を、女であること以外は無価値だと認めてしまえば、「でもそれじゃ私って…」と、自分を見つめなければならない時間が必ず来る。それで、究極のレゾン・デートル(存在理由)であるはずの、「愛」を熾烈に求めるようになったりもする。その場限りの、見せかけの愛のようなものに慣れすぎると、本物が必ずどこかにあるはずだという思いが強くなるのだ、とも言える。

 ここでちょっと断っておきたい。今後「本当の自分」とか、それに近い言葉がよく出てくることになるだろうが、そんな概念こそ消費社会が生み出したもので、消費を離れたところでは見つからないのかも知れない。その恐れはある。が、それはここで扱うにしてはデカすぎる問題なので、閑話休題。

 愛し愛されている仲だと、半分無理矢理信じた男(ホストを含む)に貢ぐ金を稼ぐために、ますます風俗業に深入りする女は、「ウシジマくん」には何度も繰り返して出てくる。それは愛を買おうとすることではないかと思えるが、そうではなく、好きな男が必要とする金を出しているのだという言い訳がちゃんと用意されている。ほんとうに、必要は発明の母なんだね。
 男の場合、人並以上の容貌があっても、さすがにそれだけで商売をするというわけにはなかなかいかない。そういう男たちも「ウシジマくん」にほんのちょっと登場するが、この市場はまだごく小さい。自分以外に華やかなイメージを生産して供給する必要があるのだ。おかげで、自分は傷つかない代わりに、虚業ではあっても並の事業者と同じような苦労をしなければならない。
 ギャル汚くんはイベサー(←イベント・サークル)の代表、楽園くんはファッション雑誌の読者モデル、ホストくんは文字通りで、それぞれ、イベント・プロデューサー、洋品店店長、ホストクラブ店長、に成り上がることを目指している。そのためには、チケットを売り捌いたり、高価で稀少な衣服を揃えたり、女の客に楽しんでもらえる雰囲気を盛り上げたりの労力はもちろん必要である。加えて、こういう場所こそ競争が激しいので、それに打ち勝たねばならない。さらに加えて、アブク銭が集まりそうなところには、ハゲタカのような人間(ヤクザや詐欺師の類)も集まってくるから、それとの対応がハンパなくキツい。などなど、華やかどころではない部分は大きいが、とりあえずオシャレな自己イメージはあるので、それを慰めにしてがんばれる。
 「見た目が重要」なんだと、ギャル汚くんは言う。「(服飾品の)タグチェックするのにも、心が通い合うのも、この街では時間が足らねェ!!」と。これは順番が逆だろう。ホンモノの品物とは何か、本当の友達とは、とりわけ、本当の自分とは? なんて、危険な問いから逃れたいからこそ、軽くて、チョット見きらびやかなイメージを高速回転で流通させる需要が出てくるのだ。
 
 上の同類の中で「ウシジマくん」中随一の成功者は、「トレンディくん」に登場する万里子という、五十歳になる女性のようだ。年齢を誰にも隠さないが、それは彼女がアンチ・エイジングが売り物の美容品を開発販売する会社をやっていて、見た目が異常なまでに若くて美しい彼女自体が、何よりの広告塔になるからだ。
 因みに、万里子が登場するシーンの絵は、背景まで美麗である。もともと「ウシジマくん」には、写真を加工したのが多用されているのだが、それはリアリティよりも、細く鋭角的な線で描かれる人物とマッチして、シャープな雰囲気を出すことを狙っているようだ。出てくるのは街並み以外だと、下層の者たちのゴミゴミした住居環境が多い。それと対照的に、万里子には、屋上庭園やら公園の手入れの行き届いた景観があてがわれる。あるいは瀟洒なマンションの寝室、そこで4カットだけ、彼女の素顔も出てくる。見かけを保つために無理な美容(現代のは、ほとんど人体改造レベルにまで達している)を重ねているので、年齢よりむしろ老けている。万里子の魔性を表現するためには、これらの絵がストーリーよりはるかに重要になっているようだ。
 それでもまあ、ここは文字を使っているのだから、ストーリーを追いかけよう。万里子は、彼女にあやかりたい金持ちの有閑マダムやその女性たち目当ての男たちから高額の会費を取って、毎晩のようにパーティを開く。むろん全く見かけだけの、虚飾の世界で、おかげで彼女は体だけではなく、内面でも孤独感に蝕まれている。
 そこで出会うのが、「トレンディくん」の主人公である斗馬(とうま)。小さな電気屋の倅が、勉強して一流大学から一流企業へと進むことができた。現代の成り上がり者だが、仕事でけっこう評価されている会社でも、美しい妻と彼を慕う子どもがいる家庭でも、「演じている」意識が強い。彼が「本当の存在感」を発揮できるような気がするのはナンパの場でしかなく、その一環で、変形プレイとしてオバさんをハントしようとして、万里子と知り合うのだ。
 彼らは、お互いの中に似たような孤独を感じ取り、愛し合いそうになる。万里子は、斗馬となら「素のままの」自分でいられるかも知れないと一瞬思うが、所詮は無理。彼にも素顔は見せられない。老婆の顔の万里子を斗馬が愛する見込みはほとんどないのだから。
 万里子は、「ずっと自分を好きでいたかった」からこうなった、と独りごちる。自分が好きな自分は、他人に好かれる自分だ。そして、「みんな都合のイイ嘘が好き」なのだから、彼女が生きるのはそういう場所しかない。
 この覚悟によって、万里子は「愛」に溺れる風俗嬢たちよりずっと強力になっている。即ち、現代では、空虚なら空虚に徹して、「真実」の避難所なんて求めない者こそが強いのである。
 ただし最後に、万里子が詐欺で訴えられたことが伝聞として斗馬に聞こえてくる。その後はどうなったかわからない。想像するに、彼女は、「何を言ってるの?」という思いになったのではないだろうか。みんな、化粧品の現実的な効果なんてものより、私がふりまく夢のほうがほしかったんじゃないのかしら。その夢は、誰かが「嘘だ!」と叫べば、いかにも嘘になる。その前には、夢であって、嘘ではない。これが華やかなイメージだけが流通する市場のルールだったはずなのに、なんで野暮を言い出すわけ?
 思うに、「真実」に頼ろうとする弱い心以外にも、「金」そのものが躓きの石になる場合があるのだ。まさにバブル(泡)のような、イメージのみの商品を買うのは、やっぱり浮いた金だから。
 万里子の顧客の一人に、成金社長の奥さんがいて、これがウシジマに金を借りに来る。夫は若い愛人のところからもどらず、妻には高価な物だけあてがって、放っておく。彼女の目には金の値打ちなんてほとんど映らないが、といって手元に現金はない。こんな女に金を自由にさせたら、それこそ湯水のようにあっと言う間に浪費するに決まっているから、夫もそれは与えていないのだ。そこで彼女は、ごく軽い気持ちで闇金融を利用するのである。定期を崩しさえすれば、元利ともすぐに返せるから問題ない、と。でも、そうならなかったら?
 以下は作品を離れた私の純然たる仮定です。金は所詮夫のものだから、彼が「そんなのに使うのは、ダメだ」と言ったら、奥さんは、少なくとも、夫に弁解したり抗弁したりしなければ、手にすることはできないない。できなければ、万里子に対してはただ入会を断ればいいのだが、もう借りてしまった以上、ウシジマの請求を逃れることは至難である。金にそんな負荷がかかって重くなってしまった場合、「万里子にはそれだけの値打ちがあるのかしら?」という疑いが湧くかも知れない。そうなったら、万事休す。値打ちなんて、ないに決まっているんだから。それなら、彼女のやってきたことは詐欺だ。そう思えるようにもなる。法律的にはどう決着がつくか、それは別の話ではあるけれど。

 一応の結論。ウシジマとは、鎌の代わりに現金を手にして、消費社会の夢にまどろむ者たちを、「現実」という終わりのない悪夢に引き込む現代の死神なのである。しかし、忘れてはならない。消費社会が意識の表面から消した闇こそ、彼を生み出した場所なのだ。誰にも彼を否定することはできない。「ウシジマくん」の迫力は、そこに由来する。

【最近DVDが発売された山口雅俊監督の映画についても一言しておこう。ストーリーとしては、「ギャル汚くん」と「出会いカフェくん」のエピソードを混ぜたものであることはすぐにわかるが、後者には「テレクラくん」もだいぶ入っている。「ママの借金はママから取り立てろ!」というのは、「テレクラくん」の美奈のセリフである。母親から3Pを強要されるのも美奈。もっとも、最初は美奈のほうから母に、やってくれるように頼むのだが。一方、映画で役名になっている「出会いカフェくん」の美來(みこ)は、原作の後半ではまるで福本伸行マンガのような非現実的なギャンブルの設定の中で、美人で頭が切れて度胸もあるスーパーヒロインとして大活躍する。大島優子の演じる美來はこれもやらない。ただ、いかにもそのへんにいそうな恵まれないフリーターの女の子の雰囲気は醸し出している。活動はもっぱら、ギャル男、というよりはチャラ男をこれまたいかにもそれらしく演じた林遣都に任せた感じになっている。トップアイドルを起用したらこんなものさ、と思うかも知れないし、それは確かにあるだろうが、それ以前に、映画でマンガのようなエグい世界をストレートに描いたら、R指定どころか、少数の観客にのみ鑑賞されるカルト映画になりかねない。写真も完全に記号として使えるマンガと違って、いわゆる「実写」は、生々しさにある程度の歯止めがかけられて、娯楽として流通する、それもまた消費社会の常識なのである。】
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